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血と氷のクラゲイン⑯

「…メ、メドゥリーネ様…外で何が…ひ、ひぃぃっ……!」


疲労と快楽の残滓がまだ四肢にまとわりつき、インプの男は震える膝を押し立てるようにしてベッドからよろめき降りた。

足取りは覚束なく、吐息は熱く濁っている。それでも何かを確かめようと、重たい頭を窓の外へと向けた──そして、その瞬間。


視界に飛び込んできた異様な光景が、彼の血を一瞬で凍りつかせた。

月明かりに照らされた広場は赤と白の斑模様で覆われ、屍と氷が折り重なって無残に積み上がっている。

鼻腔を刺す鉄臭さが、部屋の中にまで忍び込んでくる気がした。


「ッ………あ、あれはっ…クラゲイ―――ッ!」


声は震え、最後までその名を吐き切ることは許されなかった。


「ちっ…黙りなさいっ…!」


低く鋭い叱責と同時に、空気を裂く音が室内を貫く。

メドゥリーネの長くしなやかな尾が、稲妻のような速度で振り抜かれた。

硬質化した先端が正確にインプの頬を打ち抜き、骨が砕ける鈍い破砕音が部屋の空気を重く震わせる。


男の頭は横に弾かれ、視界が白く弾けた。喉奥で潰れた呻きが血泡と混じり、吐息とともに途切れる。


「す、すみません……メドゥリーネ様……」


床に膝をつき、口端から赤を垂らしながら、インプは呻くように許しを乞う。

その姿は、すでに服従の形を超え、獲物が捕食者の前に身を伏せる本能そのものだった。


その横で、先ほど駆け込んできた若い魔族が、不安げに眉を寄せながら問いかけた。


「……これから、どうなさいますか……?」


その声音には、戦場の空気に押し潰されそうな怯えが混じっている。

一瞬、メドゥリーネの赤い瞳にかすかな動揺が走った。

視線がわずかに揺れ、薄く開いた唇が呼吸を忘れたように止まる。


だが、深く息を吸い込み、吐き出す頃には、もう氷で覆われたような冷静さがその表情に戻っていた。


「っ…大丈夫よ…収容所にいる人間か魔族を人質にすればいい。奴らの足を止める時間くらいは稼げるわ…」


その言葉を聞いた瞬間、若い魔族の表情に影が差した。

暗い瞳が伏せられ、口元が固く結ばれる。


「な、何よ…?」


怪訝に眉をひそめたメドゥリーネが、視線で続きを促す。

若い魔族は気まずそうに一度だけ唾を飲み込み、首をゆっくりと横に振った。


「……先に、収容所を……確認しました。南京錠は……壊されていて……檻の中は……空、でした」


その報告が終わると、室内の空気が一気に沈み込んだ。

ランプの炎がわずかに揺れ、その光がメドゥリーネの顔を照らし出す。

瞳が見開かれ、次いで鋭い舌打ちが空気を切り裂く。


「なっ……チッ!」


視線が、ベッド脇で蹲るインプへと流れ、次いで若い魔族へと移る。

そして最後に、その鋭さを増した目が部屋の片隅でうずくまる白兎の少女──ミレルへと止まった。


長く乱れた耳が小さく震え、彼女はその震えを隠すように背筋を正し、視線を逸らさずにメドゥリーネを見返していた。


紅玉のような瞳が、恐怖を呑み込んだまま、ただ静かに挑むような光を宿していた。

屋敷の外から、低く、それでいて異様に通る声が響いた。

命令口調。迷いも逡巡も一切なく、ただ命じるだけの支配者の声。


「マ×カス女ぁっ!…――早く巣から出てこいやぁっ!」


扉も壁も隔てているはずなのに、その響きは耳ではなく骨に直接叩き込まれたかのようだった。

鼓膜が震えるのではなく、胸郭の奥底にまで響き渡る。

イグロスの声だ──そう直感するのに、理由も証拠もいらなかった。

すでに屋敷内の者の存在など、とうに彼の眼と耳に捕らえられている。


「……仕方ないわ。」


メドゥリーネは吐き捨てるように呟き、ゆっくりと視線を部屋の隅へ向けた。


「あのチビウサギを使うわ……これを盾にして、逃げ切るしかない。」


その声音には、いつもの妖艶な色香は欠片も残っていなかった。

赤い瞳は冷え切り、そこに宿るのは剥き出しの焦燥と計算だけ。


インプが、ふらつく足取りで部屋の片隅へと歩み寄る。

そこには膝を抱えて座り込む白兎の少女──ミレルがいた。

長い耳が小さく震え、彼女は反射的に壁際へ後ずさる。


「や、やめっ……!」


必死の声も、インプの細くとも男性の腕力の前では無力だった。

彼の腕が細い腰を無造作に絡め取り、そのまま少女の体を空中に持ち上げる。

暴れる足が、宙を掻いて空しく揺れる。


一行はそのまま廊下を進み、階段へ。

軋む段板の音が、やけに大きく響き、心臓の鼓動と重なって耳の奥を打ち続ける。


やがて玄関の扉が開かれ、夜の冷たい空気が一気に流れ込んだ。


外には、追い詰められた十名ほどの魔族が、肩を寄せ合い小さく身をすくめて立っている。

だが、そのさらに外周──倍を優に超える数の魔族たちが、獲物を囲む狼のように円陣を組んでいた。


すべての視線が、階段を降りてきたメドゥリーネと、その腕に抱えられた小さな白兎の少女に注がれる。


夜気は重く、ひと息吸うだけで喉が凍りつくようだ。

逃げ場は、どこにもなかった。


「……やっと出て来やがったかぁ…」


低く、地の底を擦るような声が、ミードクァの空気を震わせた。


イグロスの視線が、まっすぐにメドゥリーネを射抜く。

その瞳は氷のように冷たく、光の筋に照らされてなお、底知れぬ闇を湛えていた。


「……名を名乗れ…俺様の名を騙った愚か者の名を聞いてやる機会をやるよぉ…」


イグロスの声は低く、押しつぶすような重みを帯びていた。

その響きは傲慢そのもので、命令の形をとりながら拒否を許さぬ圧力を放っている。

ただ耳にするだけで、背筋に冷たい刃を当てられたような錯覚を覚えるほどだった。


メドゥリーネは唇をわずかに震わせながらも、蛇のような首を反らせ、誇りを守るかのように声を張り上げる。


「私は――誇り高きラミア族、メドゥリーネ…!」


その宣言を聞いたイグロスは、わずかに触腕を揺らし、薄く鼻で笑った。


「……ラミアだの誇り高きだのはどうでもいい。……メドゥリーナに似ていると思ったが、あいつの親族か。賢い姉とこうも違うとはな…」


その名が耳に届いた瞬間、メドゥリーネの瞳が見開かれた。

次の瞬間には牙を剥き、怒りに満ちた声が迸る。


「あの女の話は出すなッ!!」


だがイグロスは、その激昂すら微風のように受け流し、冷ややかに告げた。


「はっ。確かに無駄話だな…――さて、本題だ。そこのチビウサギを渡せ。」


途端、空気がさらに凍りつく。

メドゥリーネの額に一筋の汗がつっと滑り落ちた。

長き戦場経験が告げる──この相手に正面から挑めば、百歩どころか十歩すら踏み込めず命を落とす、と。


インプの腕に抱えられた白兎の少女へ視線を落とす。

ミレルの小さな肩は寒さと恐怖に震えていたが、その震えはメドゥリーネの瞳を揺らさなかった。


「やはり、私たちをすぐにやらない理由はこれね…あなたたち……これがどういう意味か、分かるでしょう?」


「み、皆っ…動くなよ…?」


低く囁く声──だが鋭く、そこにいる全員の耳朶を正確に打つ。

彼はゆっくりとミレルを前に押し出し、その細い首筋へ短剣の刃を添えた。

切っ先がわずかに肌を押し込み、淡い血の珠が浮かぶ。


「っ!?」


ミレルの喉から苦痛の息が漏れる。


「分かったら――」


言葉の続きを告げるよりも早く、背後で空気が裂けた。

風が弾ける乾いた破裂音。次の瞬間には、骨の芯まで冷たくなるような気配が背後から迫る。


「──遅いよ、あンた」


低く挑発的な声が闇の中から響く。

振り返る間もなく、キャロライナの影がインプの背後に立っていた。

長い耳が月光を受けて揺れ、その身体がしなやかに捻じれる──


バシュッ!


乾いた音が夜を裂いた。

インプの首が、まるで掻き消えたかのように視界から消える。

遅れて血飛沫と砕けた骨片が闇に舞い、月光を一瞬だけ反射しながら地へ降り注ぐ。

胴体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、抱えられていたミレルの体が宙へと放り出された。


「ミレル!」


鋭い呼び声と同時に、ティファーが疾風のように飛び込む。

一歩踏み出した瞬間にはすでに少女のもとにあり、小さな体を抱き寄せる。

その掌がミレルの視界を覆い、耳元で優しく囁く。


「大丈夫……見なくていい。」


その声は、血と鉄の匂いが充満する戦場には似つかわしくないほどに柔らかかった。

ミレルは息を詰めたまま、その温もりに縋るように身を委ねる。

冷たい夜気の中で、その腕だけが唯一、確かな安堵を与えてくれた。


「っ!?」


「…で…?何か言ったか…?」


イグロスの口元がゆっくりと歪み、闇の中で獣のような笑みを浮かべた。


この場に残されたのは──メドゥリーネと、わずか十名ほどの魔族たちだけだった。

背後にはもう退路はなく、前方には、じわじわと近づいてくる絶望そのものが立ち塞がっている。


「……ふざけ、ないでッ!」


メドゥリーネの喉が裂けそうなほどの叫びが夜気を震わせる。

人質という切り札を失い、もはや背水の陣。怒りと焦りがないまぜになった声は、鋭い刃のように耳を刺した。


「全員ッ!戦いなさい!!やるしかないのよッ!!」


しかし、背後の魔族たちは誰一人として動かない。

握りしめた武器は小刻みに震え、足は地面に縫い付けられたように硬直している。

視線は全員、同じ一点へ──氷と血に染まった目の前に立つ男へと釘付けになっていた。


イグロス=クラゲイン。


その名を知る者は、名乗られる前に理解した。

金色の片目が、まるで獲物を値踏みするように一人ひとりを射抜く。

視線が触れた瞬間、魔族たちの本能は抗いようもなく悲鳴を上げた。


逃げろ──。

逆らうな──。

震えろ──。


それは理屈を超え、魂の奥底へと叩き込まれる命令だった。

誰もが呼吸を忘れ、ただ迫りくる終末の気配に縫い付けられたかのように立ち尽くしていた。


「……はっ…なるほどなぁ。」


低く、地を這うような声が、夜の冷気を震わせた。


「口先ばかりの連中が、俺様の名を騙り……我が主の御業を穢したわけかぁ……」


その声音には、怒鳴り声も罵倒もない。

しかし、その沈んだ響きは、海底に積もる重圧のように耳を圧し潰し、肌を切り裂く。

それは、暴風が吹き荒れる直前に訪れる異常な静寂──触れれば破裂するほど張り詰めた怒りだった。


「早く行きなさいっ!」


メドゥリーネの必死の叫びが、ついに一人の魔族を突き動かした。

恐怖を無理やり押し殺し、剣を握ったまま前へ飛び出す。


その動きに引きずられるように、二人、三人と続き──やがて十名全員が雄叫びもなく、一斉に駆けた。


だが、向かう先は──イグロスの真正面。


キャロライナとティファーが反射的に武器を構える。


しかし、イグロスはわずかに片手を上げ、その腰から伸びる緑色の触腕をゆらりと揺らした。


その仕草は「下がれ、巻き添えを喰らうぞ」と無言で告げているようだった。


「……てめぇらは、見ていろ。」


淡々としたその声は、これから行われることが戦いではなく、処刑であると告げていた。

この場に流れる空気が、血と氷よりも冷たく、そして重く沈んでいく。


「──万象は凍り、命は沈黙する。」


低く響くその詠唱は、宣告ではなく断罪だった。

一語ごとに、空気が詩を刻むように震え、冷たい圧力が肌を押し潰していく。


イグロスが、一歩──氷を孕んだ音を立てて踏み出す。

その足音は、雪原を踏む軽やかさではなく、巨大な氷塊が大地を砕く重みだった。

そして、唇が最後の言葉を紡ぐ。


「来たれ…『フロスト・エイジ』」


その言葉が放たれた瞬間、世界は音を失った。


耳に届くのは、血の流れが自らの体内で凍りつく錯覚だけ。


ほんの一拍の静止の後──地の底から悲鳴が突き上がるような振動が広がり、次いで大気そのものが破裂するような轟音とともに、蒼白い凍気が全方位へ奔り出した。


冷気は足元を這い、石畳の目地を音もなく裂き、その隙間に青白い霜を流し込んでいく。


それは建物の外壁にまで瞬く間に広がり、あらゆる面を氷の鎖で封じ込めた。

その寒さは冬の冷気ではなかった。


深海の底──光も熱も届かぬ闇の圧力。

そこに潜む得体の知れぬ死が、形を持って現れたかのような重く純粋な冷たさだった。


「っ…あぁっ――」


動こうとした魔族たちは、一歩も進めない。


「ぐるじっ――」


吸い込んだ息は肺の奥で氷塊となり、吐き出そうとした叫びは白い霧に変わって消える。


皮膚に触れた瞬間、細胞が粉々に砕けるような激痛が走り──やがて、それすら奪う麻痺が全身を支配していく。


「うご――」


次の瞬間、この場に動く敵影は一つとして残らなかった。


十名の魔族は全員、氷の檻に閉じ込められたかのように、完全に動きを止めている。

その表情は、何が起きたのかを理解する暇すら与えられぬまま訪れた終焉の瞬間を刻みつけられており──恐怖と驚愕をないまぜにした顔が、青白く透けた氷の奥に封じ込められていた。


この場全体を支配していたのは、圧し掛かるような重い沈黙だった。


時折、氷の表面が軋む乾いた音が、闇に微かに響く。


その音に続くように、凍りついた肉体が内部でわずかに痙攣し、氷の檻を震わせる。

それは、この異様な光景が夢や幻ではなく、紛れもない現実であることを静かに告げていた。


冷気は刃のように肌を裂き、触れた者の感覚を奪い去る。

吐き出された息はその場で白く凍結し、細かな結晶となって砕け、地面へと散った。


まるで死神がすぐそばで息を吐き、この場の空気すべてを支配しているかのようだった。


やがて──。

氷の檻を覆う白い霜が、ぱきり、と小さな音を立てた。

ひとつ走ったひびは瞬く間に全身へ広がり、蜘蛛の巣のような亀裂が透明な監獄を覆っていく。

硬質な音が幾重にも重なり、張り詰めた空気を切り裂いた。


次の瞬間、氷像と化した魔族の躯が、内側からの圧力に耐えきれず粉砕される。

氷片と肉片はもはや区別すらつかず、無数の白い破片となって宙を舞った。

それらは月光を受けて鈍く輝き、きらめく雪のように降り注ぐ。


地面に残されたのは、血の匂いすら凍りつかせた氷屑だけ──命の痕跡は一片もなかった。


──そして、最後にその場に立つのは、ただ一人。


氷原と化した広場の中央に、メドゥリーネの影だけが、孤独に、凍りつくことなく取り残されていた。



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