第7話 勇者パーティ、初めての“事故”
ユーがいなくなってから、朝がうるさくない。
起きろ、と言われない。水、と言われない。手を洗え、と言われない。刃は研げ、と言われない。撤退を考えろ、と言われない。
――自由だ。
自由なはずなのに、リリィの胸は、ずっと、落ち着かなかった。
「今日こそ、奥まで行くよ!」
白い外套をひるがえして、リリィはギルド前の掲示板を叩いた。張り紙がふるふる震える。
コウタは腕を組んで、得意げに頷いた。
「当たり前だ。俺たち、もうユーいなくてもやれるって証明しねーと」
ミナトは地図を広げ、視線だけで計算している顔を作った。
「効率を上げれば問題ない。撤退判断の遅れは、事前計画で潰せる」
スズは、杖を抱えて小さく頷いた。頷いたけど、顔色は少し青い。
「……うん……」
リリィはそれを見て、胸の奥がちくっとした。ユーはこういう時、真っ先にスズに水を飲ませた。寝たか、食べたか、聞いた。聞き方がうるさくて、でも……。
思い出すのは、やめる。
だって追い出したのは、自分たちだ。
「行くよ!」
リリィが言って、四人はダンジョンへ向かった。
―――
王都近郊のダンジョンは、入口の見た目だけなら整っている。石畳があり、警告の看板があり、周囲には監視の目がある。――勇者勅命パーティを“守っている”という名目の視線。
その視線は、守りでもあり、檻でもある。
ダンジョンの中は湿っていて、瘴気の匂いがする。喉の奥がざらつく。リリィはそれを“嫌”だと思うのに、嫌だと言うと怖いと言うことになるから、言えない。
だから、声を大きくする。
「光、出す!」
光が走る。壁の苔が白く照らされる。魔物の影が、逃げるように揺れる。
――いける。今日はいける。
リリィはそう思った。思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。
ユーの声が、頭の中で響いた。
『“行ける”じゃなくて“帰れる”で考えろ』
「うるさい……!」
リリィは小さく呟いて、足を速めた。
最初の戦いは、うまくいった。
コウタが前に出て盾で受け、リリィが光で焼き、ミナトが罠を外し、スズが風で押し返す。連携も、前より“自由”だ。ユーが止めないぶん、テンポがいい。
「ほら! いけるじゃん!」
コウタが笑った。リリィも笑った。笑ってしまうと、怖さが薄くなる気がした。
だから、進む。
進んで、進んで――奥に近づくほど、空気が重くなるのに、気づかないふりをした。
ミナトが足を止めたのは、途中だった。
「……ここ、瘴気の濃度が上がってる」
「だからなに? 浄化すればいいでしょ!」
リリィは即答した。怖いと言いたくないから、怒る。
ミナトは口を開きかけて、閉じた。彼の頭の中では、“合理”が並ぶ。でも合理の奥にある本音は、たぶんひとつだ。
――怖い。
スズが小さく言った。
「……やめよう? 今日は……」
コウタが振り返る。強がりの顔で。
「やめる理由がねーだろ。ここまで来たのに」
「でも……」
「でもじゃねーよ。俺たちだけでやれるって、言っただろ」
スズは口を噛んだ。言い返せない。言い返したら、空気が悪くなる。空気が悪くなるのが怖い。怖いから黙る。
黙ったぶんだけ、足が前に出る。
その時。
床が、ぐにゃ、と沈んだ。
「……え?」
リリィの声が間に合わない。ミナトが叫ぶ。
「罠――!」
遅い。
床が割れ、針が飛び出す。毒の針。瘴気に濡れた金属が光った。
コウタが反射で前に出た。盾を構えるより先に、体が動いた。年上として、守りたかった。守りたかった相手が、自分の背中にいるから。
「うおっ――!」
針が、コウタの腕に刺さった。
ぷつ、と嫌な音。
次に、彼の顔色が一気に白くなった。
「……っ、腕が……」
「コウタ!」
リリィが駆け寄る。駆け寄って、手が震えた。どうする。ユーなら――。
ユーなら、まず水って言う。止血。毒の回りを遅くする。刺さった針を抜くかどうか判断する。……判断。
判断が、できない。
「光、で……治す! 治す!」
リリィは浄化の光を放った。白い光がコウタの腕を包む。刺さった針の周りが、じゅ、と煙を上げる。
「うあっ……!」
コウタが呻いた。痛みで体が跳ねる。毒が燃える匂い。焼けた皮膚の匂い。
ミナトが唇を噛んで、呟いた。
「……違う。そこ、直接やると……」
「じゃあどうすればいいの!」
リリィが叫ぶ。叫ぶ声が、少し泣いている。怖い。怖いって言えない。だから叫ぶ。
スズが震える手で水袋を出した。水を口に含ませようとする。コウタは歯を食いしばり、うまく飲めない。
その瞬間、奥から、別の魔物の気配がした。
湧き。
罠の音と叫び声が、呼んだ。
影が揺れる。爪の音。ぬめる足音。数が多い。
「……来る!」
ミナトが言う。声が裏返る。
撤退。
その言葉が、四人の頭に同時に浮かんだ。浮かんだのに、誰も口に出せない。
ユーがいないから。
“撤退を決める役”が、空白だから。
コウタが歯を食いしばって立ち上がろうとした。
「……俺が、前に……」
「だめ! 動いたら毒が回る!」
ミナトが叫ぶ。言った瞬間、自分でも驚いた顔をした。合理のふりをしてきた彼が、初めて“命”の言葉を吐いた。
リリィは光を放ち続ける。眩しい。眩しいのに、安心できない。光が強いほど、胸が苦しい。体が熱い。喉が渇く。
――燃え尽きる。
その感覚を、リリィは知っていた。浄化体質が強いせいで、無理をすると自分が先に空になる。
でも止められない。
止めたら、怖い。
怖いから、光を出す。
魔物が迫る。スズが風の壁を張る。壁が揺れる。水の刃を飛ばす。手が震える。呼吸が浅い。
「……やだ……!」
スズが小さく泣いた。泣き声は小さいのに、ダンジョンの湿った空気に響いた。
コウタが歯を食いしばって言う。
「……撤退、する……!」
言葉が遅い。遅いけど、言えた。それだけで、空気が変わる。誰かが言うと、動ける。
「出口、こっち!」
ミナトが叫び、先に走る。罠の位置を探りながら、道を作る。スズが風で魔物を押し返す。リリィが光で焼く。焼きながら、足がもつれてくる。目の前が白く滲む。
コウタは腕を押さえながら、リリィの前に立つ。盾を構える。盾が震える。彼の膝も震える。
「……行け! 先に!」
「コウタ、だめ!」
「俺が決めるって……ユーが……」
その言葉が、リリィの胸を殴った。
ユーの置き手紙。棚の二段目。緊急用は赤紐。撤退は私がいないならコウタが決めろ。
――あの札。
追放した直後、ユーが残した札を、リリィは見なかった。見ようとしなかった。見たら、自分が悪いと分かってしまうから。
でも今、コウタの口から出た。
誰も読まなくても、ユーの仕事は残っていた。
「……っ」
リリィの喉が詰まった。涙が出そうになる。泣いたら、光が揺れる。揺れたら、みんなが死ぬ。
だから、歯を食いしばる。
「……わかった! 帰る! 帰るから!」
帰る、という言葉が、初めて“正しい”意味で口から出た。
出口が見えた。外の光が、眩しい。眩しいのに安心する。空気が軽い。肺が、やっと空気を吸える。
四人は転がるように外へ出た。
コウタが膝をつき、腕を押さえて呻く。針の刺さった場所が黒ずんでいる。毒が回り始めている。
「治す……!」
リリィが光を出そうとして、ふらついた。
「リリィ、待て!」
ミナトが叫ぶ。叫んで、自分でも戸惑う顔になる。どう待てばいい。どうすればいい。ユーなら――。
その時、神殿の白い衣の男が駆け寄ってきた。若い神官。十三くらい。顔が青い。慣れてない。
「勇者様! 大丈夫ですか!?」
彼は慌てて祈りを捧げ、薄い治癒の光を出した。出したが、コウタの黒ずみはすぐには引かない。
「……毒、です……っ。神殿の解毒……足りない……!」
神官の声が震える。子どもが子どもを治す現実の無理が、そこにあった。
リリィの膝が、がくんと折れた。座り込む。目の前がぐらぐらする。
「……なんで……」
なんで、うまくいかないの。なんで、怖いの。なんで、ユーがいないの。
言えない言葉が、喉の奥で渦を巻く。
―――
神殿に運び込まれた後。
コウタはなんとか命を取り留めた。ただ、腕はしばらく動かない。毒が神経を焼いたらしい、と神官は言った。言いながら、言葉が歯切れ悪い。
「……浄化で毒は消えます。でも、胆味の……ええと……」
胆味、という単語が出た瞬間、リリィの体がびくりとした。
ユーの薬。苦い。世界一苦い。あれが胆味。あれが毒だと思ってた。
「……リリィ様の体質が、少し……特殊で……」
「特殊ってなに!?」
リリィが叫ぶ。叫んだ声が、情けなく震えた。
神官は目を逸らし、曖昧に言った。
「浄化が強い方は、刺激に敏感です。……詳しくは、上の神官に……」
上の神官。つまり、今ここでは答えが出ない。答えが出ないことが、怖い。
怖いから、リリィは唇を噛んだ。
―――
夜。
神殿の薄い灯りの下で、ミナトは一人、壁に背をつけて座っていた。
コウタの寝息が、弱い。スズは隅で小さく泣いている。リリィは布団の中で、目を開けたまま動かない。
ミナトは自分の手を見つめた。
効率。
合理。
保護者がいると行動が遅い。
自分が言った言葉が、喉の奥で腐る。今日、遅かったのは誰だ。撤退判断が遅れたのは誰だ。罠に気づけなかったのは誰だ。……自分だ。
「……違う」
ミナトは小さく呟いた。声が震えた。
「……あれは効率じゃない。怖かっただけだ。僕が」
認めた瞬間、胸がぎゅっと潰れた。
怖いって言えばよかった。止めようって言えばよかった。スズの声に乗ればよかった。リリィが叫ぶ前に、水を飲ませればよかった。――ユーみたいに。
その時、神殿の扉が開き、監察官が顔を出した。黒い外套。あの森の視線。
「状況を報告しろ」
声は冷たい。子どもの事故も、紙の上の数字みたいに扱う声。
ミナトは歯を食いしばった。
監察官は続けた。
「保護者枠は解除されている。以後、補給と撤退判断は自己責任。――勅命の名を汚すな」
扉が閉まる。
その音が、檻の音に聞こえた。
スズが泣きながら言う。
「……ごめんね……。言えなかった……。言う勇気、なかった……」
リリィは布団の中で、拳を握った。爪が掌に食い込む。痛い。痛いのに、痛みより胸が痛い。
ユーがいなくなってから、初めての事故。
初めての怪我。
初めての、“帰れなかったかもしれない”夜。
そして――初めて、全員が同じことを思った。
あの人が止めていたのは、自由を奪うためじゃない。
死なせないためだった。
でも、その答えを知ったところで。
戻ってきて、と言えるのか。
言ったら、戻ってくるのか。
リリィの喉の奥に、言葉にならないものが詰まって、息が苦しくなる。
その時、ミナトがふと、荷物の端に挟まっていた紙束に気づいた。
ぐしゃっと折れた、薄い冊子。
誰かの字。
細かい字。
数字。
……記録。
「これ……」
ミナトが手を伸ばしかけて、止まった。
怖い。
開いたら、もう戻れない気がした。
それでも、指が動いた。
紙の角が、かすかに震えた。




