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血と氷のクラゲイン⑩

戦場には、風が吹いていた。

乾いた草を巻き上げるその風は、どこか虚ろで、そして冷たかった。

それは、かつて熱を帯びていた戦場の温度を奪い去るように、沈黙と終焉の色を広げていく。


イグロスたちと獣人傭兵団との戦闘は、もはや拮抗の均衡を崩していた。

剣と魔法の嵐は止み、今そこにあるのは、一方的な力の傾きだった。


――獣人傭兵団団長、虎型の獣人ジーク。


荒々しくも威厳を備えたその背は、今、膝を地につけていた。

呼吸は荒く、剛毛に覆われた背中が大きく波打っている。

肩で息をするたびに、胸元から血がしたたり落ち、土を濡らす。

鋼のように硬かった体毛には無数の傷が走り、赤黒く染まっていた。


その姿は、戦場の柱であった者が崩れゆく刹那を象徴していた。


そして、その周囲にいた獣人たち――


かつては咆哮と共に敵を蹴散らした彼らも、いまや牙を抜かれた獣のように沈黙していた。

全身から戦意が抜け落ち、目だけが茫然と、地に伏したジークの背を見つめている。


「くっ…まさか…団長が……!」


「それに…キャロライナも…負けた…だと…?」


「あ、ありえねぇよ…」


「もう……ムリだ……これじゃ勝てるわけねぇ……!」


呟かれた声は、風にかき消されることもなく、戦場に虚しく響いた。

それは諦念。

勇猛を誇ったはずの獣人傭兵たちが、もはや爪を伸ばすことすら忘れ、ただその場に立ち尽くしていた。


――もう、終わりだ。


誰の心にも、その言葉が浮かび上がっていた。

それは希望の灯が消えた瞬間。

空気は重く淀み、風の音すらも悼むようだった。


だが、まさにそのとき――


「……っ、ぐぅ……はぁ……っ……!」


静けさを破るように、倒れていた少女の身体がわずかに震えた。

ロップイヤー型の獣人キャロライナ――獣人傭兵団の紅一点。


大地に伏せていた彼女の指が痙攣し、肩が小さく跳ねる。

やがて長い睫毛が震え、瞼がゆっくりと開かれた。


その目に映るのは、血と土にまみれた世界。

剥き出しの痛みと虚ろな空の下、彼女は息を詰め、痛む腹部を押さえる。


内側から突き上げる鋭い痛みが、意識を再び引き戻す。


「――ぐっ……クソッ…まぢ…痛いンだけど…!」


キャロライナの喉から絞り出された声は、呻きとも罵声ともつかぬ苦痛の叫びだった。

腹部にそっと指先を触れた瞬間、鋭い痛みが電流のように全身を駆け抜ける。

咄嗟にその手を離し、地面に両手をついた彼女は、浅く、乱れた呼吸を繰り返す。

喉の奥から上がってくる鉄の味。視界の端は滲み、世界が歪んで見えた。


それでも、キャロライナは顔を上げた。

血の混じった息を吐きながら、荒れた荒野の向こう、戦場の中心へと目を凝らす。


そして――彼女が目にしたのは、想像すらしていなかった光景だった。


団長ジークが膝をついていた。

獣人傭兵団の象徴であり、誰よりも強く、誰よりも頼れるはずの男が、今、荒野に両膝を落としていたのだ。

かつて彼の背後を固め、威風堂々と戦列を成していたはずの仲間たちは……もう、そこにはいなかった。


立ってはいた。だが、誰一人として構えていない。

かろうじてその場に佇むだけの、抜け殻のような彼ら。

絶望に染まった目が、虚空を彷徨っていた。


キャロライナの眉が、見る見るうちに歪んでいく。

痛みにも劣らぬ衝撃が、胸の奥を殴りつけていた。


「……ちょっと……まぢで…なにこれ……!」


唇が小刻みに震える。

怒りか、恐怖か、それとも悲しみか――感情が渦を巻き、うまく吐き出せない。

声は掠れ、喉の奥から絞り出されるように漏れる。


「なンなン、あんたら……っ! 強すぎじゃん……っ!」


その叫びは、もはや誰に向けたものかすら分からなかった。

敵にか。自分たちにか。それとも、立ち上がれない己にか。


恐れがあった。

悔しさもあった。

だが、そのすべてを飲み込みながら、キャロライナの胸の奥で、確かに何かがまだ燃えていた。


キャロライナの苦痛に歪む視線の先に立つ男の表情は、驚くほどに無感動だった。

イグロスは、まるで退屈そうに彼女を見下ろしていた。

伸びた深緑の髪が、戦場の風に緩やかに揺れる。

鋭利な刃のような金の瞳が、死にかけた獣人たちを冷たく一瞥した。


「……さぁて。そろそろ、終わりでいいかぁ……?」


その声は低く抑えられていたが、どこか不気味に響き渡る。

静けさに満ちた戦場の空気を裂くように、男の言葉が重くのしかかる。


「俺様たちは、やらなきゃならねぇことがあるんだよ……」


淡々と語るその口調の奥には、情など一切なかった。

それは使命感でも、怒りでもなく――ただ、障害を排除する意志だけだった。


イグロスは、まるで時を刻むようなゆるやかな足取りで、キャロライナに向かって歩き出す。

一歩ごとに、空気が震える。重圧が増す。

その進撃は、もはや死神の歩みに等しかった。


キャロライナの背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。

呼吸が、自然と浅くなる。

――怖い。

この男が放つ圧倒的な死の気配に、体が本能的に悲鳴を上げていた。


喉の奥で、かすれた音が漏れる。

目を逸らせないまま、キャロライナはようやく膝をついた。


「……っ……」


腹部をかばうようにしてうずくまり、苦悶に顔をゆがめる。

焼けるような激痛に、深く息を吸うこともできない。

だが、それでも――彼女の瞳は、まだ死んではいなかった。


敗北を認めたのではない。ただ、力が尽きたのだ。

それでも、屈服ではない。心までは折れていなかった。


そんなキャロライナを、イグロスは冷ややかに見下ろしていた。

無駄な感情など一切込めることなく、淡々と事を終えようとするその姿は、冷酷にして徹底していた。


一方――


その背後、ティファーが剣を構えたまま周囲に視線を巡らせる。

緊張を帯びた空気を読み取るように、鋭く、正確な目で敵影を探る。

だが、もはや戦場に敵意を持つ者はいなかった。


ジークは、変わらず膝を地につけたまま、荒い息をついていた。

かつて吠えていた獣人たちは、完全に沈黙し、その場を動けずにいた。

目に見える範囲すべてから、戦意という名の灯火は消えていた。


ティファーは小さく息を吐くと、静かに剣を下ろした。

そして、鞘へとその白銀の刃を収める。


金属の擦れる音が、戦場の静寂を静かに切り裂いた。

それは、戦の終焉を告げる音でもあった。




―――




キャロライナの肩が、かすかに震えていた。

痛みによる痙攣か、それとも恐怖によるものか――あるいは、違う。

怒りとも、無念とも言い切れぬ、渦巻く感情の奔流が、今にも彼女の身体を突き破りそうになっていた。


息を吐くたびに、焼けるような痛みが腹部に走る。

それでも、キャロライナは目をそらさなかった。

荒い呼吸に合わせて肩が上下し、浅く濁った息が唇の隙間から漏れる。

血の混じった唾が、顎を伝って地に落ちた。


立ち上がる気力も体力も残されてはいなかった。

だが、言葉の刃だけは、まだ抜かれてはいなかった。


「くっそ……あンたら…何者……?ただの旅人じゃないでしょ……。クラゲインの従者に逆らって……正気じゃないンだけど……っ!」


声は掠れていた。喉の奥で絞り出すようなその言葉には、怒りと困惑、そして深い疑念が込められていた。


その瞬間、イグロスが、わずかに鼻を鳴らした。

短く、冷ややかな音。

笑いとも嘲りともつかないが、そこには明確な侮蔑が滲んでいた。


「……ふん、クラゲインの˝従者˝か……」


その言葉を繰り返すように呟くと、イグロスは薄く口元を歪めた。

だが、それは笑みではなかった。

その瞳には、まるで冬の刃のように冷たい光が宿っていた。


さきほどまでの、退屈そうな面持ちは消え去っていた。

代わりに、鋭く研ぎ澄まされた意志の光が、その瞳の奥にきらめく。


キャロライナは、搾り出すような呼吸を整えながら、ゆっくりと視線を横へ移した。

その目がとらえたのは、膝をついたまま、重く垂れたまぶたを持ち上げるジークの姿だった。

傷口を押さえ、吐息一つ動かすのも苦痛に満ちている様子だったが、彼は確かに、うなずいた。

己の立場、戦いの意味、そして、その背後にあるもの――それを、最後の力を振り絞って告げる。


「……俺たち傭兵団は……クラゲイン家の従者に……雇われてるんだ…分かるだろ…クラゲイン家の従者…その上に居られるであろう…当主…そして、邪神様が…そんな相手に歯向かうことがどんなに――」


その言葉が、空気を裂いた。


刹那、戦場を包んでいた風が止まった。

いや、風だけではない。音も、熱も、命の気配さえも、そこから引き剥がされたかのように――世界が、静止した。


それは、単なる寒気ではなかった。

イグロスの立つ地点を中心に、空間そのものが歪んでいた。

空気が音を立てずに震え、見えぬ力が辺りの熱をひとつ残らず奪い去っていく。

体感温度が、一気に冬の底へと叩き落とされたかのようだった。


イグロスが、無言のまま、足を一歩前へと運ぶ。

その足取りは静かでありながら、恐ろしく重く、まるで大地そのものがそれを受け止めきれず軋むような威圧感を帯びていた。

風が再び吹いた。だがそれは、もはや自然の風ではなかった。

深緑の髪がたゆたうたびに、その隙間から滲み出るように、冷たい霧が漏れ出していく。


そして――

イグロスの腰から伸びた触腕が、ぞわりと蠢いた。


異形のそれは、まるで彼の内奥に渦巻く感情が、形を持ったかのような動きだった。

怒りとも、軽蔑とも、言葉にしがたい深淵の意思。

それは海鳴りのように低く、深く、誰の鼓膜にも届かぬ重低音を響かせながら、静かに地を這う。


キャロライナは、全身に冷たい汗を滲ませながら、イグロスの視線を受け止めた。

その瞳は、まさに深海。

そこに映るのは、目の前の敵などではない。

遥か上位の存在に触れられたことへの、純粋な「拒絶」と「警告」だった。


――邪神の名を、軽々と口にしてはならない。


そのことを、キャロライナもジークも、ようやく悟りかけていた。だが、すでに遅かった。


「……俺様が誰かも知らねぇで、よくも俺の˝名˝を使って好き勝手やってくれたな……?」


イグロスの声は、酷く低かった。

感情を押し殺したようなその声音は、まるで耳元で囁かれる死刑宣告のように冷たく、重かった。

彼の立つ足元から、じわじわと冷気が地を這い、周囲の空気が微かに震える。


「よく聞け……。俺様たちは、旅人なんかじゃねぇ……」


そう言って、イグロスはゆっくりと右手を上げた。

その動作ひとつにも、一切の無駄はなかった。

まるでそこにある重力すら支配するような、荘厳な威圧感があった。


掲げられた手の指先に、白く光る粒子が集まり始める。

チリ、チリ、と氷が生まれる音が空間に満ちていく。

空気中の水分が結晶化し、小さな氷の花となって指先に咲いた。


その美しさは、どこか非現実的だった。

だがそれは、恐怖を誤魔化す装飾ではない。――静かなる死の前触れだった。


「……俺様こそが、クラゲイン家の当主――イグロス=クラゲインだ。」


その一言は、雷鳴よりも重く響き渡った。

キャロライナも、ジークも、そして息を潜めていた傭兵たちも、一斉に息を呑んだ。


沈黙。凍りついたような静寂の中、キャロライナの顔から血の気が引いていく。

彼女は、信じられないものを見るように、震えるまなざしでイグロスを見つめた。


「な……嘘……。あ、あンたが……あの…クラゲイン…」


彼女の言葉には明確な恐怖が滲んでいた。

口の端からこぼれる言葉が、もはや誰の耳にも届かぬほど、細く頼りない。


「じゃ…じゃぁ…俺たちを雇った奴らは…」


震える声で、ジークも続く。

その目には、絶望と理解の色が交錯していた。


「クラゲインですらねぇよ…俺様の名を汚す粛清対象だ。そして、てめぇらも同罪だよなぁ…」


イグロスの言葉が、地の底から響いた。

それは怒りではなく――断罪の響きだった。


「え…」


理解した瞬間、キャロライナの全身から力が抜け、血が冷たく凍りついていくような錯覚に囚われる。


喉の奥に、鋭い何かが突きつけられているような圧迫感。

呼吸がうまくできない。視界がぐにゃりと歪む。


「っ!?」


誰かの声が上がる。誰のものかすら分からない。

キャロライナたちの背に、戦慄が走った。

毛並みが一斉に逆立つ。獣人の本能が、命の危機を告げていた。


イグロスは、冷え切った気配を纏ったまま、まっすぐにキャロライナへと歩み寄った。

その足取りは音もなく、まるで死そのものが影を引いて近づいてくるかのようだった。

地に伏す彼女の視界に、黒いブーツが映る。見上げるまでもなく、その威圧は背骨に突き刺さるように重かった。


キャロライナの顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。

頬がこわばり、牙を食いしばる。けれど、その牙も声も震え、まともにイグロスの眼を見られない。


――そのときだった。


「……お待ちを、イグロス様。」


澄み渡るような、透き通った声が、戦場の凍りついた空気をわずかに揺らした。

硬直していた空気に、微かな波紋が広がっていく。


声の主は、ティファーだった。

彼女は静やかに一歩進み出ると、流れるような動作で左手を胸に当て、深く頭を下げた。

その姿勢には一切の無駄がなく、礼節の極致すら感じさせた。


「この者らがしたこと……許されざる無礼だと思います。

ですが、ここで殺すのは容易いこと。ならば、我が主クトゥル様に命の処遇を仰ぎませんか?」


柔らかくも毅然としたその言葉が、戦場に静かに落とされた。

まるで緊張の糸に一滴の水を垂らすように、その場を支配していた殺気が――ほんのわずかに、緩んでいく。


イグロスの表情は変わらなかった。

だが彼の周囲を渦巻いていた冷気が、ゆっくりと後退を始める。

蠢いていた触腕も、次第に沈静し、触れる風に溶けるようにその動きを止めていく。


宙に浮かんでいた氷の結晶はひとつ、またひとつと崩れ、風に乗って消えていった。

その音すらも、場に残った者たちの胸を締めつけた。


「…ちっ…確かに…」


イグロスは舌打ちするようにそう呟いた。


だがその言葉の裏には、完全に怒りを失ったわけではない、刃のような棘が潜んでいた。


そして彼は、改めてキャロライナの方へと視線を戻す。

その口元に浮かんだのは、明らかに愉悦と嘲りの混じった笑みだった。


「……命拾いしたな、獣ども。」


低く、地の底から響くような声だった。

その響きは冷たい刃のように耳を裂き、背筋を撫でる悪寒が広間全体を包み込む。


周囲の傭兵たちは皆、深く頭を垂れ、背を丸め、己の影すらも地面に押し潰すかのようにして存在を小さくしていた。

硬く噛みしめられた歯の音も、荒い息も、ここでは許されない。

声を上げるなどという愚行を犯す者はなく、その沈黙こそが、イグロスの言葉がもたらした圧倒的な重みを雄弁に物語っていた。

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