血と氷のクラゲイン⑫
ミードクァの町へと続く街道から外れ、一行は鬱蒼とした森の奥へと足を踏み入れていた。
湿った土の匂いが鼻をかすめ、頭上では枝葉が重なり合って陽光を遮っている。
木々の間を抜ける風は冷たく、しかし森全体が吐き出す息のような生暖かさが足元を這っていた。
その中を、イグロスは一言も発せず、重く確かな足取りで進んでいく。
「にひひぃ♪これがキャロを下した腕か…♥」
キャロライナは自然と歩幅を合わせ、いつの間にかイグロスの横へ並んでいた。
視線は彼の逞しい腕に釘付けで、まるで獲物を舐め回すように熱を帯びた目つきで見つめている。
「…?」
イグロスは視線を前から外さず、怪訝な眉の動きだけで彼女の存在を意識する。
「だぁんなっ♥これから、よろしくぅっ♪」
その声と同時に、キャロライナはふわりと身体を寄せ、無骨なその腕へ勢いよく飛びついた。
しなやかな四肢が絡み、柔らかな胸元が彼の逞しい腕を包み込む。
湿った森の空気の中、甘く温かな感触が確かに伝わった。
「……抱きつくんじゃねぇよ。歩きにくいだろうが」
イグロスは眉間に深い皺を刻み、明らかな不快感を顔に出す。
だが、キャロライナはその視線など意にも介さず、にやにやと口角を上げたまま片耳を小さく揺らし、いたずらっぽく首を傾げる。
「え~、旦那、照れてンの…?」
「ちげぇよ」
「ン~…旦那、可愛い~♪」
「……あっちぃ……」
その表情に羞恥の色はない。ただ、鬱陶しさだけが露骨に刻まれていた。
けれどキャロライナは、むしろその反応を楽しむように抱きついたまま歩を進める。
「ちっ……離れろって言ってんだろうが」
イグロスは低く吐き捨てると、その大きな手でキャロライナの肩をつかみ、力任せに引きはがそうとした。
だが――びくともしない。
さっきの戦闘で、二人の腕力差は明らかになったはずだった。
それなのに今、この細身の女がまるで岩に根を張った蔦のように絡みつき、微動だにしなかった。
「い・や♪ キャロを傷物にした責任取って貰わないと~。」
耳元で甘く伸びる声。吐息が肌をかすめ、森の湿った空気よりも熱い。
「何が責任だっ……くそ……どこから、こんな力出してんだよ…。」
イグロスの太い腕の筋が浮かび上がるほど力を込めても、絡みつく腕と脚は外れない。
「旦那の腕…逞しいぃ~♪」
キャロライナは恍惚とした表情で、その無骨な腕に頬ずりをする。
ふわりと香るのは、獣人特有の野性と汗の混じった匂い。
それが妙に生々しく、彼の苛立ちをさらに募らせた。
「…あ゛ー……マジで…うぜぇ……」
額にわずかな皺を寄せ、イグロスは吐き捨てる。
しかし、彼女の耳は楽しげにぴくぴくと動き、離れる気配はない。
少し離れた場所で、このやり取りを目撃していたジークたち獣人傭兵団は、互いに視線を交わし合った。
驚きと、どこか納得したような色がその顔に混じる。
「これは…間違いないな…」
「あぁ…」
キャロライナは彼らの中でも群を抜いて力が強く、稼ぎ頭として名を馳せてきた。
男に敗北を喫したことなど、一度もない。
だからこそ――初めて自分を圧倒した男に、こうして惚れ込むのは必然とも言えた。
―――
「あ、そうだ。」
唐突に声を上げたキャロライナが、腰に下げた革袋へと手を突っ込む。
ごそごそと探る指先が何かを掴み、ゆっくりと引き抜かれた。
彼女の掌に現れたのは、艶やかに光る橙色のにんじん。
その表面には、きらきらと輝く赤砂のような粉が均一にまぶされ、光を受けて妖しく反射していた。
「旦那、これ…食べる…? キャロ特製のグリムリーパウダーを振りかけたにんじん。通称キャロット・クラッシュ♪」
彼女は胸を張り、どこか誇らしげににんじんを差し出す。
その口元には、獲物を前にした肉食獣のような得意の笑みが浮かんでいた。
「っ…」
イグロスはそれを一瞥しただけで、すぐに鼻をひくつかせた。
粉から立ち上る匂いは、鼻腔を鋭く刺すほど強烈だ。
湿った森の空気すら押しのけるその刺激臭に、彼の眉間が自然と寄る。
「……くせぇな」
短く吐き捨てるような声。
しかしキャロライナの表情は微動だにしなかった。むしろ、挑むような光がその瞳に宿る。
「美味しいのに…あぁむ♪」
そのまま、にんじんを自分の口に放り込む。
しゃくり、と小気味よい音が響き、同時にさらに濃厚な香りが一帯に広がった。
粉の香気が空気を支配し、甘みと辛みの入り混じった刺激が肌にまとわりつく。
キャロライナは頬をふくらませ、嬉しそうにもぐもぐと咀嚼する。
瞳を細め、喉を鳴らし、陶酔したように息を漏らした。
「ン~…喉を焼くこの感覚…おいひぃ~」
イグロスは腕を組んだまま、その光景を無言で眺める。
食欲というより、何か原始的な快楽を味わっているようなその姿に、露骨な「引き」の感情がにじみ出ていた。
彼の触腕の一本が、無意識に彼女から距離を取るように後ろへ退いていた。
やがて、濡れた石畳の先に、ミードクァの町並みが幽かに姿を現した。
夜明け前の空はまだ深い鉛色を帯び、低く垂れ込めた雲が重く町を覆い隠している。
人の気配はほとんどなく、家々の灯りはすでに落ち、遠くで魔族たちの笑い声がひとつ、風にかき消されるように響いた。
町の外れ――建物の影に、イグロスたちは身を潜めていた。
壁際に並ぶ影は、どれも人の形をしていながら、人ならざる異形。
その肢体は獲物を狙う獣のように張り詰め、吐息ひとつ乱さず闇に溶け込んでいる。
足元の石畳は雨に濡れて冷たく、靴底を通して骨まで染みるような感触が伝わる。
夜気は湿り気を帯び、わずかな隙間からも肌へと忍び寄り、衣服の内側に冷たい爪を立てた。
腰から垂れた緑色の触腕が、かすかにうねりながら地面をなぞる。
水滴をはじき、しなやかな動きで闇を裂くように揺れた。
その主――イグロスは、微動だにせず前方を見据えている。
沈んだ闇の奥で光る双眸は、建物の向こう側までも貫くかのように鋭く、冷えきった光を宿していた。
彼の視線の先――ぴょこぴょこと長い耳を揺らしながら立つ、ロップイヤーの獣人、キャロライナの姿があった。
耳の軽やかな動きとは裏腹に、その瞳には一点の迷いもない鋭さと、抑えきれぬ熱を孕んだ光が宿っている。
その背後に並ぶのは、虎型獣人ジークを筆頭とする獣人傭兵団。
かつて剣を交え、血を分かち合った宿敵たちが、今はひとつの列となって静かに佇み、吐く息は白く夜気に溶けていった。
鎧の隙間から立ちのぼるその白煙には、戦いに挑む覚悟の熱があり、凍りつく空気の中でも消えぬ気配を漂わせている。
「旦那……これから、どうすンの……?」
キャロライナが首を傾げ、耳をふわりと揺らしながら問いかける。
その声音は、戦場に向かう者とは思えぬほど甘やかで、だがその奥には期待と高揚が濃く滲んでいた。
「旦那が望めば、キャロたちが、一気に殲滅しても良いけど……?」
胸を反らせ、獲物を前にした獣のように笑みを浮かべる。
しかしその笑顔は、イグロスの低い声が落ちた瞬間、凍りつく。
「いや…人質を奪還する。」
地を這うような低音が、夜の町にじわりと広がった。
その言葉は、凍える空気を裂く鋭い刃のように周囲を切り裂く。
「まずは、あの連中の根を断つ前に……人質を回収するのが先だ」
放たれた命令は短く、しかし絶対だった。
その響きには討伐の号令を超えた重みがある。
重苦しい空気が張り詰める中、不意にキャロライナが声を発した。
その響きは、これから命のやり取りが始まろうという場に似つかわしくないほど軽く、肩の力が抜けたように無造作だった。
「でもさ……」
耳の先が小さく揺れ、場に漂う緊張をほんのわずかに削ぐ。
「人質とか面倒だし、全員潰しちゃえばいいンじゃね……?」
吐き出されたのは、傭兵らしい乱暴で単純明快な発想。
それでもイグロスはすぐには否定せず、わずかに顎を引き、低く応じた。
「当然、それが一番手っ取り早い……」
同意の言葉を口にしながらも、首はゆるく横に振られる。
――今回の目的は、ただ敵を滅ぼすことではない。ミレルたち人質を生かしたまま奪還すること。
その事実が、彼の声の奥底に鋼のような硬さを宿らせていた。
「で、誰が人質を取り戻すかだな……」
イグロスの視線が、薄暗い路地に並んだ仲間たちをゆっくりと掃いていく。
その目は一人ひとりの力量だけでなく、心の揺らぎまでも計るように鋭く光っていた。
沈黙を破ったのは、銀鎧を纏う女騎士ティファーだった。
足元の水たまりを踏み越えながら、一歩、前へ出る。
「私が行きましょう。」
低く響く声と同時に、甲冑の継ぎ目がわずかに鳴った――だが、その瞬間、別の声が場を割った。
「ちょっと待った。それ…キャロたちが行く。」
キャロライナが軽く手を挙げた。
垂れ下がった耳は小刻みに揺れているが、その瞳には一片の笑みもなく、むしろ獣特有の鋭い光が宿っている。
「キャロたち獣人傭兵団なら、堂々と町中に入れるっしょ…?」
イグロスは彼女の顔を真っ直ぐに見据え、しばし無言のまま目を細めた。
長くも短くもない沈黙が、二人の間に重く落ちる。
やがて、その静寂を破ったのは低く短い頷きだった。
「……なるほどなぁ…。敵はまだてめぇらが寝返ったことを知らねぇ……内部から切り崩せる、お前たちが……適任か…。」
イグロスの低い声が、湿った夜気を震わせるように広がった。
その響きは冷たく研ぎ澄まされ、まるで闇の奥から迫る刃のようだ。
だが、その言葉をかき消すように、鋭く割り込む声があった。
「……っ!? イ、イグロス様っ……!」
声の主はティファーだった。
月明かりに反射する銀鎧がわずかに揺れ、胸元の甲冑を押さえた指先が白くなるほど力が込められている。
足先が石畳を擦る音とともに、一歩、彼女は踏み出した。
熱を帯びた瞳は、興奮の色を隠しきれず、わずかに揺らめいている。
「こ……これは──まさか……っ、クトゥル様が、あの時おっしゃった『助けろ』という言葉……!あれは……この展開を、予見していたというのですか……!?」
声は震え、胸の上下は早まり、呼吸が浅くなる。
鎧の継ぎ目がかすかに軋み、緊張が全身を縛っているのが伝わる。
「この者たちが、敵の中枢へ切り込む駒となることを……あの方は……最初から分かっていた…!」
その言葉に、イグロスの背筋をひやりとした戦慄が走る。
唇の端が、獰猛な獣のようにかすかに吊り上がった。
「……ああ……あの時は理解できなかったが……だが今、分かったぜ……」
腰元の触腕が、ぞわりと地面を撫でる。
冷たく湿った石畳を這うその動きは、見えぬ畏怖そのものが形を成して現れたかのようだった。
粘つく音が闇に溶け、周囲の者たちの背筋を無言でなぞっていく。
「俺様たちじゃ到底思いつかない……クトゥル様は、やはり……この世ならざる視野をお持ちだ……!」
その場にいた全員が、はっと息を飲んだ。
次の瞬間、湿った風が一陣、路地を吹き抜ける。
どこからともなく漂う塩と深海の匂い。
まるで、この闇のさらに深淵から――クトゥルという存在が背後に立ち、冷ややかに全てを見下ろしているかのようだった。
―――
一方、そのころ──。
混沌の神塔、十三階層。
高くそびえる天井は闇色の天蓋で覆われ、その闇は単なる影ではなく、まるで生き物のようにゆるやかにうねり、部屋全体が呼吸しているかのような錯覚を与えていた。
壁面は無数の古代文字と、見る者の意識を吸い込むような螺旋模様で覆われ、その淡い輝きが空間に幽玄な光を散らしている。
部屋の奥には、格闘場にも匹敵する広さを誇る巨大なベッドが鎮座していた。
深海の生物を思わせる黒緑の布地が幾重にも重なり、その上にはクトゥルが悠然と身を横たえている。
ゆったりと体を揺らし、時折、布を滑る微かな音を立てた。
上半身を支える肘の横には、分厚く重々しい装丁の本が開かれたまま置かれている。
「ふむ…」
イグロスたちが任務から戻るのを待つ――それが今の彼に課せられた唯一の義務だった。
それ以外の時間は、無限にも等しい静寂の中に溶けていく。退屈を紛らわせるため、彼はリュミエールから数冊の書物を借りていた。
そのリュミエールは今ごろ、兄であるテネブルと何やら熱心に語り合っているらしい。
兄妹らしい軽口の応酬をしていると耳にしたが、クトゥルにとっては取るに足らない些事に過ぎなかった。
「(ライトノベルは手軽で良い……けど、この普通の本も悪くないな…。)」
灰色の指先が、ゆっくりとページをめくる。
挿絵もなく、ただ文字だけが延々と連なる本。読むには時間がかかるが、二十四時間一度も眠らず、食事をとらないクトゥルにとって、その遅さすら心地よい。むしろ、思考の深淵を漂うには格好の伴侶だった。
室内には、紙が擦れる音と、異形の体から洩れる低く規則正しい呼吸音だけが漂っていた。
――その静寂を、突如として小さな音が破る。
「っ……っくしゅんっ!?」
クトゥルの体が、わずかに揺れ、肩がぴくりと跳ねた。
深淵の支配者に似つかわしくない、控えめな音が、広い部屋の壁にやわらかく反響して消えていく。
クトゥルはゆっくりと上半身を起こし、片手で顔を覆った。
目を細め、静かに、しかし低く響く声で呟く。
「……ずず。(今、誰かが俺の噂をしたのか……いや、まさかな…)」
その言葉は冷たく空気を切り裂いたが、声音の奥底には、かすかな好奇心が潜んでいた。
やがてクトゥルは再びゆったりと横たわり、分厚い本を胸の上で開く。
ページをめくる音が、先ほどの小さな音を覆い隠すように、ふたたび部屋を静寂で満たしていった。




