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お子ちゃま勇者に「美味しくないから追放!」された薬師、田舎でバフ飯屋を開く  作者:


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第19話 監査官アデル――紙にできないものは守れない

 硬い足音は、鍋より先に胃を冷やす。


 戸の外で止まる音。靴底が床板の上で迷いなく向きを変える音。――“ここに来る理由が決まっている”足音だ。


 昼前のくすり香。ニケの事故から一日。店の空気は少しだけ張っている。張ってるのに、鍋は回る。回してるうちに、腹が落ち着く。腹が落ち着くと、怖さが言葉になる。


 ……言葉にならない怖さが、一番危ない。


 戸が開いた。


 入ってきたのは女だった。三十過ぎ。髪は淡い灰金をきっちり結び、制服は(しわ)ひとつない。目が疲れている。疲れているのに、視線は鋭い。メモ帳の角が擦り切れている。仕事量の記号。


 彼女は店に一歩入って、挨拶より先に言った。


「ユージン・クラフト。あなたが“くすり香(くすりこう)”の店主ですね」


 声は淡々(たんたん)。淡々すぎて冷たい。


厨房(ちゅうぼう)を見せてください。拒否は“拒否”として記録します」


 ハナが一瞬、弓を持ちたくなる顔をした。ミレイがいれば間に入っただろうが、今日はまだ戻っていない。だから俺が場を作る。


 俺は布巾で手を拭き、言った。


「見ろ。うちは見られて困ることはない。……だが、まず水」


 女は眉を動かさずに水を受け取り、一口飲んだ。飲み方が実務の飲み方だ。必要な分だけ。喉を潤すだけ。


「アデル・ローヴェル。薬政局監査官です」


 薬政局。


 ギルドでも神殿でも連盟でもない、“紙の剣”の持ち主。


 アデルは厨房へ入る前に、ぐるりと店内を一周した。目が最初に止まったのは、看板でも鍋でもない。


 手洗い場。


 次に――記録棚。


 その視線の順番だけで分かる。


 この人は、敵じゃない。少なくとも“腹を()める敵”ではない。


 アデルは手洗い場の水桶(みずおけ)(のぞ)き、布巾を見て、乾燥棚を見た。まな板の区別。刃物の保管。火口の周り。薬草の札。日付。


 そして記録帳を指で(たた)いた。


「……記録、密度が高い」


 褒めてるのに、声色が変わらない。褒め方が下手な人間だ。だが、こういう人間は信用できる時がある。感情で動かないからだ。


「癖だ」


 俺が言うと、アデルは即座に返す。


「癖は武器になります。書ける癖は、守れます」


 守れる、という言葉が、紙の人間から出るのは珍しい。普通は“規程”“違反”“処分”だ。


 ハナが腕を組んだ。


「守るって、誰を?」


 アデルは少しだけ目を伏せた。


「現場です」


 一拍。


「……現場の死を減らしたい」


 それだけ言って、すぐ仕事の顔に戻る。言いすぎると弱みになると分かっている人の言い方だ。


 アデルはメモ帳を開き、淡々と告げた。


「あなたは“標準化”の中心に置かれます。望まなくても」

「望まない」


 俺は即答した。望んだ瞬間、囲われる。


 アデルは(うなず)いた。頷くけど、譲らない目。


「望まなくても、事故はあなたの名で起きます」


 昨日のニケの顔が浮かぶ。雑さが事故になる。事故が名前を汚す。名前が汚れると、救える腹が減る。


 ……現実だ。


 俺は息を吐いた。


「それが嫌だから、看板を貸さない」

「正しい」


 アデルが言った。正しい、と言い切るのに、温度がない。でも温度がないから信用できる。


 アデルは続ける。


「紙にできないものは守れません」


 決め台詞みたいに、淡々と落ちる言葉。


「あなたの“うるささ”を紙にしてください」


 俺の胃が、また冷えた。


 紙にした瞬間、抜け落ちる。抜け落ちたところに、雑さが入り込む。それが怖い。


「紙にした瞬間、うるさい部分から消える」


 俺が言うと、アデルは即答した。


「消えないように、監査が要る」


 監査。ここで嫌われる単語が来る。


 ハナが顔をしかめた。


「監査って、縛るやつ?」


 アデルはハナを見て、ほんの少しだけ言葉を選んだ。


「縛ります。……でも、縛るのは“雑さ”です」


 言葉が意外に優しい。優しいのに、本人は優しく言ってる自覚がなさそうだ。


 俺は鍋の蓋に手を置いた。湯気が立つ。香りが立つ。腹が鳴る匂い。


「俺は役所仕事が嫌いだ」


 正直に言った。正直に言っていい相手だと感じた。


 アデルは眉を動かさずに返した。


「私も嫌いです。……でも、紙がないと、守れない現場が増えた」


 同じ嫌いの種類だ。嫌いだけど、逃げられない種類。


 アデルはメモ帳に走り書きをしながら言う。


「昨日の屋台事故。触媒のロット。仕入れ先。保管場所。火入れの有無。……全部、書けますか」

「書ける。ニケも協力する」


 俺が言うと、奥からニケが顔を出した。今日は店の裏で手伝っていた。目が赤い。だが逃げていない。


「……書く。書いて、守る」


 ニケがそう言った瞬間、アデルの目がほんの少しだけ柔らかくなった。


「いいでしょう」


 短い褒め言葉。たぶん、これがこの人の最大の優しさだ。


 アデルは最後に、俺を見て言った。


「あなたの“うるささ”は証拠になります。書けますか?」


 書けるか、じゃない。書け、と言っている。


 俺は、少しだけ腹の底でうなってから、頷いた。


「書く。……ただし、紙だけで終わらせるな。現場の手が回る形にする」

「当然です」


 アデルが即答する。


「紙は盾です。盾だけでは勝てない。盾を持つ手が必要です」


 言い方が、現場に寄せてきた。こいつ、分かってる。分かってるのに、表現が下手なだけだ。


 アデルは厨房の出口で立ち止まり、最後にぽつりと言った。


「次、あなたを守る書類を作ります」


 守る、と言った。


 でも“守るために来た”とは言わない。言えない人だ。だからこそ、信用できる。


 戸が閉まった後、ハナがぽかんとした顔で言った。


「……敵じゃなかった」

「官僚は紙で殴る」


 俺は言った。


「今回は、紙で守る側だ」


 鍋の前に戻り、俺は新しい帳面を机に置いた。


 味の帳面じゃない。


 制度の帳面。


 ――紙の戦いが始まる。


 嫌いだ。


 でも腹を守るなら、逃げられない。


 俺は湯気を吸い込み、静かに(つぶや)いた。


「うるさいのは命綱だ。……その命綱を、紙にする」

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