第5話、瓦礫の中で。2
凍えるような夜が明け、水平線から昇る朝日が、瓦礫の町を照らし始めた。
それは、昨日見た光景よりも、さらに酷いものだった。茶色い泥が乾きかけ、無数の木材や金属片、そして家庭の残骸が、荒々しい芸術作品のように折り重なっていた。津波によって運ばれてきた、見たこともない大きな漁船が、かつての商店街の真ん中に転がっている。
夜明けと同時に、避難所の大人たちが、救助活動のために下山し始めた。悠真は、健太とともに、その先頭に立った消防団のOBに声をかけた。
「俺たちも、捜索に加わります」健太が強い声で言った。
消防団の男性は、健太と悠真をじっと見た。
「気持ちはわかるが、まだ危険だ。余震の恐れもあるし、瓦礫の下には、何が潜んでいるかわからん。特に中学生は…」
「俺たち、この町の人間です。道も、家屋の構造も知っています。美咲は、昨日、お母さんを探しに町へ降りました。まだ戻っていません。俺たちにやらせてください」健太は、美咲の名前を出すことで、半ば強引に了承を得ようとした。
男性はため息をついた。「美咲さんか。ああ、あの海野さんの家の娘さんだな。…わかった。ただし、絶対に二人から離れるな。危険を感じたら、すぐに戻るんだ。あと、絶対に一人で瓦礫の中に入るな。二人で声を掛け合って、行動しろ」
悠真は、ただ頷いた。美咲が消えたあの瓦礫の山に、今、足を踏み入れる。美咲を追えなかった昨日の後悔を、償うことができるかもしれない。
健太は、悠真の肩を強く叩いた。「行くぞ、悠真。美咲と、美咲のお母さんを、必ず見つける」
二人は、泥と瓦礫が堆積した坂道を慎重に下り始めた。
瓦礫の上を歩くのは、想像以上に過酷だった。足場は不安定で、踏み込めば崩れ落ちる。錆びた釘やガラスの破片がそこら中に突き出しており、少しでも気を抜けば大怪我をするだろう。
町が近付くにつれて、津波の痕跡はより生々しくなった。泥の中に埋もれた、美咲の家の近くの青い自転車。悠真が今朝乗っていた、自分の自転車だ。泥にまみれ、車輪は歪んでいるが、その色だけは、確かに悠真の自転車だった。
「…悠真の自転車だ」健太が言った。
悠真は、一瞬、立ち止まった。その自転車のサドルに跨がっていた、何気ない日常が、本当に永遠に来ると思っていた。それが、たった数時間で、こんな鉄屑になってしまった。
「健太、急ごう。美咲は、この辺りから自宅へ向かったはずだ」
二人は、美咲の家があった場所を目指した。しかし、そこは、家があったことを示す目印さえも失われていた。
美咲の家は、小さな入り江のすぐそばにあった。今、入り江全体が茶色い泥で満たされ、家屋の土台さえも、瓦礫の下に埋もれてしまっている。
「どこだ…美咲!」健太が、大きな声で叫んだ。
その声は、瓦礫の町に吸い込まれ、こだますることもない。
悠真は、泥の海の中、何かを探した。美咲の目印。美咲の母親の目印。
その時、悠真の視界の端に、鮮やかな色彩が映った。
それは、泥と瓦礫の中で、ひときわ異彩を放つ、真新しいスケッチブックだった。泥を被ってはいるが、その表紙には、美咲が描いたと思しき、精緻なタッチの天使の絵が薄く浮かび上がっていた。
「健太!これ!」
悠真は叫び、手を伸ばした。スケッチブックは、美咲の家があった場所から、ほんの数メートル離れた、瓦礫の隙間に挟まっていた。
健太が駆け寄り、二人はスケッチブックを泥の中から引き上げた。美咲が、昨日徹夜で描いたと言っていた、あのイラストが入っているかもしれない。
表紙を開くと、数枚の紙が泥で貼り付いてしまっている。だが、最後のページだけは、奇跡的に水に濡れていなかった。
そこに描かれていたのは、美咲の母親の横顔だった。柔らかな笑顔を浮かべ、窓辺で編み物をしている、穏やかな日常の一コマ。そして、その絵の下には、美咲の、震えるような文字で、こう書かれていた。
「おかあさん、やくそく。ぜったいに、また、えをかいてみせるからね。」
悠真は、その絵を握りしめ、言葉を失った。この絵は、美咲が母親に見せようと持っていった、最後の希望の象徴だったに違いない。だが、美咲は、このスケッチブックを、なぜここに残したのだろうか?
「美咲は…これを、ここに落としたのか?」健太が、低い声で尋ねた。
悠真は、スケッチブックが向いていた方向を見た。それは、美咲の家があった場所とは逆、さらに奥まった、かつての商店街の方向だ。
「違う。これは…この絵は、まだ新しい。昨日、先生に見せると言っていた絵だ。美咲は、これを持ちながら、家を探したんだ…そして、どこかで、これを手放した」
手放す。それは、美咲が、捜索の途中で、何らかの事態に直面し、スケッチブックを持つことさえもできなくなった、ということを示唆していた。
「健太、美咲は、この先に行ったかもしれない。ここから先は、もっと瓦礫が酷いぞ」
健太は、スケッチブックを悠真から受け取り、その表紙を強く握りしめた。彼の瞳には、涙ではなく、怒りの炎が宿っていた。
「瓦礫が酷いなら、掘り進むまでだ。俺は、美咲を…俺たちが美咲を置いてきたことを、ここで償わないといけないんだ」
健太は、美咲のスケッチブックを泥だらけの服の内ポケットにしまい、商店街の方向へと、一歩を踏み出した。その足取りは、昨日、美咲を止めた時の迷いなど、微塵も感じさせなかった。




