表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
190/198

血と氷のクラゲイン⑰


「そ、そんな…一瞬で…」


凍りついた死骸に囲まれ、メドゥリーネの唇がかすかに震える。


夜気は刺すように冷たく、肌に触れるたび骨の奥まで痛みが走る。

赤みを帯びた艶やかな唇は青白く色を失い、息を吐くたびに白い霧となって夜空に溶けていった。


「……あ……ぁ……うそ…だ、誰か…うぅ…」


掠れた声は、吐息よりも弱く、氷の床に吸い込まれるように消えた。膝が力を失い、音もなく崩れ落ちる。

凍った石畳に裸足が触れた瞬間、冷たさが皮膚を刺し、血管の奥まで痛みが響いた。体の芯が硬直し、全身が小刻みに痙攣する。


尻もちをついた衝撃で腰の薄布がずれ、白く柔らかな肌が氷の照り返しにさらされる。

冷気は肌の表面だけでなく、筋肉や神経にまで入り込み、感覚を鋭くしつつ麻痺させる。羞恥も寒さも、恐怖の前では意味を持たない。


両手が自然に動き、爪を立てて氷の床をかくように這いずる。

彼女の爪は霜を削り、白い粉が指先から舞い上がる。


冷たく硬い床面の感触は痛みすら伴い、指先の神経を焼くように刺激する。それでも体は前に進もうと必死に動き、氷の床を引きずるたびに冷気が指先から腕、肩へと伝わり、骨まで震わせた。


腹に伝わる凍結した石畳の感触は鈍痛と鋭さを同時に伴い、呼吸するたびに肺が凍りつくような痛みを覚える。

吐き出す息は白い霧となり、凍りついた空気に瞬時に溶け込んだ。髪は風で顔に貼りつき、薄布はひらひらと震える。


視界に映るのは、氷床に反射した自分の顔。赤い瞳は恐怖に揺れ、艶のあった唇は痙攣している。誇り高きラミアの面影はなく、そこにあるのは、命乞いにすがる一匹の獣の顔だけだった。


周囲の氷原は、視界の端で微かにきしむ。

この場に吹き抜ける風は骨にまで刺さるようで、髪や薄布を揺らし、凍った空気の重みを一層増幅させる。耳に届くのは、自分の荒い呼吸と、指先が氷床を擦る音。


そのすべてが、圧倒的な静寂の中で恐怖を強調する。

メドゥリーネは、ただ前に這いずることしかできない。

氷の冷たさと床の硬さが、まるで地獄そのものに引きずり込むかのように体を支配し、見えない何かに必死で縋ろうとする獣のような姿を作り出していた。


「……俺様の名を、汚したな」


その声は、氷よりも冷たく、深海の底よりも重く、空気を震わせながら足元から這い上がるように響いた。

床の石畳は凍りつき、体から冷気が骨の芯まで伝わる。

メドゥリーネの呼吸は浅く、喉が詰まるように痛み、心臓の鼓動が耳の奥で跳ねる。


やがて、褐色の影が完全に彼女を覆い隠す。金色の片目が冷酷な光を宿し、彼女を見下ろす。その視線は裁きでも、怒りでもない──ただの事実としての死刑宣告だった。


触腕の一本が滑るように伸び、彼女の顎をすくい上げる。強制的に顔を上へ向けられ、頬を刺す冷気と共に僅かな痛みが走る。


膝の震えが床に伝わり、指先は血の気を失って青白くなる。唇は震え、かすれた息が吐き出されるたびに白い霧となって凍りついた空気に消えていった。


「……待って……ちょっと、待って…下さいっ…」


その声音は、いつもの高慢な威圧ではなく、全身を震わせる弱者の懇願だった。恐怖と焦燥が体中に広がり、肩は小刻みに震え、背筋は凍りつく寒さで硬直する。指先は勝手に膝の上で握りこぶしを作り、無意識に爪を立てる。


「私は、あの子を傷つけてないわ……可愛がってた……だから……お願い……助けて……っ」


胸の奥が締め付けられ、息を吸うたびに心臓が跳ねる。


震える手で胸元を押さえると、白磁の肌が冷気に触れて微かに痺れ、肌の表面に鳥肌が立った。寒さと羞恥と恐怖が入り混じり、全身が小刻みに痙攣する。


イグロスの眼差しは冷たく、無言の圧力が彼女を押し潰す。視線を逸らすことも許されず、唇から出る息は肺の奥で凍りつき、白い霧となって立ち上るだけだった。


「……命を……助けてくれたら……わたし…っそう……」


震える手が衣をそっと開く。

豊満な胸が現れ、血に濡れた氷の上でも白磁の肌は艶めき、冷気に震える乳首がかすかに色を変える。

息が詰まり、背筋に走る寒さが肉体を刺すように痛む。膝の感覚は薄れ、床に触れる足の裏はしびれ、爪先から血の気が引いていく。


メドゥリーネの瞳は恐怖で大きく見開かれ、震える唇は震え声を紡ぐ。

胸元の白い肌、震える指先、冷たく凍りつく床、そして恐怖に押しつぶされる全身──その全てが、彼女の無力さと必死の懇願を際立たせた。


「……イグロス様の…あなた様の……女になります……何でも、しますから…ッ」


その言葉と共に、メドゥリーネの顔色は真っ青に染まった。

かつての艶やかな唇も、頬も、すべての色を失い、瞳からは光が消え失せていた。

赤く妖艶に光っていた瞳は、冷気に覆われた空洞のように虚ろで、恐怖と絶望だけが映し出されていた。


「はぁっ!? 何言ってンだよっ!クソビッチっ!?旦那はキャロのだしっ!?」


キャロライナの声が、場違いなほど甲高く響いた。その瞬間、彼女の背中の毛が一斉に逆立ち、長いうさ耳が左右に大きく揺れる。怒りで目尻が吊り上がり、拳は今にも地を蹴って飛び出しそうなほど固く握られていた。


「キャロライナ……今は、そんな空気ではないぞ……」


ティファーの高くも低くもない声が、静かな水面に石を落とすように割り込む。鋭い視線が彼女を射抜き、その気迫にキャロライナは一瞬、足を止めた。


「ティファーさんの言う通りだぜ……キャロ……」


ジークもまた、背後から諭すように声を掛ける。その声音は柔らかいが、そこには緊張感が滲んでいた。


しかし──空気は一向に和らがない。

凍りつくような緊張の中、メドゥリーネの表情には艶がなく、青ざめた顔が氷のように硬直していた。

光を失った瞳が、ただ虚ろにイグロスを見つめる。場を支配しているのは、イグロスとメドゥリーネの、刺すような視線の交錯だけだった。


「俺様の女…だとぉ…?」


その低く震える声が、冷たい夜気に重く響き渡る。

メドゥリーネの唇はかすかに震え、目からは光が完全に消え、虚ろな瞳がイグロスを必死に見つめていた。


「は、はいっ…私…得意なんですっ…絶対に満足させ――」


その声は、哀願に満ちていた。かつての誇りや威厳は跡形もなく消え失せ、命乞いという最低の道を選んだメドゥリーネ。

初めは、イグロスの表情にわずかな希望を見出したかのように思えた。しかし――


「…はっ!…わりぃな…」


イグロスは口角を僅かに吊り上げ、鼻を鳴らす。その冷徹な仕草が、余計に絶望を際立たせた。


「俺様は…˝ブス˝には興味ねぇんだよ…」


その一言は、まるで斧で顔面を叩き割られたかのような衝撃だった。

メドゥリーネの表情は絶句し、硬直する。肌の色がさらに失われ、身体の震えだけが無残に残った。


「……ッ……!?うそ……でしょ……っ?」


その声は、耳を裂くほど小さく、しかし必死だった。

しかし、次の瞬間──


「──がッ!?ッッッあああアァァァァァアアッ!!!!!」


鋭い痛みが鼻から脳天まで貫く。

血の熱と氷の冷たさが交錯し、意識の端まで突き刺さるように響く。


「痛っ…な…なに…」


メドゥリーネの視界に、何かがぼたりと落ちた。

目を慌てて下に向ける。


そこにあったのは、鼻──いや、鼻そのものが切断され、血の滴が石畳に小さな紅い点を作っていた。

斜め下から上に向かって、鋭利な刃物で斬り払われたかのように、形は無惨で歪んでいる。


「ひ……ひィぃぃ……ぁ、あああああああああッ!!!」


悲鳴が、夜気を引き裂くように爆ぜた。

痛みだけではない。恐怖と、自己崩壊の感覚が一気に押し寄せる。


彼女の目の前で揺れていたのは、イグロスの触腕だった。

その先端は氷の刃のような物が成形され、滴る血が先端から冷たく流れ落ちる。

触れるものすべてを凍らせ、破壊する冷気が、その腕から静かに立ち昇っていた。


「おら…改めて、てめぇの顔を見ろ…クソブスが…」


触腕の氷面に、メドゥリーネの顔が映る。

そこに映ったのは──絶望と苦痛に歪み、恐怖で目が虚ろになった、自分自身の崩れゆく姿だった。

かつての高慢で艶やかな表情は跡形もなく、ただ震える肉塊と化していた。


「いや……いやあああああ!!こんなの……やだッ! 顔がッ! わた…わたしの顔がァァ!!」


慟哭が夜空に突き刺さる。

叫喚、嗚咽、嗚咽。

だが、それらの声は、凍てついた広場に反響するだけで、イグロスの足を止めることはない。

彼の金色の瞳には、情けも同情も存在せず、ただ事実として破壊を確認する冷徹さだけが宿っていた。


周囲の空気は重く、氷の冷たさがメドゥリーネの肌を刺し、痛みと恐怖を幾重にも増幅させる。

叫ぶ声も、踏みしめる足も、すべてが彼女を逃れさせない檻となって押し寄せる──完全なる絶望の中で。


「俺様の名を騙って……人攫いして……主の所有物に手ェ出して……」


イグロスの声は低く、深海の底にまで響く潮鳴りのようだった。


「命で済むと思ってンのか……?ビチク×女が……」


その言葉は刃となり、空気を切り裂くようにメドゥリーネの鼓膜を突き、胸の奥まで冷たく鋭い痛みを送り込む。


氷の冷気よりも冷たく、骨の隅まで重く突き刺さる。

場にいた全員が、言葉の重みと殺意の凶暴さを肌で感じ、背筋を凍らせた。


メドゥリーネの唇が震え、喉からかすれた声が漏れる。


「……た……たす……けて……」


その懇願は、氷の床の冷気に吸い込まれるように消えていく。

かつての傲慢で艶やかな笑みは跡形もなく、取り繕う余裕も失われた女は、恐怖に支配されたただの獣と化していた。


しかし、その場にいる誰一人として彼女を哀れむ者はいない。

むしろ、全員の視線は冷たく、獣を観察するかのような無情さで満ちていた。


「だが、クトゥル様の言葉を借りるなら…てめぇに慈悲をくれてやってもいいぜ…?」


鼻を覆うメドゥリーネの手から、赤い血が指の間を伝い、凍った石畳に滴り落ちる。

その一瞬の慈悲の言葉に、彼女は恐怖で体が固まり、咄嗟に手を離し、両手を震えながら氷の床に押し付けた。


冷たさが皮膚を焼くように刺さり、痛みと恐怖が混ざり合い、震える体に余計な力を奪う。


その瞳には光がなく、虚ろで、絶望が染みついたように見える。

全身から滲む怯えは、かつての威厳を微塵も残していなかった。


「……ありがとう……ございますっ……どうか……どうか……私に慈悲を…お願いしますっ!」


メドゥリーネは、氷に覆われた床に額を押し付け、震える声を振り絞った。

吐き出す息は白く凍り、青ざめた唇はかすかに震え、指先は氷の床に縋りつくように必死で耐える。

全身が冷気と恐怖に支配され、体の力は抜けきっていた。


イグロスはその様子を、静かに見下ろす。

氷の冷たさを孕んだ視線は、まるで深海の底から獲物を見つめる捕食者のように静かで、しかし圧倒的な威圧感を放っていた。

やがて彼は、低く、地を這うような声で命じた。


「……顔を上げろや…」


恐怖に縛られて硬直していた肩が、微かに震えながら、ぎこちなく動く。

メドゥリーネは恐る恐る視線を上げた。


その瞬間、目に映ったのは――意外にも柔らかく口元を綻ばせた笑みのイグロスだった。

僅かに見えたその笑顔に、胸の奥に封じられていた希望が弾けた。


脳裏で「助かる」という言葉が炸裂し、全身を温かい期待が満たす。

涙に濡れた手は、震えながらも自然と彼へ伸びた。


だが、その刹那。


イグロスの表情は、音もなく変化した。

柔らかな笑みは霧散し、そこに残ったのは無機質で冷徹な仮面のような無表情。

金色の瞳には、微かな温もりも色もなく、氷のように硬く冷えた光だけが宿っていた。


「……誇り高き元四天魔、メドゥリーナの妹に免じて……てめぇに慈悲をくれてやるよぉ。」


イグロスの声は、氷底から響く潮鳴りのように低く、全身を震わせる重圧を帯びていた。

わずかに間を置き、吐き捨てるように続ける。


「……苦痛のない˝死˝【慈悲】をなぁっ!」


「――え……」


その言葉の意味が、メドゥリーネの脳裏に叩きつけられる。

耳に届く衝撃に、体の奥底から震えが駆け抜ける。理解したくない現実が、否応なく胸を締め付ける。瞳は見開かれ、口は震え、再び命乞いの言葉を紡ごうとした――その瞬間。


「穿て、凍てつく棘の牙――」


低く響く詠唱と共に、イグロスの腰から伸びた複数の触腕が、湿った金属音のように氷結し始める。

瞬く間に青白い氷が絡みつき、うねる肢は鋭く尖った氷槍へと変貌していった。霧のように立ち上る白煙が、氷の冷気をさらに濃く際立たせる。


「ま、ま――」


「――『アイシクルストライク』」


氷の先端がわずかに揺れ、鋭く光る。

イグロスの唇から、最後の言葉が落ちる。


「……死ね」


その声は断罪の鐘よりも冷たく、骨まで凍りつくような重さを持つ。

氷槍は躊躇なく、獲物――メドゥリーネの身体へと突き出された。


肩、腹、下腹部、手首、心臓、背中――


触腕に形成された氷の刃が、躊躇なく彼女の肉を裂き、切り裂き、串刺しにしていく。

切断される音は鈍く、だが全身に響き渡る震動となり、皮膚と骨が砕ける痛みが瞬間的に全身を貫く。

血が白い霧と混ざり、氷の表面で赤黒く滲む。


「い゛っ……あ゛ぁ゛ッ……が、ぎッ……ッッッ……ッ……ああ……っ、う……うそ……でしょ……」


その言葉が、メドゥリーネの最期となった。


氷に貫かれたその肉体は、瞬時に凍結し、細かく砕けるように崩れ落ちる。


氷の表面で赤黒く滲む血は、彼女がかつて誇った美しさと高慢な誇りの破片を、無慈悲に映し出していた。


凍りついた石畳の上で、粉砕された身体の破片は微かに光を反射し、まるで凍りついた花弁のように散乱する。


広場全体は静寂に包まれ、冷気が地面から立ち上る。

空気は重く、破滅の余韻だけを残して震え、存在するのは死と氷の支配下に置かれた絶対的な沈黙だけだった。


イグロスは、何も言わず、ゆっくりとその場を背にする。


血と氷に染まった広場を、ただ淡々と後にする足取りには、迷いも感情も存在しない。

金色の瞳に映るのは、ただ──クトゥルの名の下に行う正しき裁きのみだった。


破壊された広場に残されたのは、氷の光に反射する血の赤と、冷気に震える静寂だけ。

そして、誰もがその圧倒的な力の前に、言葉を失った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ