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森に現れた混沌

針が天辺を指す一時間前。


太陽は空の頂で燦々と輝き、雲一つない青空が広がっていた。


真昼の陽光は無慈悲なほど強く、石畳に白く反射し、揺らめく陽炎を生み出している。


町の喧騒はひとときの静寂を迎え、昼食を終えた者たちが木陰で涼を取る時間帯だった。


そんな昼下がりの街路に、異質な存在が歩を進める。


「……」


女だった。


漆黒の長髪は夜の帳のように垂れ、顔を覆い隠している。


風に揺れるその髪の隙間から、ちらりと覗く肌は陶器のように白く、まるで陽光に触れることを拒むかのようだ。


彼女が纏うローブは赤黒く、揺らめくたびにまるで生きた闇が蠢くように見える。


その表面には血管の模様が広がり不気味だった。


歩みは静かで、無駄な動きが一切ない。


だが、その存在感は圧倒的であり、町人たちは誰一人として正面から彼女を見ようとはしなかった。


「お、おい…あの女…」


「やばいオーラ放ってんな…」


囁かれる声は恐怖に染まり、道行く者たちは無意識に距離を取る。


まるで見えない壁があるかのように、彼女の進む道が自然と開けていく。


「おいっ…離れろ」


「…冒険者ギルドに報告するか…?」


「いや、向こうは害を加えてこないみたいだ…放っておけ…」


「下手すれば、殺されかねんっ…」


誰もが目を逸らし、ただ静かにその場をやり過ごそうとする。彼女の存在は、まるでそこにあるべきではないもののようだった。


しかし、中には彼女の姿を目を追う者も存在していた。


「…すっご…やば…目が離せん…」


「歩くたびに…揺れる…」


「じゅる…や、やばい…」


小声で囁かれる言葉が、周囲の男たちの間に広がる。


赤黒いローブに包まれたその女の胸元は深く開き、しかしそこには不可思議な魅力が宿っていた。


直視しても何も見えない。肌の露出はないはずなのに、まるで見えたかのような錯覚を抱かせる。


歩を進めるたび、豊満なバストが揺れ、ふわりとした動きが布の奥で生じる。


視線を吸い寄せる魔性の魅力を放ちつつ、それに魅入られそうになった者たちは、同時に背筋を這い上る寒気を覚えた。


それは、人間が持つ本能的な危険察知能力が告げる警鐘。


この女に、関わってはならない。


ぞくりと背筋を凍らせ、無意識のうちに男たちは距離を取る。


しかし――


女は一切意に介することなく、ただ静かに前へと進む。

迷いも、躊躇もない。


まるで、この世界の理など無意味であるかのように。


「(あぁ…邪神様…どこに居られるのですか…?)」


彼女の唇が、音もなく動いた。


祈るように、呼び求めるように。


だが、その言葉を聞き取った者は、誰一人としていなかった。


その時――。


――ゴロゴロゴロ……!


突如、天地を裂くような雷鳴が轟いた。


乾いた空気を切り裂く鋭い音が町中に響き渡り、人々は驚きとともに顔を上げた。


商人たちは手を止め、買い物客は足を止め、冒険者たちでさえも無意識に剣の柄へと手を伸ばした。


「な、何だっ!?」


誰かが声を上げる。


だが、見上げた空には雲ひとつない。


蒼天はどこまでも澄み渡り、燦々と降り注ぐ陽光が石畳を照らしている。


雨の気配すらなく、風すらも穏やかだ。それなのに、たしかに今、雷鳴は鳴り響いた。


何かが、起こる——。


その不吉な予感に、街の空気が張り詰める。


そして、その音を聞いた瞬間、女は立ち止まった。


長い黒髪が微かに揺れ、ローブの裾がふわりと浮く。


赤黒いのローブを纏った彼女の姿は、まるで異質な影が陽光の下に紛れ込んだかのよう。だが、その影の内には確かな熱が宿っていた。


隠れていた顔が少しだけ覗く。

赤い瞳の下うっすらクマを浮かべ彼女は、目を見開く。


このような不可思議な現象を起こせる者を、彼女はただ一人しか知らない。


雷鳴が響いた方角を、彼女はじっと見つめる。


「――本の通り…間違いないわ。」


心臓の鼓動が速まる。


胸の奥にある何かが、疼く。


一歩。そして、また一歩。


重く静かな町の空気とは裏腹に、彼女の足取りは軽やかだった。


まるで、幼子が待ち望んでいた玩具を見つけた時のように。


まるで、長い間待ち焦がれた者に、ついに巡り合えたかのように。


その瞳に映るのは、ただ一つ。


音の先にいる――


彼女が探し求める存在。


女は微かに唇を動かし、音もなく囁く。


「(そちらに…いらっしゃるのですね…)」


彼女は、迷わず音の方へと進んでいった。

胸の奥で疼く想いに突き動かされるままに。



―――



田中太郎は、膝をつき、絶望の色に染まった空を仰いだ。


彼の内に広がるのは、深淵のような暗闇。


異世界転生――その言葉は、夢と希望に満ちた響きを持つはずだった。

しかし、現実は無慈悲だった。


創造主から授かったスキル、『サウンドクリエイト』。

それは、頭の中で思い描いた音を発生させる力。それが彼の全てだった。


「……ふざけるなよ……!」


声が震える。


彼は、強大な異形の姿を持つはずだった。


人知を超えた怪物として生まれ変わるはずだった。

だが、目の前の現実はどうだ。


圧倒的な力を振るうこともできない。

さらには成長の可能性すら不明。


――つまり。


『強大な異形の姿を持つだけの、ただの雑魚』


心の奥底からこみ上げる怒りと焦燥。

だが、それすらもすぐに虚無へと溶けていく。


「くっ……我がここまで苦戦を強いられようとはっ……!」


ふと、太郎は思考を切り替えた。


「(……そういえば、俺はちゃんと生きていけるのか?)」


この異形の身体は、人間のように三大欲求を持っているのか。


まず、睡眠欲。

今は昼間。太郎は夜に眠るため、そもそも眠気がくるのかもわからない。


次に、性欲。

……いや、それ以前の問題だった。


恐る恐る下半身へ視線を落とす。

そして、絶望する。


――元々あったはずの男の象徴が……ない。


今の体で性欲を感じるのかすら不明。


だが、何よりも深刻な問題は――食欲。


太郎の脳裏に浮かぶのは、前世の記憶。

食事こそが最高の楽しみだった。

特に深夜に食べるインスタントラーメン。


それは、至福そのものだった。


だが、しかし。


転生して数時間が経過しても、腹が減った感覚はない。


――これは、生きていると言えるのか?


田中太郎は、ただ静かに息を呑んだ。


異世界転生とは、一体何なのか。

その答えを見つけるために、彼は目を閉じる。


太郎は思案を巡らせる。

このままでは生きていくことすらままならない。


人間に紛れて生活することは不可能だ。

どう考えても、見た目が完全に『悪役』。それも、邪が付くほどの『悪役』。


ならば、悪の道を歩むか?


いや、それも無理だった。

戦う力すらない。

野生動物にすら敵うかも分からない。


仮に野生生物を倒せる力があっても、それだけだ。


友達を作るのも絶望的だった。

この姿では、相手とまともに会話すら成立しないだろう。


ならば――


「洞窟にでも籠もるしかない……か」


ひっそりと身を潜め、誰にも見つからず生きる。

もはや、それしか道はないように思えた。


太郎は決意し、改めて己の姿を見下ろす。


赤黒い触手がうねり、無数の眼が妖しく光る。


その姿は、まさに中二心をくすぐる悪役の風貌だった。


「……ククク……。我こそは深淵より生まれし、異形の邪神……!」


どうせひとりなら、せめてロールプレイを楽しむしかない。


「今宵の午餐は貴様だ…貴様の魂を我に捧げろ!。」


無意味な悪役の演技。

それがせめてもの、彼の現実逃避だった。


「我の絶対領域に足を踏み入れた時点で、貴様の運命は決まっている……姿を現せ。…さもなくば、貴様は未来永劫、苦しむことになるであろうっ。(あ~阿保らしい…)」


息を吐き、太郎は踵を変えそうとする。


「ひいいぃぃっ!」


「!?」


突如、森の中から悲鳴が響いた。

突然の悲鳴とともに1人の人間が慌てて草むらから飛び出してくる。


「(びっくりした…な、何だ…こいつ。いきなり出て来てびっくりするじゃないか…)」


太郎は突然の人間に体をビクっとさせる。


「、たたた、た、助けてぇっ!」


一人の農民がガタガタと震えながら太郎を見て恐怖に怯えていた。


……。

……あれ?

 

もしかして俺、思いっきり誤解されてる?




―――




太陽が真上に映り、ほどよい陽光が世界を薄めに照らす。


けだるような暖かさと淡い風がなびく中、一人の農民が歩いていた。


農民のキャベットは一人、深い森へと足を踏み入れる。


目的は至って簡単だ。午食をかねた休息――そして、森に自生する甘い果実をつまむこと。


それが、苦痛の日々の中で少ない楽しみであり、ただ一つの格別な時間だった。


元の、市路からそれほど離れていない地に住んでいるとはいえ、ほんのり深くなるだけで、森の中はまるで別世界のようだ。


キャベットは、毎回のように、わくわくとした顔をして歩んだ。活き活きと伸びる木、それを突き抜けるような青さんだ花、


突然のように絡まるつる樹。


しばらくして、それは見つかった。彼は、大きく声を挙げずに、ほくほくとした顔をして身を伸ばす。


視線の先には、ツヤツヤとしたベリーレッドの果実。しかも、存分の粒が形成され、ほんのり最高に熟した糖度を持っていることだろう。


毎回のことだ。一人で働いている時間の、ごく少しの休息。


だが、まさに嬉々と、手を伸ばそうとしたその瞬間――。


「…!」


ごくり、と喉がなる。その手が、体がフルフルと振るえる。

1メートル先の向こうに――それは、いた。


異形の化け物。


赤黒い触手が幾重にも絡み合い、地を這うように蠢いている。無数の眼が爛々と輝き、まるで意志を持つかのように不規則に動きながら、周囲を見渡していた。


その姿は、この世の理から逸脱した悪夢そのもの。


キャベットの喉がひゅっと鳴る。心臓が激しく鼓動し、血の気が一瞬で引いていく。


「(な、なんだあれは……!?魔物か!?…いや、そんな生易しいもんじゃない…!?)」


理性が働くよりも先に、体は本能的に動いていた。彼は慌てて足元の草むらに身を潜め、息を殺す。


「(気づかれていない……はずだ……!)」


じわじわと後ずさる。

草の一本すら揺らさぬよう、細心の注意を払いながら。

あんな得体の知れない怪物と遭遇してしまった以上、逃げる以外に選択肢はない。


相手が何者なのか、確かめる余裕などなかった。ただひとつ確かなことは――


――あれに見つかったら、命はない。


だが、その時。


「……ククク……。我こそは深淵より生まれし、異形の邪神……!」


聞こえた。


低く、不気味で、それでいて圧倒的な威厳を湛えた声が。


「!?(ま、まさか…見つかった…?)」


「今宵の午餐は貴様だ…さぁ、貴様の魂を我に捧げろ!。」


「っ…(ま、まさか…俺の存在に気付いている!? い、いや…まさか)」


キャベットの背中を冷たい汗が伝う。


動くことも、声を出すこともできない。ただ、そこにうずくまり、震えることしかできなかった。


しかし、恐怖の追撃はまだ続く。


「我の絶対領域に足を踏み入れた時点で、貴様の運命は決まっている……姿を現せ。…さもなくば、貴様は未来永劫、苦しむことになるであろうっ」


――終わった。


キャベットの頭は、完全に真っ白になった。


この化け物は、自分の存在をとっくに察知していたのだ。


逃げることも、隠れることも、もうできない。


「ひいいいいいいいっ!!!」


完全にパニックに陥った彼は、理性をかなぐり捨て、草むらから飛び出した。


それがどれほど愚かな行動かなど、考えられる余裕すらない。


恐怖に駆られた彼の足は、無意識に命を捨てる道を選んでいた。


異形の化け物と、それを誤解した農民キャベットとの、最悪の遭遇が幕を開けたのだった。




―――



森の静寂を切り裂くように、異形の怪物と一人の農民が向かい合っていた。


木漏れ日の下、微かに揺れる木々の隙間から、陽光が斑に差し込む。


しかし、その光は目の前に佇む存在の禍々しさを和らげることはできなかった。


異形の怪物――それは、赤黒い触手が蠢き、無数の眼が爛々と光る悪夢のような存在だった。


異形の怪物こと、田中太郎は、内心、驚愕していた。


「(……な、なんだ、人間!?こんなところに?)」


異形となった自身の身を顧みる余裕もなく、突如目の前に現れた人間の存在に戸惑いを隠せない。


彼の異形の眼が、思考に合わせるようにぐるぐると動き出す。


それは、ただ混乱した結果、無意識にそうなっただけの動作に過ぎなかった。


しかし――


それを目の当たりにしたキャベットにとって、それは恐怖の象徴にしか映らなかった。


「っ!?(目が……あんなギョロギョロと……お、怒っているのかっ!?)」


彼の顔面がみるみるうちに蒼白になり、膝が震え始める。


額を伝う冷や汗。喉が何度も上下し、張り付いた舌が動かない。


胸の奥からこみ上げる恐怖を必死に抑え込もうとするが、まるで制御の効かない波のように感情が膨れ上がっていく。


「ひっ……ひいいっ……!」


震え声が漏れた次の瞬間、キャベットは力なくその場に崩れ落ちた。


彼の足元に、小さな水たまりが広がる。


それに気づく余裕すらないほど、彼は恐怖の渦に囚われていた。


逃げることも、叫ぶこともできない。


まるで巨大な捕食者に睨まれた小動物のように、全身が硬直していた。


「…」


一方、太郎はどうすべきか迷っていた。

何か話しかけるべきか、それとも威圧して追い払うべきか。


しかし、見た目が完全に化け物の今、下手に話しかけても恐怖を与えるだけだろう。


案の定、キャベットの恐怖は極限に達していた。


「た……食べないでください!!」


ようやく絞り出した言葉。必死の懇願が、森の静寂を切り裂いた。


「(いや、食わんけど!?)」


太郎は心の中で叫んだ。もともと彼は人間であり、共食いする趣味などあるはずがない。


「(よし、威圧して追い払うか…)」


この状況では誤解を解くよりも、相手の恐怖心を利用する方が良いと直感した。


もし下手に安心させてしまえば、恐怖から解放されたキャベットが反旗を翻しし、棒切れか何かで反撃してくる可能性もある。


見た目は邪悪な異形だが、素の戦闘力は未知数であるため、それは避けなければならなかった。


太郎はゆっくりと姿勢を正し、無数の眼をさらに動かして見せた。


口を円錐の部分に出現させ、笑みを浮かべるように意識しながら、声を低く響かせる。


「クハハ……貴様の命運は尽きたのだ…諦めるんだな……」


「そ、そそそっそんなっ…た、助けて下さいっ…お願いしますっ」


キャベットの顔が絶望に染まり、肩が震えた。


「まずは…そうだな。逃げられる前に貴様の足をへし折るか…」


ここで、太郎はサウンドクリエイトを使用する。想像する音は骨が軋む音、箇所をキャベットの足に指定してスキルを発動する。


ピキピキッ


「軋む音が聞こえるな…痛いか…?(頼むから痛いって言えよ…空気酔読めよっ!)」


「うっ!?お、折れるっ!いたいっいたいっ!?」


「(えっ…本当に痛い?……いや、ないか…)」


本来、音だけしか聞こえてないのだが、混乱しているキャベットは、痛みを想像していた。


「さて、そろそろ…折るか…」


「ひぃぃぃっ!?」


気絶しそうな勢いの農民を見た太郎は満足げに頷いた。


「(ここまで、すれば…襲ってこないだろう…)……興が削がれた。我は美食家だ…貴様のような穢れた魂では我を満たすことなどできん。…早々に消えるが良い…」


あえてゆっくりとした口調で、重く響かせる。


農民は一瞬、言葉の意味を理解できずに固まった。


異形の怪物が放った言葉は、彼の理解を超えていた。


しかし、その異様な威圧感と言葉の響きが意味するところは、極めて単純で明確だった――


命が助かった。


次の瞬間、彼の顔は驚きと安堵、そして極限の恐怖が入り混じり、ぐしゃぐしゃな表情になった。


そして、反射的に地面にひれ伏した。


「ありがとうございます!!ありがとうございます!!もう二度とここには近づきません!!」


頭を地面に何度も擦りつけるように土下座し、震える声で懇願する。


その声は、感謝というよりも、恐怖の余韻が抜けきらない悲鳴に近かった。


彼の背筋には冷たい汗が滴り、膝はガクガクと震えていた。まともに立ち上がることもできず、もはや後ずさることさえ困難な状態だった。


それでも、這うようにしてじりじりと距離を取りながら、必死に後退していく。


太郎は満足げに腕を組んだ。


「(よし……どうやら俺の演技は完璧だったようだな……)」


異形の無数の眼がギョロリと動く。まるで満足気に頷いているかのようだった。


実際のところ、彼の力はただの「音を生み出す能力」に過ぎず、先ほどの恐怖演出もハッタリにすぎなかった。


しかし、混乱しきったキャベットにはそんな真相など知る由もない。


彼にとっては、混沌の化身が慈悲に助けられたのだ。


農民は顔を涙と汗でぐしゃぐしゃにしながら、何度も礼を述べつつ、足をもつれさせながら森の奥へと駆けていった。


まるで命からがら逃げるウサギのように。


やがて、その姿が完全に見えなくなると、太郎は大きく息を吐いた。


「ふぅ……」


重いため息とともに、ゆっくりと自らの異形の身体を見下ろす。


――見た目が異形の怪物である限り、これからも人間と関わるたびにこのようなことが起こるのだろう。


太郎は目を閉じ、一度だけ肩をすくめた。


「まあ、仕方ないか……」


そう呟くと、再び静寂が森を包み込んだ。



―――



酒場の中央で、一人のキャベットが興奮した様子で語り始めた。


「お、おれは見たんだ! 森の奥に、恐ろしい異形の化け物がいたんだ!体長は6……いや7メートルはあった……いや、もっとかもしれねえ!全身が禍々しい触手で覆われていて、無数の目がぐるぐる動いてたんだ!」


キャベットの声は酒場に響き渡ったが、客たちの反応は鈍かった。


ちらりと視線を向ける者はいたものの、誰の顔にも疑念が浮かんでいる。


彼は村でも有名な大嘘つきで、これまでも幾度となく荒唐無稽な話を語っては、人々を呆れさせてきたのだ。


「またホラ話かよ」


「これで何度目だ?」


「昨日は金色のゴリラがいたって言ってたよな……?」


「いや、森で黄金のパルテ鹿を見たって言ってなかったか……?」


「この前はドラゴンを見たって言ってたな」


「ペットとして飼ってるとか言ってたっけ……?」


誰もが嘲笑混じりに口々に言い、酒を飲む手を止めることなく話を流していた。


キャベットは必死に言葉を重ねるが、その焦燥がますます信用を失わせるばかりだった。


「今回はマジっ…マジだってっ!あんな恐ろしいもん、見間違えるはずねえ!」


「はいはいっと…おっ…これ旨いじゃん…」


「へえ、そりゃ大変だなあ。じゃあ、今すぐ冒険者ギルドに知らせねえとな!がはは♪」


「そんなのがいたら、シルバーランク以上の冒険者が必要だな♪」


「依頼料どえらい金額になるぜ!」


「お前の給料10年分じゃ足んねぇぞ?」


誰かが皮肉混じりにそう言うと、酒場の客たちは一斉に笑い出した。


結局、誰一人として彼の話をまともに取り合う者はいなかった。


「…ま、マジなんだって……」


しかし、そんな中でただ一人、じっと話に聞き入る人物がいた。


酒場の隅、暗がりに溶け込むように座っていた女。


顔を覆うほどの漆黒の長髪、深紅と漆黒の織り交ざるローブ。その存在自体がどこか異質な空気を漂わせていた。


彼女は微動だにせず、キャベットの話に耳を傾けていたが、その赤い瞳の奥には、喜びと期待の色が滲んでいた。


「……(触手の異形……間違いない!)」


 呟くと、彼女は静かに立ち上がった。


ローブを翻し、迷うことなく酒場を後にする。目的地は決まっている――ここから、すぐの森の奥。


彼女にとって、農民の話は疑うべきものではなかった。


ずっと探し続けていた『主』の姿と、その話があまりにも一致していたのだから。



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