第3話 薬膳小料理『くすり香』、開店
食堂を借りる、ってのは言うほど簡単じゃない。
村長に会って事情を話して、「追い出された薬師が飯屋をやりたい」と言った瞬間の空気は、少しだけ固まった。そりゃそうだ。田舎に来る薬師は、だいたい“薬草を買い叩く商人側”か、“神殿の手伝いで顔を出す偉い人側”か、そのどっちかだ。前者は評判が悪いし、後者は距離がある。
その中間――つまり、生活の匂いがする職人は珍しい。
村長は五十五くらいの男で、顔に皺が多い。笑うと優しそうで、黙ると計算してそうな顔になる。村を回す顔だ。
「……飯屋、ねえ。薬師が」
「薬も作る。けど、まず腹だ。腹が減ってると判断が鈍る。畑も狩りも、怪我が増える」
言い方が、やっぱり保護者っぽい。自覚はある。直し方が分からない。
村長は顎を撫で、ちらりとハナを見た。
「ハナ。味見したんだな?」
「した。うまい。腹があったかくなるやつ」
「“うまい”は主観だが……ハナが言うなら、まあ外れじゃない」
ハナは胸を張るでもなく、ただ淡々と頷いた。
「まずいって言う時は、もっとはっきり言うし」
「それは助かる」
俺が言うと、村長が苦笑した。
「……条件がある。食堂は共同財産だ。貸すなら、最低限の修繕はお前がやれ。あと、村人相手に値段を吹っかけるな。借り賃は安くするが、そのぶん村に還元しろ。できるか?」
「できる。俺はここで生きる。ここで嫌われてもいいから、壊す気はない」
口に出してから、少しだけ変な気分になった。
王都での俺は、“嫌われても守る”だった。今は、“嫌われても生きる”。似てるようで、違う。守る対象を失った穴に、別の芯が入っていく感じがする。
村長はしばらく俺を見て、最後に一言。
「……よし。貸す。だが、変な連中が来たら村は守れん。自分で身を守れ」
「分かってる。帰れるを基準にする」
「帰れる?」
「行けるじゃない。帰れる」
村長は意味が分からなそうに眉を上げ、ハナが横から小さく笑った。
「そういうやつなんだよ、この人」
その日から、俺は“潰れかけ”を“店”に戻す作業を始めた。
まず掃除。次に修繕。最後に動線。
厨房は、作業台の高さが合ってない。包丁の置き場が危ない。水場が遠い。火口の前に物が置いてある。……全部、事故の元だ。俺は現代日本で、工場の衛生監査を受ける側だった。チェックリストが脳に焼き付いている。ここで妥協すると、客が腹を壊す。腹を壊したら評判が死ぬ。評判が死んだら店が死ぬ。
生きるための“うるささ”だ。
ハナは最初、手伝うと言いつつ、半分呆れていた。
「ほんとに、そこまでやる?」
「やる。火入れは命。水は命。刃物は命」
「命ばっかだね」
「命がなくなったら、全部終わる」
「……はいはい」
床板の隙間を埋め、虫除けの薬草を炊き、布を煮沸して乾かし、棚を拭く。村の若い衆が数人来て、釘打ちを手伝ってくれた。彼らは最初、遠巻きに俺を見ていたが、俺が黙々とやるのを見て、途中から口数が減った。
田舎は“口”より“手”を見る。
その感覚が、ありがたい。
厨房が整い始めた頃、俺は壁際に小さな棚を作った。薬箱の中身を、店用に分ける棚だ。薬は薬、調味料は調味料、乾物は乾物。混ぜると事故る。
その棚の二段目――いちばん手が届きやすく、迷わない位置に、赤い紐で結んだ小瓶を二本置いた。
緊急用。
数が少ない。材料も希少だ。増やせない。だからこそ、位置が大事になる。誰かが倒れた時、探してる時間はない。思考が止まる瞬間でも、手が動く場所に置く。
……保護者の癖だな、と思う。
でも、俺はそれを否定しないことにした。
否定したら、俺の中の“生存率”まで削ってしまう。
「それ、なに?」
ハナが赤紐を見て言った。
「緊急用の薬。使う場面は来ない方がいい」
「来ない方がいいのに、置くんだ」
「来ない方がいいから、置く」
「……めんどくさい言い方」
「そういうもんだ」
ハナは肩をすくめたが、棚の位置をじっと見ていた。覚えたな、と思った。こういう子は強い。言われなくても覚える。
開店の前日、村長が店に顔を出した。
「看板はどうする?」
看板。そうだ。名前が要る。名前がないと、人は話せない。噂も立たない。
俺は包丁を拭きながら考えた。薬膳小料理。薬師の店。だけど、“薬”を前に出しすぎると警戒される。神殿の権威もある。村人は実利で動くが、外から来る連中は“権威”で殴ってくる。
なら、匂いだ。
薬草の匂い。湯気の匂い。腹が減る匂い。
「……くすり香」
「香?」
「薬の匂いは、嫌われる匂いでもある。でも、香りで安心することもある。胃が動く匂いってのがあるんだ」
村長は難しい顔をして、ハナが横で即答した。
「いいじゃん。変に格好つけてない。腹減る名前」
「腹減る名前ってなんだ」
「腹減るの、大事でしょ」
俺は笑ってしまった。
「じゃあ、それで。薬膳小料理『くすり香』」
看板は村の大工が作ってくれた。木板に焼き印で文字。派手じゃない。だが、手触りがある。俺はその板を入口に掛け、指で文字の縁をなぞった。
――ここが、俺の居場所になる。
―――
開店初日。
朝から仕込みをした。ミズナ草を洗い、月白根を薄く切り、鉄根芋を泥ごと擦って毒抜き。出汁を引く。塩を合わせる。火入れのタイミングは秒じゃなく“匂い”で決める。湯気が立つ瞬間、香りが変わる瞬間。その瞬間を逃すと、胆味が立つ。
俺は鍋の前で、呼吸を合わせた。
……落ち着け。怒る前に水。まず水。
独り言が出る。反射だ。誰もいないはずの厨房で、俺は自分に言い聞かせていた。
―――
昼前、最初の客が来た。
村の婆さんだ。腰が曲がり、手が冷えている。顔色が悪い。こういう人に“ポーション”は強すぎることがある。胃が受け付けない。だから薬膳が必要になる。
「……ここ、やってるのかい?」
「やってる。座って。あったかいの出す」
「値段は?」
「村の人は安くする。まず、腹を動かす」
婆さんは警戒しながらも座った。俺は月白粥を出した。前の晩、ハナにもう一度味見させ、塩をほんの少しだけ増やしたバージョンだ。年寄りは塩が少なすぎると食が進まない。進まないと治らない。
婆さんは一口食べ、目を瞬いた。
「……あら。優しい味だね」
「胃に優しい。腹が減るようになる」
「腹が減る……ふふ。最近、減らなくて困ってたんだよ」
笑う皺が増える。目が少しだけ潤む。俺はそれを見て、胸の奥が静かに温まった。
薬を飲ませて泣かれるより、飯を食わせて笑われる方が、俺には向いているのかもしれない。
次に来たのは、畑仕事帰りの男だった。疲れが溜まっていて、肩が落ちている。俺は鉄根の豚汁を出す。村人用の滋養だ。防御の下地になるよう、胃を冷やさず、血を回す方向に組む。
「……うめえな。腹にくる」
「腹にくるのが正しい。腹に来ない滋養は、だいたい嘘だ」
「なんだそれ」
「理屈」
男は笑った。村の人間の笑い方だ。遠慮がない。
夕方までに客は十人ほど。大繁盛とは言えない。でも、俺には十分だった。鍋が空になる感覚。席が温まる感覚。匂いが店に染みていく感覚。
外に出ると、子どもが二人、看板を見上げていた。
「くすり……こう?」
「くすりって、にがいやつ?」
「ここ、にがいのかな」
俺はしゃがんで、目線を合わせた。
「苦いのは悪じゃない。情報だ。……ただし、不快は削れる」
「じょうほう?」
「体が“これは効く”って分かる味がある。でも嫌な味は、減らせる」
子どもは首を傾げた。理解は半分だろう。でも、怖がって逃げなかった。それだけで、今日は勝ちだ。
―――
閉店後、ハナが厨房に入ってきた。腕まくりをして、鍋を覗く。
「……結構売れたじゃん」
「売れたってほどじゃない。でも、続けられる」
「続けられるなら、勝ちだよ」
俺は頷いた。そこで、ふと気づく。仕込みの材料が、思ったより減っていない。いや、減っているはずなのに、“入ってくる見込み”が薄い。
村の薬草はある。だが、外から来る塩や油、乾物の流れが弱い。村の畑も痩せている。なのに、今日の客の数なら、もう少し材料が回ってもいい。
違和感。
ハナも、同じことを考えたのか、ぽつりと言った。
「ねえ。最近さ、村の外の商人、変なんだよね」
「変?」
「薬草、買いに来ない。来ても、値段が妙に渋い。……村のもん、売れないのに、外の材料は高くなる」
流通が詰まっている。田舎だからじゃない。誰かが、どこかで、首を絞めている。
俺は手を洗いながら、静かに言った。
「……匂いがするな」
「なにの匂い?」
「面倒の匂い」
ハナは鼻で笑った。
「面倒は、ここじゃ日常だよ。……でもさ、ユー。ひとつ言っとく」
「何だ」
「あんた、優しいのは分かった。でも――ここで死ぬなよ。優しさで死ぬの、禁止」
禁止、って言葉が可笑しくて、俺は少しだけ笑った。
「……了解。帰れるを選ぶ」
「それそれ」
―――
夜、店の裏で一人、記録帳を開いた。
今日の客の人数、年齢、食べた量、表情。胃が動いたか、眠れそうか。そういう些細なことを、数字と短い言葉で残す。癖だ。俺はもう、これを捨てない。
最後に、棚の二段目の赤紐を確認する。
ある。
――ここには、ある。
王都の森の中で“いらない”と言われた俺の仕事は、形を変えてここに残る。守る相手を、俺が選び直す。
明日も、腹が減る。
腹が減るなら、飯を作る。
その単純さが、今の俺を救っていた。




