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聖光教会と魔族の兄妹⑫

重厚な静寂が、謁見の間を満たしていた。


紅と黒の玉座――その頂に、邪神クトゥルが悠然と腰を下ろしている。

その姿は威圧的ではない。だが、空間そのものが彼を中心に収縮し、引き寄せられていくような重みを帯びていた。まるで、神性そのものが形を成して座しているかのようだった。


玉座の傍らには、冷気と気品を同時に漂わせる一人の女性――エリザベートが控えている。

黄金の髪を漆黒に染めた髪が流麗に垂れ、微動だにせぬその姿には、王の伴侶でも、従者でもない、隣に立つ者としての絶対的な存在感があった。


その背後には、アーヴァ、イグロス、リュミエール、テネブル、ティファー、ルドラヴェール――六人の異才が黙然と並ぶ。

誰もが一歩も動かず、ただそこに在るだけで謁見の場に異質な力場を生み出していた。


一方、セラフィスたちは玉座の前に一列に並び、深く頭を垂れている。

声も、動きも、揺らぎさえ許されぬような緊張がその身を包んでいた。

彼らは今、まさしく邪の神に謁見しているという事実を、体全体で受け止めているのだった。


そして――


「……頭を上げることを許可する。」


低く、重く、空間を穿つような声が響いた。

音というよりも、意味そのものが空気へ染み込んでいくような感覚。

それがクトゥルの言葉だった。


その瞬間、セラフィスはゆるやかに顔を上げた。

深く息を吸い込むことなく、ただ静かに、慎重に。

玉座を正面から見据えるその瞳に、恐れや驚きはなかった。ただ、深い敬意と確信だけが宿っていた。


そして、一歩――また一歩と、石の床に足音を響かせて前へ進む。

マルグリット、アリシア、ミレイユ、フレイヤ、ルーナ、ノクスがそれに続き、慎重に歩みを揃える。

その様はまるで、聖域に踏み入る巡礼者のごとく、厳粛な儀式めいていた。


やがて、玉座から数歩の距離まで進んだところで、セラフィスは静止する。

そして、柔らかく口を開いた。


「私はセラフィス・ヴァルド。深淵の神域アビス・サンクタムを導く者。邪神教の教祖をしています。」


その声音は穏やかでありながら、決して軽くはなかった。

まるで初めて出会う者に向けて話しかけるような、礼節と敬意を兼ねた言葉だったが――

その裏には、確固たる意志と信仰が静かに燃えていた。


その一言に、エリザベートの睫毛がわずかに揺れた。

彼女の鋭い瞳が、細くすぼまる。


「……ふぅん。教祖、ね。」


それは興味を持ったというより、測りにかけるような声音だった。

されど、セラフィスは一歩も退かず、むしろ誇り高く応じた。


「はい。クトゥル様の御名のもと、信仰と奉仕を捧げるため……我ら、この神塔へと参じました。」


その言葉に呼応するように、ルーナとノクスが胸を張る。

少年と少女の双子は、まるで我らが神のもとへ帰還したという自負を、その姿勢に宿していた。


続いて、ミレイユ、フレイヤ、アリシア、マルグリットが静かに一歩前に出て、敬意を込めて頭を垂れる。

その動作には、騎士としての礼節と、ひとりの信仰者としての誠実さが滲んでいた。


「うむ…久しいな。セラフィス、ルーナ、ノクス。」


玉座より響く低い声に、三人は再び頭を垂れる。

その姿はあくまで謹厳だが、顔にかすかな緩みが見えたなら、それは確かに――喜びゆえのものだっただろう。


「…それで…?」


クトゥルが、ゆるやかに視線を動かす。

その漆黒の瞳が、列の中に見知らぬ顔を捉えた。


「(うーん。全員、美人…。これは、転生者の夢…ハーレムだなっ!

セラフィスめ羨ましいことを…)」


心中でくだけた言葉を呟きながらも、クトゥルの表情には一切の揺らぎはない。

その神威のまま、威厳を纏って視線を向けていた。


「…僕たちは、教祖の信者兼護衛である…アリシアです。」


「同じく、フレイヤ。」


「ミレイユですわ…。」


緊張を顔に刻みながらも、アリシアたちは次々と名を告げ、丁寧に自己を紹介していく。

その声音には誠意があり、背筋には確かな覚悟が見えた。


やがて、最後に残ったマルグリットが、深々と一礼する。


「お初にお目にかかります。私の名は、マルグリット・レニエールです。」


「ん…?」


慎重な声が場に響き渡る。


「クトゥル様。発言を許していただけますか…?」


沈黙を破るように、後方から別の声が上がる。控えていたティファーだった。


エリザベートは身の程をわきまえなさいと言った目をしているが、彼女の顔は真剣そのものだった。


「許可する。(え…?ティファー何で、目つき鋭くしてるんだ…?)」


どこか嫌な予感が脳裏をかすめる。

その思考の中、ティファーの声が静かに場を裂いた。


「ありがとうございます……マルグリット殿…貴女。まさかとは思うが、聖光教会の異端審問団団長…ではないか…?」


その言葉に、マルグリットの肩がわずかに跳ねた。

だが、逃げず、否定もせず、彼女は静かに――頷く。


「はい…」


それは、まるで告解のような、しずかな返答だった。


謁見の間に、細やかな振動が走る。

空気が波立つわけではない。ただ、誰もがそれぞれに胸の内で、何かがざわめいた。


「っ…!?」


控えていたリュミエールの肩が、かすかに震える。

彼女は何も言わない。ただ、強く結んだ唇と、揺らめく光の宿る瞳が、彼女の心を雄弁に語っていた。


「…聖光教会、だと…?」


低く、鋭く、テネブルが呟く。

言葉に含まれるのは怒りではない。もっと深く、黒く沈んだ――憎悪にも似た感情だった。


その拳が、音を立てずに強く握られていた。


「ティファーよ。聖光教会とは…何だ…?説明することを許可する。(なーんか…新しいイベントが起こりそう…)」


玉座に座したまま、クトゥルは目を細めてティファーへと視線を投げた。声は低く、だが確かな圧を持って空間に響く。


その声音を受けて、ティファーは静かに一礼し、一歩前へと出る。緋色の双眸にかすかな揺らぎを宿しながら、厳かな声で語り出した。


「私が背信者をしていた頃です。その頃から噂になっていました。神に身を捧げた教会。それが、聖光教会。そして、その下には異端を裁くために活動してきた異端審問団。…私たちは、異端として審問団と剣を交えたことがあります…その団長の名は、栗色の髪に赤い目の女性騎士。名をマルグリット・レニエール。」


その言葉が放たれた瞬間――


「…(えぇっ!?俺、邪神って呼ばれてる異端側じゃん…!?敵なのかっ!?)」


内心の叫びが、玉座に座るクトゥルの理性を駆け抜けた。


そしてその予感は、間違っていなかった。


殺気――それは、刃を抜かずに喉元へ突きつけるような、冷たく鋭い空気のうねりとなって、謁見の間を満たした。


エリザベートの紅の瞳が、静かに、だが確実に細められる。

イグロスの長い指が、氷を帯びた触手に添えられる。

アーヴァの尻尾がピクリと跳ね、警戒の気配を漂わせた。


――明らかに、場が緊張していた。


謁見の間に立つセラフィス一行の額に、冷たい汗が滲む。

息を呑む音すら、場の空気を引き裂くように響いた。


「(落ち着け…セラフィス側にいるんだ。きっと、彼女は大丈夫のはずだ。)」


胸中に呟きながら、クトゥルは軽く片手を掲げた。


「…落ち着け。お前たち。」


その一言は、凍てつく空気に一滴の温度を落とすかのように、謁見の間の殺気を霧散させた。


場の空気が、緩やかに弛緩する。だが、それは決して和らいだわけではない。ただ、激突の刃が鞘に収まっただけのことだった。


玉座から、再びクトゥルの声が響いた。


「…マルグリットよ…我は、嘘偽りは、好かん。…正直に話せ。」


その言葉には、淡々としながらも明確な死の宣告が込められていた。――ここで、虚偽を弄せば命はない。それは誰の目にも明らかだった。


謁見の間が静まり返る中、マルグリットはゆっくりと前へと歩を進めた。


その一歩一歩が、まるで断頭台に向かうかのような緊張を帯びている。

だが、彼女の歩みに迷いはなかった。


クトゥルの眼前で立ち止まり、彼女は深く、静かに、膝をつき頭を垂れた。

そして、顔を上げたその瞳は、揺らぐことなく――まっすぐ、漆黒の邪神を見据えていた。


その眼差しに込められていたのは、偽らざる誠実と、覚悟だった。


「はい。確かに私は、聖光教会にて、異端審問の団長を務めておりました。ですが、現在は、クトゥル様を信仰する邪神教に入信した次第です。」


謁見の間に、マルグリットの凛とした声が響いた。


「…本当か…?(嘘でした!後ろから剣でずぶっはやめろよっ…!?)」


玉座の上からの問いかけは静かだった。だがその静寂の奥には、鋭い問いただしの気配が潜んでいる。


「はっ…嘘偽りはございません。この身、クトゥル様に捧げることもいといません…」


まっすぐに見返してくるその眼差しに、クトゥルは一つ、ゆるやかに頷いた。


「(今の所…害は無さそうだ…けど、理由は知りたい…)ふむ……何があった、お前はなぜ、異端審問団を抜けた…?」


低く落ちるその問いは、まるで氷刃のように静かに、そして鋭く、マルグリットの胸に突き刺さる。


セラフィスが視線だけで軽く促すと、マルグリットは一度だけ瞼を伏せた。そして、震える手を胸元に当てる。その掌には、過去の罪と傷を抱きしめた想いが込められていた。


「……」


沈黙が落ちる。その沈黙は、逃げではなかった。ただ、言葉を紡ぐための勇気と決意を整える時間だった。


やがて、彼女は顔を上げた。

その双眸には、迷いも、ためらいもなかった。ただ――揺るがぬ覚悟だけが宿っていた。


「…私の…私たち正義が、間違っていたのだと……気づかされました。」


その声は、喉の奥から絞り出されるように、しかし力強く、謁見の間に放たれた。


「私が仕えていた聖光教会は……確かに、正義を掲げていました。神の名のもと、異端を狩る。民を守るため、光を広めるため。

 ……けれど、その正義は、あまりに歪んでいたのです」


拳をぎゅっと握る。その指先は、血が滲むほどに力が籠められている。


「異端者を生んだ街を焼き、子を斬り、異端者以外も同罪と処刑する……それが、私たちの任務でした。

――いや、それだけならまだ、必要悪と呼べたのかもしれません。」


彼女の声に、かすかな嗚咽が混ざる。だがそれは涙ではない。悔恨の滲んだ――怒りだった。


「ですが…正義に疑問を抱いた副団長クリス・プラットを…奴は……」


その瞬間。

彼女の瞳の奥に、紅の光が一閃したように見えた。


「…殺したのです。」


その言葉は、刃のようだった。


謁見の間の空気が、ぴしりと張りつめる。


リュミエールの肩がわずかに震え、テネブルは沈黙したまま視線を伏せた。

誰も、言葉を挟めなかった。ただ、その重さに息を飲んでいた。


「その日を境に、私は追われる身となりました。けれど……それでよかった。私はようやく、真の信仰を選ぶことができたのです。」


その言葉は、静かで、穏やかで、そして――真実だった。


ふと、紅い唇が動いた。


「…˝男˝の名は…?」


ティファーが問いかける。だが、その声音は、すでに答えを知っている者のものだった。


「…名は、カーズ・ナリア。」


その名が口にされた瞬間――謁見の間の空気が、一変した。


ティファーが、目を細めたまま、ゆっくりと顎を上げる。


「……カーズ・ナリア…やはり…」


テネブルの眉間に深い皺が刻まれ、リュミエールは堪えきれず、そっと両腕で自らを抱きながら一歩後退した。


「(え…?ティファーたち…カーズ・ナリアを知ってる感じ…?)」


玉座の上で、クトゥルがゆるやかに体を揺らす。そして、冷静な声音で、再び口を開いた。


「続けろ。」


床に膝をついたまま、マルグリットはゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、もう迷いの色はなかった。鋼のような覚悟が宿り、唇は震えもせず、静かに動き始める。


「カーズ・ナリア――聖光教会の第一座主として、民を導く聖なる光の象徴。彼の前に立つ信者は皆、慈悲深く、寛容で、すべてを許し癒やす存在だと信じて疑いません」


その語り口は淡々としていた。けれど、その声の奥には確かに乾いた感情と、言葉にしがたい揺らぎが宿っていた。

それは、語りたくないが語らねばならぬ者の声。忘れたいのに忘れられない記憶を引きずり出す者の声だった。


「ただ、きな臭い噂もあります。」


場の空気が、ひときわ重たく沈み込む。

誰もが次の言葉を待ちながら、身動きを取らずに沈黙する。


マルグリットは、周囲の視線に動じることなく、まっすぐに玉座を仰いだ。

そして、言葉を絞り出すように続ける。


「彼が運営している˝聖孤児養育院˝。身寄りのない子を保護している。それだけなら、素晴らしい施設でしょう…ですが、深夜には子供たちの悲鳴が響いていると。」


その声には、怒りと悔しさがわずかに滲んでいた。

同時に、それがかつて自分が信じたものであったことへの自己嫌悪も混じっていた。


「クリスは、その噂を確かめたのだと思います。そこで、奴に…」


言葉の余韻が、鋭い刃となって謁見の間を裂く。

冷たい空気が、さらに研ぎ澄まされたように張り詰めていく。


マルグリットがその場に沈黙を落とすと、部屋の温度がほんの少し下がったかのようだった。

石造りの床さえ冷気を帯び、紅黒の光すらどこか鈍くなっていく。


そして、その言葉は――リュミエールの胸へと突き刺さった。


「……う、そ…まだ…あるの…?」


微かに、掠れるようにその名を否定する声が漏れる。

リュミエールの唇が微かに震え、吐息とともに言葉が零れたのだ。


白磁のような肌が、見る間に血の気を失っていく。


いつも毅然と背筋を伸ばし、メイドとしての仕事を熟す彼女の面影は、そこにはなかった。


まるで、陶器の仮面が剥がれ落ちたようだった。

露わになった素顔には、深く、決定的な動揺が走っていた。


「リュミエール」


隣にいたテネブルが眉をひそめ、そっと手を伸ばす。

その指先は、彼女の肩に触れる寸前で止まった。


彼の手が届く前に――リュミエールの視線は、虚空をさまよいはじめていた。

その瞳から焦点が消え、魂がその場を離れるように、彼女の意識はゆっくりと沈んでいく。

過去という名の牢獄へと、静かに――だが確実に。


それは、目の前の現実とは断絶した領域だった。

声も届かない、手も触れられない、誰も入れぬ心の深奥へ。

ただ一人、彼女はその中に沈み込んでいった。


その異変に、空気が微かに揺れた。


静寂の中で、セラフィスは何も言わずに彼女を見つめていた。

その表情は硬くも、温かくもない。ただ、目だけが彼女の変化を逃さず、じっと見守っている。


マルグリットもまた、自らの発した言葉が予想以上に深くリュミエールに刺さったことを悟り、目を見開く。

だが何も言わず、唇を噛みしめながら膝の上に重ねた手を静かに組み直した。

その指は、見えない震えをこらえていた。


エリザベートの瞳も、いつになく無音の光をたたえてリュミエールを見つめていた。

その表情には、怒りも憐れみも浮かんでいない。ただ、何かを――深く見据える視線だけがあった。


イグロスは顎に手を添え、無言のまま瞼を伏せていた。

彼の視線は床に落ちていたが、その思考はどこか遠い過去を巡っていた。


アーヴァは眉をひそめ、そっとリュミエールへと不安げな視線を送る。

彼女は一歩、踏み出すべきかどうか逡巡していた。だが、この場の空気がそれを許さなかった。


謁見の間。その頂きに座す者――クトゥル。


彼もまた、視線を逸らすことなくリュミエールを見ていた。

玉座にあって、誰よりも高位にあるはずの神が、ただの少女を見守っていた。

その眼差しは、威圧でも慈愛でもない。

まるで、すべてを受け入れ、ただ在ることを許すかのような――静かな、神の目。


「(やめて……思い出したくない……)」


胸の奥で、何かが崩れた。

それは、記憶の封印を守っていた最後の鍵。

その鍵が砕け、今にもあふれ出しそうな黒い記憶の奔流が、リュミエールの心を浸しはじめる。


彼女は、何も言えなかった。

言葉にすればすべてが壊れてしまう。

だからただ、声にならない悲鳴を内に抱え、虚ろな瞳を伏せ続けるしかなかった。


閉ざされていた記憶の扉が、ギィ……と、錆びついた蝶番を軋ませるようにゆっくりと開きはじめた。

その隙間から、冷たい過去の風が――ひどく湿り気を帯びた、重く濁った空気が漏れ出していく。



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