荒野の魔獣①
クトゥルたちが、港町ホロンジェで一泊し、出発して数時間が経過した。
潮風が遠のき、海沿いの道を離れると、周囲は鬱蒼とした森へと変わった。
巨大な木々が天を覆い隠し、昼間であるにもかかわらず薄暗い。
枝葉の間から差し込むわずかな陽光が、地面に揺らめく影を刻む。
どこからか、獣の唸り声が低く響き、不気味な気配が漂っていた。
獣の足音が微かに聞こえる。
カサリ、と枯葉を踏む音すら異様に大きく響き、静寂の中に二人の存在が浮かび上がる。
異形の邪神――とは名ばかり異形クトゥルと、その信徒たるエリザベートが森の中を進んでいく。
クトゥルは人間形態を保ったまま、隣を歩くエリザベートに目を向けた。
「我が信徒エリザベートよ。我に従うお前ならば、すでにこの世の真理を知っていよう。だが、あえて聞く……何ゆえに、我を崇める?(暇だし聞いておくか…)」
低く響く声は、あたかも神秘的な問いかけのように思わせるが、その実、ただの暇つぶしである。
エリザベートは足を止め、微かに微笑んだ。
「クトゥル様を信仰する理由、ですか?」
静かに問い返しながら、彼女の長い髪が風に揺れる。深紅の瞳が薄暗がりの中で光り、まるで深淵を映しているかのようだった。
「私、アビスローゼ家は元々、邪神様と関わりが深く、これも歴代のアビスローゼ家の当主に受け継がれる本なのです。」
そう言いながら、エリザベートは懐から自慢げに一冊の古びた本を取り出した。
革張りの表紙には、瞳の紋様が刻まれている。その背表紙を大事そうに撫でる彼女の仕草には、深い信仰の念が滲んでいた。
「この本を始めてみた幼少期から邪神様――クトゥル様に出会うことが私の夢でした。この本の通りクトゥル様が復活し、初めてお会いした時から、私は運命を感じていました。なんと神々しいお姿、そして恐るべき御力……それを目にして、信仰しないわけがありませんっ!!」
「…ふっ…素晴らしい答えだ。エリザベートよ。我を信仰しない愚者は、いずれ我の呪詛により塵と化す運命(定め)よっ!」
「はい。この本にも書いています。邪神様の非信仰者は呪いをかけられ滅びるとっ」
エリザベートは、本を大事に抱き恍惚の表情を見せる。
クトゥルは誇らしげに胸を張る。だが、内心では「そ、そうなんだぁ」と首をかしげていた。
エリザベートは、うっとりとした表情で続けた。
「…それだけではありません。私が幼い頃、世界はもっと単純なものだと思っていました。強き者がすべてを支配し、弱き者はただその影に縋るしかない――そう信じていたのです。ですが、それは誤りでした。
この世には、力を超越した『畏怖』が存在する。私は、それを知ってしまったのです。」
「ほう……?」
クトゥルは興味を引かれたように足を止める。
「そう、クトゥル様に出会ったのですっ」
彼女の瞳が、信仰に彩られた光を宿す。
「クトゥル様のお姿は、まさに概念そのもの……力では測れぬ、恐怖と畏敬の象徴。私が求めていた˝絶対˝――それこそが、貴方だったのです。」
「……ふむ。つまり、我の威厳が、お前を導いたというわけか……ククク。当然の摂理だな…」
クトゥルは大仰に笑う。その内心では戸惑っていた。
「はいっ。だから、だからこそっ。私は貴方にすべてを捧げます。私が力も、私が魂も、すべては貴方様のもの。たとえこの身がどうなろうとも、貴方のためならばっ……!!」
狂気に満ちた瞳がしっかりとクトゥルの瞳を映す。
「う、うむ……よくぞ言った!ならば、我のために忠誠を尽くせ……!」
「はいっ……クトゥル様っ……」
恍惚とした表情のエリザベートに、クトゥルは気まずそうに目を逸らした。
「(なんか……想像以上にヤバい信者を抱えちゃった気がするんだが……)」
とはいえ、今さら否定するわけにもいかない。
「(戦力としてはあり難いんだよなぁ…)」
物語の序盤に、真祖の吸血鬼が仲間になるのは奇跡に近い。それに、邪神を名乗ってしまった以上、カリスマを貫くしかないのだ。
クトゥルは咳払いし、話を切り替えた。
「エリザベート…その本を我に見せるのだ(新しいスキルのヒントがありそうだし)」
エリザベートは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうに微笑み、大切そうに抱えていた古書をゆっくりと差し出した。
クトゥルは目の前の書物をじっと見つめ、内心で溜め息をついた。
「(せめてもう少し薄かったらなぁ。本なんてライトノベルくらいしか読んだことないけど…スキルのためだ…)」
古びた表紙は黒ずみ、端はぼろぼろと崩れそうだった。ページの一枚一枚が湿気を含み、下手にめくれば破れてしまいそうなほど劣化している。
「(慎重にやらないと…ここで、破いたりしたら…色々ヤバそうだ……)」
クトゥルは細心の注意を払いながら、そっとページをめくった。
「…?(ん…?何だこの文字…日本語じゃ…お…?意味が分かる…?)」
黄ばんだ紙の上に、奇怪な文字が踊るように並んでいる。それらの言葉が、じわりと脳内に染み込むように意味を持ち始めた。
そこには、邪神の眷属についての記述があった。
『邪神に使え信仰する者は、邪神の冥加を受けることができる』
クトゥルは眉をひそめ、思わず首を傾げる。
「…冥加?(…って何だ…?)」
脳内の情報を探ると、確かに自身の存在の深層にそれらしきものがあることに気づいた。
スキル名:デスティンド・グレイス
邪神の眷属となった者に降り注ぐ、運命に刻まれた祝福。力・耐久・魔力など各種能力を底上げし、闇に相応しい進化を促す
新しい力の発見に一瞬期待したクトゥルだが、すぐに落胆する。
「(……俺の強化じゃなくて、眷属の強化か……)」
クトゥルは頭を抱え、深いため息をつく。
自分の能力は依然として『音を出せる』と『変身できる』だけで、外傷を与えることは皆無だ。
そこに加わった『眷属を強化する』またもや、本人の攻撃力は依然として変わらない。
その肩がわずかに落ちた瞬間、隣から甘美なエリザベートの声が響いた。
「はいっ。クトゥル様の加護がある限り、私は何も恐れませんっ」
彼女は膝をつき胸に手を当て、恍惚とした表情でクトゥルを見上げている。
まるで神託を受けた巫女のように、純粋な信仰心に満ち溢れた目だった。
彼女の勢いにクトゥルは一瞬たじろぐ。
「(お、おう…すごい信仰心…俺の強化を望んでたけど……まあ、エリザベートが満足してるならいいか…)」
そう考えを切り替え、意図的に邪神らしく振る舞うことにした。
「ククク……当然だ。お前は我の眷属なのだからな…!」
クトゥルは大仰に腕を広げ、威厳を込める。
エリザベートは瞬時に膝をつき、うっとりとした眼差しで彼を見上げた。
彼女にとって、その存在こそが絶対だった。
クトゥルは得も言われぬ気恥ずかしさを覚えながら、
「(……まあ、結果オーライってことでいいかっ!)」
と心の中で呟くのだった。
―――
太陽が山の端に沈みかけ、茜と群青が混ざり合う空が、西の地平を染めていた。
その下にぽつねんと佇む、木造の古びた宿屋。
年季の入った看板が、乾いた風に吹かれ、軋むような音を立てながら揺れている。
扉が、ギィ……と重たげな音を立てて開かれた。
その瞬間、店内にいた数名の客たちが、揃って顔を上げた。
酒の酔いも冷めるほどの、張り詰めた何かが空気を支配する。
現れたのは、黒衣の青年と、血のように紅い瞳をした少女――クトゥルとエリザベート。
二人が放つただならぬ気配に、場の空気がぴたりと静まり返った。
沈黙の中、エリザベートが店内を一瞥し、すっと目を細める。
「…及第点ね…クトゥル様が泊まるには古めかしいけど……」
柔らかくも威圧感を孕んだ声でそう言うと、彼女はまっすぐに木製のカウンターへと向かった。
その後ろから、クトゥルが威風堂々と歩みを進める。彼の足音は、まるで音を吸い込むかのように静かだった。
「部屋は空いているか…?」
低く、響くような声が店内に落ちる。
カウンターの奥にいた宿の主――小柄な中年の男が、びくりと肩を震わせ、慌てて姿勢を正した。
「へ、へい、お客さん。……ちょうど東の二階の部屋が空いてましてな。静かな場所で、外の音も入りません」
「そうか。…そこにしよう…」
クトゥルが短く応じて鍵を受け取ると、男はふと声を潜め、言いにくそうに口を開いた。
「お二人とも……もしかして、これから死者の荒野へ……?」
その地名が出た瞬間、近くのテーブルで飲んでいた旅人風の男が、ぐっと顔を上げた。
眉間に深く皺を寄せ、静かに言う。
「やめておいたほうがいい。今の時期、あそこは奴が出るって噂だ……」
「奴…?それは何かしら…?」
エリザベートが小首を傾げて問い返す。
その声音は澄み切っていて、まるで死の話題すら朝食の献立のように、日常の一部として受け止めているようだった。
旅人は、杯を置き、少し俯いた後、苦々しい顔で口を開く。
「……猛獣だよ。目撃した者はいない。だが、俺の仲間の一人が、あそこで姿を消した。
残されていたのは、引きずられた跡と、白骨だけだった……」
再び、静寂が宿の中にじわじわと広がった。
誰もがその言葉の重みに沈黙し、息を呑む中――
エリザベートはまるで興味を失ったかのように、すっと目を伏せ、「そう」とだけ呟いた。
やがて彼女は何事もなかったかのように窓辺の椅子へと歩き、静かに腰を下ろす。
彼女の瞳には、まるで猛獣すら脅威として映っていない余裕が漂っていた。
あるいはすでに、その存在を知っているかのような、底知れぬ確信――。
一方、クトゥルはというと――
「(やっぱり引き返そうか…?)」
心中でそんな思いが過ぎり、うっすらと冷や汗が額を伝う。だが、クトゥルを邪神と思っているエリザベートの前で臆するわけにはいかない。
「…ふっ…くだらん…」
あくまで平静を装い、嘲るような声音でそう吐き捨てると、彼もまた無言で椅子に腰を下ろす。
エリザベートはそれに満足そうにくすりと笑い、足を組むと、窓の向こう――沈みゆく夕日に目をやった。
夜の帳が降り始め、赤く染まっていた大地が、ゆっくりとその色を失っていく。
死者の荒野は、もうすぐ先だ。
だが今宵だけは、二人に静かな安息の時が許された。
宿の一室で、小さなランプの灯火が、風に揺れるように優しくまたたいていた。
―――
クトゥルとエリザベートは、宿屋で一晩の休息を取った後、昼頃に『死者の荒野』へと足を踏み入れた。
広がる景色は荒涼としており、草はまばらに生え、乾いた砂と岩肌が露出している。
空には陰鬱な雲が垂れ込め、微風に砂が舞うたびに、不吉な気配が漂っていた。
この荒野には、迷い込んだ猛獣が蠢いていると言われ、入った人間は猛獣によって捕食され死者となる。
それが『死者の荒野』と言われる由縁だった。
実際、岩陰からは黄色と黒の斑点模様を持つチーターに似た猛獣が、静かにこちらを窺っていた。
「グルルゥ……」
エリザベートは猛獣の存在を意に介することなく、優雅な足取りで荒野を進む。
「っ…(くっ…あれ…チーター…?めっちゃ、こっち見てる…こっわ…!?)」
しかし、一方でクトゥルは内心、猛獣たちの存在に神経を尖らせていた。
「(お、襲ってこない…よなぁ~。怖い怖いっ…で、でも、俺は邪神っ。見た目だけは邪神だから…ビビるわけにはいかないっ…)」
「…ガルルゥッ!」
とはいえ、威厳を保つために決してそれを表には出さない。
クトゥルがふと背を向けた瞬間、岩陰の猛獣が地を蹴り、獲物に飛びかかろうとした。
「ガオォォッ!」
「…ふっ…我に牙を向くか…(ひ、ひぃっ!?…来るなあぁぁっ!?)」
だが次の瞬間――クトゥルはその異形の本性を解放した。
彼の肉体が蠢き、赤黒い無数の触手が波打つ。千の眼が虚空を睨みつけ、形容しがたい禍々しい存在感が荒野に満ちる。
「グッ…!?」
猛獣は瞬時に恐怖に囚われた。
突如現れた邪悪な神のような存在に、猛獣の本能は明確な答えを弾き出す――敵わない。
「ククク…子猫ごときが我に歯向かうな…」
猛獣は急ブレーキをかけ、恐怖に震えた鳴き声を上げると、一目散に荒野の奥へと逃げ去った。
エリザベートは邪神の姿を見つめ、恍惚とした表情でうっとりと呟いた。
「さすがは邪神クトゥル様っ……その御威光だけで愚かな獣を退けるとは。…素晴らしいっ」
クトゥルは唖然とし、ぽかんと口を開けた。
「(マジでビビって逃げた……?)…ふっ」
彼は威厳を保つため、ゆっくりと触手を揺らしながら頷く。
「……我の禍々しき威光の前に、膝を折るのは必然っ……!」
心の中で冷や汗が伝う。
実際のところ、彼には猛獣と戦う手段など殆どない――否、全くない。だが――。
「(……これは……俺の圧倒的˝邪神˝オーラってやつだなっ!)」
自分の強さに怯え、敵が勝手に去っていく。
そう考えれば、これはもう圧倒的威厳によるものとしか言いようがない。
クトゥルは胸を張り、いかにも当然といった風を装った。
しかし、荒野はそんなに甘くなかった。
次第に、クトゥルの異形の姿にも動じない猛獣たちが現れ始めた。
彼らは本能的に「これは戦える」と感じているのか、じりじりと距離を詰めてくる。
「(ヤバい、さすがにコイツらはビビらないかっ…!?…)」
クトゥルは喉を鳴らし、焦りを感じながらも、やるべきことはただ一つ。
グォォォォォ……!
オール・オブ・ラグナロク――彼の唯一のスキルが、空気を震わせた(実際は震えていない)。
重低音が荒野全体に響き渡り、大地が揺れる錯覚を引き起こす。
圧迫感を伴う音の波が猛獣たちを襲った。
彼らは一瞬警戒し、鼻を鳴らしたかと思うと、慎重に距離を取っていく。
やがて、敵意を剥き出しにしていた猛獣たちも、静かに背を向け、その場から立ち去った。
クトゥルは異形の顔から、見えない汗を拭うような気分になった。
「(……ふぅ、助かった……)」
だが、安心する暇もなく、荒野を進むごとにクトゥルの精神はじわじわと削られていった。
スキルを繰り返し使うことで、精神的な負担が蓄積していたのだ。
熱と疲労が体を重くする。
「(はぁ…はぁ…やべぇ……もう限界……)」
クトゥルは足を引きずるように進みながら、とうとう立ち止まった。
そして、ふと隣のエリザベートを見やる。
彼女は相変わらず、主人であるクトゥルを崇めるように見つめていた。
クトゥルは小さく咳払いし、威厳を持たせるように言葉を紡いだ。
「……ククク、我と相まみえる資格すら持たぬ愚かな獣どもよ。もはや我が手を汚す価値すらない……後はエリザベート…お前に任せよう。」
彼は堂々とした口調で言ったが、内心では(エリザベートいて、助かった……!)と心底安堵していた。
エリザベートはその言葉に恍惚の笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。
「承知しました、クトゥル様っ。」
その表情には、完全なる信仰が宿っていた。
クトゥルの命令を受けたことに、彼女は心からの喜びを感じているのだ。
彼は心の中で(これで少しは楽ができる……)と胸をなでおろした。