研究者とキューブの修繕①
部屋の中は、重苦しいほどに薄暗かった。
窓辺のカーテンは中途半端に閉じられ、わずかな隙間から湿った夜気が忍び込んでいる。
その空気は、酒と汗と、どこか甘ったるい匂いが混じり合い、肌にまとわりつくように淀んでいた。
床一面には脱ぎ捨てられた衣服が無造作に散乱している。
女性物の服や下着が目立つが、ところどころには男物のシャツや靴下も混じり合い、だらしなく放り出されていた。
その無秩序な有様は、退廃的で、刹那的な営みの残滓を露わにしている。
ベッドの上では、薄汚れたシーツが乱れ、そこからもぞもぞと蠢く影が浮かび上がった。
やがて姿を現したのは、一人の女。
半透明の肌は、どこか液体を思わせる不定形の光沢を帯びており、わずかな月光を受けて妖しく揺らめいた。
彼女は一糸まとわぬまま、ぼさぼさに乱れた茶髪を垂らしている。毛先は絡まり、手入れの跡など一切感じさせない。
その女は──魔族の中でも稀少な存在、スライムから進化した亜種、魔族:スライモーフだった。
「っ…ぐおぉっ……ぐぉぉっ…」
隣には、大柄な男がベッドに沈み込むように横たわっている。
衣服はほとんど身につけておらず、パンツ一枚の姿はだらしなく、息は酒の匂いを帯びて荒い。
その眠りは安らぎとは無縁で、意識を手放した無防備さは、眠っているというよりも気絶に近い。
──果たして、それは酒のせいなのか。
それとも、彼女自身がもたらしたものなのか。
女は一瞬だけ、ベッドに横たわる男へと視線を向けた。
しかし、その瞳に宿った関心はほんの刹那で失われ、すぐに冷ややかに目を逸らす。
ベッドの端からゆるりと立ち上がると、くしゃくしゃのシーツを無造作に身体へ巻きつけ、よどんだ空気を払いのけるように窓辺へ歩み寄った。
カーテンを勢いよく引き開ける。
湿った夜気が切り裂かれ、街灯の光とわずかな月明かりが室内へと差し込む。
その光に照らされた彼女の目元には、濃く深い隈が浮かんでいた。寝不足か、それとも幾夜も続く研究の代償か、判別はつかない。
「っ…ふあぁぁぁ~…んぅ。」
彼女は大きなあくびを一つ漏らし、涙の滲む目を乱暴にこすった。
「…何時まで私のベッドで大いびきをかいているだい。…早く…起きろ。」
「グぉっ――ー」
次の瞬間、彼女は容赦なくベッドに眠りこける男を叩き起こした。
男は呻き声を上げながら飛び起き、額を手で押さえつつ目を見開く。
「な、何だよっ…良い気持ちで眠っていたのにっ…」
「気持ち良かったのはお前だけだろう…一人で果てるだけ果てて…私は満足してないぞ…?」
女は冷淡な声で言い放ち、そのまま男を玄関口まで追いやった。
「ま、待ってくれっ…ふ、服きてねぇからっ…」
「五月蠅い奴だ…サイズもテクニックもないヤツに私は興味などない。」
「くっ…」
男は呆けた表情のまま、反論の言葉すら見つけられず、ドアの外へと放り出される。
戸が閉まると同時に、部屋には静寂が戻った。
「ふぅ…」
女は肩をすくめ、慣れた手つきでコーヒーを淹れはじめる。
湯気を立てる黒い液体をカップに注ぎ、一息に傾けた。喉を通り抜けるときの音が「んく、んく」と低く響く。
半透明の身体を通して、その液体が黒く流れ落ちていく様子が、外からでもはっきりと見て取れた。
その光景はどこか異様で、同時に彼女が「人ならざる存在」であることを雄弁に物語っていた。
「んはぁ…」
口元を指でぬぐい、短く息を吐いた彼女は、葉巻に火をつける。
紫煙がゆるやかに昇る中、戸棚を開けると、中から取り出したのは挑発的なデザインの水着だった。
ためらうことなく身に着け、その上からは古びた研究用のローブを羽織る。水着の鮮烈な派手さと、汚れの目立つローブの対比はどこか滑稽でありながら、彼女らしい不気味な調和を生み出していた。
最後に、大きく背を反らすように伸びをし、深く息を吐き出す。
そして女は扉を押し開け、何の未練もなく部屋を後にした。
残されたのは散乱した衣服と、消えきらぬコーヒーの香りだけだった。
―――
山脈の裾に築かれたその屋敷は、蒼白く輝く龍の鱗を思わせる外壁に包まれていた。
建材に用いられているのは、古来より「蒼黒石」と呼ばれる魔力鉱石である。
光を浴びるたび、その表層は深い群青から鈍い銀青へと揺らめき、屋敷全体がまるで生き物のように呼吸しているかの錯覚を与えた。
周囲の空気には、常に熱気が混じっている。
屋敷を囲む湖面からは絶え間なく淡い蒸気が立ち昇り、まるで大地そのものが沸き立っているかのようだ。
これは地下深くを走る地脈を利用した炎魔法の余熱のせいであり、同時に、この地が古代から魔力の集う聖域であることを物語っていた。
巨大な正門には、青き龍の石像が二体、左右に睨みを利かせている。
石とは思えぬほど精緻に刻まれた顔貌は、今にも咆哮を放たんとする瞬間を切り取ったものであり、牙の間にこもる気迫すら感じさせた。尾は門柱を締め上げるように絡みつき、その姿のまま屋敷全体を覆う結界の一部となっていた。訪れる者は門を潜る時、必ずその龍に見定められるのだ。
正門を抜けると、石畳の道が真っ直ぐ主屋へと伸びていた。
両脇には青い炎を灯した灯籠が途切れることなく並び、道の先を冷ややかに照らしている。
魔力によって形を保ったその炎は、いかなる風にも消えることなく、揺らめきながらも不変の光を放ち続けていた。訪問者を歓迎するものではなく、あくまで監視と選別を兼ねる光である。
やがて姿を現す主屋は、五階建ての塔屋造り。石造の重厚な壁は夜の闇を背にさらに威容を増し、空を突くように聳え立つ尖塔は、この地を支配する権威の象徴に他ならなかった。
尖塔の頂には逆さ角を模した蒼き飾りが冠せられている。その異様にして神聖な意匠は、見る者の心に畏怖を刻み込むと同時に、ンシュタウンフェンの名家が再び蘇ったことを高らかに示していた。
「入ルゾ。」
――ガチャ。
その時、重い沈黙を破るように、扉の向こうから軽い音が響いた。
鼻で押すようにしてドアがゆっくり開き、姿を現したのは虎を思わせる巨大な獣――ルドラヴェールだった。
縞模様の毛並みは柔らかな光を受けて波打ち、その巨躯は野生の猛獣らしい威圧感を放ちながらも、動作には不思議なほどの静謐さが宿っている。
前脚を器用に伸ばし、ドアノブを回す仕草は、野獣のそれではなく、むしろ老練な執事のような洗練を帯びていた。
「グル。アーヴァ殿。…今日ノ仕事ダ。」
低く響く声は獣の喉から発せられたとは思えぬほど明瞭で、部屋の空気を震わせる。
彼が仕える相手はアーヴァではない。
ルドラヴェールが服従を誓った主は、さらに上位の存在――クトゥル。アーヴァを補佐するのも、その命によるものに過ぎなかった。
分厚い紙束を咥えた口元からは、白い息がふっと漏れる。
机の上に書類を無造作に落とすと、彼は大きな体をわずかに引き下げ、一歩退いて静かに待機の姿勢を取った。
「はぁぁ…今日も仕事か…」
アーヴァは小さく肩を落とした。
ようやくンシュタウンフェンの名を背負う当主として復権し、ユ=ツ・スエ・ビルの三大名家の一角としてその座を取り戻した。
それは彼女にとって大きな誇りであり、何より喜びのはずだった。
だが現実は、重厚な机の上に積み上がる果てしない書類の山――名家を治める者の宿命に、日々追われている。
かつては、ただウロボロスの世界を滅ぼすことだけを胸に抱き、廃都で暮らしていた。
その瞳は、今では新しい料理の話題にさえきらきらと輝くほどに変わっていた。滅ぼすよりも、生きること、味わうこと――その方に心を動かすようになったのだ。
しかし、仕事は待ってはくれない。
「……こんなに…あるぞい…?」
机に広がる書類を見て、彼女は思わず呻いた。
「イヤ、コレハ午前ノ分ダ。午後ハ、コノ倍ハアル。」
ルドラヴェールの低い声が響く。彼の口調はあくまで淡々としているが、その響きは容赦なく重い。
「ぐぬぅっ…!?」
アーヴァは呻き、椅子の背に体を預けた。
「サァ、終ワラセナケレバ、食事モ取レナイゾ…?」
「うっ…分かったぞい……」
渋々といった様子で羽ペンを取り上げると、インクの匂いが鼻先に広がった。
白紙は敵の群れよりも無慈悲に見え、ペン先を走らせても、山は減るどころか威圧感を増していくかのようだった。
ふと、視界の端に黒い影がよぎる。
机の隅、ひび割れた混沌のキューブが、無言のまま置かれている。
まるで、その歪んだ立方体がこちらをじっと見据え、言葉にならぬ圧力を投げかけているかのように――。
羽ペンの先が紙面を滑り、淡いインクの軌跡が規則正しく並んでいく。
それは屋敷の収支報告、家臣たちの任務記録、領地各地からの視察報告――名家の当主として目を通さねばならぬ書類ばかりであった。
しかし、進めれば進めるほど、アーヴァの心は鉛のように重く沈んでいった。
視界の片隅には、例の黒い立方体が静かに転がっている。
砕け欠けた表面の亀裂からは、淡く淀んだ闇の気配がにじみ出し、周囲の空気を微かに震わせていた。
――聞こえる。
アーヴァは手を止め、羽ペンを持つ指を固く握りしめた。
耳ではない。頭の奥底に、ざらつく声が忍び込むのだ。
幾千もの影が笑い、囁き、彼女の記憶の深みに泥を流し込むように掻き乱していく。
その力の片鱗を知っているからこそ、背筋を凍らせる恐怖があった。
かつてエリザベートと刃を交えた時、確かにこのキューブは応じたのだ。
だが今は、砕け、沈黙している。
「(今はキューブより…仕事じゃ。…仕事に集中せねば…わっちは、クトゥル様に認められた名家ぞいっ)」
己を奮い立たせるように、アーヴァは頬をぺちりと叩いた。
深呼吸をひとつして視線を紙面へ戻し、羽ペンを再び走らせる。
やがて、机上に積まれていた書類の山はみるみる削られていき、最後の一枚が残るだけとなった。
「あと1枚…これで終わ――。」
達成を目前にした喜びが、彼女の頬を緩ませた。
終えればすぐにでも食事にありつける。だが、それを待ちきれぬように、アーヴァのお腹はきゅるきゅると小さな音を立てた。
しかし、そのささやかな安堵を打ち砕く影があった。
「グル…思ッタヨリ早イナ。デハ午後ノ分モ進メヨウ。…次ダ…」
重い音とともに、ルドラヴェールが新たな紙束を机に置いた。
分厚いその山は、午前のものを軽く上回っている。
「あぁぁぁ…っ」
アーヴァは深い溜息をつき、こめかみを押さえた。
ぐう、と腹の虫が不満を訴える中、羽ペンを握る手は小刻みに震えていた。
―――
ユ=ツ・スエ・ビルにおいて、その名を耳にしたことのない者はもはや存在しなかった。
混沌を司る邪神――クトゥル。
普段の彼は、人の姿を纏い、静謐な気配を湛えて信徒たちの前に現れる。
その歩みひとつ、視線ひとつにすら威圧と神秘が宿り、人々は畏敬をもって頭を垂れる。
だが、真の姿を解き放ったとき。
彼の肉体は轟音を伴って膨張し、赤黒の甲冑と血肉が絡み合うように融合し、世界の理から逸脱した異形へと変貌する。
その躯を覆うのは、幾十、いや幾百という赤き眼球。ぎらつく眼光が一斉に輝けば、視線を受けた者の魂は震え上がり、心の奥底を氷漬けにされる。
その威容こそ、まさしく「邪神」。
立っているだけで、畏怖と絶望を辺り一面に撒き散らす存在であった。
――だが。
その仮面の裏を知る者は、世界のどこにも存在しない。
クトゥルの正体は――転生したばかりの十八歳の青年。
しかも、中二病をこじらせた痛々しい少年性を、いまだ引きずる若者にすぎなかった。
もちろん、その事実を知るのは彼自身ただひとり。
信徒たちは疑念を抱くことすらなく、彼を全知全能の存在として盲信する。
人々は彼の一挙手一投足を神託と受け取り、血を捧げ、魂を捧げ、己の命さえも差し出す。
だからこそ――もし、この虚像が崩れ去ることがあれば。
世界は、未曾有の混乱に呑まれるだろう。
「……考えるだけで、胃が痛いぃ……」
思わず漏れた情けない声を、彼は慌てて呑み込んだ。
信者たちの前であれば、低く轟く神威の声を演じ、誰もがひれ伏す邪神として振る舞える。
だが、ひとたび独りとなれば、虚飾を纏う必要はどこにもなかった。
クトゥルは脳内に1人の信者を思い浮かべる。
その名は、エリザベート=ド=アビスローゼ。
黄金を思わせる髪を自ら漆黒に染め上げ、白磁のような頬には血の涙を思わせる紅の痕がある。
その姿は冷酷にして優美、誰もが畏怖と陶酔を抱かずにはいられない。
アビスローゼ家を率いる真祖の吸血鬼にして、彼女こそが現当主だった。
しかも彼女は、誰よりも深くクトゥルを信じている。
狂気に近いほどの信仰は、「彼が邪神である、彼が私を導く」という一点にすべてを依存していた。
――だが、現実はどうだ?
クトゥルは全知全能の存在などではない。
中身は転生したばかりの青年であり、虚飾と演技で取り繕った張りぼてにすぎない。
さらに厄介なことに、アビスローゼ家――エリザベートが真の邪神の血を受け継いでいる。
もし、エリザベートがその真実に気づいたなら――。
彼女は怒り狂うに違いない。
盲目的な信仰が崩れ去ったとき、それは必ず残酷な憎悪へと変質する。
拷問に近い仕打ちを受け、最期には嬲り殺される未来を、彼はあまりにも鮮明に想像できてしまった。
背筋に氷柱を突き立てられたかのような悪寒が走り、クトゥルの体は小さく震える。
転生の際に大きく変質した彼の肉体は、すでに人のそれではなかった。排泄もなければ、汗もかかない。
――だからこそ、余計に恐ろしい。
前世であれば今ごろ冷や汗で衣を濡らしていただろう。
だがその感覚を持たぬ今の彼には、ただ全身を締めつけるような「寒気」だけが、異様なまでに鮮烈に迫っていた。
「バレたら終わりだ……」
低く零れた呟きに、威厳の欠片は残っていなかった。
それでも彼は誓う。
自分が無能であることを――絶対に、決して、知られてはならないのだと。
その時だった。
「こちらに居られましたか…クトゥル様っ」
噂をすれば影が差す。艶やかな声が静寂を破り、闇に鈴の音のように響いた。
音もなく重厚な扉が押し開かれ、そこから一人の女が現れる。
エリザベート。
漆黒へと自ら染め上げた髪が瀑布のごとく肩へ流れ落ち、灯りの少ない室内でも艶やかな輝きを放つ。
白磁のように透き通る頬には、血の涙を流したかのような深紅の痣が刻まれており、それはまるで呪いの紋様のように妖しく光っていた。
長い睫毛の下から覗く真紅の瞳が煌めくと、それを見た者は一瞬で心臓を掴まれたように息を呑む。
彼女が進むたび、重厚な裾が床を擦り、その足取りひとつひとつが儀式の舞のように荘厳であった。
クトゥルは反射的に背筋を正す。
心臓が胸を破って飛び出しそうになるのを必死に押し殺し、威厳をまとった「邪神の貌」を作り上げた。
「……何用だ、エリザベート…」
低く、地を震わせるような声色で答える。
しかしその内心では――「声震えてない!?」「噛んだら終わる!!」――と悲鳴を上げるほどの綱渡りであった。
エリザベートはやがて彼の前に膝を折り、深々と頭を垂れる。
「…お言葉を賜りたく参じましたっ」
その声音は、陶酔と狂信が溶け合ったもの。
愛を乞う乙女のような響きでありながら、同時に、牙を隠した猛獣の囁きにも似ていた。
クトゥルの喉が、ごくりと鳴る。
だが汗は流れない。冷や汗の代わりに、鋭く冷たい悪寒だけが背筋を這い、皮膚を内側からひりつかせる。
「……ふむ。よかろう」
威厳ある仕草で頷いてみせる。
しかし頭の中では大混乱だ。
「(お、お言葉って……何を言えばいい…!?いや、待て、こういう時は……!それっぽいことを言っとけばいいんだ!)」
そして彼は、ゆっくりと口を開いた。
「――混沌は常に循環し、秩序を呑み込むもの……」
その言葉は、低く深い響きとなって室内を満たす。
意味など考えていない。咄嗟に頭に浮かんだ言葉を、ただ可能な限り重々しく響かせているに過ぎなかった。
「闇を恐れるな、光をも恐れるな。恐れるべきは――停滞だ」
その瞬間、エリザベートの肩がかすかに震える。
静寂を切り裂くように、彼女の表情に恍惚が走り、白磁の両手を胸元に当てた。
「……ああ、なんと深淵なる叡智……!やはりあなたこそ、我らが唯一無二の邪神……」
陶酔に濡れた声が広間に響き渡る。
クトゥルは心の中で、全力で安堵の息を吐いていた。
「(ァァァっ…!あっぶな……!完全に適当な発言だったのに、納得してくれたっ!)」
しかし、もちろんそれを顔に出すわけにはいかない。
彼は感情を凍らせたまま表情を崩さず、静かに立ち上がる。
赤黒い瞳を細め、玉座から見下ろすようにしてエリザベートを射抜いた。
「……うむ。その信仰を貫け。さすれば、汝はさらなる深淵を知ることになる」
「御心のままに……!」
エリザベートは再び地に膝をつき、崇拝の姿勢で深く頭を垂れる。
その双眸には狂気と陶酔が入り混じり、赤く揺らめく炎のように煌めいていた。
クトゥルは、ただひとり心の中で叫ぶ。
「(お願いだから……!いつかボロが出ても……どうかバレないでくれぇぇぇ……!)」




