第2話 置き去りの田舎、腹が減る
王都から離れるほど、道は雑になる。
石畳はひび割れて土が顔を出し、轍は深く、雨が降ればそのまま川になるだろう。馬車が通る回数が減る。つまり――流通が弱い。薬草があっても、売り先が遠い。村が貧しくなる。そういう当たり前の因果が、道の形に刻まれている。
俺は一人で歩いていた。
背中の薬箱が重い。重いけど、慣れてる。慣れてしまっているのが、ちょっと悔しい。保護者枠だった頃は、荷物の重さが“責任”の重さと直結していた。今は……ただの荷物だ。いや、違う。俺の技術と、俺の命綱だ。
それでも、腹は減る。
腹が減ると、思考が浅くなる。人間の脳は単純だ。単純だから、基本に戻る。
「まず水。次に塩。……で、糖」
独り言に返事はない。あの四人がいたら、うるさいって言われていた。今は、森の鳥が鳴く。
日は落ちかけていた。野営の場所を決める。風の向き、地面の乾き、火を焚いた時の煙の逃げ。瘴気が薄い場所を選ぶ。……選び方が、まだ“彼らを想定”しているのが苦い。
俺は小さな窪地を避け、少し高い場所に腰を下ろした。草を踏み固め、簡易の結界札を一枚、木に括る。戦闘は不得手でも、こういう“死ににくくする工夫”は、いくらでもできる。
火を起こす。乾いた枝を折り、薬草袋から油分のある種を少し出す。火種は大事だ。現代でも異世界でも。
ぱち、と炎が立つ。
それを見た瞬間、腹がぐう、と鳴った。
「……ああ、そうだよな」
笑ってしまった。追放された直後って、悲しみとか怒りとか、もっとドラマチックな感情が来ると思ってた。でも現実は、腹が減る。人間は結局、生き物だ。
携帯食は、ほとんど残っていなかった。王都で買える乾パンもどきは高い。保護者枠の予算は、もう使えない。接触制限の証文がある限り、王国の金に触れるのは危険だ。余計な因縁は、腹いっぱいだ。
だから、採る。
森の縁に生える薬草を探す。葉の形、茎の毛、香り。指で軽く擦って鼻に当てる。青臭い。わずかに甘い。……ミズナ草に近いが違う。鉄分が強い。これは“鉄根の仲間”だ。
「鉄味……じゃない。渋味か」
舌先にほんの少し乗せて確かめる。渋味が立つ。胆味のような苦さではない。胃を締める方向。処理を間違えると腹を壊す。
俺は根元を掘り、少量だけ採取した。採りすぎると森が痩せる。そういうところまで“うるさい”と言われるんだろうな、とまた笑った。
次に探すのは、脂質。
苦味を削るのに、脂は強い。舌の上に膜を作って、苦味の立ち上がりを遅らせる。香りで“苦い情報”を上書きすることもできる。甘味で誤魔化すだけだと、吸収が落ちる。だから設計する。効き目を落とさず、不快だけ削る。
近くの木の実を割ると、少量だが油が滲んだ。匂いはナッツに近い。これでいける。
あとは、胃を整えるベース。
俺は薬箱の奥から月白根を一本取り出した。ミズナ村の特産だと聞いていたが、王都の薬舗でも少しは流れている。買ったのは、保護者枠の頃だ。……この一本が、俺の“切り替え”の象徴みたいで、少しだけ胸が痛んだ。
「今は俺のだ」
言い聞かせて、根を薄く削った。
鍋に水を張り、火にかける。そこへ月白根を入れ、さっきの渋味草を少し。塩は持っている。最後に、木の実の油を数滴。
湯気が上がる。
香りが変わる。
胆味は、情報だ。だから情報を整理する。鼻に入る香りを先に整えると、舌の受け取り方が変わる。温度も重要だ。熱いままだと苦味が立つ種類もあるし、冷めると渋味が尖るものもある。……この世界の薬師は、たぶんそこまでやらない。効くなら苦くていい、で止まる。
でも俺は、止まれない。
止まれなかったから追放されたとも言えるし、止まれないから今も生きているとも言える。
煮立ったところで、少量の粉――携帯用の穀粉を入れた。粥にする。腹持ちが違う。胃に優しい。明日の体力が作れる。
木の匙でかき混ぜ、火を弱める。粥がとろりとしたところで、いったん鍋を火から外し、少し冷ます。
ここ。
“飲みやすさ”は、温度で決まることが多い。熱すぎると舌が麻痺して苦味が遅れて来るが、後味で地獄を見る。冷めすぎると香りが立たず、渋味が前に出る。今は……ふうっと息を吹きかけて、舌で確かめられるくらい。
俺は一口、口に含んだ。
――うまい。
派手じゃない。甘くもない。だけど胃がほっとほどける感じがする。月白根の淡い香りが先に立って、渋味草の“締める”性質を丸く包む。最後に脂が、喉を滑らせていく。
「……食える薬、だな」
食える薬。言葉にすると変だが、俺にとっては当たり前だった。前世の俺は、苦い健康食品をどうやって飲ませるかで夜を明かしていた。効き目があるものほど、だいたい不味い。だから、“美味しくないから捨てる”って発想が、どうしても許せなかった。
許せなかった結果が、今。
俺は鍋を抱えるようにして、粥を食べた。腹に温かさが落ちていく。心まで温まる……なんて器用なことは言わない。でも、少なくとも、泣きたい気持ちは薄れる。
食べ終えた頃には空が暗くなっていた。火を小さくし、周囲に灰を撒く。匂いは魔物を呼ぶ。俺は“帰れる”を基準にする。だから夜のリスクを減らす。
寝袋代わりの布にくるまり、目を閉じかけたとき――遠くで、獣の声がした。
低い。重い。猪の鳴き声に似ているが、湿った音が混ざる。瘴気を吸った魔物だ。
「……畑荒らし、ってやつか」
ミズナ村が近いなら、村の畑が被害に遭っている可能性がある。噂で聞いた。“小型魔物”と。“毒虫”と。“猪型”。
俺は起き上がり、薬箱の紐を締め直した。寝る前に一回、周囲を確認する。……相変わらず、うるさい。
けれど、うるさいのは生存率だ。
―――
翌朝。
霧の中を歩き、丘を越えた先で、ようやく村が見えた。小さな家が点在し、畑が広がり、煙突から細い煙が上がっている。
――ミズナ村。
名前だけは知っていた。薬草の産地。だが、道から見ても分かる。豊かじゃない。畑の土が痩せている。柵が修理途中で止まっている。人手が足りない村の景色だ。
村の入口で、犬みたいな獣がこちらを警戒するように吠えた。すぐに、若い女が現れる。日焼けした肌、黒髪を一つに結び、弓を背負っている。猟師の娘だろう。目がまっすぐで、嘘を嫌う目だ。
「……あんた、旅人?」
「そう。薬師だ。……泊まれる場所を探してる」
女は俺の背負う薬箱を一瞥して、鼻で笑った。
「薬師が、こんな田舎に?」
「追い出された」
「ふーん。……まあ、顔は悪そうじゃないね。変なことしたら、撃つけど」
物騒で、率直で、嫌いじゃない。
「正しい。俺もそうする」
「は? 自分で言う?」
女は肩をすくめた。
「村長のとこ行きな。……ついでに、腹減ってるなら、元食堂がある。潰れかけだけど」
潰れかけ。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。店が潰れる理由は単純だ。客が来ないか、仕入れができないか、働き手がいないか。田舎は、その全部が起こりやすい。
村の中心に近づくと、確かに小さな食堂があった。看板は斜め。窓は曇っている。中から人の気配は薄い。
俺は戸を押した。
きい、と鳴る。
中は静かで、埃の匂いがした。椅子はある。鍋もある。……使える。使えるけど、手入れが足りない。火入れが弱かった厨房の匂い。これを放置すると、胃を壊す。
腹が減っているのに、まず掃除を考えてしまう自分が嫌になる。嫌になるけど、やる。だって、胃を壊したら、もっと腹が減る。
そこへ、さっきの猟師娘が顔を出した。
「入ったんだ。あそこ、もう誰も使ってないよ。……あんた、なんか作れんの?」
「作れる。食える薬なら」
「食える薬? なにそれ」
俺は薬箱から月白根の残りを取り出した。猟師娘の目が、少しだけ動く。興味があるときの目だ。
「胃を整える粥。昨日も食った。腹は、ちゃんと減るようになる」
「腹が減るって、いいこと?」
「生き物としてはな。減らない腹は、だいたい壊れてる」
猟師娘はしばらく俺を見て、短く言った。
「……じゃあ、味見してやる。まずかったら、正直に言うからね」
「助かる。正直が一番、改善できる」
「改善って……薬も料理も、改善するもんなの?」
「する。しないと、死ぬ」
自分でも硬い言い方だと思った。けれど、俺はそういう人間だ。守るために厳しくなる。厳しくなるから嫌われる。……それでも、今は、嫌われてもいい相手がいない。
鍋に水を張り、火を起こす。厨房の位置を確認し、手洗い場の水を流す。刃物を洗い、布を煮沸して拭き上げる。猟師娘は呆れたように見ていた。
「……すごいね。いきなり掃除から?」
「火入れと衛生は、土台だ。腹壊したら、狩りも畑もできない」
「うわ、保護者みたい」
胸が、ちくりとした。
俺は包丁を置いて、深呼吸する。過去に引っ張られるな。今はここだ。ここで生きる。
「……そう見えるなら、そうなんだろうな」
「悪口じゃないって。……でも、村の子どもにその言い方したら、嫌われるよ?」
「……知ってる」
猟師娘は一瞬、目を丸くして、それから口の端を上げた。
「嫌われた経験、あるんだ」
「ある。たぶん、相当」
「ふーん」
それ以上は聞かない距離感。踏み込まないのに、切り捨てもしない。田舎で生きてる人間の、実務の距離。
湯気が立ち、月白根の香りが広がる。俺は穀粉を落とし、ゆっくりかき混ぜた。塩を少し。最後に、村の棚に残っていた干し薬草を一つ、匂いを嗅いでから入れる。……ミズナ草。胃を動かす。苦味は弱い。香りは青く、でも強すぎない。
粥ができた。
器に盛って、猟師娘の前に出す。
「熱い。舌をやるな。まず、香りを吸ってから」
「……うるさいな」
言いながら、彼女は器を両手で持ち、ふうっと息を吹いた。
一口。
ぱち、と彼女の表情が変わった。
「……うまっ」
思ったより率直だった。俺は、思わず肩の力が抜けた。
「なにこれ。腹が……あったかい。……なんか、胃が動く」
「月白根とミズナ草。胃の底の冷えを抜く。――ただし、食べ過ぎると逆に胃が疲れる。適量だ」
「出た。適量」
「適量が一番難しい」
猟師娘は、もう一口食べて、ふっと笑った。
「……あんた、名前は?」
「ユージン。ユーでいい」
「私はハナ。ハナ・ミズナ。村の猟師の娘。……で、ユー。追い出されたって言ってたけどさ」
彼女は器を置き、真っ直ぐ俺を見た。
「戻るなよ」
即答できなかった。できなかった自分が、また悔しい。
ハナは続ける。
「あんた、優しいのは分かった。でも戻るなよ。優しさで死ぬぞ」
……痛いところを突く。しかも、優しさを褒めているわけじゃない。優しさが“武器”にも“凶器”にもなると知ってる人の言い方だ。
俺は目を伏せ、短く言った。
「……戻れない。制度上」
「制度?」
「……いろいろある」
「ふーん。なら、なおさらだ。戻るな。あんたがここで生きるなら、ここで生きろ」
俺は、少しだけ笑った。
「分かった」
分かった、と言えたのが、自分でも意外だった。王都で“守る”に縛られていた俺は、誰かにこうやって背中を押されるのが下手だった。
でも腹は満たされた。胃が動いた。血が巡った。すると、不思議と、目の前の“潰れかけの食堂”が、ただの廃墟じゃなく見えてくる。
鍋もある。椅子もある。火も起こせる。薬草の村だ。材料は、たぶん、ある。
足りないのは――流れだ。
「ハナ。この食堂、誰のものだ?」
「元は村の共同。前の店主が病気で倒れて、そのまま。借り手もいない。……どうすんの?」
俺は厨房を見回し、もう一度、粥の香りを吸った。
「……腹が減る村なら、飯は武器になる」
「武器?」
「そう。生きるための武器」
ハナは目を細めて、少しだけ楽しそうに言った。
「じゃあさ。村長に話してみな。……うまい飯、作れるなら。村、ちょっとは明るくなるかも」
その言葉が、胸の奥で小さく灯った。
俺は、鍋を洗いながら頷いた。
「……まず、掃除からだな」
「また掃除!」
「衛生は土台。腹壊したら、全部終わる」
「はいはい。うるさいうるさい」
うるさい、という言葉が、今回は少しだけ軽かった。
外では、村の子どもの笑い声がした。王都で聞いた泣き声と違って、腹の底から出る声だ。
俺はその音を背中で受けて、思った。
――ここでなら。
俺は“うるさい”ままでも、生きられるかもしれない。
ただし。
窓の外、街道の向こうに目をやると、荷馬車が一台、村を素通りしていくのが見えた。村の特産を積むはずの馬車が、止まらない。
流通が、詰まっている。
田舎だから、ではない。意図的な匂いがする。
俺は指先の薬草の染みを見つめ、静かに息を吐いた。
「……面倒なのが、来そうだな」
でも今は、腹が減る。
腹が減るなら、飯を作る。
それが、俺の生き方だ。




