第2話、津波と無力感。1
「くそっ、足が動け!」
健太が、自分自身を鼓舞するように叫んだ。彼は野球で鍛えられた足で先頭を走り、時折、振り返って悠真と美咲を引っ張るように手を伸ばす。
坂道は長く、急だった。心臓が破裂しそうなほど脈打ち、肺は熱く焼けるようだった。町内放送は、断続的に大津波警報を繰り返すばかりで、その間に混じるノイズが、まるで何かが迫ってくる音のようだった。
「悠真、私、もう無理かも…」
美咲の声が、後ろから聞こえた。悲鳴ではなく、諦めにも似た、か細い声。彼女は、靴下の足首が崩れた土壁の破片で擦り切れ、血が滲んでいることに気づいていないようだった。
悠真は、美咲の手を引く力をさらに強くした。
「美咲、ダメだ! あと少しで神社の鳥居が見える! お前のお母さんだって、きっと神社の避難所を目指してる! だから、行くぞ!」
それは、根拠のない言葉だった。美咲の母親は、体調を崩して家で静養していると、今朝美咲から聞いていた。海に最も近いあの家から、この高台まで、あの揺れの直後、無事にたどり着けるだろうか?
そんな疑問は、喉の奥に押し込めた。今は、走ることだけが、僕たちに許された唯一の抵抗だった。
前方を走っていた健太が、突然、歓喜とも絶望ともつかない声を上げた。
「見えた! 鳥居だ! あそこまで、あと一息!」
視界が開けた。急な坂道が終わる直前、町の景色を一望できる場所に、古びた石造りの鳥居が立っていた。鳥居の向こうには、汐凪神社。この町で最も高い場所にある、命綱の場所だ。
悠真は美咲を突き飛ばすようにして、最後の数メートルを駆け抜けた。
「はぁ…はぁ…っ」
息を整える間もなく、悠真は鳥居の脇にある石垣にもたれかかった。背中に感じる石の冷たさが、五分間走り続けた体の熱をわずかに冷やしてくれた。美咲は、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らしている。
健太は、鳥居をくぐった先で、数人の生徒や近所の大人たちが茫然と立ち尽くしているのを見ていた。
「みんな、大丈夫か!?」
しかし、誰も健太の問いに答えない。ただ、誰もが同じ場所、つまり眼下の海を見つめていた。
悠真は、重い体を起こし、美咲の肩を抱きながら、その視線の先を追った。
息をのむ、という表現は、この時のためにあったのだろう。
先ほどまで、不気味に静かだった海。遠くまで潮が引き、黒い岩肌を露わにしていたあの海面が、もうそこにはなかった。
水平線のすべてが、まるで巨大な壁のように、盛り上がっていた。
それは、濃い灰色と黒が混ざり合った、泡立つ異様な塊。高さは、汐凪中学校の校舎を優に超えているように見えた。その塊は、海であるにもかかわらず、山の尾根のように、圧倒的な質量感と威圧感を伴って、こちらに向かってきている。
「う…嘘だろ…」
健太の声が、震えていた。学年一のムードメーカーの、弱々しい声だった。
津波は、もはや波ではなかった。それは、海そのものが怒り狂い、陸地に向かって滑り落ちてくる、破壊の奔流だった。家や漁船、電柱、防波堤。眼下に見える小さな町を構成するすべてのものが、その灰色の壁の前に、無意味なミニチュアにすぎないことを悟った。
悠真の心臓は、警報の電子音以上にけたたましく鳴り響きながら、急速に冷えていくのを感じた。
あれが、僕らの日常を終わらせるもの。あれが、僕たちが当たり前に生きていた町を消し去るもの。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
潮が引いた時の唸り声とは比べ物にならない、空気を引き裂く轟音が、山全体を揺らした。地鳴りでもなく、風の音でもない。それは、数百万トンもの水と瓦礫が、高速でぶつかり合う、純粋な破壊の音だった。
津波は、まず町の最前線にある砂浜を撫でた。そして、汐凪中学校の校庭を、一瞬で茶色い水に塗り替えた。校舎のコンクリート壁に水がぶつかる瞬間、窓ガラスがすべて同時に砕け散り、校舎全体が、抵抗虚しく水圧に押され、軋みを上げた。
そして、津波は町へ。
健太の家があった場所。美咲の家があった場所。いつも三人で集まっていた駄菓子屋。祭りの時に御輿を担いでいた神社の参道。
それらすべてが、泥水と化した巨大な竜の顎に、容赦なく飲み込まれていく。
家屋が、まるで積み木のように簡単に崩壊し、水流に乗って流されていく。トタン屋根、木材、家具、そして、何らかの生活の残骸。それらが猛烈なスピードで高台に向かって押し寄せる。
「あ…あああ…」
美咲が、悠真の腕の中で、声にならない悲鳴を上げた。彼女の視線は、海に最も近かった、自分の家があった場所に固定されていた。
そこには、もう、何もなかった。
わずか数秒。美咲の家も、悠真の家も、そして、町の下半分にあったすべての建物が、茶色い泡と木屑の山に変わってしまった。
それは、まるで、世界が突然、色彩を失い、グロテスクなモノクロームの悪夢に変わってしまったかのようだった。




