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聖光教会と魔族の兄妹⑭

静寂が、謁見の間を深く包んでいた。


先ほどまで語られていた記憶の断片――過去という名の地獄は、まるで亡霊のようにリュミエールの肩に重くのしかかり、その呼吸すら浅くさせていた。彼女はわずかに震える指先で胸元を押さえ、かすかに湿った唇を開く。


「……あの人は……」


その声はか細かった。けれども、確かな意思が込められていた。


「……聖職者なんかじゃない…悪魔ですっ。」


その一言は、重く、鋭く空気を切り裂いた。

謁見の間にいた誰もが、息を呑み、声を失った。


リュミエールの肩に、そっと置かれた温もり。

それは、隣にいたテネブルの手だった。


何も言わず、ただ静かに。

彼女の震えを受け止めるようにその手はそこにあった。

兄として――そして、共に地獄を歩み、生き延びてきた者としての、無言の肯定。


ルーナとノクスもまた、静かにその様子を見守っていた。

瞳には、怒りと哀しみ、そして、計り知れぬ敬意が交差している。


やがて、壇上。

黒衣を纏った異形の王が、静かに腰を浮かせた。

黒髪の青年――クトゥル。その名を呼ぶことさえ畏れ多い存在。


その動作はゆるやかで、威圧はない。

けれど、ただ立ち上がるだけで、空間そのものが震えたように感じられた。


深淵のような眼差しが、リュミエールとテネブルを見つめる。

その瞳はすべてを見透かす――決して言葉にしない真実すら、覗き込むように。


「……その身を汚したのは、おまえたちではない。」


低く、深く、玉座の間に反響するその声は、地の底から響いてくるようであった。


クトゥルは完全に立ち上がり、その姿を見せる。

異形でありながら、威厳に満ちたその存在は、まさに神の名を冠する者だった。


「偽りの光を掲げ、弱き者を踏みつける者こそ、裁かれるべきだ。」


断罪の言葉が、静かに、しかし確かな重みを持って放たれる。

そして、再びリュミエールたちへと視線を戻し、語る。


「耐えたことを、恥じるな。傷ついたことを、隠すな。

……おまえたちは、生きてここに在る。それだけで、十分だ。」


その声音は静かだった。

けれどもその言葉に込められた圧力は、目に見えぬ力となって場の空気を震わせた。

まるで、空間そのものが膝を屈しているかのようだった。


再び、謁見の間に沈黙が訪れる。

だが、それは恐怖から生まれたものではない。

これは、確かな決意と、尊厳が芽吹いた者たちを包むための、神聖な静寂だった。


リュミエールは、震える指で、自らの胸の上をぎゅっと握りしめる。


「ありがとうございます。クトゥル様。あたしは……あの人に、二度と屈しない……」


涙がこぼれ落ちる寸前、けれどその瞳には、確かな意志が宿っていた。


「例え……何があっても……」


その誓いに、隣のテネブルがもう一度、はっきりと頷いた。


クトゥルは一度、目を伏せ――そして、静かに言葉を紡ぐ。


「ならば――お前たちの物語を、ここから始めよう。」


その瞬間、空気が変わった。


神が、許したのではない。

神が、肯定したのでもない。


それは、命の価値と魂の重みを知る存在が、自らの名の下に、彼らの生を「未来」へと繋いだということだった。

静かなる神の審判が、ここに下される。

すべては、真の神の名のもとに。



―――




石畳が陽光を反射し、宝石を散りばめたように足元を照らしていた。

それはまるで、大地そのものが祝福の光を受け入れたかのような、神秘的な輝きだった。


セラフィスたちは、荘厳に整備された大通りをゆっくりと歩いていた。

この場所――ユ=ツ・スエ・ビル。

魔族が築き上げた都市は、異形と理とが調和する奇跡の地であり、闇と秩序が見事に共存する聖域でもあった。


通りの両脇には、漆黒と深紅を基調とした建築物が規則正しく並び、その壁面には古の魔法紋が淡く光を放っている。

紋様はただ刻まれているのではない。まるで命を宿したかのように、風に合わせて緩やかに脈動しながら、その姿を微かに変えていた。

通り過ぎる者たちの目を奪い、気づけば足を止めさせるほどの美しさが、そこにはあった。


「…改めて見たが、綺麗な街だな……」


マルグリットがぽつりと感嘆の声を漏らす。

これまで聖光教会という狭い世界に身を置いていた彼女にとって、この都市の美と静謐が織りなす光景はあまりにも異質で――そしてどこか、神聖にすら感じられた。


「この空気、すごく澄んでる……魔力が安定してる証拠だよ」


アリシアが小さく囁く。

白いフードを深く被って顔の大半は隠れているが、その橙色の瞳は好奇心に満ちた光をたたえて輝いていた。


高身長のフレイヤは、腕を組んだまま街の奥を睨むように視線を向ける。


「ゴミ1つ落ちてねぇ…」


低く唸るような声に混じるのは、ある種の畏敬だった。

この街に漂う整然とした気配が、彼女の直感に何かを訴えかけていた。


「アタクシは好きよ、こういう場所。洗練されていて、上品で……ふふ、アタクシにぴったりじゃない?」


ミレイユが優雅に縦ロールを揺らし、鼻を鳴らす。

口ぶりはいつも通りの尊大なものだったが、その瞳にもこの都市の魅力を否定できない素直な色が浮かんでいた。


一方で、ノクスとルーナの双子はと言えば、目を輝かせて初めて見る景色に完全に心を奪われていた。

人目も憚らず、あちこちを指差しては無邪気なやりとりを繰り返す。


「ノクス…あれ何だと思う…?」


「うーん…?食べ物だと思うけど…」


まるで旅先の子供のようなその様子に、セラフィスは思わず微笑んだ。

仲間たちの顔を順に見渡しながら、彼女はどこか安堵したように言葉をこぼす。


「……せっかく、邪神様の聖地に来たんだし、今日は街を観光しましょうか。」


その一言に、重かった空気がふっと和らいだ。

緊張と覚悟を抱いていた一行の心が、ほんのひととき、解かれていく。

それは、旅の終わりではなく――新たな日々のはじまりを告げる、束の間の祝福であった。


一同は、ユ=ツ・スエ・ビルの中心地に位置するソーンベルの中央市場へと足を運んだ。


魔族たちが営む露店が立ち並ぶこの広場では、果実や香辛料、魔法的加工を施された品々、さらには見たこともない動植物までが所狭しと陳列されていた。

空気は複雑な香りに満ち、鮮やかな布地と色彩が踊るように視界を賑わす。市の中心に据えられた魔力の噴水からは、霧のような蒸気が立ちのぼり、まるで幻影の中を歩いているような錯覚すら与える。


そんな中、ひときわ高い声が響いた。


「こ、これ……目、動きましたわ…」


ミレイユが半ば叫ぶように悲鳴を上げたのは、銀の棘を持つ小さな球体――見るからに奇妙な生物を手に取った瞬間だった。

ころんとしたその物体は、表面に点のような模様が浮かび、確かにじわりと視線を返すような動きを見せていた。


「ふふ、それはココ・ニールという鳥の卵さ。」


露店の奥にいた老魔族が、優しく説明する。片方の角が欠けたその老人は、穏やかな笑みを浮かべていた。

ミレイユは思わず身を引き、慌てて卵を棚に戻すと、頬を染めて一歩下がった。


「どこが目だよ…ただの模様じゃねぇか。」


フレイヤが肩を震わせながら笑いを堪えるように呟いた。

ミレイユは唇を尖らせて赤面しながら睨み返すが、その視線にもどこか憎めない可愛らしさが滲んでいた。


一方その頃、アリシアは人混みを避けるようにして、人通りの少ない壁際へと身を寄せていた。

肩をすぼめるようにして歩いていた彼女に、そっと声をかけたのはノクスだった。


「アリシアさん、だいじょうぶ? 人、多すぎる?」


突然の問いに、アリシアはわずかに目を見開いた。だがすぐに、その表情は柔らかく変わり、穏やかな笑みが浮かぶ。


「うん……ありがと、ノクスくん。僕、こういう場所……ちょっと苦手でさ。」


人混みに押される中で、それでも彼女の声音には確かな感謝の色があった。

ノクスは照れ隠しのように鼻をかいてから、隣にそっと立った。


少し離れた場所では、セラフィスが一同を見守るように歩きながら、静かに空を仰ぐ。

魔都の空は淡く薄曇りで、魔力の流れが風の筋を描いていた。


だが、今はまだ――この都市に不穏な影はなかった。


束の間の平穏。騒がしさも、安らぎも、互いの存在がすぐそばにあることが愛おしいと感じられる時間。

誰もが自然と肩を並べ、言葉なくしても交わる縁を、ひとつひとつ確かめるように歩いていた。



―――



ソーンベルの昼下がり。

太陽は高く、澄んだ空から柔らかな光を降らせていた。喧騒の合間に広がる午後の静寂が、魔都に安らぎをもたらしている。


この時間、一行はそれぞれ思い思いの場所へと散っていた。ノクスとルーナもまた、連れ立って市街の大通りを歩いていた。


石畳は陽を受けて輝き、歩を進めるたびに軽やかな音を奏でる。

ノクスは風に揺れる灰の髪をそのままに、ゆるやかな表情で周囲を見回していた。

ルーナはというと、小さなポーチを大切に抱えながら、道端に咲いた可憐な花に目を留め、ちょこんとしゃがみ込んでいた。


その時だった――。


通りの端で、小さな影が揺れていた。

そこにいたのは、ひとりの魔族の子ども。年の頃は、ルーナとさほど変わらないだろう。

白いうさぎのような垂れ耳は砂にまみれ、乱れた髪には埃が絡んでいた。泥に汚れた尻尾の先がかすかに震えている。


転んだのだろう。腕には擦り傷があり、小さな籠の中には転がった果実が散乱していた。

その姿はあまりにも心細げで、どこか壊れそうな儚さを帯びていた。


ノクスはすぐに足を止め、静かにしゃがみ込んだ。


「……大丈夫?」


その声は、いつもの無口な彼からは想像もつかないほどに優しかった。

差し出された手に、少女は怯えたように身を引いた。

けれど、ノクスの瞳は曇りなくまっすぐで、そこには威圧も押しつけもなかった。


やがて、少女はおそるおそる小さな手を伸ばし、ノクスの掌に触れた。


「ほら、立てる?」


「う、うん……」


ノクスはそっと少女の体を支えながら立たせ、散らばった果実を一つずつ拾い、丁寧に籠の中へ戻してやる。

ルーナはというと、いつの間にかそばの花壇から小さな花をいくつか摘んでいた。


小さな指先が器用に動く。すぐに、花たちは可愛らしい花冠へと姿を変える。


「……はい、これ」


ルーナは完成した花冠を手に少女の前に差し出す。


「転んでも、泣かないでいられたご褒美っ。えへへ」


その言葉に、少女の目が丸くなった。

驚きと戸惑い、そして嬉しさに彩られた表情で、彼女は小さく頷く。

ルーナは微笑むと、そっと花冠を少女の頭に乗せた。


その光景は、まるで春の妖精が現れたかのようだった。

市場の喧騒の中、小さな奇跡が生まれた瞬間――。


「アタシ、ルーナ」


「僕は、ノクス。君の名前は…?」


二人が名乗ると、少女はようやく気を許したように、はにかみながら名を返した。


「私…ミレル。」


その名を口にする声は、かすかに震えていたが、どこか誇らしげでもあった。


近くを通りかかった者たちも足を止め、目を細めてその様子を見守っていた。

どこか温かく、微笑ましい空気が広がっていく。


普段は言葉少ななノクスも、少女に向かってそっと訊ねた。


「……帰れる?」


「うん。ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん……!」


声に込められたのは、感謝と、ほんの少しの勇気。

そしてその日、ミレルという名の少女は、ほんの小さな優しさに救われることとなった。


ミレルはそう言うと、小さな胸に抱えていた果実のカゴをぎゅっと引き寄せた。

そして、ちいさな足で石畳を駆けていく。


花冠は走るたびに揺れ、頭の上で少し傾いていたが――それがまた、彼女のあどけなさを一層引き立て、どこか微笑ましくすらあった。


彼女の背を目で追いながら、ルーナはそっと顔を上げた。

やわらかく目元をほころばせ、隣を歩くノクスに微笑みかける。


「……良い表情…」


その言葉に、ノクスは短く頷いた。


「……ああ」


たったそれだけの会話。

けれども、言葉の裏に込められた感情は、誰よりも深く、温かなものだった。

ふたりの表情には、静かな満足が宿っていた。


ざわめく市場の喧騒も、行き交う人々の声も、今はもう遠い。

この街にも、たしかに息づいている――誰かを思いやる気持ちが、優しさが、確かに。


ノクスとルーナは肩を並べ、再び歩き出した。

沈みゆく陽の光が、まるで祝福のように彼らの頭上を包み、長く伸びた二人の影が、ゆるやかに石畳を彩っていた。




―――




ソーンベルの午後――空には霞がかかり、都市全体を包む魔力の流れが柔らかな緩衝音のように響いていた。

街は静かで穏やか、だが決して沈黙ではない。心を満たすような気配が、石畳を伝って全身を撫でていく。


その中心、高級商店街。

広場を抜けた先に並ぶ露店は、どれも洗練された意匠を凝らし、上質な絹布や見たこともない鉱石、幻想種の羽根や香水瓶が美しく陳列されていた。


その一角に、ひときわ目を惹く存在があった。


「まあ……紅珠の雫ですの? 本当にこの世の宝石?まるで溶けた夕陽みたい……!」


金色の髪を縦ロールに巻いた美貌の少女――ミレイユが、ショーケース越しに宝石を覗き込み、深いため息をこぼす。

瞳には感嘆の光を宿し、その表情はまるで劇中の貴婦人のように優雅だった。


彼女の目を奪ったそれは、ソーンベルの地下鉱脈でしか採れないという〈紅珠の雫〉。

直径わずか数センチの魔力結晶石で、角度によって朱から黄金、さらには深紅へと揺らめく色彩を放つ。指先で触れれば、微かに熱を持ったようなぬくもりが伝わってくるとされる、極めて希少な逸品だ。


「これは……ふふ、アタクシの肌にぴったりじゃありませんこと?」


くるりと振り返ると、そこには彼女に付き従う魔族の男たちの姿があった。

いずれもこの街の住人で、背丈も筋骨も立派。だが今は全員、ミレイユの後ろに従者のように控え、荷物を両腕に抱えていた。


その顔には、陶酔と崇拝の色が混じっている。


「えぇ。美しいミレイユ様にぴったりですぜ。」


「ミレイユさんのをより引き立たせます。」


「当然ですわ。オーッホホ♪」


それぞれの声が、まるで彼女に花を捧げるように重なる。

まだ街に到着して一日も経っていないというのに、彼らは既にミレイユの花に引き寄せられ、見事に虜となっていたのだ。


彼女は優雅に顎を上げ、肩越しに微笑みを一つ――それだけで男たちは身じろぎすらできず、ただその場に立ち尽くした。


「うふふ……良い街ですわね、ソーンベル。宝石も、美食も、見る者の目を満足させるものばかり。気に入りましたわ」


風がミレイユのスカートの裾を軽く揺らし、縦ロールの金髪がさらさらと踊った。

その美しさにまた一人、通りすがりの若い魔族が立ち止まり、口を半開きにしたまま見とれていた。


ミレイユは気付いていながら、それには一切触れない。

美しさを自覚している者にとって、称賛は日常であり、当然の報酬である。


彼らが抱えた袋や箱は、すでに山のようだった。

上質な衣類に、繊細な細工のアクセサリー。魔香草から抽出された香水の瓶、色とりどりの布地見本――

中身はもはや何がどこに入っているのか、本人ですら把握していないかもしれない。


にもかかわらず、ミレイユは微塵も疲れを見せない。

その指先は優雅に宙を舞い、次に狙う獲物――いや、宝石へと視線を滑らせていた。


「お、お姉さん! 次はどちらへ…?」


「荷物、まだ持てます。どれでもっ!」


周囲に侍る魔族の男たちは、皆、彼女の取り巻きと化していた。

焦げ茶の肌に紋様の浮かぶ戦士風の男から、魔眼を隠した錬金術師風の青年まで、その顔ぶれは様々。

だが共通しているのは、全員が顔を紅潮させながら、競うように手を差し伸べていることだった。


だがミレイユは、涼やかに片手を上げ、それを制する。


「落ち着きなさいな。……あなたたち、アタクシを壊れ物か何かと勘違いしてません?ええ、確かに繊細で壊れそうな美しさではありますけど♪」


最後に片目を閉じてウィンクひとつ。

それだけで、男たちは鼻血が噴き出しかける勢いで赤面し、慌てて頭を下げた。


そんな様子に満足げな笑みを浮かべながら、ミレイユは再び露店の店主に向き直る。


「で……こちらの〈紅珠の雫〉、アタクシのために ˝特別価格˝でお願いできますこと? この微笑みつきで。」


その一言に、店主は背筋を伸ばしたかと思えば、すぐさま頭を下げた。


「ひ、光栄でございます、お嬢様……!」


額に汗を浮かべながら提示された価格は、当初の三割引。

しかし、それを見てもミレイユは涼しい顔で、ただくすくすと笑う。

それは、最初からこうなると分かっていた者の余裕だった。


まるで舞台の主役――いや、この通りそのものが彼女の舞台だった。

往来の視線を浴びることは当然であり、それに応える所作もまた完璧だった。


「ふふっ……旅というのは、戦いだけじゃありませんわ。

こうして、その地の美を嗜むのもまた、上品な嗜みってものよ」


くるりと裾をひるがえして歩き出せば、背後からため息と羨望、そして嫉妬まじりの視線が注がれる。

それすらも、彼女は追い風のように受け入れて歩みを進める。


陽光が宝石に反射し、眩くきらめく。

だがその中で、誰よりも目を奪う輝きを放っていたのは、他でもない彼女――ミレイユだった。


――そうしてミレイユは、今日もまたソーンベルでその魅力を遺憾なく発揮しながら、優雅に街を満喫していた。



―――



ソーンベルの外縁に位置する、ひっそりとした古訓練場。

深紅の柱が円を描くように並び、中央には苔むした石畳が広がっている。

かつては多くの魔族の兵が剣技を磨き、血と汗を流した場――だが今は、時の流れと共にその喧騒を失い、ただ静かに風が吹き抜けるばかり。


その静寂の中に、三つの影があった。


「へぇ、こんな場所まであるのか……」


フレイヤが片手を腰に当て、大剣の柄に指をかけたまま、あたりの様子に感嘆の声を漏らした。

荒削りな戦士の風体ながらも、彼女の瞳には確かな眼識が光っている。


その隣では、ティファーが無言のまま剣を構え、まるで風の流れを読むかのように目を細めていた。

プラチナの髪がそよ風に揺れ、彼女の纏う気配は、鋭くも静か。まるで、風景の一部と化したかのような自然さがあった。


少し離れた位置には、アリシアが腰を下ろしている。

白いローブの裾を膝の上に整え、オレンジの瞳で二人を見つめていた。観戦のために足を運んできたのだ。


フレイヤは、ふとティファーに目をやる。


――この女、ただ者じゃねぇ。


その立ち姿。無駄のない呼吸と、場を圧するような静けさ。

見惚れるほどの美しさではない。だが、その研ぎ澄まされた気配は、戦場の勘が警鐘を鳴らすような緊張を孕んでいた。


「初めて見た時から、只者ではないと思っていた。手合わせ願おう。」


ティファーが、感情の起伏を抑えた声でそう告げた。

その目に宿るのは、敵意でも好戦心でもない。ただ、純粋な探求――剣を通して相手を知ろうとする本能だった。


「いいぜ♪俺も戦いたいと思ってたんだ。」


フレイヤが口角を上げ、嬉しげに笑った。

並び立つ二人は、まるで対照的だった。

180cm台の高身長で筋肉質なフレイヤに対し、ティファーは150cm台後半と細見で小柄。

だがその足元はどちらも揺るぎなく、臆する気配は微塵もなかった。


ここに集まった理由――それは模擬戦だった。


互いの剣を交え、高め合うための、ただそれだけの理由。

命のやり取りではないが、手を抜くつもりもない。


アリシアはそんな二人を静かに見守っていた。


「じゃあ――」


アリシアが静かに杖を掲げ、石畳を軽く叩いた。

澄んだ音が訓練場に響き、午後の空気がぴたりと静まる。


「始め」


――カァン。


澄んだ一音が、剣戟の火蓋を切った。


次の瞬間、フレイヤの脚が一歩、地を裂くように踏み出す。

その身に纏う空気がわずかに揺れたかと思えば、巨躯が大剣を構えながら一気に間合いを詰めた。


「ほう……」


ティファーがほんのわずかに眉を上げた。

その瞳には敵意ではなく、純粋な観察の光が宿っている。

眼差しは冷静で、戦場の空気の変化や足元の砂粒の動きさえ逃さぬ鷹のような鋭さを持っていた。


片手剣を腰から抜き、無駄なく構えるティファー。

その構えは柔らかく、しかし芯に一点の曇りもない。

小柄な体躯からは想像もつかない研ぎ澄まされた気配が、空間に静かに滲み出す。


「いくぜぇっ!」


フレイヤが笑うように叫ぶと、地面を蹴って真っすぐ突っ込む。

その一撃は、質量と速度を両立した、まさに戦場仕込みの剣。

空気が圧されるような一閃が、ティファーの眼前を裂いた。


だが――ティファーはそれを受け止めていた。

無駄な力もなく、わずかに半身を捻り、剣を斜めに翳して受ける。


「っ…」


フレイヤが目を見開く。

彼女の太刀筋は重く鋭い。真正面から受ければ、普通なら弾き飛ばされるはずだ。

だがティファーは、それを軽やかに、だが確実に受け止めてみせた。


まるで彼女の攻撃を――完全に見切っていたかのように。


「はぁっ!」


鋭く踏み込むティファーの一撃が返される。

小柄な身体から繰り出された剣は、その姿に反して驚くほど重い。


「ぐっ…(小柄なのに、何て力だっ)」


フレイヤが咄嗟に防御の構えを取りながら、心中で呻いた。

受けた剣からは、骨まで響くような質量と練度が伝わってくる。


剣と剣がぶつかるたびに、訓練場に甲高い音が響き渡る。

まるで互いの魂がぶつかり合うような、その音は、訓練場の柱に反響し、アリシアの胸の奥まで届いた。


そして、観戦する彼女は微かに息を呑む。



打ち合いの応酬は、なおも続いていた。


剣が閃き、空気を裂く。

フレイヤの動きは攻撃一辺倒のようでいて、そこには巧妙な緩急があった。

筋肉に蓄えられた爆発的な加速、振るわれる大剣は、常人の視界では残像にすら見えない。


だが――ティファーは遅れなかった。

小柄な身体は無駄のない動きで動き続け、間合いと剣筋の隙を正確に見極めていく。

まるで、空間そのものの流れを読んでいるかのような冷静さだった。


打ち合いは、十合、二十合――

やがて数十合に及んでもなお、勝敗の趨勢は見えなかった。


剣と剣がぶつかるたび、火花が舞い、音が高く跳ねる。

その余波で地面の砂が巻き上がり、風が広がる。


そして――同時に、二人の剣士が跳躍し、静かに距離を取った。


石畳に降り立った足元で風が渦巻き、巻き上げた砂埃が舞い散る中、ようやく静寂が戻る。


「……互角、だな。」


ティファーが肩で息をつきながら呟いた。

その表情には、わずかな汗と、研ぎ澄まされた集中の名残が浮かんでいる。


フレイヤは大剣を肩に担ぎ、口の端を吊り上げてにやりと笑う。


「何言ってんだよ。…お前の方が上だよ。」


そう言う彼女の声に、敗北の悔しさはなく、むしろ純粋な称賛と戦士としての快哉がこもっていた。


ティファーはその言葉を静かに受け止め、真っ直ぐな目で応じる。


「その言葉。褒め言葉と受け取っておこう。これから、私はもっと強くなるつもりだ。クトゥル様がウロボロスの世界に居る限り。」


その名が出た瞬間、場の空気がわずかに変わった。


アリシアとフレイヤは、同時に目を合わせる。

言葉にこそしなかったが、心の奥に火が灯るのを感じていた。


「こりゃ、俺たちも負けられないな。」


「うん。…セラフィスのため、そして、邪神様のために。」


その言葉に、ティファーは静かに頷く。

誰に命じられるでもなく、誰かに認められるためでもなく――ただ己の信じたもののために、彼女は剣を振るうのだ。


訓練場には、日没の光が長く影を落とし始めていた。

鈍い金属音を一度だけ響かせ、ティファーが静かに歩き出す。


「そろそろ、日が暮れる。行こう。」


その背に続くように、フレイヤとアリシアも歩き出す。


誰もが無言だったが、その歩みには、確かな決意と絆が宿っていた。

三つの影が、石畳の上に長く伸びていく。


その空は、どこまでも深く、そして――遠く、混沌の神塔へと続いていた。





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