闇に堕ちた妖精②
クトゥルたちは、いまだ静まり返る「食われた村」の広場にいた。
広場の中央。朝露に濡れた石畳の上に、四つの小さな影が座り込んでいる。
「…っ」
光を孕んだような透明感のある小さな羽が、震えるように微かに揺れていた。
それは、小精霊族――ピクシーたちだった。
彼女たちはどこか霞んだ淡い光を纏いながら、怯えきった目で目の前の異形を――混沌の邪神と恐れ崇めるクトゥルを見上げていた。
「(怖くて声が出ないのか…それは仕方ないけど、そろそろ話して欲しいんだけど。)」
クトゥルがどう話しかけようと考えていたが、先に沈黙を破ったのは、エリザベートだった。
「…どうしたのかしら…話さずに…死にたいの…?」
その言葉は甘美な毒。氷の刃のように鋭く冷たく、ピクシーたちの心臓を直接突く。
ピクシーたちはビクリと肩を揺らし、息を呑んだようにその場を縮こまった。
だが次の瞬間、静かに、決意を込めたように一歩を踏み出したのは、銀白のふわふわとしたショートヘアのピクシーだった。
わずかに震えながらも、彼女は小さな胸に手を当て、深く一礼する。
「わ、わかりました。まず、自己紹介を…私からアイン」
続けて、それぞれが前に出る。
「ツヴァイです。」
「ドライです。」
「フィーアです。」
彼女たちは一様に、慎ましく頭を下げた。
銀髪、深緑、青、金と、髪の色も髪型も違うが、その顔立ちは驚くほど似ていた。
まるで鏡に映したような姉妹たち。
だが、今は皆その小さな肩を震わせ、不安と恐れを隠せていない。
「わ、わたしたちは…この村に住む…小精霊族でして、元々この村は廃村だったんです。…。クトゥル…様を脅かそうとしたのは…安全な村から出て行って貰うためでして……」
懺悔するような声。言葉の一つひとつが震え、涙声に近かった。
そのとき、ルドラヴェールがわずかに鼻を鳴らし、鋭い虎のような目で彼女たちを見下ろした。
虎に似た獣の威圧感が、言葉にならない重圧となってピクシーたちの上に降りかかる。
「フッ…クトゥル様ガ脅シ二屈スル訳ナイダロウ…」
ルドラヴェールの声は地の底から響くような重さを持ち、断言のような信頼が滲んでいた。
「…その通りだ…(正直、初めはビビッてたぞ…?)」
クトゥルは内心で冷や汗を垂らしつつも、堂々たる声で頷いた。
その邪神然とした異形の姿から繰り出される一言一言が、なぜか信仰の対象となっていく。
本人にその自覚はなかったが——。
「ん…?だが、ピクシーは主に森に住むと聞く…なぜ、村それも廃村にいるんだ…?」
静かに腕を組みながら、疑問を口にしたのはティファーだった。鋭い目つきでピクシーたちを観察しつつも、ちらりと口元に手を当てる仕草をし、ふと頬が赤らむ。
その唇から、小さく、しかし確かに漏れる。
「……可愛い……」
こっそり呟いたそれを聞いた者はいない。――たぶん。
金髪ボブのフィーアが、おずおずと答えるように声を上げた。
「はい。もとは数キロ離れた祈りの森に住んでいたのですが、闇に呑まれた妖精王に襲われて…」
「闇に呑まれた妖精王…?」
ティファーが腕を組み直し、顎を引いて目を細めた。
「…それは何なんだ…?お前たちが、ここにいるのも、その妖精王せいか?」
「は、はい……妖精王は、意地悪な性格でしたが、祈りの森を統括する存在でした。…それが数年前のこと、いつものように森で静かに暮らしていた時、黒い影が精霊王を包み込んだのです…そして、わたしたちを襲い、逃げ遅れたピクシーたちは、闇に呑まれ帰ってこず…」
重苦しい沈黙が広場を包む。
ティファーは口を噤んだまま、深くうなずく。
その隣で、クトゥルは手を顎に当て考える素振りを見せる。
「ふむ…(とりあえず、闇落ち妖精王に襲われたってことだな)」
そのとき、ルドラヴェールが地を這うようにゆっくりと前に出た。虎に似た堂々たる体躯からは、静かなる威圧感があふれ出ている。
彼は鋭い鼻をひくつかせ、遠くの風を嗅ぎ取った。
「フム…ナルホド……アノ森ノ空気、普通デハナイ。アレガ祈リノ森カ…」
その言葉に、妖精たちはそろって深く頷いた。
「妖精王…か」
クトゥルは、一人呟き、妖精王の名前を口にした。特に意味がないのだが、ピクシーの1人は意味あり気な感じに見えたのかもしれない。
フィーアが、小さく、だが確信をもってつぶやく。
「ねぇ、この御方なら…妖精王を止めてくれるかも…」
その声が届いた瞬間、クトゥルは不自然なまでに胸を張り、まるで太陽を背負うかのような誇らしげな笑みを浮かべた。
「確かに…我にかかれば影など、塵に等しいッ!(ピクシーたち弱いし、妖精王もそこまで強くないだろうっ。ハッタリで無双だっ)」
その言葉に、エリザベートは両手をそっと胸に当て、甘く恍惚とした吐息を漏らす。
「…やはり、クトゥル様は混沌の御方…。ゴールドランク冒険者程度の妖精王など塵芥も同然なのですねっ」
「…え(え?ちょ、え?ま、待てって…そんなの聞いてないってっ!?)」
エリザベートの何気ない言葉に、クトゥルの心は一瞬で混乱に包まれた。
ゴールドランク?――それはつまり、並の存在では到底太刀打ちできないという意味ではないのか。
ブロンズランクにすら勝てないかもしれないクトゥルにとって、相手は格上なのは間違いない。
内心で頭を抱えながらも、表情は決して崩さない。
崇拝される邪神としての威厳を、必死に保っていた。
「素晴らしい神を信仰できた。このような幸福はありませんっ。」
ティファーも静かに微笑み、その身を正して軽く頭を垂れる。
「偉大ナルクトゥル様……今宵ノ出来事ヲ俺ハ語リ継ギマショウ……」
ルドラヴェールがどこか神託を受けた者のように、荘厳に言葉を紡ぐ。
その神妙な表情と神々しき体躯が相まって、まるで儀式の始まりのような空気が漂っていた。
ピクシーたちはしばし、ぽかんとその光景を見つめていたが、やがて感動のような色を浮かべ、小さく拍手をし始めた。
「すごい…やっぱり、すごい人?だったんだ…!」
「……(どうしよう…)」
褒められたことにより、クトゥルはまた胸を張るが、頭の中では冷や汗が滝のように流れていた。
なんとかして、戦わずに済む手を考えなければならない。
――そう、これは邪神の知略による戦いなのだ。
少なくとも、彼にとっては。
その時だった。
静寂に包まれた食われたのに、不意に異音が走る。
村の北側――半ば崩れ落ちた納屋の奥、そのさらに向こうから、木々を揺らすような、不自然な風音が聞こえてきた。
ざわり、と肌を撫でる冷たい気配。音の来る方向には、森があった。
――祈りの森。
ティファーが周囲の空気の変化を敏感に察知し、腕を解いて鋭い声を放つ。
「……聞こえますか…?」
その一言に、空気が張り詰める。ピクリと体を震わせたのは、小さなピクシー――アインだった。
怯えの色を浮かべた瞳で、指をふるふると震わせながら、森の方角を指差す。
「あ、あの…あっちが祈りの森ですっ…」
その声に呼応するように、周囲のピクシーたちが次々と身体を震わせ始める。羽音もかすかに乱れ、小さな肩が怯えに揺れていた。
その様子を見たルドラヴェールが、鋭く風を嗅いだ。
虎のような堂々たる体躯がきゅっと緊張し、しなやかな筋肉が波打つ。ぴんと立った耳が森の方へ向き、逆立った体毛が異変を告げていた。
「妖精王、ガイルノカ……?」
声は低く唸るようで、今にも獣の咆哮に変わりそうだった。
その時、エリザベートが静かに動いた。
闇夜にとけ込むような滑らかな動きで、そっとクトゥルの傍へと寄り添い、唇に指を添えながら、声を潜めて囁く。
「クトゥル様、私たちが先導いたします。不服かと存じ上げますが、一旦お下がりを…」
その申し出に、クトゥルはゆっくりとうなずいた。
だが、その裏では脚が小刻みに震えていた。
冷や汗が背を伝うような気がする。
内心で慌てふためきながらも、なんとか威厳を保った声を絞り出す。
「仕方ない、だが、油断するな…(お願いしますっ…出来たら倒してっ。俺じゃ絶対勝てないからっ…)」
震える脚を無理やり踏み出し、深くうなずくその姿は、仲間たちの目には堂々たる邪神の威容と映っていた。
闇の向こうで、森がざわりと揺れる。
祈りの森の奥、そこには――かつて優しき妖精王だった、何かが待っている。
―――
祈りの森の奥へと向かう一行の先頭を、エリザベート、ルドラヴェール、そしてティファーが静かに進んでいく。
彼女らの後ろには、異形の主であるクトゥルが威容を保ちつつ歩き、さらにその後ろを、代表としてついて来た銀髪のピクシー――アインが翅を震わせながらついていた。
夜の帳が静かに降り、森は深い闇に包まれていた。頭上には、冷たく妖しい光を放つ月が浮かび、木々の影が歪む。祈りの森に差し込む光は乏しく、枝葉の隙間から漏れ出る月光だけが、かろうじて彼らの輪郭を照らしていた。
祈りの森の最深部。拓けた土地。美しい池が月明りに照らされている。
「ここに妖精王がいるのか…?」
「は、はい。クトゥル様」
クトゥルの問いにアインが頷いた、その時、空気が変わった。
ひとしずくの毒が水に垂らされたように、空気が濁る。
胸の奥を掴まれるような重圧が走り、空間そのものがきしむ音を立てる。
そして、目に見えぬ何かが、森の闇をねじ曲げ始めた。
「ッ……コレハ――!」
先頭にいたルドラヴェールが即座に反応した。
虎のようにたくましいその身体をひと跳ねで前へと進め、クトゥルの前に立ちはだかる。
そのエメラルドグリーンの瞳が、一点を鋭く見据えていた。
毛並みは逆立ち、四肢の筋肉が獣としての本能で緊張する。
「クトゥル様っ…お下がりをっ」
ティファーも腰の剣に手を当て、ぐるりと周囲を警戒するように見渡す。
空気のわずかな流れさえも、敵意として感じ取るかのような動きだった。
「この空気…イヤな予感がしますねっ」
ティファーの言葉に、ルドラヴェールが唸るように応える。
「……気配、大キクナッテイル。……来ルゾ。」
虎の如き四肢を低く構え、地を踏みしめるようにして身構える。
その姿は今にも飛びかかりそうな獣そのものだった。
エリザベートは一歩後ろで静かに辺りを見渡し、息を吐いた。
彼女の表情は変わらず冷静だったが、その目の奥には警戒の光が宿っていた。
ズズズ……と、空間が引き裂かれるような不快な音が森に響き渡る。
闇の中に、裂け目が生まれた。
そこから溢れ出すのは、漆黒の霧。どこまでも濃く、粘つくような黒煙が空間を塗り潰していく。
霧の中心で、何かがカタチを成し始めた。
ゆっくりと浮かび上がる影。その姿は、約40センチほどの人の形をしていた。
だが、明らかに異質だった。
身体の輪郭は定まらず、まるで影そのものが凝縮し、無理やり人の形をとっているかのようだった。
背からは、巨大な漆黒の翅が伸びている。
それはかつて妖精としての力を象徴していたはずのもの。
しかし、今は腐り落ち、端が千切れかけ、黒い液体がぽたぽたと滴っている。
それでもなお、その存在は圧倒的な威厳と恐怖を放っていた。
そして、燃えるような紫の双眸が闇に浮かび上がる。
その眼差しは、全てを嘲笑うかのように鋭く、冷たい。
「……ほう、まだ生き残っていたか。ピクシーの生き残りどもヨ」
低く響くその声は、地の底から湧き上がるように重く、聞く者の背筋を凍らせた。
まるで魂ごと握り潰されるような冷たさだった。
その一言に、アインは小さな悲鳴を上げて後退る。
震え、怯え、希望の欠片を求めて、クトゥルの背中に縋る。
「よ、妖精王っ……!」
アインが、まるで喉の奥から絞り出すように震え声で叫んだ。
空気はすでに凍りついたように冷たく、周囲の木々は黒い霧に蝕まれながら、軋む音を立てている。
ざわざわと森の影が不気味に蠢き、地の底から呻くような音が徐々に高まり始めていた。
闇の妖精王――。
かつてこの祈りの森に生きる者たちの頂点に立ち、自然と調和しながら生きていたはずの王。
その威厳と優しさで、すべての森の民に慕われていた存在が、何かのきっかけで闇に堕ちたのだ。
今やその姿は、かつての面影すら残さぬほど禍々しく、異形そのものとなっていた。
「我は…闇の妖精王――オブスクロ・ルーク。」
静かに響いたその名乗りは、剣を抜くような冷たさとともに森全体へと伝播し、まるで名を呼んだこと自体が禁忌であったかのように、大気がざわめき、木々の葉がざらつく音を立てる。
その声に反応してか、黒い霧がさらに濃く渦を巻き、瘴気にも似た臭いが周囲に広がる。森の生命の気配がひとつ、またひとつと消えていく中――
「(え、やばそうなの来た……!)」
浅黒い肌のクトゥルは心の中で顔面蒼白だった。
さっきまで余裕をかましていたのが嘘のように、胃の辺りがキリキリと痛む。
だが、見た目だけはいつも通り、いや、いつも以上に堂々としていた。
「(とりあえず、戻っておくか…)」
彼はすかさず、スキル:トリックスターを使い、自らの姿を邪神クトゥルの禍々しき異形へと戻っていく。
触手が蠢き、体に無数の赤い目が浮かび上がり、闇を裂くようにその気配が広がる――外見だけは。
「…ククク…我は混沌の邪神クトゥル=ノワール・ル=ファルザス。…貴様がこの地を蝕んだ元凶か。ならば、我が直接その存在を塵と化してやろう……!(っ!?…ぎゃぁっ!?セリフ、ミスったっ!?)」
一瞬で言葉のチョイスを後悔するクトゥル。しかしすでに遅い。視線を逸らすこともできず、ただ内心で悲鳴を上げるしかなかった。
そんな彼の前に、すっと一歩進み出たのはエリザベートだった。
赤黒いローブをたなびかせ、紅い瞳を細めながら静かに頭を垂れる。
その動作には高貴さと冷徹さが同居しており、空気が一層、張り詰める。
「ふふ…クトゥル様が手を下すほどでもございません……この者、身の程知らずにもほどがあります…。」
エリザベートの冷ややかな一言が、場の空気を一変させる。
その言葉に即座に乗る形で、クトゥルはふん、と鼻を鳴らした。
「…ふっ…分かっていたぞ…(おぉっしっ!!)」
内心では跳び上がって喜びたいところだったが、表情は変えず、威厳たっぷりに頷く。
その様子を見ながら、エリザベートは小さく微笑み、ルドラヴェールとティファーに視線を送った。
「あの身の程知らずの相手、出来るわよね…?ルドラヴェール。ティファー。間違っても負けるなんてことはありえないわ…その時は、私が貴方たちを塵にしてあげるから…」
その声音は氷の刃のように鋭く、心を刺す冷たさを帯びていた。
だが、目の前に並ぶふたり――
一頭と一人はすでに覚悟を決め、眼前の敵だけを見据えていた。
虎のような巨躯を持つ獣、ルドラヴェールが静かに地を踏みしめ、唸るように低く声を漏らす。
「……面白イ。俺ノ牙ノ糧トナルガイイ……!」
そのエメラルドグリーンの双眸が獰猛に光り、牙の間から、白い霧のような吐息が漏れる。
その隣で、ティファーが愛剣を抜き放ち、獰猛な笑みを浮かべた。
「もちろん。クトゥル様の信者として必ず勝利しましょうっ!」
まるでそれが当然であるかのように、迷いのない声だった。
敵を前にして、なお恐れず、むしろ喜ぶかのような彼女たちの態度に、妖精王オブスクロ・ルークの唇がゆがむ。
「ならば見せてもらおう……混沌の邪神の信者とやらの力とやらヲ…。」
その声と共に、黒い霧が一層濃く渦巻き、地面がヒビを刻むようにひび割れていく。
森の木々は黒く染まり、生命の息吹を失っていく。
この一帯が、まるで腐敗しきった楽園のように変貌していく中で――
今、闇と混沌の力がぶつかり合おうとしていた。




