第15話 うるさいの輸出は難しい――近道は腹に返る
講習会ってのは、鍋より疲れる。
鍋は正直だ。入れたものが匂いになって、味になって、腹になる。
けど人は違う。聞きたいものだけ聞く。欲しいところだけ抜く。面倒な部分ほど置いていく。
――置いていくのは、だいたい命綱だ。
朝のくすり香。俺はいつもより早く起きて、机の上に紙を並べていた。
工程の紙。
だが“レシピ”じゃない。
手洗い、火入れ、保管。
それだけが太字で書いてある。あとは理由。理由は長くなる。長くなるけど、削ったら死ぬ。
ミレイが封筒の束を抱えて入ってきた。
「会場、集会所です。参加者、多い。……半分は“近道”を探しに来てます」
「分かってる」
「でも、来たなら渡せます。うるささを」
うるささを渡す。言葉にすると変だ。でも、今の俺の仕事はそれだ。
ハナが椅子を運びながら言った。
「うるさいのを輸出するって、難しそう」
「難しい」
「どうせ嫌われる」
「嫌われるのは慣れてる」
「……慣れたくないけどね」
ハナの声が少しだけ柔らかい。こういう柔らかさが、俺の線を守る。
集会所には人が溢れていた。冒険者、村の若い衆、近隣の村の料理人、薬師っぽい人間、神殿の若い神官までいる。目が光ってる。欲が光ってる。
欲は悪じゃない。腹を守る方向に向けば、強い。
でも今日の欲は、だいぶ“手軽”に寄ってる。
「はいはい、静かにー。ギルド主催、“補給講習会”です!」
ミレイの声はよく通る。実務で鍛えた声だ。
俺は壇上に立った。立つのは慣れてない。慣れてないから、余計なことを言わない。
最初に言うべき言葉は一つ。
「レシピより先に、手を洗え」
笑いが起きた。
「出た、うるさい!」
「飯の講習で手洗いとか!」
笑いが起きるのは悪くない。硬い空気よりはいい。だが、笑って終わらせたら死ぬ。
俺は笑いを切らずに続けた。
「うるさいのは命綱だ」
少し静まる。
「手洗い。火入れ。保管。この三つだけは削るな。削るなら、真似するな」
後ろの方で誰かがぼそっと言った。
「で、バフの秘密は?」
来た。目が“そこ”にしかない。
俺はそいつの方を見た。顔は若い冒険者。目が勝ちたい目だ。勝ちたい目は、帰れなくなる目にもなる。
「秘密はない」
俺は言った。
「雑にやらないこと。それだけだ」
空気が冷える。“地味”は売れない。分かってる。分かってるけど、地味は命を繋ぐ。
俺は実演に入った。手洗いは、ただ洗うんじゃない。指の間、爪、手首。洗って、拭いて、乾かす。濡れた手は雑菌を運ぶ。雑菌は腹を壊す。
火入れは、時間じゃなく“状態”。色。香り。泡。噛んだ時の抵抗。薬草の火入れ不足は毒を残す。入れすぎは効能を飛ばす。だから、見て、嗅いで、触る。
保管は、置く場所。日付。湿気。虫。蓋。ひとつでも崩れると、腹が死ぬ。
参加者の目が少しだけ変わる。実演は強い。机上の言葉より、手の動きは嘘をつきにくい。
それでも、前の席の男が食い下がる。
「それは分かった。で、速効は? あの屋台のやつ。あれ、勝てるんだよな?」
勝てる。勝てる。勝てる。
勝てても帰れないなら、負けだ。
俺は言葉を短くした。短くしないと説教になる。
「勝てても、帰れないなら負けだ」
ざわつく。反発が混じる。反発はいい。死なれるよりマシだ。
その時、ミレイが俺の横に出て、紙を一枚差し出した。
事故報告。
目が文字を追う前に、匂いがした。紙の匂いじゃない。焦りの匂い。
「……屋台のスープで、軽い失神が出ました」
会場が、一瞬で静まった。
痛みは説得力だ。痛みは、みんなの腹を現実に引き戻す。
「症状は?」
俺が聞くと、ミレイが淡々と読む。
「腹痛、吐き気、手の震え、汗。戦闘前に飲んだ。空腹で」
俺は目を閉じて、頭の中で線を引いた。
刺激過多。胃粘膜荒れ。吸収の歪み。軽い過換気。失神。――死にたくないのに、体が勝手に止まるやつだ。
俺は会場を見回し、言った。
「今言った症状。覚えろ。出たら“止まれ”。突っ込むな。まず呼吸。次に塩。糖。胃を休める。――勝負前に体を壊すな」
誰も笑わない。
ようやく“近道”の顔が剥がれた。
俺は続ける。
「速効は否定しない。速効が必要な場面もある。でも、常用は違う。楽は、習慣になる。習慣は、腹に返る」
前の席の男が、ぼそっと言った。
「……でも、勝てるんだよな」
しつこい。しつこいのは子どもだけじゃない。大人も同じだ。勝ちたいのは怖いからだ。
俺はその男を指ささず、空気に向かって言った。
「怖いなら、怖いって言え。怖いから速いものに縋る。縋るのは悪じゃない。だが縋り方が雑だと死ぬ」
場の空気が、少しだけ柔らぐ。怖い、という言葉は、救いになる。
講習の最後。
俺は紙を配った。工程要点の紙だ。だが最後に、赤字で一文を書いた。
『理由が分からないなら、真似するな』
受け取った何人かが顔をしかめる。反発は来る。分かってる。
ミレイが小声で言った。
「刺さるけど、敵も増えますよ」
「敵はいい」
俺は言った。
「死なれるよりマシだ」
夕方、くすり香に戻ると、客がいつもより少なかった。流行りは強い。派手は強い。現実は甘くない。
鍋の前で、俺は静かに湯気を見た。
うるさいを売るのは難しい。
だが、売らないと、社会から“美味しくないから切り捨てる”は消えない。
ハナが戸口を見ながら言った。
「客、戻る?」
「戻るさ。戻らないなら、倒れる」
「倒れたら?」
「守る」
短い会話で、十分だった。
夜、ミレイが追加の報告を置いていった。
失神は一件だけじゃない。軽い腹痛が数件。共通点は――同じ触媒、同じ仕入れルートっぽい匂い。
俺は帳面に太字で書いた。
『近道は腹に返る』
そして、その下にもう一行。
『うるさいの輸出は難しい。だから仕組みが要る』
鍋の音は正直だ。
紙の音は、怖い。
でも紙がないと、守れない命が増えた。
だから明日も、うるさく生きる。




