第13話 標準化の影――“うるさい”は抜け落ちる
鍋が増えると、音も増える。
湯気の立つ音。蓋が触れる音。木べらが底を掻く音。器が重なる音。客の椅子が引かれる音。靴底が床を擦る音。
音が増えるってことは、腹が増えるってことだ。腹が増えるなら、守るものも増える。
……増えすぎると、守り方が雑になる。
それが怖い。
朝のくすり香。俺は鍋を二つ並べていた。鉄根の豚汁を回す鍋と、月白粥を温める鍋。油がまだ戻り切っていないから揚げ物は控えめ。代わりに、出汁で勝負する日が続く。
ハナが裏口から入ってきて、まず言った。
「ユー。朝から行列」
「知ってる」
「顔が違う。村の腹じゃない」
「……視線が硬い?」
「硬い。値段で見てる目」
値段で見る目は、腹を見ない。
腹を見ないやつは、現場を舐める。
俺は手を洗いながら、心の中で順番を並べた。怖いのは敵じゃない。事故だ。事故が起きたら、腹が死ぬ。腹が死ぬと、噂が死ぬ。噂が死ぬと、村が死ぬ。
だから、今日もまず水だ。
――そう思ったところで、ミレイが封筒を置いた。
封筒が机に落ちる音は、鍋より嫌な音がする。紙の音は、腹より先に人を殺す時がある。
「ギルド会合です」
ミレイの声は事務的。事務的な声ほど、面倒の匂いが濃い。
「……何の」
「“くすり香式補給”を標準化したい、そうです」
その言い方がもう嫌だった。
「“式”って言うな」
俺が言うと、ミレイが苦く笑う。
「分かります。でも上は“式”が好きなんです。紙に落とせるから」
「紙に落とした瞬間、抜け落ちる」
「だから、あなたに監修を求めます」
監修。便利な言葉だ。責任を背負わせる時に使う。
ハナが皿を拭きながら言った。
「標準とか、そういうやつ。だいたい腹が死ぬ」
「死なせない」
「なら、行くの?」
俺は封筒を見た。会合の場所は村の集会所。出張会合だ。王都まで行かなくて済むのは助かる。だが――村の集会所に“王都の匂い”が混じるってことでもある。
「行く。ただし、保証人にはならない」
ミレイが頷く。
「その言い方で行きましょう。“丸投げ拒否”です」
うるさい、って言われるやつだ。
……うるさいのは命綱だ。
昼の仕込みを最低限回し、俺たちは集会所へ向かった。村の集会所は普段、畑の話と祭りの話しかしない場所だ。そこに今日は、靴の良い音が並んでいる。
ギルドの出張役人。神殿の関係者。見知らぬ商人。どこかの薬師。あと、村の代表として村長。ミレイが一番前の席に座り、俺は壁際に立った。立っている方が逃げやすい。逃げるためじゃない。帰れる線を守るためだ。
会合が始まる。
「本日はお集まりいただき――」
挨拶は長い。長い挨拶の間に、人は責任から逃げる場所を探す。
議題が出た。
“くすり香式補給”をギルドの標準に。冒険者の補給基準に。村々へ展開。事故防止。生存率向上。
言葉は綺麗だ。
綺麗な言葉ほど、現場の泥を忘れる。
商人が微笑んだ。
「つまり、工程の要点を紙にして配布し、誰でも再現できるように……簡略化が必要ですね」
神殿側が曖昧に頷く。
「信仰上の衛生観念もありますので……そのあたりも配慮を……」
ギルドの上役が言った。
「冒険者は忙しい。手順が長いと守れない。要点だけ抜きたい」
要点だけ。
抜く。
抜くって言葉が、胃を冷やした。
俺は静かに口を開いた。
「手順だけ抜くと事故る」
空気が少し止まる。誰かが咳払いする。
俺は続けた。
「味はごまかせても、腹はごまかせない。工程の“理由”が抜けると、同じ材料でも毒になる」
役人の一人が眉をひそめた。
「しかし、理由まで説明すると長い。現場が回らない」
「回らないなら、やるな」
俺の声は低い。怒鳴らない。怒鳴ると、感情の話にされる。これは命の話だ。
商人が笑った。
「現場に合わせた“現実的な”形にする必要がある、と」
「現実的、って言葉は便利だな。現実は腹痛と痙攣だ。死体だ」
空気が硬くなる。
村長が居心地悪そうに座り直す。神殿の人間が目を逸らす。ギルド上役が言った。
「脅しに聞こえるぞ、ユージン殿」
「脅してない。予告だ。雑にやれば、起きる」
ミレイが援護に入った。
「責任はギルドが負います。そのために規程化するんです」
責任。
その言葉が出た瞬間、空気がざわついた。責任という単語は、甘い菓子より嫌われる。
俺はミレイを見て、頷かなかった。頷いたら、俺の首に縄が掛かる。
「規程化はいい」
俺は言う。
「だが、“現場がやれる形”じゃないと死ぬ。だから最低限だけ提示する」
俺は指を三本立てた。
「手洗い」
一つ目。
「火入れ」
二つ目。
「保管」
三つ目。
「この三つだけは削るな。削ったら、うちの名前を使うな」
商人が瞬きをした。名前を使うな、は痛い。信用を取れないからだ。
ギルド上役が渋い顔をする。
「名前を使わずに、どうやって広める」
「広めたいなら、責任者を決めろ」
俺は淡々と言った。
「誰が監査する。誰が例外を作る。誰が事故の尻を拭く。――決めろ」
ざわつく。責任という言葉を嫌って、みんな目を泳がせる。ああ、こういうやつだ。標準化ってのは、結局“誰が責任を背負うか”の奪い合いだ。
ミレイが机を叩いた。軽い音だが、よく響く。
「ギルドが背負います。そのために“認定”を作る。工程チェックと衛生監査を通したところだけが名乗れるように」
“認定”。
その単語に、別の匂いが混じる。利権の匂いだ。認定は善にも悪にもなる。腐ると現場が死ぬ。
俺はそこで初めて、はっきりと言った。
「俺は監修はする。だが保証人にはならない」
会場が静まった。
俺は続ける。
「紙にするのはいい。だが紙は紙だ。紙は腹痛を止めない。腹痛を止めるのは、現場の手だ。だから、現場が守れる最小だけに落とせ」
神殿の人間が言った。
「信仰上、火入れが難しい食材も――」
「じゃあ使うな」
俺は即答した。
「信仰を守るのは自由だ。だが腹を守るのも命だ。どっちも守りたいなら、別の手を探せ」
商人が笑顔で言う。
「ユージン殿は厳しい。……しかし、広がらなければ意味がないのでは?」
「広がって、雑で死ぬなら意味はない」
俺は息を吐いた。
「俺が欲しいのは“勝てる飯”じゃない。“帰れる飯”だ」
その言葉だけが、村長の目に少しだけ火をつけた。村の人間は“帰れる”の意味が分かる。分からないのは、机の上で数字を動かすやつだ。
会合は結論を先延ばしにした。先延ばしは、責任逃れの第一歩だ。だが、ミレイが紙に残させた。「三点セット削除不可」「名称使用は条件付き」「監修はするが保証人はしない」。
紙に残すのは、嫌いじゃない。嫌いなのは、紙だけで終わることだ。
会合が終わり、人が散る。
商人たちの視線が増えた。値段で測る目が、俺を囲う角度を探す。ミレイが俺の横に寄り、小声で言った。
「囲い込みの匂い、濃いです。……“権利”と“名称”を欲しがってます」
「分かってる」
「でも、今はまだ手を出してきません。今日の“保証人拒否”が刺さった」
刺さってくれればいい。刺さった分、別の手で来る。
店に戻ると、入口で見知らぬ客が待っていた。村の客じゃない。靴が良い。服が良い。匂いが薄い。現場に立たない人間の匂いだ。
「ここが“標準”の店?」
その言葉で、胃がまた冷えた。
標準。そこに期待されるのは、安心だ。安心はいい。だが“標準”という言葉は、うるさい部分から先に削る。
削って、事故って、最後に名前だけ残る。
――それだけは嫌だ。
俺は布巾で手を拭き、いつもの言葉を落とした。
「座れ。まず水」
客が笑った。
「標準でも、うるさいんだな」
「うるさいのは命綱だ」
ハナが皿を拭きながら、ぼそっと言った。
「標準になった瞬間、うるさいのから消えるぞ」
「消えたら死ぬ」
「だろうね」
俺は鍋の中を掻き回した。湯気が立つ。匂いが立つ。腹が鳴る匂い。これが現場だ。これが命だ。
紙の音より、鍋の音を信じる。
でも――紙を捨てるわけにもいかない。
うるさいを、他人に渡す。
その難しさが、今日、腹の奥に落ちた。
鍋の音と、書類の音。
音が増える章が、始まった。




