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血と氷のクラゲイン②

神塔は、常に静かだった。

それは、耳を塞がれたような静寂ではなく、空間そのものが沈黙を選んでいるかのような、深く重たい静けさだった。


ここは――混沌の神塔。

邪神が再び目覚め、居を構えた地。

その威圧的な名に違わず、神塔は世界の理からも、光の届く現実からも、わずかに隔絶された場所にあった。


その日。

神塔の十三階層――邪神クトゥルの私室には、淡く芳しい茶香が漂っていた。


漆黒の石床に、禍々しい文様が刻まれた広間。その中央、重厚なベッドの脇に置かれたサイドテーブルの上には、金縁の繊細なティーセットが静かに湯気を上げていた。


その中に注がれているのは、アビスローゼ領から献上された極上の紅茶――アビスローゼ・ティー。豊かに広がる芳香と、舌をほんのり刺激するほろ苦さが、ひとときの静寂をさらに深く演出していた。


「……ふむ。やはり、この深みは悪くない。」


陶器のカップを傾けながら、クトゥルは薄く目を細めた。


天井から吊るされた触手のような照明が仄かに揺れ、そのゆらめきが、彼の姿を金属のように鈍く照らしていた。


本来の彼の姿は、見る者の心を砕く異形――無数の赤い眼を持ち、甲冑と皮膚が融合した三メートルを超す異質な巨躯。

しかし今は、より「動きやすく」「見慣れた」姿――全身を黒の衣に包んだ、人間に近い体で過ごしていた。


その姿に見覚えがあるのも当然だ。

なぜなら――クトゥルは、元々、人間だったからだ。


彼は周囲から「邪神」と呼ばれていたが、実のところ、正体は前世で中二病を患っていたごく普通の高校生。

何の因果か、ある日「創造主」と名乗る存在に転生させられ、気づけばこの世界で˝邪神˝としての役割を担わされていたのだった。


けれど、そんな真実を誰にも明かすことなく、彼は今もなお˝偽りの邪神˝を演じ続けている。


「(ニート生活は満喫できると言っても、娯楽が何もない状況って、こんな暇なんだな)」


彼が転生したこの地は、剣と魔法が支配する中世風ファンタジー世界。

当然、テレビもスマホもゲームもなければ、コンビニもネットも存在しない。

日々の楽しみは限られており、その中で唯一彼の心を慰めるのが――この紅茶だった。


カップ片手に、クトゥルは広々とした部屋の中を気まぐれに歩き回る。

広間の壁には歪んだ額縁が並び、天井には目玉のような魔導装飾が鈍く光っている。そんな異様な空間の中で、彼はただひとり、現実と妄想の狭間に立っていた。


――と、その時。

重い扉の向こうから、控えめなノック音が空気を震わせた。


「……?(何だ…何か嫌な予感がする…)」


クトゥルは、わずかに眉を動かし、カップをテーブルに戻す。


彼は紅茶の香りを鼻先に感じたまま、ぴたりと足を止めた。

勘が囁く。この不意の気配、予感は明確だった。


――もめ事の匂いがする。


だが、彼はすぐにその予感を表に出すことはせず、威厳に満ちた口調で静かに命じた。


「入室を許可する。」


「はっ…失礼します。」


扉の向こうから応じる声と共に、重厚な扉がゆっくりと開かれた。

開かれた隙間から入ってきたのは、ティファーだった。


その姿に、まったくの乱れはない。

銀の軽装鎧は曇りひとつなく磨かれ、腰には使い慣れた両刃の片手剣が揺れている。

高く結い上げたプラチナブロンドの髪は、戦場に生きる者としての誇りを象徴し、前髪で隠すこともない額は、意志の強さと誠実さを物語っていた。


しかし――その端整な顔に刻まれた表情は、いつものそれではなかった。

唇はわずかに固く結ばれ、瞳の奥には沈んだ影が揺れていた。


「どうした、ティファー…」


クトゥルの問いかけに、彼女はほんの一瞬だけ視線を逸らし、ためらうように言葉を選んだ。

そして、意を決したように静かに口を開く。


「……クトゥル様。至急、謁見を求める者がいます。ユ=ツ・スエ・ビルの村で、クトゥルが最初に出会った白うさぎの獣人――イルメナです。」


名が告げられた瞬間、クトゥルの手が静かに止まった。


「イルメナ…?」


その眼差しは、一瞬で研ぎ澄まされた冷たい光を帯び、ティファーの沈痛な声音の裏にある意味を、正確に見抜こうとしていた。


「……分かった。すぐに向かおう。(ティファーのこの反応…こ、これは胸糞話の予感がするぞ…)」


紅茶の余韻を残す空気に、ふと冷気が流れ込む。

それは気のせいではない。クトゥル自身が放った感情が、周囲の空気に滲み出たのだ。


「はっ!」


ティファーは即座に応じ、姿勢を正す。

クトゥルは姿見の前に立ち、長い外套の襟を直すと、乱れひとつない歩調で部屋を出た。


その背を、ティファーが静かに追う。

神塔の石廊下に、二人の足音が厳かに響いていた。



―――



第三階層――謁見の間。

そこは、混沌の神塔の中にあって唯一、邪神クトゥルと直接対面することが許される神聖な場所だった。

重厚な扉が閉ざされ、外界の音を完全に遮断したその空間は、まるで時間すら停滞したかのような厳粛さを漂わせている。


頭上には暗がりに溶けそうなシャンデリアが宙を浮き、仄かな光がぽつりぽつりと闇を照らしていた。

光の輪に浮かび上がったその影――それは、見る者の胸を締めつけるような姿をしていた。


白く柔らかな毛並みだったはずの体毛は、今や泥と血と煤にまみれ、無残なくすんだ灰色に染まっていた。

裂けた耳には乾きかけた血の跡が残り、腕には無数の細く浅い傷――だがその数の多さが、どれほどの苦難と暴力に晒されたかを雄弁に物語っていた。


そして何より、彼女の目――赤い眼球全体が、泣き腫らしすぎて充血しきっていた。まるで魂ごと悲鳴をあげているかのように。


それは、かつてのイルメナだった。

あの日、ユ=ツ・スエ・ビルの村で、娘と共に希望を託し、生き残った白兎の獣人。

母として、女性として、そして一人の命ある者として、懸命に前を向いていたはずの存在だった。


「……クトゥル様…ッ…」


その声はかすれ、もはや息にしか聞こえなかった。

やつれた身体は震え、呼吸も浅く、彼女はとうに立ち上がる力を失っていた。

それでも、崩れかけた膝のまま、濡れた瞳でまっすぐにクトゥルを見据えていた。

壊れかけてもなお、訴える強さだけは残っていた。


「こ、この度は、このような見すぼらしい姿での謁見…大変誠に――」


「些細なことだ。(うぅ…またシリアス展開か…?)」


その一言が、空気を変えた。

クトゥルの声音には揺るぎがない。

イルメナの言葉を遮るように、静かに、だがはっきりと告げると、彼は足音ひとつ立てずに彼女へと歩み寄った。


黒き衣を纏い、絶対的な威容を持つその姿。

まるでこの世の理を無視して存在しているかのような存在でありながら、今この瞬間だけは、イルメナにとって唯一の拠り所だった。


その強大な力が、暴力ではなく慈悲を持って注がれるのだと、彼女は信じていた。

――いや、信じるしかなかった。


「何があったかお前の口で語るが良い。」


静かに、しかし重く響いたその言葉が、イルメナの胸の奥に積み重なっていた感情の蓋を、音を立てて吹き飛ばした。


彼女の肩が震える。

喉の奥から、嗚咽が漏れた。


「……突然、夜に……っ、クラゲイン家の旗を掲げた魔族たちが……私たちの村を……っ!」


謁見の間に響くその声は、まるで絞り出すように、か細く震えていた。

途切れ途切れになりながらも、イルメナは語ることをやめなかった。

呼吸を乱し、喉を震わせ、涙を堪えきれず嗚咽を漏らしながら、それでも彼女は事実を――己の地獄を語り続けた。


――復興祝いの夜。

再び笑顔を取り戻したはずの村を、突如として襲った黒き影。


クラゲイン家の旗を掲げた一団。

だが、同じクラゲイン領のレヴィが断言した、彼らはクラゲイン領の魔族ではない。

あの目、あの所作、あの嗤い――あれは、紛れもなく、"狩るために飼い慣らされた獣"のものだった。


「…殺され、連れ去られた者も…恋人レヴィも……っ……レヴィが……!!」


言葉が喉に詰まり、断ち切れたように声が止まる。

イルメナは顔を伏せ、床に突っ伏すようにして、押し殺していた嗚咽を堪えきれず漏らした。


クトゥルは何も言わなかった。

何も遮らず、何も促さず、ただその場に在り続けた。

その沈黙は、決して無関心ではなかった。

彼の沈黙は、すべてを受け止め、語り手にすべてを吐き出させるための"器"となっていた。


「気づいたら、娘も……ミレルも……連れ去られていました……!私には……もう……もう、どうしたらいいのか……っ!!」


涙と嗚咽に濡れた声が、石造りの床に広がり、神塔の壁に染み込むかのように響き渡る。

どこまでも静かなこの空間に、彼女の痛みだけが確かに存在していた。


――しばしの沈黙が、再び謁見の間を満たす。

泣き崩れたイルメナの嗚咽も、次第に細くなり、やがて静寂だけが空間を支配した。

すべての涙を注ぎ尽くしたかのような、魂の空白のような時間。


クトゥルは、その光景を無言のまま見つめていた。

俯き、膝をついたまま動かぬ彼女の姿は、崩れた祈りの彫像のように儚かった。


「(……えっと…慰めるって意味で…ここは、頭撫でた方が良いか……)」


邪神と畏れられる者の内心には、妙に生々しい思考が浮かんでいた。

この状況において適切な対応が何か――その答えを探して、彼は一瞬、宙を見上げるように視線を泳がせた。


やがて、ゆるやかに右手を上げる。

ためらうように、だが確かな意志を持って、そっとイルメナの頭上へと手を差し伸べた。


「(いや……一応……俺って邪神扱いだし……気軽に触れたら威厳に関わるか……?)」


内心の葛藤が、指先に現れる。

伸ばされた手は、寸前で止まり、空を撫でるかのように宙に浮いたままだった。

触れぬ優しさ。

沈黙の配慮。

けれど、その仕草は、見方を変えれば――神より下された加護にも等しく、誰もが畏敬を抱く所作に映っていた。


当の本人にその自覚はない。

エリザベートをはじめ、この場にいる者たちは、その手の動きに神聖さすら感じ取っていたが、クトゥル本人の頭の中では、威厳と中二設定の維持に悩む元人間の苦悩が続いていた。


だが、触れなかったその手が、イルメナの胸の奥に確かな温度をもたらしたのは確かだった。


彼女は再び、膝に崩れた。

そして――また、涙を流した。


しかし今度の涙は違っていた。

絶望に押し潰された者が流す、それだけの涙ではなかった。


それは、ほんの僅かでも――

差し込んだ一条の光に、魂が応えたような。

救いの気配を孕んだ、温かさを含んだ涙だった。


そしてそれこそが、邪神クトゥルが知らずに与えた、最初の奇跡だったのかもしれない。


クトゥルは無言のまま、イルメナの前から離れ、ゆっくりと神塔の奥に据えられた玉座へと向かう。


その背に纏う黒衣が静かに揺れ、彼の一歩ごとに周囲の空気すら僅かに震えた。

漆黒の石で築かれた高座に腰を下ろすと、玉座の空間は一気に重々しい沈黙に包まれた。


「イルメナよ…何が望みだ…?(予想は付くけど)」


床にひれ伏したままのイルメナは、涙に濡れた顔を上げ、声を震わせながら訴える。


「どうか、娘を……ミレルを、助けてください……」


それは命を削るような懇願だった。母としての誇りも、礼儀もすでに投げ捨てていた。ただ、娘を取り戻したいという一心――。


だが、その懇願に返したのは、玉座の主ではなかった。


「……所詮、一人の魔族の子供が連れていかれただけでしょう」


冷たく、感情のかけらすら感じさせない声が空気を切った。

イルメナの背筋が震える。振り返ったその視線の先に立っていたのは、神塔の側近、エリザベートだった。


彼女は染め、艶を持つ黒髪を、長く細い指で優雅に梳いている。

美しい顔立ちには侮蔑の色が滲み、瞳には退屈さを隠そうともしない。


「この混沌の神塔に助けを乞うほどのことかしら? 他ならぬあなたの無力さが、今回の惨劇を招いたのでしょう?」


静かに放たれた言葉は、氷の刃のようにイルメナの心を突き刺した。

彼女の眉がわずかに動き、拳が強く握りしめられる。


悔しさ。怒り。

その両方が胸にこみ上げ、涙に代わって瞳を赤く染めていた。


だが、エリザベートは気にも留めない。

むしろその反応を楽しんでいるかのように、さらに言葉を重ねた。


「弱者は、いつだって自分の愚かさを他人のせいにする。なぜ自らが娘を守らなかったのかしら…? 無力さを晒しておいて、哀願する資格など――」


「――その辺りでやめておけ、エリザベート。」


その瞬間、空間が震えた。


言葉は低く、だが響きは鋼のように重く、謁見の間にいた全員の心に刺さる。

それはまるで、地の底から湧き上がるような声――邪神クトゥルの、否応なく人を従わせる力そのものだった。


一斉に注がれる視線。

玉座に座していたその男が、静かに立ち上がる。


黒き装束をまとい、人の姿を模した異形の存在。

クトゥルの双眸は深淵のような黒で、あらゆる感情も思考も見透かしてしまうかのような威圧感を放っていた。


その視線が、じわりとエリザベートに向けられる。彼女はわずかに目を伏せた。


一歩、前へと進む。

その足音は決して荒々しくはないが、謁見の間の床がわずかに軋んだ。

歪む空気。重なる圧力。

空間そのものが、彼の力に耐えて悲鳴を上げている。


「我が神塔に救いを求めた者を、あざけるような真似は、我が意志に反する。」


その言葉は剣のように鋭く、鉄槌のように重かった。

エリザベートは視線を逸らし、短くため息をついて一歩下がる。


だが――その威厳の裏に隠された、もう一つの声が、クトゥルの内心で泣いていた。


「(エリザベートっ…いくら邪神だからって残酷すぎるってぇっ…助けてやろうよっ!)」


かつての人間だった頃の情が、心の底で叫んでいる。

理屈ではなく、理性でもなく、ただ「助けたい」という素朴な思いが渦巻いていた。


しかし、クトゥルの表情は微動だにせず、堂々とした姿勢のまま、腕を組み、エリザベートを見据える。

神の威容を保ちつつ、内なる葛藤を誰にも悟らせないまま――彼は、神塔の主としての矜持を貫いていた。


彼の言葉に、エリザベートはハッとしたように目を伏せた。


冷静沈着で気高く、神塔内では誰もが一目を置く彼女――だが、今、その表情には戸惑いと動揺が色濃く浮かんでいた。

それも当然だ。プライドの高いエリザベートにとって、叱責は、自身の存在意義を揺るがすほどの屈辱だった。


けれど、それはあくまで˝相手が普通の者であれば˝の話。


彼女を叱責したのは、世界を統べる崇拝の対象――邪神クトゥル。


人知を超えたその存在に対し、反論も反発も、ましてや自我を通すなど不可能だった。


「…申し訳ありませんっ…クトゥル様っ!?」


顔面が見る間に蒼白に染まり、肩を震わせるエリザベートの姿は、まるで親に叱られた子供のようにも見えた。

その高圧的な物言いも、尊大な態度も、今は完全に鳴りを潜めている。


クトゥルは静かに彼女を見下ろし、わずかに首を振った。


「我に謝る必要などない。我はエリザベートの意見も一理ある、そう思っていたのだからな…。」


その言葉は、意外な方向から落ちてきた雷だった。


「え…」


ぽつりと漏れたイルメナの声には、言い知れぬ落胆が滲んでいた。


苦しみの果てにすがったこの場で、今また、打ち砕かれるのか。

邪神という存在にとって、自分の願いなど取るに足らぬもの。

――そんな当然の現実が、否応なく彼女の胸を締めつけた。


だがそれでも。


「…感情だけでは、何も変わらぬ。」


クトゥルの声音には、冷たさではなく、確かな重みがあった。


「…だが、それだけでは済まぬ問題もあるのだ。」


イルメナの胸に、再び言葉が染み渡る。

それは命を失いかけた心に、じんわりと温もりをもたらす灯火のようだった。


クトゥルは、静かに傷だらけのイルメナを見下ろす。

その瞳は黒く、底知れぬ深淵のようでありながら、不思議と温かい感触を帯びていた。


そして――彼は、緩やかに手を差し伸べた。


実際には届かぬ距離。だが、イルメナにははっきりと感じられた。

その手は確かに、目の前で自分へと差し出されている――そんな錯覚にすら陥るほどに。


現実に触れることのない、しかし魂に触れるような神の手。


それは、希望の兆しだった。


「お前の娘――ミレルは、ただの子供ではない。この地の未来を担い得る火種だ。奪われたことを、我らの敗北とはしない。取り戻そう……我が宝を…」


その一言が、まるで稲妻のように謁見の間を貫いた。


瞬間、空気が変わる。

重苦しい沈黙は破られ、そこに立ちこめていた諦念が一気に払われた。


漆黒の玉座を囲むように立っていた者たち――

ルドラヴェールは、グルっと喉を鳴らす。

ティファーは無言のまま、細身の指をぎゅっと握り締めた。

アーヴァは、くふっと笑い。

テネブルとリュミエールはほほ笑み合う。

イグロスは、目を瞑り静かに聞いていた。

エリザベートは、僅かにだが唇を噛み、瞳を伏せる。


誰もが感じ取っていた。

それが、ただの情けでも、気まぐれでもないということを。


クトゥルの言葉は――宣言だった。

この神塔が、失われた小さな命を取り戻すと、明確に世界へ放った決意だった。


そしてその瞬間――


クトゥルの脳内では、別の思考が駆け巡っていた。


「(…よし…これで、エリザベートも格は保てるし、イルメナの願いも聞いてやれるなっ!)」


己の威厳と、塔内の均衡、そしてイルメナの願い――

すべてを守る絶妙な言葉を選んだことに、内心で密かにガッツポーズを決めていた。


我が宝――

それは、神である彼が全力で擁護するという宣言に等しい。


その意味を、イルメナもまた、理解していた。


「…あ、…ありがとうございます…クトゥル様…」


震える声で絞り出した言葉とともに、イルメナの目に大粒の涙があふれ出る。

それは悲しみのそれではない。

希望と感謝が混じった、光のように輝く涙だった。


細い肩が震え、かすかな嗚咽が漏れる。

だがそれは、絶望に打ちひしがれた時のものとは違う。

今の彼女の心には、確かな救いが宿っていた。


「礼を言うのは、ミレルと再会した時にしておけ…」


クトゥルの言葉は短く、重く、そして優しかった。


「は…はい…っ」


イルメナは深く頭を垂れた。

その背を、神の意思が確かに支えていることを感じながら。


そしてその時――

神の仮面をかぶった邪神は、心の奥でそっと呟く。


「(待ってろ!ミレル!助けてやるからな!…俺以外がっ!)」


それは誰にも聞こえることのない、完全に秘された声。

しかし、そこにはたしかな熱があった。


誰かのために心を動かし、世界に介入する。

神としては在ってはならぬ感情かもしれない。

けれどそれでも――


それは邪神クトゥルの中で、確かに灯った決意だった。



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