血と氷のクラゲイン⑭
夜の帳が、静まり返ったミードクァの町はずれを覆っていた。
草むらからは湿った香りが立ち上り、冷たい夜風がそれを運んでいく。
空には雲が重なり、月明かりすら遮られている。視界を許すのは、ぼんやりと滲む星々だけだった。
灯ひとつない獣道の影に、獣人傭兵団の面々が潜んでいる。
皆、息を潜め、草の擦れる音すらも避けるように動きを止めていた。
その中央へ、褐色の毛並みにピンクのカラーを差したロップイヤー型の獣人魔族が姿を現す。
長く垂れた耳が、夜風にわずかに揺れた。
キャロライナ・リーパー――獣人傭兵団の中でも群を抜く脚力と胆力を誇る紅一点の女傭兵だ。
「旦那~♥」
彼女は鋭い視線から一転、甘えるようにイグロスへと歩み寄ってきた。
「解放した人質たちは、もう安全なとこに移したよ……」
腰に手を当て、少しだけ視線を落とす。
その声音には、やり遂げた安堵と、微かな引っかかりが混じっていた。
「……でもね、ただ一人──ミレルって子。白うさぎの子だけは、どこにもいなかったンだ」
言葉の最後に、垂れ耳がわずかに震えた。
その報告を、苔むした岩に片足をかけていたイグロスが黙って聞いていた。
褐色の肌を持つその男の金色の三白眼が、闇の中で冷たい光を放つ。
まるで、獲物の居場所を嗅ぎ取った氷狼のような眼差しだった。
彼の隣には、ティファーが立っている。
風の流れや草のざわめき、遠くで響くかすかな足音――そのすべてを聞き逃すまいと、慎重な目つきで辺りを見渡していた。
さらにその周囲を、ディープマーマンたちが取り囲む。彼らの体表は湿り気を帯び、夜気を吸って鈍く光っていた。
足元にはじわりと水たまりが広がり、そこから冷たい湿気が立ちのぼっている。まるで、この一帯が海底へと変わっていく前触れのように。
「人質に聞いたかぁ…?」
イグロスが低く問う。
声音は氷のように冷静だが、眉間には深い皺が刻まれ、その影が夜の闇に溶け込んでいる。足元の草が、彼の吐息にかすかに揺れた。
「もちろん、キャロ最初に聞いたよ…。けど、ミレルをどこに隠してるのか見当もつかないって……。」
キャロライナは両手を広げ、少し肩をすくめて見せた。垂れた長耳が夜風に揺れ、耳先がわずかに震えている。瞳には、焦りと慎重さの両方が映っていた。
「…ちっ…つまり、ミレルの居場所は不明ってことかぁ…」
隣に立つティファーが静かに頷く。その仕草に合わせて、後ろで束ねられたポニーテールが小さく跳ね、月光を受けて瞬いた。
しかし、イグロスは微動だにしない。岩のように動かず、ただ金色の瞳だけが鋭く光っていた。
「……はっ…問題ねぇよ」
低く響く声は、夜気を一層冷たくする。草むらの虫の音さえ、ひととき止まったかのようだった。
「は…?」
キャロライナはぽかんと口を開き、首を傾げた。長い耳がその動きに合わせて小さく揺れる。瞳には純粋な困惑が浮かび、まるで脳内で歯車が急に止まってしまったかのようだった。
「イグロス様…どういうことですか…?」
隣に立つティファーも、同じく理解が追いつかない様子で眉を寄せる。彼女の表情は、突然投げ込まれた謎かけを前にした子どものように、戸惑いと警戒の入り混じったものだった。
「簡単な話だ…」
イグロスはゆっくりと口元を歪めた。唇の端が上がると同時に、その瞳が暗い炎を宿す。
その笑みは、単なる冗談や軽口ではない――これから語られる内容が、場の空気を一変させるだけの重みを持っていることを予感させた。
「敵陣に残る人質は、ミレルただ一人。ならば、あいつらは必ずミレルを抱えて逃げる。殺すなんてバカな真似はしねぇ…逆に言えば、それ以外に逃げ道はねぇからな」
淡々と告げるその言葉には、確信と冷酷さが入り混じっている。
言葉を切ると、彼はゆっくりと腕を組んだ。肩から滲む威圧感が、周囲の空気を重く圧し潰していく。
「やることは、たった一つ──ミードクァの蹂躙だぁ」
沈黙が落ちた。わずかに湿った風が頬を撫で、遠くで木の枝が折れる音が響く。
ティファーは数秒だけ考え込み、その冷酷な理屈を反芻した。
やがて、短く「……なるほど」と呟く。その目には、理解と同意の色が宿っていた。
キャロライナは、にやりと笑みを浮かべた。腰に両手を当て、長い耳を揺らしながら言う。
「さっすが、キャロの旦那! シンプルで燃える作戦ぢゃん!」
その声は夜闇を裂くように明るく、しかしそこに宿る闘志は、焚き火の炎のように熱かった。
作戦は、わずか数分のやり取りで決まった。迷いはなく、決断の速さは刃の切れ味そのものだった。
「作戦はこうだ。」
イグロスの低く通る声が、夜気を震わせる。湿った空気の中、その言葉は鋼の鎖のように重く、仲間たちの胸へと食い込んでいった。
「俺様、ティファー、キャロライナ、ジーク──この四人が前線に立ち、向かってくる魔族どもを踏み潰す。」
そう告げると、イグロスは無造作に手を前へと差し出し、空気そのものを握り潰すかのようにギュッと拳を握りしめた。その瞬間、場の空気が一気に張り詰め、誰もが無意識に呼吸を浅くする。
「残りの獣人傭兵団、そしてディープマーマンは町を囲み、逃げ出す魔族を一匹残らず仕留めろ。」
短く、明快。だが、その指令には一切の情けも容赦も含まれていない。
「最初に言っておく…一匹たりとも…逃がすことは許さねぇ…相手が命乞いしても、な…」
夜の闇に紛れて潜む傭兵たちは、声を出さずに頷いた。風が草葉を擦る音が、今はやけに重く、湿った音に聞こえる。
イグロスの右目が金色の閃光を放ち、闇を裂く。腰に巻きついた触腕が、獲物を求める蛇のようにゆらりと蠢いた。
ティファーは一歩前へ踏み出し、背筋を伸ばすと腰の愛剣の柄をしっかりと握る。
その手つきは、刃が抜かれる瞬間を呼吸の一部のように自然に組み込んだ熟練者の動きだった。
キャロライナは軽やかに地を蹴って跳び、着地と同時に引き締まった太ももをパチンと叩く。挑発的な笑みを唇に浮かべ、長いロップイヤーが夜風を受けてぴくぴくと揺れた。
ジークは肩を大きく回し、筋肉の稼働を確かめるようにゆっくりと動かす。指先から黒く鋭い爪がギュンと伸び、その刃が月光を受けて妖しく光った。
──刹那、空気が変わった。
殺気を帯びた呼気が夜に溶け、遠く町の方角から微かな灯火が揺らめいて見える。湿った風が頬を撫で、その先に待つ惨劇を予感させる。
戦いは、もうすぐ始まる。
―――
ミードクァの中心広場は、荒くれた魔族たちの宴で膨れ上がっていた。
粗末な木の卓には、泡立つ安酒のジョッキと、焦げて黒く縮れた獣肉が皿ごと無造作に積み上げられ、油が染み出した汁が石畳へと滴り落ちる。
下卑た笑い声が石造りの建物に反響し、地面は足を踏み鳴らす振動で小刻みに揺れていた。
酒臭い息と獣脂の焦げた匂いが夜気を押しのけ、広場全体をむせ返るような熱気で満たしている。
「アハハ♪ 最高だなっ!」
「クラゲインの従者万歳だぜぇ!」
「くぅっ……仕事した後の酒は格別だ!」
酒樽を抱えた魔族の男が喉を鳴らして豪快にあおり、溢れた酒が口端から顎を伝って滴る。
その背中を仲間が乱暴に叩くと、さらに下品な笑い声が夜空に弾けた。
その喧騒のただ中──通りの入口で、空気が変わった。
熱気がすっと引き、肌を刺すような冷気が忍び寄る。
まるで見えない刃物の背が首筋をなぞるかのような、鋭く研ぎ澄まされた緊張が広場全体を包み込んだ。
次の瞬間。
音もなく飛来した氷の槍が、宴席の端にいた魔族の胸を正確に貫いた。
鋭い氷の刃が肉を裂き、槍先から噴き出した冷気が温かな血液を瞬時に凍らせる。霜は男の胸元から首元へと広がり、衣服と皮膚を白く染め上げた。
「……っぐ……!」
呻きとともに、男は椅子ごと石畳へ崩れ落ち、割れた酒杯が氷片と血だまりの中で転がった。
「おっ!…おいおい♪何の余興だ……?」
周囲の魔族たちは、まだ酒の熱に浮かされていた。氷の槍が仲間の胸を貫いた光景すら、最初は冗談か悪ふざけの一部だと信じて疑わなかった。
「安酒でもワインを溢す何て勿体ないぜ…?」
「ぐあぁっ……あぁ˝っ……!」
「すげぇな、舞台俳優も顔負けの演技じゃねぇか?」
「これ終わったら芝居に出ろよ、ははは!」
「女にモテるかもしれないなっ!」
芝居がかった断末魔、わざとらしい倒れ方──そう思い込んでいた。
「…ち…違…助けて――」
だが次の瞬間、倒れた魔族の目から光が消え、石畳に広がる赤黒い液体が、氷気に晒されて白い煙を上げているのを目にした時、全員の笑いは瞬時に凍りついた。
「え…冗談だろ…?」
「う、嘘だろ……?」
「お、おい……動かねぇぞ……!」
一人が震える手で倒れた仲間の首筋に触れ、動脈を探る。だが、そこには何の鼓動もなかった。
「こ、こいつ……ガチで死んでるっ!」
背筋を這い上がる悪寒が、脳にこびりついた酔いを一瞬で吹き飛ばす。
気づけば足元の石畳は薄氷に覆われ、靴底がわずかに滑った。霜の膜を踏み砕くパリパリという音が、広場のざわめきを裂くように響く。
「っ……こ、この氷……っ!?」
「意味がわかんねぇ……何だこれは!?」
その混乱を切り裂くように──暗がりから、ゆらりと一つの影が歩み出た。
氷塊のように冷たい金色の瞳が、月明かりを反射して鋭く光る。
イグロス=クラゲイン。
氷獄の暴君が、広場の中心へと音もなく足を踏み入れた。
「穿て──凍てつく棘の牙」
低く、地の底から響くような声が広場全体を支配する。
「……『アイシクルストライク』!」
指先が空気を裂いた瞬間、虚空に次々と氷槍が生成され、目にも止まらぬ速度で放たれる。
槍は肉を裂き、骨を砕き、呻く間すら与えず命を刈り取っていった。氷が砕ける甲高い音と、喉を潰された短い悲鳴が入り交じり、熱気は一瞬で消し飛ぶ。
「悪いカスどもは……眠る時間だぜぇ……永遠のなぁッ!」
ノコギリのような歯を剥き出しにして、イグロスは愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
その背後では、氷がさらに広がり、さっきまでの宴を包み込んでいた温度と喧騒を、完全に凍てつかせていった。
「──蹂躙しろ。……一匹残らずなっ!」
氷獄の暴君イグロスの声が、鋭い刃物のように広場の熱気を断ち切った。
その脇を、銀の閃光が疾風のごとく駆け抜ける。剣を握る手も、髪の揺れも、すべてが鋭い軌跡を描く。ティファーだった。
「罪もない人と魔族にした仕打ち……死で償えっ!」
酔いに溺れていた魔族の一人が、声に反応して振り返る。目に映ったのは迫る銀光。
「た、たすけ──」
その命乞いは、最後まで紡がれることなく途切れた。月光を纏った刃が、迷いなくその首を刎ね飛ばしたからだ。
断ち切られた首は空中をゆっくりと回転しながら石畳に転がり、噴き出した鮮血が地面を鮮紅に染め上げる。
温かい飛沫が広場の冷気に触れ、白く蒸発していく。ティファーはその赤を踏み越え、一滴も気に留めぬまま、無機質な瞳で次の標的へと歩みを速めた。
彼女の目だけが氷のように冷え切り、その手の剣だけが怒りの熱を帯びていた。
反対側からは、キャロライナがしなやかな跳躍で戦場に舞い込む。
「あンたたちの下品な声……忘れてないンだからねっ!」
「なっ……キャロライナ!?」
「う、裏切りやがったなっ!?」
「はぁ〜?最初からあンたたちの仲間になった覚え、キャロはない……しぃっ!」
彼女の回し蹴りが弧を描き、酒瓶を握った魔族の頭部を直撃する。
ガラスと頭蓋が同時に粉砕され、破片と血液が夜空に飛び散った。月光を浴びた赤い粒が一瞬だけ輝き、派手な音を立てて石畳へ降り注ぐ。
咄嗟に腕で頭部を庇った別の魔族も、蹴撃の衝撃で関節が有り得ない方向へと折れ曲がる。
悲鳴を漏らしたその背中に、キャロライナは耳を小さく揺らしながら肘を叩き込んだ。肉の裂ける音と骨の砕ける鈍音が重なり、敵は石畳へと崩れ落ちる。
「ジークっ……まさか……傭兵団全員が寝返ったのかっ!」
「悪いな……お前に恨みはないが、死んでもらうっ!」
広場の闇を裂いて、黒い獣影が歩み出た。ジークの指先から伸びた漆黒の爪が、月明かりに鈍く光る。
次の瞬間、その爪は魔族の胸を易々と引き裂き、温かくぬめった臓腑の感触が指へと伝わった。ジークはそれを確かめるようにゆっくりと手を引き抜き、返す刃のように振り向きざま、背後から迫った敵を真っ二つに切り裂いた。
鮮血は夜気に霧となって舞い、氷に覆われた広場は赤と白が混ざり合う修羅の舞台と化す。冷気は血の匂いを押しとどめることなく、むしろそれを鋭く研ぎ澄ませ、戦場の惨劇を際立たせていた。
氷と血が入り混じった広場は、まるで地獄の釜の底だった。
足元を赤黒く染める液体は、夜気に冷やされ凍りかけ、その上を滑る倒れた椅子や割れた酒瓶が、戦場の無残さを際立たせている。断末魔が途切れることなく木霊し、耳を劈く悲鳴と、肉を断つ鈍い音が交互に響き渡る。
だが、その混沌の中で最初に場を支配したのは怒号ではなく──恐怖の声だった。
「──退避だっ!……逃げろっ!」
その叫びが引き金となり、魔族たちは酔いも傲慢も一瞬で吹き飛び、戦況がもはや覆らないことを悟った。
椅子や卓を乱暴に蹴り倒し、足音が石畳を打ち鳴らし、酒瓶の割れる甲高い音が次々に響く。
背を向けた群れは必死に出口を求めて走り、互いにぶつかり、押し合い、転びかけながらも逃げ場を探した。
──しかし、その退路は既に死の影に塞がれていた。
広場の闇の奥から、青白い肌を持つ影がぬらりと現れる。深海の冷気を纏ったディープマーマンたちだ。
濡れた鰭が石畳を滑り、手にした珊瑚の刃や三叉槍が月光を鈍く反射する。
海底で鍛えられた武器の刃先からは塩と鉄の匂いが漂い、逃げようとする魔族の鼻孔を突いた。
「な……なんでだ……!?」
「こいつら、さっきまで味方じゃ……っ!?」
「知らない魔族まで…どういうことだっ!?」
困惑と恐怖が一度に押し寄せ、混乱は頂点へ達した。
獣人傭兵団──かつては肩を並べて戦ったはずの仲間たちが、今や牙を剥き、魔族の血を啜るためだけに振るわれている。
「くっ…くそっ…報告だっ…メドゥリーネ様に報告しろっ」
敵と味方の境界が崩れ落ち、もはや誰も信じられない。
恐怖が背を押し、数名の魔族が半ば転げるように駆け出す。
その中のひとりは、肩で荒く息をしながら血の海を飛び越え、町の奥の石造りの豪奢な屋敷を目指して走った。
足元には凍りついた死体や砕けた武器の破片が散乱し、踏み込むたびに靴底が滑り、冷たい感触が脚へと伝わる。
そのたびに心臓が喉元までせり上がり、吐き気と恐怖が胸を締め付けた。
それでも走る。走らなければ、次の瞬間には自分も氷の中に沈むと分かっていた。
──戦況は、あまりにも一方的だった。
それは戦いではなく、完全なる狩り。
逃げる者も、抗う者も、包囲の網の中で確実に削られていく。
やがて広場に残ったのは、勝者の荒い息遣いと、冷えた夜風に漂う血の匂いだけだった。




