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廃都と竜人の姫⑧

エリザベートたちが、苦戦せず敵を倒している一方――


そこに、ただ一人取り残されていたのは――混沌の邪神、クトゥルだった。


「…(いでで……良かった…生きてたっ!?…)」


鈍く痛む全身を引きずりながら、彼は半ば呆然とした表情で起き上がる。

神々しい存在のはずの彼が、今は石屑まみれで地べたに這いつくばる姿だった。


数十メートルもの高さから落下したにもかかわらず、奇跡的に五体満足だったのは――まさしく、邪神のなせる業か、あるいは単なる運か。


「とりあえず、人間形態に変わっておくか…」


ひとまずの安全を確認し、クトゥルは低く息を吐く。

体中に残る違和感を振り払いながら、トリックスターを発動する。


禍々しく蠢いていた触手が、音もなく崩れ落ちるように消え、無数の眼と殻に覆われた異形のシルエットが溶けるように溶解し、代わりに浮かび上がったのは、一人の人間の姿だった。


その姿は、どこか異質。

この世界の住人とは少し違う輪郭、そして内に秘めた魔的な気配を完全には隠しきれぬ、不可解な青年の姿。


石の破片が転がる回廊跡を、ぎこちない足取りで歩き出す。

足裏に伝わる石床の冷たさが、ようやく現実の感覚を呼び戻していく。


「(……いや、いやいや!なんでこんなことに……!)」


思考は混乱し、現実を否定するかのように頭の中でこだまする。

冷静さを装ってはいるが、内心は嵐のように荒れていた。


「(エリザベートっ!ルドラヴェールっ!ティファーは居ないのかっ!?)」


声に出すわけにはいかず、ただ心の中で叫ぶ。


彼らの姿はどこにも見えない――あの喧騒の中で置いてけぼりを食らったことに、今さらながら気づいたのだ。


だが、それでもクトゥルはゆっくりと顔を上げ無言で前を見据える。

彼は邪神なのだ。


エリザベートたちが居る限り、邪神であることをやめるわけにはいかない。

だからこそ――外面だけでも、威厳を保たねばならない。


「フ、これもまた運命の導き……我を試すつもりか…(あ、新しいスキルないかっ!?…それか強化されたスキルっ…スキルがないと不安だっ…!)」


誰にも見せることのない邪神の仮面――その顔は涼しげで威厳に満ちていた。

しかしその内側では、悲鳴のような声がこだましていた。

あまりに人間臭い願望と焦燥が、心の中で暴れまわっている。


「(頼む頼むっ…)」


心の中で念じるように呟く。


すると、まるでその祈りに呼応するかのように、彼の視界の片隅に――

淡く青白い光が灯り、空中に半透明のスキル画面がゆっくりと浮かび上がった。


仮想のスクロールを指先でなぞる。

ページが滑るように動き、新たに表示された項目が――一つ。


『エイドロン・シフト』


名の下に、小さく輝く説明文が現れる。


――自身が想像した幻を相手に見せることができる。


攻撃でも、回復でもない。

敵を焼き尽くす雷でもなければ、空を裂く咆哮でもない。

けれど――


「(幻…これって……トリックスターと合わせればハッタリかませるやつじゃん!?……使える!)」


邪神クトゥルの本質、それは破壊者ではなく、欺瞞と幻想の支配者。

彼にとってこのスキルこそが、最も理に適った力だった。


胸の奥に、ようやく一筋の光が差す。

それは勝利への確信ではない。だが、道を得たという実感だった。


瓦礫にまみれた廊下を、先ほどよりもわずかにしっかりとした足取りで進む。

砕けた石片を踏みしめるたびに、歩みに意志が宿っていく。


カツカツ…


その時だった。


「ん…?…エリザベートか?」


廃墟に静かに響いたのは、乾いた足音。


それは、確かに誰かが――彼のいる場所へ向かって歩いてきている音だった。


クトゥルは静かに歩みを進め、崩れかけた回廊を抜けて広間へと出た。


そこには、かつて荘厳であったろう構造が、今や時に見捨てられた廃墟と化していた。


天井は高く暗く、空気は重たく沈んでいる。

無数の朽ちた石柱が林立し、その陰が光の届かぬ広間を蜘蛛の巣のように覆っていた。


足元の瓦礫を踏みしめるたび、小さな音が周囲に反響する。

だがその中に――確かに混じっていた。

別の、己ではない足音。


希望に身を任せ、視線を向ける。


だが、現れたのは――信頼する吸血鬼の姿ではなかった。


音の主は、石柱の奥からその巨体を現した。


その男は、全身を漆黒の甲冑に包み、まるで古の戦場から抜け出したかのような風貌をしていた。

鉄のように冷たい輝きを放つその鎧は、ただの武具ではない。

魔を宿したかのような黒い瘴気が、表面にまとわりついている。


顔を覆う仮面のような兜。

その奥で虚ろに光る双眸は、感情を欠いた無機質な闇――まるで魂の欠けた存在。


背に担いだ黒剣は、人間の身の丈をゆうに超えていた。

刃には禍々しい刻印が刻まれており、見る者に直感的な死の気配を与える。


その異形の騎士が、低く響くような声を発した。


「私はアーヴァ様に仕える魔族っ。誇り高き魔族のオーガ…邪神よ…アーヴァ様がお待ちだ…ついて来て貰おうか…?」


名乗りと同時に、その名――アーヴァ――が耳に届き、クトゥルの表情がわずかに動いた。


「…ふっ…断ると言ったら…どうするのだ…?」


彼は内心の動揺を悟らせまいと、わざとらしく余裕を装い、言葉を投げた。

表情は冷ややかに、背筋を伸ばして。


だがその実、心の中では叫んでいた。


「(このセリフ言ってみたかったんだ…)」


どこかで一度は口にしてみたかった強者の常套句。


しかし――次の瞬間。オーガの背にあった黒剣が、重々しく抜き放たれる音が広間に響いた。

鈍く、地を割るような音とともに、その剣が構えられる。


それは、殺意を帯びた一閃だった。

黒剣が空を切る音は、まるで死神の鎌が風を裂くような鋭さで広間に響き渡る。


その一撃に迷いはなかった。

警告などではない――本気だ。完全なる敵意。完全なる排除の意思。


「仕方あるまい…力づくで連れて行くのみだ…」


オーガの声が、闇の中に重く沈む。

彼の構えに緩みは一切なく、動けば即座に命を狩り取るであろう殺気が、全身からにじみ出ていた。


「(ってぇ!?しまった…!今俺1人じゃんっ…!クソっ…も、もう、やるしか…ないっ!?)」


背筋に氷を這わせるような恐怖が走り抜ける。

だが、クトゥルは奥歯を噛みしめ、震える心を押し殺すように口元を無理やりつり上げた。


逃げるわけにはいかない。

ここで背を向ければ、邪神の名は地に堕ちる。

威厳も、信者たちの信仰も、すべてが崩れ去ってしまう。


だからこそ、叫ぶのだ。

この身が虚構であろうとも、声だけは真実を装う。


「……我が名はクトゥル。混沌の果てより来たりし、邪神なりっ!」


その瞬間――彼の身体が、異形の変容を始めた。


人間の姿が膨張し、輪郭を失いながら滑らかに球体へと変化する。

粘着質な音を立てながら、その球体は波打ち、内部で何かが蠢いている。

ボコボコと隆起し、形を変え、無数の触手がうねりながら空間へと解き放たれていく。


禍々しいオーラが広間を包み、闇の濃度が一気に跳ね上がった。


「クククっ!」


妖しく笑いながら、その球体はさらに変化を続け、やがて――

触手が絡み合い、骨格のように組み合わさり、人のような輪郭を形成していく。


だが、それはあくまで人に似た形。

異形の神性を帯びた、混沌の異形の姿だった。


闇から生まれ、理を嘲笑いながら顕現する――

それはこの世ならざる混沌の象徴。名をクトゥルという、邪神の形。


対する漆黒の騎士、オーガは、一切の躊躇なく剣を構え直す。

その重厚な一撃に備えるように、両脚を広げ、力を蓄える。


空気が揺れ、重みを帯び、時が凍ったような一瞬。


死闘の幕は、すでに上がっていた。




―――




闇に包まれた神殿の一角。

かつて荘厳さを誇っていたであろう空間は、崩れかけた柱と砕けた床石に覆われ、いまは荒廃の静けさに満ちていた。


その空気はただ重く、どこか冷たく、静寂すらも異質な気配に呑まれ、ひたひたと凶兆の足音を刻んでいた。


そして――その中心に立つのは、混沌の邪神・クトゥルと、彼の行く手を阻む黒き戦士。


暗き鎧を纏いし魔族、闇の騎士団長。その種族はオーガ。


漆黒の甲冑は闇そのものをまとっているかのように不気味な光を放ち、歩を進めるたびに金属の軋む音が、空間をきしませた。

その気配はただの戦士ではない。殺気の密度が常軌を逸している。


騎士が両手で巨大な黒剣を掲げると、次の瞬間には地を爆ぜさせる勢いで突進する。


まさに暴風のごとき速度。闇の中から奔る黒雷のごとく。


だが――クトゥルは、一歩も退かずに立ち塞がる。


「ふっ…鈍いな…黒の騎士よ…(無理無理無理、速い速い速いって!)」


その口から放たれた言葉は完璧だった。

威厳と嘲りを湛えた声色。まさに邪神の風格を感じさせる冷酷さ。


だがその仮面の裏――その内面では、すでに絶叫がこだましていた。


「(ヤバいヤバいヤバい!あれ当たったら確実に即死だぁっ!?)」


理性と恐怖がせめぎ合い、心は悲鳴を上げている。

それでも――邪神としての虚構を崩すわけにはいかない。

一歩でも後退すれば、その名は滑稽へと堕ちる。


だからこそ、クトゥルは――戦う。


巨大な黒剣が唸りを上げて振り下ろされる。

鋭利な刃が、石床をえぐり、風圧だけでも身体を押し飛ばしかねない威力。


だがクトゥルは、それを紙一重でかわしていた。

ほんの数センチ。息を飲む距離で、身体をわずかに横へ、あるいは後ろへと滑らせていく。


華麗に攻撃を避けているようで、クトゥルは敵の攻撃を豪運で避けていた。


心臓の鼓動が耳元を打ち鳴らす。足元の石が砕け、飛び散る。


「(いまだ…!)」


心の中でタイミングを見極めた邪神クトゥル――否、今の彼はただの一匹のネズミである。


その瞬間、彼は密かにスキルを連続で発動させた。


まずは――『トリックスター』。


自身の姿を、小さな黒いネズミへと変化させるスキル。

禍々しき神の貌は失せ、体長わずか十センチの黒い毛皮に覆われた生命体へと収縮していく。

瞬間的に視点が低くなり、世界が巨大に感じられる。柱一本が山、瓦礫が壁のように見えた。


次に、『エイドロン・シフト』を重ねる。

彼の本来の邪神としての姿――触手が蠢き、闇を吸い込むような禍々しき異形――それを、目の前の空間に幻として投影する。


――ドロロォッ…


続けざまに――『オール・オブ・ラグナロク』。

その能力により、幻の邪神からは常軌を逸した音が響き出す。

ぬめるようなうねり、轟く咆哮、軋むような異音。それはまさしく、混沌の神に相応しい「音」の演出だった。


ほんの数秒前までいたはずの本物の邪神クトゥルは消え、今やその場に幻のクトゥルがどっしりと鎮座していた。


触手が空間を侵食し、無数の赤い瞳が敵を睨みつける。


だが、実体はそこにはいない。

存在しているのは――瓦礫の影を這う、小さな一匹の黒いネズミだけ。


「(見えてるのは幻!あれはホログラム!リアルタイム映像!でも実体はこのネズミ『俺』だっ!)」


脳内で必死に状況を確認しながら、ネズミとなったクトゥルは震える足で瓦礫の隙間をすり抜ける。


その目の前で、闇の騎士が迷いなく剣を振り下ろした。


刃が空を裂き、地を穿つ。

だがその一撃は、幻影の邪神の姿をすり抜け、床に深く突き刺さっただけだった。


石が砕け、破片が舞い、土埃が立ち上る。

だが――手応えは、ない。


騎士の動きが、僅かに揺らぐ。

迷いなきはずのその目に、初めて微かな困惑の色が浮かぶ。


再び剣が振るわれる。

今度は斬り裂くように、横薙ぎに。

幻影の触手を断ち、赤い瞳を潰すような軌道――だが、それも空を切る。


重く鋭い刃が幾度となく振るわれても、邪神クトゥルには触れない。

いや、触れようがない。そこに実体はないのだから。


その様子を、瓦礫の陰から見守っていたネズミ――クトゥルは、細く長い尻尾を揺らしながら、必死に息を潜めて移動していた。


「(よし、効いてる効いてる…!こっち見んなよ!ばれんなよ!?)」


恐怖と緊張に満ちた心中とは裏腹に、表情は当然ない。

ただただ、石くれの隙間を縫い、こっそりと広間の端へと進んでいく。


混沌の中、小さな戦略と幻が織りなす虚構の舞台が静かに幕を上げていた。


いくら剣を振るっても――その刃は、クトゥルには届かない。


幻影の邪神は、ただそこに、静かに佇んでいた。

一切の動揺も見せず、斬撃を浴びようと表情ひとつ変えない。

むしろ、その在り方は、世界の摂理すらも鼻で笑うかのような嘲弄を感じさせた。


「…なぜ…刃が通じない…?」


闇の騎士は、重苦しい鉄仮面の奥から呟くように問いを漏らした。

その手に握られた巨大な黒剣は、今なお邪神の幻影を見据えたまま、殺気を宿して震えている。


だが、その問いに応じる声はどこにもなかった。

返るのは、不気味なまでの沈黙と、禍々しくゆらめく邪神の影だけ。


しかし──


限界は、確かに迫っていた。


幻影で欺くにも、永遠はない。

騎士の目が鋭さを増していくごとに、演技という仮面は薄皮のように剝がれかけていく。


「(あぁぁっ!?…危ないっ!?)」


緊迫の中、怒りのままに振るわれた剣が、地を抉って瓦礫を吹き飛ばした。


砕けた破片が一直線に飛び――そのうちの一つが、影の中を走っていた小さなネズミの横をかすめていく。


ほんの数センチ。

あるいは、数ミリ。

もしももう少しだけ軌道が逸れていたら――黒ネズミ、すなわちクトゥルの本体は潰れていた。


死を前にして、クトゥルの背筋が凍る。


体長わずか十センチのネズミの体に、過度な鼓動が走る。

細く脆い血管が破れそうなほど、震えが止まらない。


「ぐっ……次こそは…」


騎士が、低く喉を鳴らしながら剣を構え直す。

その声音には、確かな殺意と、先ほどの一撃の修正を誓う確信があった。


「(マズい、マズいって!!このままじゃホントに死ぬ!って、殺さずに連れていくんじゃないのかっ!)」


内心はパニック寸前だった。

死神の鎌がすぐ背後に迫るなか、クトゥル――否、ネズミとなった彼は、それでもなお表の仮面を崩さなかった。


「(ここで…決めるっ!)」


覚悟を決めたクトゥル。エイドロン・シフトの解除すると同時に、トリックスターで再び邪神形態へと変貌していく。


その禍々しき異形が広間に現れた瞬間、まるで舞台に立つ役者のように、彼は両腕を大げさに広げた。


誇張されたその所作は、芝居がかった威厳の演出である。


だが、その裏で浮かんだのは、切実な祈り。


「来い…我のしもべよっ『トリニティー・ディザスター』発動!

(頼むからっ…戦闘できるヤツ着てくれっ!!)」


威風堂々とした声の中に、切迫した心の声が混ざっていた。

クトゥルの胸元から放たれたのは、黒曜石のような光沢を放つ三つの球体。


空中に浮かぶそれらは、淡い黒光を宿しながら脈動し、まるで何かを呼び覚ますかのように微細な震えを繰り返していた。


その中の一つを掴み取り、彼はそれを宙へと放り投げる。

静寂に包まれていた神殿の空間に、音が満ちる。

――金属が石をこする音。

それは、確かに重い鎧が床を踏みしめる音だった。


球体が淡い閃光と共に弾ける。

そしてその中から、漆黒の騎士が姿を現した。


それは人の形をしていたが、決して人ではない。

兜は猛牛を思わせる獰猛な意匠。


全身を黒曜石のごとき甲冑に包まれたその体からは、血肉の気配すらない。

その顔は、兜の奥に存在しない。

代わりに、空洞の中には青白い炎が揺らめいていた。

理を捻じ曲げるかのように不規則に脈打つその炎は、ただそこにあるだけで、見る者の理性を蝕む異様を放っていた。


名を――ヴァラキリオン=コープス。


混沌の従者にして、死の騎士。


言葉を発することもなく、ただ、ゆっくりと歩を進めるその姿に、神殿の石床が悲鳴を上げるように軋む。

ひび割れた床の破片が、その足元から静かに崩れ落ちた。


その一歩一歩が、たしかに広間の空気を変えていく。

まるで死そのものが具現化したかのような存在感が、対峙するオーガをわずかに後退させる。


「(よしっ…来たっ!戦闘タイプっ)」


心の中で力強くガッツポーズを決めながらも、クトゥルの表情は冷静そのもの。


だがその内側では、安堵と歓喜がないまぜとなって渦巻いていた。

命の危機を乗り越えた解放感。味方が現れたという希望。

すべてを内に押し込み、彼は堂々とした邪神の仮面を被り続ける。


「…クトゥルサマ…メイレイ…ヲ…」


ヴァラキリオン=コープスが低く、機械的な声で命を乞うように呟いた。

その大剣は異界の鋳型から生まれたかのように、質量と常識を歪めていた。

握られたその瞬間から、空気は軋み、重力さえ不安定に揺らぎ始める。

黒き霧が刃の軌跡に沿って巻き上がり、空間の輪郭ごと塗り潰していく。


「ヴァラキリオンよ。あの騎士を…倒すのだっ…(絶対倒してくれよっ!)」


「…ショウチ…シマシタ…」


その返答が空間に放たれた刹那、ヴァラキリオンの足元が爆ぜた。

音すら追いつかぬ高速の踏み込み。広間の空気が後ろから追ってくる。


その一閃が起きた瞬間、重く凍てついた空気が裂ける音が響いた。

それは剣ではなく、空間そのものを断ち割る何か――質量のない殺意の塊。


「…………っ!」


オーガが反応し、わずかにその巨躯を引く。

鉄と闇に包まれたその身体が、自らの意志ではなく、原始の本能によって一歩後退した。


直感が告げていた。

この存在は、戦士ではない。死そのものである、と。


だが――気づくには、遅すぎた。


次の瞬間、ヴァラキリオンの剣が振るわれた。


それは剣の範疇を逸脱していた。

振るわれた一撃が、空気を引き裂き、轟音とともに霧を吹き飛ばす。

激震とともに床が亀裂を走らせ、広間全体が揺れる。


黒の騎士の剣がヴァラキリオンの大剣とぶつかり合う――

だが、まるで紙のように弾き飛ばされた。


「ぐっ…」


剣圧に押され、地を削りながら後退するオーガ。

その体を包む甲冑が、軋む。歪む。砕ける。

防御も力も技術も、すべてがヴァラキリオンには通じなかった。


そして、ついに――


「…シネ…」


その声は氷の刃のように冷たく、情感のかけらもなかった。


振り下ろされた最後の斬撃が、世界を断つ。


怒涛の剣圧と共に突き下ろされた刃が、オーガの鎧を粉々に砕き、

身体を、命を、矜持ごと、真っ二つに断ち割る。


「ぐぅっ…申し訳ございません…アーヴァさ――」


声が絶える。

巨躯は崩れ落ち、地に血が滲む。


勝敗は、決していた。


「…オワリマシタ…」


静かに、ヴァラキリオンは膝をついた。


そして、黒曜石の球体へとその身を還元させる。

何の歓喜も、誇示もない。命令を遂行する。それだけが、彼の存在理由だった。


広間に、ようやく静寂が戻る。


うねる触手が引き、漆黒の仮面が剥がれ、神のごとき禍々しさを身に纏っていた異形は、慣れ親しんだ肉体に変わっていく。


学ランをまとい、仮初の肉体を持った˝人間形態のクトゥル˝。

その顔に、傲然とした笑みを湛えたまま、彼はゆるやかに腕を組む。


「ククク…面白い余興だったぞ…(はあぁぁっ…良かった…死なずに済んだ…)」


胸の奥では冷や汗が吹き出していた。

膝は震え、心拍は速まり、足の指が地面を必死に掴んでいる。

だが――表面にそれは一切現れない。


その姿はまさしく、威厳ある神のものだった。

計算し尽くした微笑。自信に満ちた態度。


すべてが、演技でありながら真実のように見える──まさに、クトゥルという存在の本質そのものだった。




―――




クトゥルは、静寂に包まれた広間で、低く愉悦を含んだ笑いを漏らしていた。


「ククク……」


その声は、意味を持たないはずの音でありながら、どこか禍々しく、広がる闇の中に黒い霧のように滲んでいく。


目の前の光景は、変わらない。崩れた石柱、割れた床、薄暗い空気。

だがその静けさを破るように、突如として背後から声が響いた。


「っ…クトゥル様っ…こちらにいらっしゃいましたかっ。」


即座に振り返ると、そこには息を切らしながら駆けつけてきたティファーの姿があった。

その背後には、静かに佇むルドラヴェールと、気品と威厳を携えたエリザベートの姿が続く。


その光景を見た瞬間、クトゥルの胸中にわずかな温もりが差し込む。

ほんの僅かながら、心の硬さがほぐれるような感覚。


ティファーは目を輝かせ、息を整える間もなくその場に膝をつき、深々と頭を垂れる。

その態度は、忠誠と敬意に満ちていた。


ルドラヴェールは無駄な動きをせず、黙して獣の体を床に伏せる。

その瞳は確かに主を見据え、静かにその場の重圧を支えていた。


そしてエリザベートは、流れるような優雅な所作で片膝を折り、頭を垂れる。

その動きの一つ一つが、まるで古の貴族が神へ礼を捧げるようで、凛とした神聖さすら漂わせていた。


「お前たち…無事であったか…」


クトゥルの問いに、ティファーがまっすぐに顔を上げ、真摯な眼差しで応える。


「クトゥル様の加護がある限り、私たちは不滅です」


その言葉には、まるで契約の一文のような確かさが宿っていた。

単なる賛辞ではない。信仰と覚悟がそこにある。


ルドラヴェールも重々しく頷き、低く、誠実な声で追従する。


「グル…ソノ通リデス」


そしてエリザベートは一度姿勢を整え直し、再び優雅に礼を取った。

その動作には一切の揺らぎがない。

彼女自身が、まさしく忠誠という概念を体現しているかのようだった。


「えぇ。こんな所で負ける者など、クトゥル様に付き従う資格はございませんから…」


その声は冷ややかでありながら、どこか陶酔すら感じさせる。


クトゥルはしばしの沈黙を置いた後、唇の端を歪め、冷笑を浮かべる。


「…ククク…流石我の眷属たちだ(俺が、邪神じゃないとバレたら殺されるかもしれないけど…うん。頼もしい仲間だ)」


その笑みは自信に満ちていたが、心の奥ではひやりとした不安が疼いていた。

だが、彼の言葉を受けて、三人の従者の目に感動の光が宿る。


見上げるティファーの瞳には、涙がわずかに滲んでいた。

ルドラヴェールの姿勢には揺るぎない決意が宿り、

エリザベートの背筋には、絶対の信頼が刻まれている。


それらすべてが、クトゥルの胸に僅かな安心と誇りを与えていた。


「…さて、進むとするか…」


低く発せられたその言葉とともに、クトゥルはゆっくりと天井を仰ぐ。

視線の先には何もない。だが、その無を見つめるその目は、まるで運命の先を見据えていた。


周囲の空気が、一瞬、沈黙に凍る。

まるで次へと進むことすら試されているかのような緊張。


「はい。」


「グル…」


「はっ」


三者三様の返答が、その場の空気を解き放つ。

クトゥルは静かに踵を返し、広間の出口へと歩み始めた。


石畳を踏みしめるその足音が、規則正しく空間に響く。

その一歩一歩に、確かな意志があった。


ティファー、ルドラヴェール、エリザベートもまた、それに続く。

まるで一糸乱れぬ行進のように、彼らの足音が重なり合う。


出口の向こうには、まだ見ぬ闇が待っている。

だが、それを恐れる者はもういなかった。


クトゥルの心の中に浮かぶのは――戦いの行方でも、運命の選択でもない。

背後から確かに聞こえる、仲間たちの足音。


その響きだけが、彼の不安を鎮め、ほんのひとときの安らぎを与えていた。

そして、静かな希望こそが、彼を、邪神としての道へと導いていく。

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