廃都と竜人の姫⑥
「…ふぅ…」
低く、優雅な吐息が静寂を割った。
それは、まるで深く沈んだ湖面に落ちた一滴の雫のように、周囲の空気をわずかに揺らした。
天井の高い暗がり――かつての聖堂か、あるいは地下迷宮の一角か。
鈍く濁った光が差し込む場所で、エリザベートの姿はひときわ艶やかに浮かび上がっていた。
高さにして数十メートル。
人間であれば骨ごと砕けて死んでいたであろう落下を、彼女は涼しい顔で受け止めていた。
細く伸びた両脚は、かかとすら触れることなく大地に降り立ち、混沌のローブだけが宙に舞う。
ふわり、と花が開くように広がった裾が、空気を撫でて揺れ、やがて静かに地へと落ち着く。
舞い上がる微かな土埃すら、彼女の周囲に届くことなく外側へと逃げていく。
それほどまでに、エリザベートの存在はこの場において異質だった。
軽くそのローブの裾を払い、乱れた長髪を一振りで整える。
揺れた金髪の毛先が、キラキラと輝く。
彼女の仕草は隙のない優雅さをまとっており、彼女自身が重力を支配しているかのような錯覚すら覚えさせた。
漆黒の空間に落ちるその佇まい――それは人知の外にある「なにか」の一端を垣間見せるには十分だった。
彼女の瞳に揺れるのは、どこか冷ややかで、同時に飽き飽きとしたような色。
唇の端に浮かんだ微笑は、わずかに呆れを滲ませながらも、どこか懐かしささえ滲ませていた。
「…相変わらず、ンシュタウンフェンは短気な一族ね…。」
それは吐き捨てるような言葉。
だが、その声音には微かに柔らかな響きが宿っていた。
その響きの裏には、忘れようとして忘れきれない記憶がある。
かつて交わした数々の言葉。交錯した思惑。分かり合えなかった感情。
それらがこの湿った地下の空気の中で、まるで息を吹き返すように甦ってくる。
エリザベートはゆっくりと首を巡らせ、慎重に周囲を見渡す。
足元を踏みしめる石の感触、空気の流れ、わずかな音の跳ね返り。
すべてが、彼女の知覚の中に収められていく。
そこは、まるで地下水路と古代の神殿を融合させたような、奇妙に洗練された空間だった。
壁面と床は石造りながら、崩落や風化の痕跡はほとんど見られない。むしろ、時折現代建築にも通じる直線的な意匠と、整然と並んだ石の目地がどこか異様なほど整っている。
床には幾何学模様がわずかに浮かび、歩けば細やかな音を返してくる。
その静謐な地下回廊を、淡い青白い光が照らしていた。
それは壁のあちこちに張りつく光苔――自発光性を持つ魔性の菌糸である。
まるで古の灯火の代替のように、柔らかな光を放ちながら、足元の道を仄かに彩っている。
天井は高く、アーチ状に広がる天蓋からは、どこからともなく垂れる蔦が揺れていた。
風はない。だが、空気は確かに動いている。
湿った石の香りと、鉄が酸化したような、どこか古傷を思わせる匂いが漂っていた。
「……どうしようかしら…」
エリザベートは小さく呟き、静かに顔を上げた。
「クトゥル様とはぐれてしまったわ…」
視線の先、遥か頭上。
天井の裂け目――おそらく崩落によって生まれた縦穴から、かすかな自然光が射し込んでいた。
その光は細く、脈打つように揺れ、まるで天空そのものが地底に抗っているかのような儚さを宿していた。
縦穴は深く、周囲の壁は滑らかに近く、冷たい石が光を鈍く跳ね返している。
まるで空へと続く檻のように、それは地の底から伸びていた。
エリザベートほどの実力があれば、飛行魔法で容易に登ることができる。
あるいは、優雅な身のこなしで壁をよじ登ることも不可能ではなかった。
だが――
「汚れるのは……ごめんだわ。フライを使ってンシュタウンフェンに狙い撃ちされるのも…イヤね」
赤黒いローブの裾を軽く弾きながら、彼女は迷いなく踵を返す。
冷静かつ迅速に、上へ向かうという選択肢を捨てた。
滑るような足取りで、その場を後にする。
舗装された回廊を、ただ静かに歩いていく。
ローブの裾が床を擦る音だけが、地下にわずかな存在感を刻む。
石造りの空間にそれが反響し、まるで彼女の歩みそのものが、空間を支配するかのように響いた。
彼女の背後――石の隙間から、ひとつ小さな石がコロリと転がり落ちる。
しかしそのわずかな異音すら、エリザベートの優雅な足取りを乱すことはなかった。
―――
エリザベートは静かに歩を進めていた。
石造りの通路は、まるで眠れる獣の食道を彷徨っているかのように冷たく湿っていた。
無機質な石の壁には青白い光苔が点々と散らばっているが、その光はまるで生き物の吐息のように頼りなく、明かりとしての役割は果たしていない。
ローブが揺れるたび、まるで生きた影が這い寄るかのような残像を引いて、空間を塗りつぶしていく。
重苦しい静寂。風の音すら存在しない地下の世界に、響くのはただ一つ、彼女の足音だけだった。
その足取りはゆっくりと、けれど確実に目的を持っていた。
迷いも戸惑いもない。ただ、先へ。
彼女にとってこの闇は、脅威ではなく、意志の延長にすぎなかった。
「……」
ふいに、彼女の足が止まった。
石造りの回廊が緩やかに膨らんだ先――そこに、異質な気配が満ちていた。
わずかに開けた空間の中央。誰かが、静かに立っていた。
その姿は光の届かぬ場所に溶け込み、黒い影となって佇んでいる。人型――しかし、その輪郭すら曖昧で、まるで現実に存在しない幻影のようにも見えた。
だが、エリザベートは見逃さなかった。
一瞬だけ動いた影の横顔。そこに、尖った耳のシルエットが浮かび上がる。
彼女の瞳が、細く鋭く光を帯びる。
過去に幾度となく目にしてきた、異族の特徴――それを見た瞬間、彼女は判断を下した。
「…その耳…ダークエルフね。私に何の用かしら…?」
張りつめた闇を切り裂くように、冷たくも鋭い声音が空間を貫いた。
その声音には、警戒と威圧、そして――嘲りにも似た余裕が滲んでいた。
対峙する者の正体、それは――アーヴァの闇に囚われたダークエルフだった。
かつては高貴さすら感じさせるその種族の面影は、もはや見る影もない。
全身を包むのは、墨のように濃い瘴気。
輪郭すら曖昧になるほどの靄がまとわりつき、その身体は腐敗と暗黒の象徴と化していた。
混沌のキューブの力を通じて命じられたただ一つの命令――それが、今この場に実行者として現れた理由である。
「…アーヴァ様からの命令だ…邪神様以外は殺せと命じられている…」
搾り出すような声は低く、どこか機械的ですらあった。
意志があるようで、意志を感じさせない。
それはすでに˝生者˝ではなかった。命令に従うだけの傀儡だ。
ダークエルフの言葉に、エリザベートはわずかに眉をひそめる。
だが、その表情に焦りはない。
むしろ、その瞳に宿るのは、冷酷なまでの静謐と軽蔑だった。
赤い眼差しは一切の同情を拒絶し、まるで腐った人形でも見るかのように冷ややかに相手を見据える。
「…そう」
返された声は静かだった。
感情すら削ぎ落とされたその響きが、却って重く空間にのしかかる。
敵意の宣告を受けたにもかかわらず、彼女の態度は一切揺らがなかった。
わずかな呼吸の乱れもない。
むしろ、その内にあるのは、哀れみでも怒りでもなく――期待外れ、という失望に近い感情。
「どうやって私を殺すつもりかしら…?」
その問いは、冷徹の刃のごとく鋭く、感情の起伏すらない。
すでに相手の力量を見切った者が放つ、余裕のある宣告だった。
その瞬間、闇に包まれた通路の奥で、小さな閃光が生まれた。
「…『ファイアボール』」
呪文の詠唱と共に、ダークエルフが瘴気まみれの腕を掲げる。
次の瞬間、掌から赤く脈動する火球が現れる。
直径六十センチほどのその球体は、生き物の心臓のように脈打ち、通路の狭間を真っ直ぐに疾走した。
薄暗い地下回廊に、燃え盛る熱気が走る。
その光が石壁に反射し、エリザベートのシルエットを淡く照らした。
しかし彼女は、微動だにしなかった――まるでその火球すら、退屈な余興でしかないと言わんばかりに。
「単なるファイアボール…?…ふぅ……私…暇じゃないのよ。」
エリザベートは、まったく動かなかった。
迫る火球にも、わずかに瞳を細めただけで、焦りの色は微塵も見せない。
むしろその様子は、退屈そうですらあった。
彼女の細く白い指が、宙を滑るように敵へと向けられる。
「『サンダーボルト』」
エリザベートの一言と共に、空間が瞬時に震えた。
刹那、空気が軋み、地下に轟音が鳴り響く。
雷鳴の如き叫びが天を裂き、青白い閃光が一直線に走った。
放たれた雷撃は、迫るファイアボールを正面から穿ち、一瞬のうちにその炎を霧散させる。
火球は爆ぜる間もなく消え失せ、跡には蒸気と熱の奔流だけが残された。
そして、その閃光はそのまま――呆然と立ち尽くしていたダークエルフを直撃した。
「ぐあああああああっ!」
凄絶な悲鳴が響く。
雷の刃がその身を貫き、瘴気に覆われた身体を内側から焼き尽くす。
全身を奔る電流が血管を浮かび上がらせ、黒い影は一瞬、青白い光に包まれた。
狭い通路が、その閃光で昼のように照らされる。
苦悶に歪んだダークエルフの顔が、輪郭すら崩れかけた仮面のように浮かび上がる。
「……」
やがて光が収束し、後にはプスプスと焦げた音だけが残った。
崩れ落ちる黒い影。
煙を上げて、地に伏したその肉体からは、じわじわと焼け焦げた肉の匂いが立ち上る。
湿った石の匂いと混ざり合い、それは通路中に漂って鼻を刺すほどの異臭となった。
エリザベートは、その倒れた亡骸にちらりと目を落とす。
「今の姿…焦げているのか闇に呑まれているのか…分からないわね…」
冷ややかな吐息のように、その言葉を呟き残すと、彼女は一切の未練も見せずに踵を返す。
歩みは静かで、揺れる混沌のローブがまるで闇と溶け合うように舞う。
彼女の姿は、濃密な暗がりの中へと吸い込まれるように消えていった。
その場にはただ、焦げた臭いと、焼かれた闇の残滓だけが残されていた。
―――
鈍く、地の底から響くような衝撃音と共に、巨体が天から叩きつけられた。
爆ぜるように土煙が舞い上がり、その衝撃は周囲の瓦礫を震わせ、崩れた石柱の欠片を宙へと跳ね飛ばす。
数十メートルの高さ――常人であれば骨が砕け、命を落としていたであろう落下。
だが、着地と同時に地面に走った亀裂の中心にいた者は、まるで何事もなかったかのように、悠然と立ち上がる。
ルドラヴェール――名を持つ獣は、虎に似た猛々しき体躯を誇り、全身の筋肉はまるで鋼の縄のように隆起していた。
その双眸、エメラルドのごとく光る眼が、静かに闇を貫く。
「グルゥ…落チタカ…」
低く、唸るような声がその喉奥から漏れ、空間の静寂に溶けていった。
彼は身についた埃すら払わぬまま、四肢をしならせてゆるやかに姿勢を整える。
空間に満ちる空気を嗅ぎ取るように鼻先を少し上げると、瞳がわずかに細められた。
「クトゥル様タチト逸レタヨウダ…。」
そこは――忘れ去られた古代の遺跡だった。
ひび割れた床に、倒壊した石柱。苔むした壁面。
音なき静寂に支配されたその空間に、ただ一つ、ぽた…ぽた…と水が滴る音だけが、時間の流れを証明していた。
その時だった。
「グル…」
低く濁った唸り声。
その音は、崩れた石柱の陰、闇が淀む一角から微かに漏れた。
湿り気を含んだ音が、獣の本能を刺激する。
その声に応えるかのように、地を這う黒い瘴気がじわりと広がり始める。
それはまるで、生きているかのように形を変えながら周囲を包み込み、石の間を這い、空気を重く変質させていく。
霧が渦を巻き、冷気にも似た瘴気が地を這うように広がる中――
その中心に、ひときわ異質な気配が、じわりと立ち上がった。
まるで、空間そのものが拒絶を始めるかのような不快な波動。
そしてそこから、音もなくそれは現れた。
瘴気を纏いし影――。
姿は明確でありながら、視線が定まらぬほど曖昧な輪郭を持ち、闇の中に溶け込んだまま動く異形の存在。
浮かび上がるように現れたその口元から、冷たい声が洩れた。
「……くく……獣の匂い。懐かしいな。」
地の底から這い上がってくるような、低く湿ったその声。
言葉の端には、残忍な愉悦と、どこかしら慟哭のような余韻が滲んでいた。
それは、影そのものと化した獣人だった。
漆黒の体毛は、光を一切反射せず、まるで夜そのものを纏っているかのよう。
月明かりすら届かぬその姿は、実在を拒むかのように空気の中に輪郭を滲ませている。
その全身において、ただ一つ、明確な存在を主張するものがあった。
――金色の双眸。
深淵に浮かぶ二つの光は、鋭さと狂気、そして微かに沈んだ哀しみを宿しながら、真っ直ぐにルドラヴェールを射抜いていた。
その目に宿るのは、かつての理性ではなかった。
それはすでに壊れ、失われ、ただ本能のみが支配する生ける獣の眼光――
夜の王者として、最期まで牙を研ぎ続けた者の面影。
対峙するルドラヴェールもまた、圧倒的な威圧を身に纏っていた。
その背で、獰猛な意志のごとく揺れる、燃え盛る真紅の鬣。
精緻に整えられた筋肉は、まるで大地を砕くためだけに編まれたような造形美を誇り、
その肌を覆う深紅の体毛には、獰猛なる証として漆黒の縞が刻まれている。
その姿は、まさしく虎を思わせる神威。
唇の端から覗く牙は、鍛え抜かれた刃のように輝き、
彼のエメラルドグリーンの瞳には、眼前の敵を貫く猛獣の気迫が宿っていた。
「アーヴァ様の命令だ…ここで、死ねっ―」
低く唸るような声が空気を裂いた刹那、漆黒の獣人が猛然と地を蹴った。
その瞬間、地面が爆ぜ、粉塵が竜巻のように舞い上がる。視界を覆い尽くす砂塵の中を、まるで影が躍る。
疾風のごとき闇――。
それは音すら置き去りにするほどの速さで、月明かりすら裂くような残像を引き、一直線にルドラヴェールへと襲いかかっていた。
鋭く伸びた爪、嗤うように裂けた口元、獣の本能が支配する殺意の奔流。
だが――
「フンッ!」
応じるように、ルドラヴェールが咆哮を轟かせる。
その声は空間を押し返すほどの衝撃を孕み、まるで目に見えるかのような圧力が周囲を満たした。
その瞬間、空気が爆ぜた。
遺跡の広間を衝撃波が駆け抜け、乾いた岩の天井から塵がぱらぱらと降り注ぐ。
紅と黒の爪が交差し、刹那の火花が空間を裂いた。
火花の中、交差したのは獣の魂そのもの――
ルドラヴェールの前脚が深々と敵の腹をえぐる。
鋭利な肉球が肉と骨を裂き、返す刃のように突き刺さる。
一方、影の獣人の爪も、躊躇なくルドラヴェールの体を狙っていた。
だが、その一撃は深紅の体毛をかすめるにとどまり、弾かれるように勢いを失う。
傷一つ与えることすらできなかった。
「貴様ノ爪デハ俺二指一本触レルコトハデキン…」
唸るような嘲りが、腹の底から響いた。
その声音は、まるで雷鳴が地の底から轟いたかのように地下全体を震わせた。
そして、次の瞬間――
ルドラヴェールがその巨体を翻し、大地を蹴った。
鋼のような後肢が床を叩きつけ、その圧力にひび割れた岩盤が裂け、破片が四散する。
跳躍。
それはただの移動ではない。
まるで空間ごとねじ伏せるかのような、暴風の塊。
理性も策略もない。
魔法の力すら無意味な領域。
ここにあるのは――
原始の本能と誇りだけが支配する、絶対の闘争。
影と獣。
それらが激突する時、廃都さえ、ただの狩場と化す。
――強い方が生き残る。
それは、この地において唯一無二の掟――否、宇宙の最初から定められた絶対の理。
重力を踏み締めるように、ルドラヴェールは静かに地に立つ敵を見据えた。
獣の瞳は迷いなく、ただ一つの答えを宿している。
そして、その尾が動いた。
しなるという言葉では足りない。
それは風すら追いつけぬ速度で放たれた、一筋の鞭のような閃きだった。
鋼の筋を思わせる力と、しなやかな柔軟性。
それらが融合した尾は、正確無比な軌道で敵の足元を捉えた。
「ッ……!」
闇の獣人の双眸が揺れる。
その足元に巻き付いた尾が瞬時に筋肉を締め上げ、逃れようとする動きを封殺する。
一瞬のバランスの崩壊――それだけで十分だった。
次の刹那、ルドラヴェールは敵の背後へと回り込んでいた。
床を蹴る音すら残さず、重力をも逆らう一瞬の移動。
「――喰ラエッ!!」
雷鳴にも似た轟きが、空間を満たした。
その咆哮と共に、尾が再び打ち下ろされる。
だが今度は、ただの拘束ではない。
それは捕食者が獲物に食らいつくような、明確な殺意を伴う一撃。
振り上げられた尾は鋭く落下し、敵の顎を的確に捉える。
瞬間、闇の中に浮かぶ金色の双眸がぐらつき、影の輪郭が一瞬だけ崩れた。
打ち据えられたその力に、空気が震えた。
が――それでも、崩れなかった。
血の滲む口元から、くぐもった笑い声が洩れる。
「…やるなッ…魔獣っ!」
その言葉には、痛みの色はなかった。
むしろ、悦び。
裂けた唇の奥から滴る鮮血さえ、歓喜の装飾のように見えた。
――まだ、笑っている。
その双眸の奥に宿る光は、消えていなかった。
闇に沈んでもなお、獣の本能が燃えている。
「マダ向カッテ来ルカ…」
血に飢えた叫び。
命を賭した闘争に、恐れも後悔もない。
ルドラヴェールの鬣が再び風を切り裂き、紅の波となって揺れた。
その姿は、もはや神話の彼方より現れた原初の獣。
理性さえも凌駕する、力の象徴――王の風格を帯びていた。
彼の中にも――確かに眠っていたのだ。
獣の本能。
血を、戦いを、力を欲する原始の欲動。
それは相手と同じ、飢えた闘争本能――
戦いそのものを愉しむ、「獣の歓喜」。
そして今、紅蓮の鬣が風を巻いた瞬間。
それはゆっくりと目を覚まし始めていた。
「――ナラバ……トコトン、ヤリ合ウカ。影ノ獣ヨ」
低く唸るような声音。
その一言に、空気が震えた。
言葉ですらない、宣戦布告の咆哮。
次の瞬間、ふたつの影が同時に地を蹴った。
赤と黒――焔と闇の残像が、空間を裂いて交錯する。
稲妻のような速さで駆け、すれ違い、再びぶつかる。
爪が閃いた。
牙が唸った。
その衝突はまさに天変地異。
石の床は激突のたびに砕け、大地は牙によって抉れ、風圧で周囲の瓦礫が飛び散る。
一撃ごとに轟く爆音は、ただの肉体の打ち合いとは思えないほどの凄烈さを放っていた。
もはや、そこにあるのは技巧や策略ではない。
あるのはただ、極限まで鍛え上げられた肉体。
極限まで研ぎ澄まされた戦闘本能。
牙と牙。爪と爪。
筋肉と筋肉が、獣の理を賭してぶつかり合う。
生き残るのは、ただ一方。
技術では計れぬ、純粋な「強さ」。
魂の奥底まで燃焼させた者だけが、勝利を手にする。
咆哮が轟いた。
それは、空気を裂くような鋭さで、死と生の境界を振るわせる。
そして直後――爪と爪が正面から激突した。
刹那、爆ぜたような火花が空間を彩る。
硬質な衝撃音が遺跡を揺るがし、爆薬のような破裂音が全方位に響き渡る。
戦いが始まったのだ。
いや――これは、もはや「狩り」と呼ぶべきだった。
空間に轟く衝撃音、爆ぜる石片、空気を裂く咆哮。
そのすべてが、単なる戦闘ではなく、獣と獣による本能の応酬を物語っている。
漆黒の毛並みが、しなる。
闇の中で鋭く反射する金の双眸は、まるで月光のように凍てついた光を放ち、相手の動きを的確に追っていた。
影の獣人――その存在は、まさに「闇そのもの」。
己が輪郭すら曖昧にしながら、空間を跳ね回る黒き狩人であった。
壁に、柱に、そして空中に。
この場にあるあらゆるものが彼の足場となり、動線となる。
柱を駆け、壁を蹴り、天井を滑り――
まるで重力の法則を嘲笑うような軌道で宙を舞う。
空気を裂くその動きは、幻影。
上下左右を自在に操るその軌道は、光学迷彩の如き錯覚を生む。
その残像が、瞬時にルドラヴェールの背後へと回り込む――。
爪が閃いた。
鋭い斬撃が音速で空気を切り裂き、獣の喉元を狙う。
だが――
「甘イッ!!」
獣の王が吼えた。
雷鳴のような咆哮と共に、ルドラヴェールは一瞬の躊躇もなく身をひねる。
その巨体が揺れたかと思えば、轟音と共に尾が振り抜かれる。
鉄槌。否、それ以上。
質量、速度、正確さ――すべてが桁違いの一撃だった。
風を裂き、空間を圧し潰すかのような尾の打撃が、闇の獣人を捉える。
「――っ…!」
圧倒的な衝撃。
闇の獣人の体が空中で翻り、そのまま瓦礫の山に叩きつけられた。
石柱が軋み、崩れ、粉塵が吹き上がる。
崩れた石片が周囲に降り注ぎ、戦場の空気をさらに荒ませた。
「貴様も同ジ˝獣˝分カルハズダ。目デ追エズトモ、音デ、匂イデ――感ジルコトハ出来ル。」
ルドラヴェールの声は低く、しかし絶対の自信を滲ませていた。
彼の視線は、寸分の揺らぎもなく、瓦礫の影を見据えている。
その瞳――深く澄んだエメラルドグリーンは、静謐でありながらも、猛獣の本能を封じ込めた獣の眼差し。
吹き抜ける風に、赤みがかった鬣が揺れた。
虎に似たその姿が、戦場の中心で堂々と立ち尽くす。
その威容――まさしく「王の証」。
そして、再び瓦礫の陰から、ぞわりと這い出すように嗤い声が響く。
「面白っ…次で貴様を確実に…殺すっ!」
獣人の声に、怒りも焦燥もなかった。
あったのはただ、心の底から湧き上がる興奮。
獣のような笑みを浮かべながら、黒き獣が再び跳ね上がる。
その身は宙に溶け、次の瞬間には壁を蹴り、柱を伝い、天井を滑る。
空間すべてが彼の狩場だった。
己が肉体すら道具のごとく扱い、嵐のように、風のように、雷光のように、怒涛の奇襲が襲いかかる。
その殺気が空気を震わせる中――
ルドラヴェールは微動だにしなかった。
むしろ、その眼差しがわずかに鋭さを増す。
「……見エタ」
低く、確信に満ちた言葉が漏れる。
それは、獣としての本能に裏打ちされた狩人の宣告だった。
ゆっくりと、しかし確かに――
彼は一歩、後ろへと退く。
蹄のように硬質な足裏が、石床に重く触れる。
音が、闘いの場に緊張を刻む。
獣じみた四肢が、地を削りながら低く構えられる。
その鋭い爪が石を引っ掻く音が、対峙する空間に緊迫の予感を呼び込んだ。
来る――!
敵の気配が、空気の流れが、筋肉の感覚が、すべてを告げていた。
「――上ダ。」
刹那、彼の体が弾けるように跳躍する。
視線の先、天井を蹴って飛来する影。
影の獣人が、怒涛の勢いで爪を振り下ろしてくる――
その一撃を迎え撃つように、ルドラヴェールの顎が大きく開いた。
燃えるような瞳の輝きと共に、白銀の牙が閃く。
猛禽にも似た牙が、飛びかかる敵の脚を確実に咥える――
「なッ――がああッ!!?」
獣人の絶叫が、瞬間、通路を満たした。
ルドラヴェールは獲物を噛んだまま、体をひねるように回転。
その巨躯が描いた円弧が、敵をまるで投石器の弾丸のように地面へと叩きつける。
轟音と共に、石床が砕けた。
黒き影の肉体が地へとめり込み、瓦礫が四方へ弾け飛ぶ。
だが、それで終わりではなかった。
ルドラヴェールは即座に飛びかかる。
敵の腹へと、鋭い爪が振り下ろされる。
打ち据えるように、抑え込むように――
一撃ごとに、大地が唸り、空気が震える。
「動キ回ル力、速サ――確カニ見事デアッタ。ダガナ……!」
重く低い声が、崩れた柱の間に響き渡る。
ルドラヴェールは全身の重量を前脚に乗せ、敵の体をさらに深く地に埋め込む。
「ぐあぁっ!?」
呻く黒の獣。その声すら、もう明確な言葉を成していない。
「捕食者二捕マレバ無力ダ…!」
その言葉と共に、白銀の牙が露わになる。
光を受けて、虎のように開かれた顎が二本の長牙をぎらりと光らせた。
そして、ついに――
牙が、喉元へ深く突き立った。
肉が裂け、骨が砕ける音が、はっきりと響く。
血飛沫が弾け、瓦礫を赤く染めた。
通路に、命の終わる音が響いた。
金色に煌めいていた瞳が、徐々にくすむ。
その体からは、もはや動く気配も、熱も失われていく。
静寂が、再び空間を包み始めた。
ルドラヴェールは、静かに息を吐いた。
深く、熱を含んだ吐息――
その中に、わずかな哀悼が滲んでいた。
敵であろうと、同じ「獣」である者への敬意。
それは、ほんの一瞬のことではあったが、確かに存在した。
彼はわずかに目を伏せ、そして静かに背を向ける。
重く、確かな足取りを刻みながら――
ルドラヴェールは、再び闇の奥へと進んでいった。




