第9話 偽薬膳事件──毒と涙
事故は、噂より早い。
そして噂は、事実より粘る。
朝から胸がざわついていた。材料の不足、見張る影、バルムの言葉。「事故が起きれば民はお前を責める」――あれは脅しじゃない。段取りだ。起こす側がいる事故は、起きた瞬間に“印象”までセットで落ちてくる。
だから俺は、朝一番に棚を見た。
二段目。赤紐。
ある。数は少ない。だけど、ある。
次に鍋。次に水。次に塩。最後に――胃を守る下地。
俺は“解毒の土台”を仕込んだ。月白根を薄く、ミズナ草をほんの少し、深緑の乾燥葉を砕いて香りを立てる。派手な味じゃない。胃に入って、静かに働く味。
昼、店が少し混み始めた頃だった。
戸が乱暴に開いた。風が入り込む。次に、汗と血と、吐き気の匂い。
「ユー! やべえ!」
ガルムの声。でかい声が、今日は割れている。
彼の肩には男が担がれていた。冒険者だ。顔が真っ青で、唇が紫がかっている。腹を押さえ、体が小刻みに震えていた。
「腹が……っ、ぐ……!」
痙攣。冷汗。呼吸が浅い。
俺は迷わず言った。
「床に寝かせるな。座らせろ。吐くなら横向き。――水は飲ませるな、今は」
「え、なんで――」
「胃が暴れてる時に水入れると吐く。吐いたら脱水が加速する。まず、呼吸。次に、痙攣の種類を見る」
俺の声が出ると、店内の空気が変わる。村人が息を呑む。ハナがすぐに椅子をどかし、床に布を敷いた。ミレイが入口を押さえ、人を外へ誘導する。
「店、閉めます! ギルド案件です、下がって!」
丁寧語が崩れてる。怒りと焦りが混じった声だ。
ガルムが男を座らせ、レナが背を支える。男の手が震える。指先が冷たい。腹の筋肉が、波打つみたいに攣っている。
「何を食った」
俺が聞くと、レナが歯を食いしばって答えた。
「……屋台。村の入口に、今日から出てた。“安い薬膳”だって……」
来た。
噂の屋台が、事故を“起こした”。
「量は」
「ガルムは止めた。でも……みんな、勝負前で……」
勝負前。焦り。承認欲求。集団心理。王都の子どもたちと同じ構造が、ここにもある。
俺は男の舌を見た。乾いている。舌の縁が赤い。胃が荒れている。腹痛は鋭いタイプ。痙攣は――毒草の“火入れ不足”で出るやつだ。
鼻を近づける。
吐息に混じって、甘い匂いがする。変な甘さ。香りで誤魔化している匂い。
「甘味で隠したな。……胆味じゃない。これは“毒のえぐみ”だ」
俺は立ち上がって棚へ向かった。
二段目。
赤紐。
一本。
――使う。
数が少ないから、迷う。迷うけど、迷ってる時間はない。ここで出し惜しみして死なれたら、赤紐の意味がなくなる。
俺は赤紐の小瓶を開け、男の唇に少量だけ垂らした。
「飲み込め。少しでいい。吐くな。……呼吸、合わせろ」
男の喉がごくり、と動く。次の瞬間、痙攣がわずかに緩む。完全には止まらない。でも“止まる方向”に向く。
「……効いてる」
レナが息を呑んだ。
「緊急用だ。毒の回りを遅くする。――ここからが本番」
俺は厨房へ戻り、鍋に火を入れた。すでに仕込んでいた解毒の土台に、塩をほんの少し。酸味――木の実の酢を数滴。酸は毒の角を丸くする。ただし入れすぎると胃が荒れる。だから“数滴”。
次に、脂。
ほんの少しの油で、胃の内側に膜を作る。毒の刺激が直接当たるのを遅らせる。遅らせている間に、体が処理する。
最後に、香り。
甘い香りじゃない。鼻が“危険”を感知できる香り。薬草の青さと、出汁の温かさ。怖がらせない範囲で、“これは薬だ”と体に教える匂い。
器に注ぎ、湯気を立てた。
俺は男の前にしゃがみ、声を落として言った。
「熱くない。ゆっくり。口に含んで、飲み込める分だけでいい」
「……う、う……」
「大丈夫。帰れる方を選ぶ。……今は、帰るための一口だ」
男が震える手で器を掴み、少しだけ口に含む。喉が動く。次に、眉間の皺がわずかにほどけた。
「……っ、あ……」
吐き気が、一段落ちる。痙攣が、また少しだけ緩む。
俺は呼吸を数え、脈を取った。まだ速い。けど、落ちる方向。
そこへ、外が騒がしくなった。別の冒険者が二人、担がれて入ってくる。顔色が同じだ。腹を抱え、痙攣。
「……増えるぞ」
ミレイが歯を食いしばる。
「屋台で食べた人、他にもいる。戦闘中に倒れたって……!」
最悪の形だ。戦闘中に腹痛と痙攣。死ぬ。死ぬだけじゃなく、“薬膳は危険”という印象が村に刺さる。
俺は声を張った。
「順番を決める! 吐血があるやつ、意識が落ちかけてるやつ、先! 軽症は外で座って待て! 水は勝手に飲むな!」
「外に誘導します!」
ミレイが動く。ハナが走る。ガルムとレナが人を運ぶ。村の若い衆が戸口を支える。
店が、救護所に変わる。
俺は鍋を二つに増やし、解毒スープを回し続けた。赤紐は最後の切り札だ。全員に使えない。だから“スープで救えるところまで救う”。胃の中に残っている毒を、体が吐き出す前に丸めて、流す。
途中で、ひとりの冒険者が呻きながら言った。
「……あの屋台……甘かった……うまいって……」
甘い、は危険だ。薬草の毒を甘味で隠すと、口当たりだけが良くなって飲み込める。飲み込めるからこそ、毒が入る。
俺は歯を食いしばり、呟いた。
「……同じ材料でも、作り方で毒になる」
言葉が、自然に出た。俺自身に言い聞かせるみたいに。
「だから俺は、うるさいんだ」
―――
夕方、ようやく波が引いた。軽症は落ち着き、重症は回復の兆し。死人は出ていない。――出していない。
俺は鍋の前で、両腕が重いのを感じた。疲れが遅れて来る。遅れて来るくらい、集中していた。
その時、ミレイが外から戻ってきた。顔色が悪い。メモ帳を握りしめている。
「屋台、消えてました」
「逃げたか」
「……はい。でも、痕跡が残ってます」
ミレイは紙を一枚、俺に渡した。
薄い領収書。雑な字。薬草の品目と量。日付。印章の形が、王都の問屋のものに近い。
「これ……」
「買い占めの相場表と一致します。ミズナ草、月白根、鉄根芋。――村の外から、まとめて流れてる」
点が線になり始める。
ハナが腕を組んで言った。
「つまり、屋台は“たまたま”じゃない」
「たまたまじゃない」
俺は領収書を見つめた。紙の匂い。インクの匂い。こういう匂いは、現代の職場を思い出す。商品を潰す時、相手は“事故”を仕込む。安全性を疑わせれば、勝てるからだ。
ミレイが低い声で言う。
「明日、ギルドに報告します。神殿にも回します。……ただ、村は揺れます。“薬膳は危険”って」
村が揺れたら、店は揺れる。店が揺れたら、村がまた揺れる。負の連鎖だ。
俺は息を吐いて、言った。
「揺れさせない」
「どうやって」
「“違い”を見せる。材料じゃない。工程だ。火入れだ。下処理だ。――同じ材料でも毒になるってことを、数字で、体感で、証明する」
俺は鍋の中の残りを見て、続けた。
「明日、解毒の説明会をする。村人にも冒険者にも。……怖がらせない言葉で。腹が減る言葉で」
「腹が減る言葉?」
ハナが眉を上げる。
「腹が減ると、人は前を向く。腹が減らないと、人は不安に飲まれる。――だから、まず腹を動かす」
ハナは一瞬だけ笑って、でもすぐ真面目な顔に戻った。
「……赤紐、使ったんだね」
「使った。数、減った」
「減った分、助かった命がある」
そう言い切るハナの声が、妙に温かかった。
―――
夜、店を閉めてから、俺は棚の二段目を見た。
赤紐は、一本減った。
代わりに、記録帳が一段厚くなった。今日の症状、食べたもの、時間、処置、回復の経過。誰がどこで倒れ、誰が担いで運んだか。全部。
――数字は嘘をつきにくい。
嘘をついたなら、嘘をついた痕跡が残る。
その時、外で風が鳴った。街道の方角。遠くの足音。誰かが村に入ってくる音がする。遅い時間なのに、複数の足音。
ミレイが戸口に立ち、耳を澄ませた。
「……誰か来ます」
ハナが弓を持つ。
「村の人じゃない。……冒険者でもない歩き方」
俺の胸が、いやな形でざわついた。
事故の次は、泣きだ。
泣きの前には、だいたい“真実”が来る。
俺は手を洗い、布巾を絞り、静かに言った。
「……来客だ。帰れる線を、守るぞ」
湯気の消えた店に、まだ薬草の香りだけが残っていた。




