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絶望。  作者: 水鳥川倫理


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第3話、津波と無力感。2

津波の第一波が最高到達点に達し、勢いを失い始めた。だが、その残骸は凄まじいものだった。


鳥居の立つ神社の石垣の、あと数十メートル下まで、泥水と瓦礫の山が積み上げられている。普段は森と住宅街が広がるはずの斜面は、今や、どこから流されてきたのか分からない、無数の家の破片や、ひしゃげた自動車、そして、判別不可能な漂流物で埋め尽くされていた。


誰も声を発さない。鳥居の下に集まった二十人ほどの避難者は、ただただ、この世の終わりのような光景を、息をすることさえ忘れて見つめていた。


悠真の頭の中で、美咲の「家…お母さん…」という声がこだました。


「美咲…」


悠真が彼女の顔を見ると、美咲の瞳は虚ろで、焦点が合っていなかった。美術のコンクールで入賞した時の、あの輝くような笑顔はどこにもなかった。彼女の「永遠」だった、絵を描くための場所も、暮らす場所も、そして、最も大切な存在が、今、あの泥水のどこかに消えてしまったのかもしれない。


「悠真、あれ…」


健太が、言葉を絞り出すように言った。その指差す先を見ると、校庭があったはずの場所の近くで、汐凪中学校の木造の体育館が、屋根だけを水面に浮かべ、ゆっくりと沖へ流されていくのが見えた。


健太は、その光景から目を離すことができなかった。彼にとっての「永遠」だった、部活の汗と歓声が詰まった場所。そこもまた、一瞬にして奪い去られてしまった。


やがて、美咲が、静かに、しかし決然とした声で呟いた。


「行かなきゃ…」


悠真はハッとした。「どこにだよ、美咲!」


「お母さんのところ…」美咲は立ち上がりかけた。その体は震えているが、その目には強い決意が宿っていた。


「ダメだ! 今はまだ危ない! 水が引いても、余震もあるし、二次被害があるかもしれないだろ!」健太が美咲の肩を掴んで強く引き止めた。


「でも、お母さんは家にいたんだよ! 逃げられたかどうかもわからない! お父さんは漁に出てるから家にいないけど、お母さんは…病気で…」美咲の口から、堰を切ったように嗚咽が漏れ出した。


美咲の母親は、数ヶ月前から持病が悪化し、入退院を繰り返していた。今日の朝も、安静にしていると言っていた。


「美咲、落ち着け! 今、あそこへ行っても何もできない! もう町は…」


悠真は、町の変わり果てた姿を美咲に見せつけようと、瓦礫の山を指差した。


「わかってるよ! 瓦礫の山になったことはわかってる! でも、もしかしたら、どこかの二階に逃げられたかもしれない。私、描いたんだよ、お母さんの絵! それを見せてあげたかったのに!」


美咲は泣き叫び、健太の手を振り払おうともがいた。彼女にとって、家も、町も、美術も、すべてが崩壊した今、残された希望は、ただ一つ。母親の無事を確認することだけだった。


「健太、離して…! 私は、悠真みたいに、ただ立ち尽くしてるわけにはいかないの!」


美咲のその言葉は、悠真の胸に深く突き刺さった。


――ただ立ち尽くしている。


そうだ。僕は、ただ、この光景に圧倒され、恐怖に足がすくんで、何もできないでいる。健太が美咲を止めている間、僕はただ、美咲の手を握っていただけで、有効な言葉一つかけてやれていない。


健太は美咲の体を強く抱きしめ、叫んだ。「美咲! 行かせない! お前まで失ったら、どうすんだよ!」


美咲は健太の胸を叩きながら、泣き続けた。


その時、鳥居の下から、一人の初老の男性が立ち上がった。彼は避難してきた住民の一人で、消防団のOBらしかった。


「そこなの中学生。気持ちはわかるが、今は無理だ。水が引くまで待て。それより、他の皆の安否を確認するぞ。お前たち、体力が残っているだろう。神社の上の広場へ行って、怪我人の手当てと、食料の確認をしてくれ!」


その声に、悠真はハッと我に返った。何かをしなければならない。この無力感から逃れるために。


健太は、美咲を抱きしめたまま、その男性に答えた。「わかりました! 俺がやります!」


健太は、まだ泣き続けている美咲を優しく解放し、その場にいる先生に美咲を預けた。そして、悠真の腕を掴んだ。


「悠真、行くぞ。俺たちが動かないと、何も始まらない」


悠真は、健太の強い視線に引きずられるようにして、頷いた。


「ああ…わかった」


二人は、神社の裏手に広がる広場へ向かった。しかし、悠真の視線は、美咲の背中から離れなかった。美咲は、先生に抱きかかえられながらも、まだ瓦礫の山を、そして海があった方向を、見つめていた。




広場に着くと、数百人の避難者が集まっていた。大人は呆然とし、子供は泣き、怪我人は横たわっている。


悠真と健太は、先生の指示を受け、救護活動の手伝いを始めた。健太は持ち前の行動力で、すぐに必要な物資を探し、重いものを運び始める。悠真も、瓦礫の中から使えそうな毛布や水を探し出し、配給を手伝った。体を動かすことで、一瞬でも絶望から目を背けたかったのだ。


だが、夕暮れ時。空がオレンジ色から紫へと変わる頃、美咲が悠真の前に再び現れた。


彼女は、何かを決意したような、静かで恐ろしい顔をしていた。服は泥で汚れ、顔には涙の跡が乾いている。


「悠真、健太」


美咲の声は、驚くほど冷静だった。


「私は、今から家に戻る」


悠真と健太は、同時に動きを止めた。


「何を言ってるんだ、美咲! さっき、あれほど止めたじゃないか!」健太が強い口調で言った。


「わかってる。危ないことも、町が崩壊したことも。でもね、さっき、お母さんの携帯に電話してみたの。そしたら、電源は入ってるんだけど、繋がらないの。でも、電源が入ってるってことは、もしかしたら…もしかしたら、生きてるかもしれない」


美咲は、そう言うと、悠真の目を見た。その目には、諦めではなく、狂気的なほどの希望が宿っていた。


「私の家は、海に一番近かった。もし、お母さんが二階に上がって、何か丈夫なものにしがみついていたとしたら、助かっている可能性もゼロじゃない。私は、画家になりたかったんだよ。お母さんの絵を描き続けたかった。だから、私が行かないと」


悠真は、美咲の言葉に反論できなかった。美咲の家は、この高台から見下ろす限り、跡形もない瓦礫の山になっていた。生きている可能性は、限りなくゼロに近い。しかし、それを美咲に突きつけることは、彼女の最後の希望を奪うことになる。


「俺が行く。美咲はここにいろ」健太が、そう言い放ち、美咲の前に立ちはだかった。


「健太は、まだ野球部があるだろ。将来、プロ野球選手になる夢があるだろ。もし、何かあったら…悠真も、美術部じゃないけど、自分の好きなものがこの先も見つかるはずだ。私には、お母さんしかいないんだよ」


美咲の言葉は、まるで遺言のようだった。


悠真は、美咲の手を掴んだ。震える手で、彼女の細い手首を掴む。


「美咲、待て。待ってくれ。僕も一緒に行く。三人で…」


「三人じゃダメなんだ。三人で行ったら、全員死ぬかもしれない。私一人なら、まだ引き返せる。それに、私一人なら、すぐに見つかる。もし、お母さんが助かってたら、私がいれば、きっと励ましになる」


美咲は、悠真の手を振り払った。その力は、普段の美咲からは想像もできないほど強かった。


「ごめんね、悠真。私、もう描くものがなくなっちゃったから。お母さんの顔をもう一度見ないと、筆が持てないんだ」


そう言い残すと、美咲は、瓦礫の斜面を、今来た道を逆走するように、駆け下りていった。


「美咲!戻れ!」健太が叫ぶが、美咲は振り返らない。


悠真は、その場から動けなかった。美咲の「ただ立ち尽くしてるわけにはいかない」という言葉が、呪いのように心臓に絡みついている。


僕には、美咲を追いかける勇気がない。あの崩壊した町へ、一歩踏み出すことができない。瓦礫の山に足を踏み入れれば、自分も瓦礫の一部になってしまうのではないかという、根源的な恐怖が、全身を硬直させていた。


健太は、一瞬美咲の後を追おうとしたが、すぐに立ち止まり、悠真を強くにらみつけた。


「悠真、俺たちは、ここで生き残らないといけない。美咲は、きっと助かって、また戻ってくる。俺たちは、その時、ちゃんとここにいてあげないと…」


健太の言葉は、彼の震える声とは裏腹に、強い決意に満ちていた。しかし、その決意は、美咲を見捨てたことへの、無理やりな納得だったのかもしれない。


悠真は、ただ、美咲の小さな背中が、夕闇の中に消えていくのを、見送ることしかできなかった。


その夜、汐凪町の海岸線は、月明かりの下で、まるで巨大な墓標のように黒く横たわっていた。静寂は、昼間の轟音とはまた違う、深く、重い絶望を孕んでいた。


悠真は、自分が美咲の人生における最も重要な瞬間に、彼女を助けられず、ただ立ち尽くしていたという事実を、永遠に背負っていくことになるのだった。

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