轟く混沌
シセエカーポの町が消滅してから、一週間が経過した。
かつての街並みは、もはや瓦礫すら残らず、ただ静寂と冷たい風だけが吹き荒れる。
だが、そこから最南へ向かえば、ウロボロスの世界でも最大の地とされる大都市――ティルナモがそびえ立っていた。
ティルナモは広大な土地を誇り、文化、経済、そして軍事の中心地として君臨する大国である。
街は堅牢な城壁に囲まれ、内部には壮麗な建築物が立ち並ぶ。
石畳の通りを行き交う人々は皆、洗練された衣服を纏い、その表情には誇りと繁栄の自負が浮かんでいた。
その中心、王都の奥深くに位置する荘厳な宮殿。その内部、大理石で造られた厳かな広間で、一つの会議が開かれていた。
天井には良質な装飾が施され、黄金のシャンデリアが輝きを放つ。
壁には歴代の英雄たちの肖像画が並び、その眼差しが今この場に集う者たちを見下ろしているかのようだった。
広間の中央には、円卓が据えられ、その周囲には国の有力者たちが着席していた。
彼らの衣服は華美であり、身につけた宝飾品は地位の高さを示している。
彼らは談笑しながら杯を傾け、時折、豪奢な料理に手を伸ばす。
上質なワインの香りが広間に満ち、穏やかな空気が漂っていた。
その場にいる者たちの中には、明らかに他とは異なる雰囲気を纏う者たちがいた。
彼らの装いは洗練されていながらも実用性を重視したものであり、その目つきには鋭い光が宿っている。
最も特徴的なのは、彼らの手首に巻かれた黒鉄のタグ。――そこには、ダイヤモンドがはめ込まれていた。
彼らはただの貴族や政治家ではない。
――˝ダイヤモンドランク˝の冒険者
ゴールドランクの上位。一握りの伝説的な冒険者のみが到達する、最高の栄誉と実力を持つ者たちの最高ランク。
強大な魔物・魔族討伐を引き受けられる。
ギルドはもちろん、依頼者からも信頼され、国や貴族から直接依頼を受けることも珍しくない。多くの冒険者の憧れの的である。
「皆を呼んだのは他でもない…1週間ほど前にシセエカーポが一夜で滅んだ話だ」
若々しい中年の男性が口を開く、半数の人間が酒を手に男性に視線を向ける中、会議の内容には関心を示さない者も多かった。
豪華なシャンデリアが鈍く光を放つ広間。
重厚な大理石の円卓の上には、高級な食事が並び、赤いワインが煌めいていた。
絹織のカーテンが優雅に揺れる室内には、香ばしい肉の焼ける匂いと、甘やかな香辛料の香りが漂う。
その席に座るのは、ティルナモの有力者たち。
金や宝石をふんだんにあしらった装飾を身にまとい、彼らはまるでこの世の支配者であるかのように優雅に振る舞っている。
しかし、その中で異質な存在が一つあった。
小太りの女がいた。
ドレスの布地は高級品だが、その姿勢や所作には上品さが欠けている。
脂ぎった指でナイフとフォークを握り、目の前のステーキを切り分けては、口いっぱいに頬張ると、バラの香りの紅茶で喉を潤すと再び、肉を頬張る。
肉汁が唇の端から滴るが、彼女は気にする様子もない。
「シセエカーポ…くちゃ…くちゃ…それは、どこの田舎かしら…?」
咀嚼音混じりの言葉が、広間の静寂をわずかに乱す。
他の貴族たちは、その無作法な態度にわずかに眉をひそめたが、誰も咎めることはしなかった。
なぜなら、彼女もまた、この国の有力な貴族の一人だからだ。
その隣で、痩せぎすの男がワイングラスを手に取り、ワインをゆっくりと回す。
その指先は洗練され、仕草には貴族特有の優雅さがあった。
だが、目は退屈そうに細められ、彼の口から吐き出された言葉もまた、興味を欠いたものだった。
「…ふん…くだらん……」
グラスを揺らしながら、彼は静かに呟いた。
「たかが小さな町が滅んだくらいで、何を騒ぐ?我々にとっては痛くも痒くもないことだ。」
「公爵の言う通りですな…」
「うむ」
彼の言葉に、周囲の者たちもゆっくりと頷く。
確かに、シセエカーポは畜産業の町だった。
しかし、それがどうしたというのか。ティルナモの畜産業はそれを遥かに凌ぐ規模を誇る。
シセエカーポが滅んだところで、経済的な損失など微々たるもの。影響は限りなく小さい。
ならば、なぜわざわざこの会議が開かれたのか。
「問題は、町の消滅などではない…消滅の原因が黒き雷という点だ…」
低く響いた声に、場が静まり返る。
シャンデリアの光がゆらめく中、会議の中心に座る壮年の男がゆっくりと立ち上がる。
重厚な紫のローブを纏い、鋭い眼光を持つその男は、ティルナモの枢密院議長である。
「黒の雷…?」
「それは、どんな魔法なのでしょうか…?」
「聞いたことがありませんわ…」
貴族たちは一斉に顔を見合わせる。
それは、ただの雷ではなかった。
それこそが由由しき事態の原因だった。
「黒き雷……昔話で聞いた覚えがあるのぉ…」
静寂を切り裂くように、白銀の髪と白髭を蓄えた老人が低く呟いた。
「…邪神がする時、空が曇天に覆われ、黒き雷が降り注ぎ、町を消滅させる……と」
彼の発した言葉により、食事の場は一瞬にして冷え込んだ。
老人の衣服は純白で、装飾の一つ一つが緻密に彫り込まれ、ただの布ではなく権威を象徴するものだと一目でわかる。
貴族や高位の者しか着ることを許されない衣装であった。
彼の言葉が響いた瞬間、それまで談笑していた者たちの表情が一変する。
しばしの沈黙の後、怒気を帯びた声が響いた。
「…邪神…だと…? 何て、馬鹿馬鹿しいことだっ!」
声を上げたのは、神への信仰を掲げる聖職者の一人だった。彼は金糸で刺繍された紫の法衣を翻しながら立ち上がる。
「ウロボロスに神はただ一柱のみ! 邪神などという妄言を信じる必要はない!」
彼の声が響き渡ると、同調する者たちが次々に頷く。
「神…?そもそも、神などいない。魔族の仕業だろうっ!」
「神を愚弄するなっ!神こそ、このウロボロスを生み出し――」
「いいや、そんなもの存在しない。そもそも黒き雷が本当にあったのかさえ怪しいだろう」
反論の声が相次ぎ、場は一気にざわつき始めた。
「いや、町の外にいた人間がそれを目撃したと……」
「ふん。所詮は、田舎のサルの妄言よ……」
「確かに……田舎は何もないですからねぇ……ふふ。ティルナモと比べたら天と地よ」
「比べることすら憚られるわ……数百年の歴史を持つティルナモと、たかが数十年のシセエカーポじゃぁね。」
次々と意見が飛び交い、議論は混迷を極める。
話題は本題から外れ、宗教論争や歴史の真偽にまで及んでいった。
だが、その混迷の中でただ一つ、確かなことがあった。
──黒き雷が降った。
―――その時、一人の男が静かに口を開いた。
「……話を戻せ……」
低く響く声が、騒然とした会議の場を切り裂いた。
発言したのは、円卓の端に座る一人の冒険者だった。
貴族たちの絢爛な衣装とは対照的に、彼は実用性を重視した鎧と銀の衣装を身にまとっていた。
その装備は華美さこそないが、無駄のない装束が、実戦経験の豊富さを物語っている。
彼の手首には、黒鉄のプレートにダイヤモンドが埋め込まれたタグ――冒険者の証が巻かれていた。
ティルナモの貴族たちでも、軽視できるような者ではないことは明白だった。
年の頃は二十代前半。若いながらも鋭い瞳には冷静な光が宿っている。
貴族たちが言葉を失い、静寂が場を支配する中、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「…邪神が存在すると仮定しよう。」
その一言が、再び議論の方向を変えた。
「邪神は天候を意のままに操り、天変地異を引き起こす。その眼を見た者は呪われるとも言われている。これは信じにくいが…一切の攻撃が通じない。」
冒険者の言葉が会議室に響くたび、貴族たちの表情が険しくなっていく。
先ほどまで戯言のように語られていた邪神という存在が、ダイヤモンドランクの冒険者の口から語られることで、徐々に現実味を帯び始めていた。
白銀の髪を持つ老人が、冒険者の手首に巻かれた黒鉄のタグをじっと見つめ、静かに問いかける。
「お前なら、勝てるか?」
部屋の空気が一層張り詰める。
冒険者は、一瞬だけ目を閉じ、静かに息を吐いた。そして、確信に満ちた声で答える。
「……それは、会ってみないと分からないですね……。ですが……」
彼はゆっくりと視線を上げ、貴族たちを見渡しながら続けた。
「もし出会ったのなら……勝たねばなりません。そうしなければ……ウロボロスは――世界は終わります。」
その言葉が落ちた瞬間、静寂が場を包んだ。
先ほどまで邪神の存在を軽んじていた者たちの表情が、一変する。
――邪神の脅威が、ただの妄想ではないかもしれない。
その可能性が、会議の場を支配し始めていた。
―――
ティルナモの重鎮たちが密やかに会議を開いている頃、クトゥルとエリザベートは港町ボロンジェへと足を踏み入れていた。
海風が心地よく吹き抜ける港町、ボロンジェ。
青く輝く海を抱くこの町は、遥か水平線の向こうから帰ってくる漁船と、それを迎える活気あふれる市場で賑わっている。
ボロンジェの町並みは、海の恵みと共に生きる人々の営みを映し出していた。
波の音と共に響くのは、漁師たちの威勢のいい掛け声。
木造の家々が立ち並ぶ街路には、獲れたての魚介を売る店が軒を連ね、潮の香りが町全体に漂っている。
新鮮な海の幸を求めて、遠方からも行商人が足を運ぶほど、ボロンジェの漁業は盛んだった。
「クトゥル様。ここが、港町ボロンジェです」
エリザベートが恭しく告げる。
彼女の混沌のローブが潮風に揺れ、血管のような模様が仄かに光を帯びる。
クトゥルが目を向けると、眼前に広がるのは活気あふれる港の光景だった。
「ふぅ…(この匂い)…懐かしいな(いやぁ…海の匂いってなんか安心するな。元々、海の近くに住んでたし…)」
クトゥルは懐かしげに鼻を鳴らし、海の潮の香りを味わうように目を閉じた。しかし、その独り言のような言葉にエリザベートが小首をかしげる。
「懐かしい…?」
「っ!(やっべ、ロールプレイしないと…)」
一瞬、素の思考が漏れたことに気づき、クトゥルは内心冷や汗をかいた。しかし、すぐに顔を上げ、荘厳な態度で腕を組む。
「ふっ…我は長き眠りにつく前、この世界を支配していた。その記憶が蘇っただけだ…」
――あの時の魂の悲鳴は今でも懐かしいと付け加える。
「なるほどっ…流石、クトゥル様ですっ!」
エリザベートは瞳を輝かせ、尊敬の眼差しでクトゥルを見つめた。
彼女の表情には、以前よりも確かな生気が宿っている。
クトゥルと旅を共にするようになり、エリザベートにはある変化が起こっていた。
それは、目の下のうっすらと浮かんでいたクマの消失だった。
邪神に魅入られてから彼女は、何故か不眠症になった。
だが、エリザベートは、邪神と出会った安心からか眠るようになっただ。
そのおかげで、以前よりもさらに妖艶な美貌が際立っている。
港にいる男たちの視線が、彼女へと集中する。
赤黒いローブの奥に覗く白い肌、深紅の唇、そして神秘的な微笑み。
そして、豊満なスタイル。
それらすべてが、男女問わず惹きつける魅惑を放っていた。
しかし、彼女に近づこうとする者はいない。
彼女の隣に佇むクトゥルの異質な存在感が、それを阻んでいた。
160cm台と小柄ながら、この世界にはいない顔立ち、さらに浅黒い肌が恐怖と畏怖を同時に抱かせる。
その得体の知れない雰囲気に圧倒され、誰もが遠巻きに眺めるしかできなかった。
クトゥルはそんな人々の視線を意に介することなく、悠然と港の光景を眺めていた。
実際は、ただボォ~っと海を眺めていただけだが――。
潮風が吹き抜け、これからの旅路を示唆するかのように、波が静かに打ち寄せていた。
「クトゥル様。…ユ=ツ・スエ・ビルは、この海の向こうです。」
エリザベートが指さす先、黒い点のように見える場所がクトゥルたちの目的地ユ=ツ・スエ・ビルだ。
「ここから、船を使いましょう」
「…うむ(おぉ、船旅…?いいじゃんっ)」
ユ=ツ・スエ・ビルへ向かうには、2通りの方法がある1つは、陸路。あと1つは船だ。
ここボロンジェは漁業以外にもう一つの誇りがある。
それは、船の運航。
ボロンジェの港には大小さまざまな船が停泊し、交易や旅の要所として機能している。
熟練の船乗りたちは、海路を熟知し、隣国へ向かう旅人や商人を安全に送り届けるのだ。
―――
「陸路からでも、行けることは行けますが時間が――あら…?」
エリザベートの後をついて歩いていたクトゥルは、彼女の言葉が途中で途切れたことに気づいた。
「ん…どうし――」
言葉をかけようとした瞬間、彼女の足がピタリと止まる。
流れるような黒髪を揺らしながら、掲示板をじっと見つめる彼女の表情には、僅かな戸惑いが滲んでいた。
クトゥルの視線も自然と掲示板へと移る。
そこに並ぶ無情な文字──『当面の間、全便欠航』。
理由は、突如として海域に現れた怪物の存在だった。
噂では、その怪物は船を難破させ、海へと沈めているらしい。
船乗りたちは皆、恐れを抱き、運航を放棄してしまった。
「いったい…どういうこと…?」
エリザベートの声が静かに響く。しかし、その声には冷たい怒りが滲んでいた。彼女の美しい顔が、氷のような鋭い表情へと変わる。
彼女はゆっくりと歩みを進め、受付のカウンターに立つ男を見下ろした。
その美しき容姿とは裏腹に、鋭い視線が相手を貫くように睨みつける。
「欠航…?バカにしているの…?」
「え…?」
受付の男は驚きに目を見開いた。
「私とクトゥル様の旅路を邪魔するつもり…?」
冷ややかな声と共に、空気が凍りついた。
受付の男の顔が一瞬にして蒼白になる。
首元には汗が滲み、肩が小刻みに震えていた。それでも必死に唇を開き、言葉を紡ぐ。
「と…とても危険です。船を出せば、全滅は免れません…」
精一杯の説明。しかし、エリザベートの瞳はその言葉を一蹴するかのように冷たく光る。
彼女の細い指が、宙をなぞるように動く。その周囲の空間が僅かに揺らぎ、まるで見えない力が渦を巻くように歪んだ。
──魔力の波動。
空気が軋むような錯覚に陥る。
受付の男は完全に硬直し、目を泳がせながら後ずさりしかけた。その瞬間。
「まあ待て、エリザベート」
クトゥルはふっと軽く笑みを浮かべながら、彼女の腕を掴んだ。
「我が直々に支配する価値もない者を痛めつけることもあるまい…」
彼の声は落ち着いていたが、その裏には別の思惑が隠れていた。
「(下手したら俺がその怪物を倒す流れになりかねないし…)」
悠然とした態度を崩さず、全てを見通しているかのように振る舞うクトゥル。その言葉に、エリザベートは僅かに表情を緩ませた。
「確かに…クトゥル様の仰る通りですねっ」
静かに、しかし確実に彼女の魔力が消えていく。
受付の男は、まるで死刑執行を免れた囚人のように安堵の息を漏らした。
エリザベートは一度息を整え、顎に指を当てながら思案する。
端整な顔立ちは思考に沈み、その赤いの瞳が静かに光を宿した。
そして、ふと閃いたように口を開く。
「では、テレポートで向かいましょうか…?」
「……え(ちょっと…それは、難しい…)」
その一言に、クトゥルの内心は一気に焦りの色を帯びた。
彼の能力には瞬間移動などという高度な魔法は含まれていない。そもそも、魔法すら使えないのだから…
しかし、今更「できません」とは言えない。
自らを邪神と称する以上、そんなことを口にすれば信頼が揺らぎかねない。
そこで彼は、深く低い笑い声を響かせた。
「…ク、ククク……その必要はない。我が望めば、地すら歪めることが可能……」
誤魔化しながらも堂々とした態度を取る。だが、その刹那――
エリザベートが静かに呪文を紡ぎ、空間が歪み始めた。
淡い赤の光が宙に揺らめき、次第に形成されていく魔法陣。
魔力の奔流が辺りに広がり、空間そのものが揺らぐかのように見えた。クトゥルは無意識のうちに息をのむ。
だが――
次の瞬間、その歪みがまるで何かに弾かれるように消え去った。
「……!?」
エリザベートは驚きに瞳を見開く。
彼女ほどの実力者が紡いだ転移魔法が、まるで拒絶されたかのようにかき消されたのだ。
事態の異常さに、彼女は眉をひそめる。
「何かに阻まれています…一体、ユ=ツ・スエ・ビルで何が…」
焦るエリザベートを横目に、クトゥルは内心ほっと胸を撫で下ろした。
「(よかった…バレずに済んだ……!)」
とはいえ、ここで安堵の表情を見せるわけにはいかない。
彼はあたかも全てを予測していたかのように腕を組み、余裕のある仕草を見せる。
「…ふむ、我の力を阻むとは……なかなか面白い。だが、焦ることはない。別の手段を取るまでよ」
威厳を崩さずにそう言い放つクトゥル。
その堂々たる態度に、エリザベートは改めて彼の偉大さを実感するかのように頷いた。
彼女は尊敬の眼差しを向けるが、当の本人は心の中で冷や汗をかいていた。
「(いや、本当は何が起こってるのかさっぱり分からないんだけどな……)
ともあれ、テレポートは使えない。となれば、別の手段を探るしかない。
「海、転移ができない以上、陸路で行くしかなさそうですね」
エリザベートが結論を口にする。
クトゥルは深く頷き、いかにも高貴な存在のように振る舞った。
「うむ、良い判断だ。……その前に、今後の計画を整理する必要があるな」
「ええ、では場所を移しましょう。ここ、ホロンジェの町には高級レストランがあるはずです」
エリザベートの提案により、二人は町へと足を向けた。
彼らは長き旅路を進むための策を練る必要があった。
―――
港町ホロンジェの夜は、海風が心地よく肌を撫で、どこか異国情緒を漂わせていた。
街灯の淡い光が石畳を照らし、波の音が静かに響く中、町の一角に佇む高級レストランからは、香ばしい料理の匂いが漂っていた。
店内に足を踏み入れると、豪奢なシャンデリアが暖かな光を落とし、煌びやかな装飾が目を引いた。
海の幸をふんだんに使った料理が並ぶテーブルの間を、身なりの整ったウェイターたちが静かに行き交っている。
クトゥルとエリザベートは、店の奥まった場所に設けられた特等席へと案内された。
テーブルには、牡蠣やロブスター、様々な魚介を贅沢に使った料理が美しく盛られている。
エリザベートは優雅にワイングラスを持ち上げ、貴族のような仕草で香りを楽しんだ後、静かに口へと運んだ。
その横で、クトゥルは料理には一切手をつけず、ワインのグラスを指先で転がしていた。
「…ふむ…やはり、一流の食事は違いますね。こんな時こそ、美食を楽しむべきです。」
エリザベートは満足そうに微笑みながら、牡蠣を口に運ぶ。
その仕草には一切の迷いがなく、食事の時間すらも優雅に過ごすことへのこだわりを感じさせた。
一方で、クトゥルはただワインのグラスを傾けるだけだった。
その様子を見たエリザベートが、小首を傾げる。
「クトゥル様、食べないのですか?」
彼女の問いに、クトゥルは堂々と胸を張り、冷ややかな声で言い放った。
「フッ、我は邪神――俗世の料理など口に合わぬ。禁断の血は…まぁまぁだな…(ワイン初めて飲んだけど…味しないし…これは水だな…。)」
彼の威厳ある態度に、エリザベートの瞳が一層輝いた。
「さすがクトゥル様……!やはり、次元の違う存在……!」
彼女の称賛に、クトゥルは内心「ただ味を感じないだけなのだが……」と思いながらも、表情を崩さず微笑を浮かべた。
エリザベートにとって、彼の言葉は何よりも信じるに値するものだった。
「それにしても前々から気になっていたが、エリザベートよ。お前は吸血鬼だったな。食事は血液ではないのか…?」
問いかけは何気ないものだったが、彼の声には独特の響きがあった。
低く、深く、どこかこの世のものとは思えぬ響きが夜気を震わせる。
対するエリザベートは、少しだけ口元に指を添え、優雅な所作で拭いながら静かに応じた。
「確かに吸血鬼ですが、アビスローゼ家は血を飲みません。」
その言葉に、クトゥルの片眉がかすかに動いた。
「ふむ…(それ吸血鬼って言うか…?)」
呟くような独白に、エリザベートはわずかに口元を綻ばせ、しっとりとした笑みを浮かべた。
彼女の微笑みは、静謐でありながらもどこか妖しく、そして不可思議な気品を漂わせている。
「不思議ですよね。初代、前代も前前代も血は好まず、このような食事をしていたとされています。」
そう語る彼女の視線は、並べられた豪華な食事。温かい湯気が立ち上り、静かにその場の空気を和ませている。
「なるほどな。(吸血鬼は血を吸うって固定概念があったし、本来は違うのかもしれないな)」
クトゥルは、心の中で納得すると本題に入る。
「船が使えないとなると、陸路か」
クトゥルはグラスを静かにテーブルに置き、現状を整理するように低く呟いた。
「はい。ボロンジェから東に道なりに進めば、時間はかかりますが、ユ=ツ・スエ・ビルに着きます。」
「東には何がある…?(まるで旅行みたいで楽しみだな)」
「しばらく東に進むと死者の荒野と呼ばれる地があります。獰猛な猛獣が徘徊していますが、クトゥル様なら小動物程度なので問題ないですねっ。」
目を輝かせ、嬉々として手を組むエリザベート。
その期待に満ちた視線を受けながら、クトゥルはワインを片手に目を瞑る。
「ふん。当然であろう……ゴク(訂正、全然楽しみじゃない…!?)」
見掛け倒しの存在であるクトゥルは、内心震えながらも邪神を演じる。
こうして、彼らはかなりの遠回りにはなるが、陸路を使ってユ=ツ・スエ・ビルへ向かうことを決めた。