第4話、瓦礫の中で。1
太陽が水平線に沈み、夜の闇が汐凪町を覆い尽くした。高台の汐凪神社は、数百人の避難者でごった返していた。広場には毛布やブルーシートが敷かれ、焚き火の煙が夜空に立ち昇る。しかし、賑わいはなく、聞こえるのは時折聞こえるすすり泣き、無線機のノイズ、そして静かすぎる波の音だけだった。
悠真は、神社の拝殿の隅で、中学校の先生から渡された乾パンを握りしめたまま、座り込んでいた。空腹は感じていたが、噛み砕く気力がない。隣には、美咲が預けられたまま、心配そうに悠真を見つめる女性教師の姿があったが、悠真は、その視線に気づかないふりをした。
彼の心は、美咲が瓦礫の斜面を駆け下りていったあの瞬間に、置き去りにされていた。
(僕は、なぜ動けなかった?)
美咲の最後の言葉。「私は、悠真みたいに、ただ立ち尽くしてるわけにはいかないの!」。その言葉が、熱された鉄のように、悠真の良心に焼き付いていた。
恐怖だった。津波の轟音、瓦礫の光景、そして、自分が踏み出したら、本当に死ぬかもしれないという、本能的な恐怖。健太は美咲を追おうとした。健太は、勇敢だった。しかし、悠真は、健太に止められたことを、言い訳にして、美咲を見捨てた。
「悠真」
低い声が、横から聞こえた。健太だった。彼は、消防団の男性たちと協力して、広場に集積された物資の整理を終えたばかりのようで、顔や服は泥と埃にまみれていた。
健太は悠真の隣にドサリと座り込んだ。二人の間には、重苦しい沈黙が横たわった。
「…美咲は、まだ戻ってない」健太が、絞り出すように言った。
悠真は何も答えられなかった。ただ、乾パンを握る手が、汗で滑る。
「…俺も、行こうと思ったんだ。美咲の後を追って。でも、親父の顔が浮かんだ」
健太の父親は、町で唯一の工場の工場長で、地震発生時、工場で作業をしていたはずだ。健太の家は、悠真や美咲の家よりは高台に近い位置にあったが、津波の被害を免れたかは不明だ。
「俺は、俺までいなくなったら、親父が帰ってきたとき、誰がここで待ってるんだって思って…だから、俺は、美咲を…」健太は、そこで言葉を詰まらせた。彼の野球で鍛えられた大きな手が、顔を覆う。
悠真は、ようやく声を出すことができた。「健太の親父さん、大丈夫だといいな」
「ああ、お前もだ。佐倉のおっちゃんは?」
悠真の父親は、汐凪漁港で働く漁師だった。昼間は漁に出ていないはずだが、地震発生時、自宅にいたかどうかはわからない。母親は、隣町の病院に看護師として勤めているため、おそらく無事だろう。
「母さんは、隣町で無事のはずだ。親父は…わからない。昼過ぎから、まだ連絡が取れない。携帯も繋がらない」
この町では、電波塔が倒壊し、ほとんどの通信手段が途絶している。安否確認は、避難所で名前を呼び合う、原始的な方法しかなかった。
「…ごめん、悠真」健太が、突然そう言った。
「どうして謝るんだ?」
「美咲に、俺たちの夢を突きつけた。俺は野球で、お前は…美咲も、美咲の夢があったのに。俺たちが、自分のことばかり話してる間に…」
美咲が言った。「健太は、まだ野球部があるだろ。将来、プロ野球選手になる夢があるだろ。もし、何かあったら…悠真も、美術部じゃないけど、自分の好きなものがこの先も見つかるはずだ。私には、お母さんしかいないんだよ」。
その言葉は、美咲が二人を、自分の未来のために「切り離した」ことを示しているようだった。
「…美咲は、俺たちに、生きてろって言ったんだよ」健太は、目を伏せて言った。「だから、俺たちは、美咲の分まで、生き残らないと…」
その夜、悠真は、一睡もできなかった。空腹と寒さ、そして、目の前に広がる暗闇の中、美咲が一人で瓦礫をさまよっているかもしれないという想像が、悠真の心を締め付けた。
健太は、美咲を「見捨てた」という負い目を「生き残る」という決意に変えようとしていた。しかし、悠真には、その決意を持つことができない。美咲を追えなかった臆病な自分を、どう正当化すればいいのか、わからなかった。




