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聖光教会と魔族の兄妹⑪

塔の扉が、ゆっくりと音もなく軋んだ。

その隙間から漏れ出した空気は、まるで深い闇を孕んだ何か――生き物の吐息のようだった。

冷たくもあり、熱を帯びているようでもある矛盾した気配が、肌を撫でる。


ティファーとルドラヴェールが無言のまま進み出る。

それに続いて、セラフィスたち一行もまた、静かに、慎重に歩を踏み出した。

その先にあるのは、異界の領域――混沌の神塔。


内部に足を踏み入れた瞬間、彼らの五感はすべて試されることとなった。

巨大な構造体の内側は、外観から受けた印象を遥かに凌駕する異様さを孕んでいた。


ただ歩くだけで、意識の奥――魂の芯を引きずり下ろされるような錯覚に襲われる。

それは重圧とは違う。威圧や殺気でもない。

この場所そのものが持つ神性の反響、存在するだけで精神を侵食する何か。


まるでこの「場」は、彼らを拒まない代わりに、すべてを受け入れ、

そして呑み込もうとしているようだった。


――異質。

ただその一言に尽きる。


螺旋階段をゆっくりと登る。

黒と灰銀で彩られた階層が次々と現れては、無音のまま彼らを通り抜けさせていく。

時間の流れさえ曖昧に感じられる中、やがて辿り着いたのは――第3層。


「……着いたぞ。ここが、謁見の間だ。」


ティファーが足を止めると同時に、ルドラヴェールが一歩前に出る。

その巨躯が、黒い扉の前に立ち、前脚をそっと添えた。


するとどうだろう。金属や石が擦れる音すら立てず、巨大な扉が静かに開いていった。


その瞬間――


「……っ!」


セラフィスは、一歩。いや、ほんの半歩だけ、足を引いた。

それほどまでに、この空間の先にある「何か」が、彼の全神経を射抜いたのだ。


後方でも同じく、マルグリットが無言で目を見開く。

アリシアは思わず手を胸元に添え、フレイヤは僅かに肩を強張らせた。

ミレイユは無言のまま、その唇をわずかに引き結ぶ。


それは恐怖ではなかった。

だが、恐怖以上の感覚――


皮膚の表面ではない。

内側。神経の奥。肉体と魂の境界をなぞるように、異物が這いまわるような錯覚。

冷たくも熱くもない。それでいて、確かに“触れられている”感覚。


悪意もない。敵意もない。

ただ「異」であるという、どうしようもない真実だけが、確かにそこに在る。


広間は異様なほど広大だった。

だが、空間全体を満たす空気には、どこか閉ざされた圧がある。

天井には禍々しい魔術紋が浮かび、紫と深紅の光がゆっくりと脈動するように瞬く。

床には濃密な影が滲んでおり、それはまるで誰かの記憶が染みついたように、踏みしめるたび僅かに揺らめいた。


そして、その広間の最奥――


黒と紅に彩られた玉座の周りの4つの影。


言葉にせずとも、誰もがその影がただの人間でないことを悟った。


あまりにも静かで、あまりにも異常な、謁見の間の空気。

この場に在ることそのものが、すでに選別されているような、そんな錯覚を覚えながら、彼らはその姿を見つめていた。


あまりに自然で、まるでこの広間そのものが彼らを生み出したかのような錯覚を抱かせる。


空間に、確かに棲みついていた。

異形の神塔、その最奥。

誰よりも深く、誰よりも静かに、そして圧倒的に――この場を支配する者たち。


赤黒く咲き乱れる薔薇のドレス。

白磁の肌に映えるその装いは、見る者の目を焼き、言葉を封じる。

彼女の名は、エリザベート。

その双眸には、一切の慈悲も、情けもない。

微笑ひとつ、凍てついた刃のよう。

神への信仰など不要だと言わんばかりに、ただ静かに、その存在そのものを以て高位を誇示していた。


そのすぐ隣――


小柄な身体に、灰青の髪を輪にまとめたハーフツインテール。

竜人の少女、アーヴァが立つ。

瞳の端には濃いピンクのアイライン。

その不敵な視線は、常に周囲を警戒し、揺れる尻尾が静かな戦闘意識を示している。

その身にまとう異国調の青い衣が、彼女の異質さと神秘性をさらに際立たせていた。


その後方――


褐色の肌に、緑の長髪。金の三白眼が不気味に煌く。

名を、イグロス=クラゲイン。

深海悪魔の血を引く魔族であり、無数の氷を纏う触手が獣のようにうねる。

筋肉質でしなやかな肉体は、美しさと暴力性を同時に兼ね備えていた。

その存在自体が、まるで冷たい災厄を体現しているかのようだった。


イグロスのさらに後ろ。


黒の燕尾服に身を包み、紫の髪をなびかせる青年、テネブル。

その微笑はどこまでも穏やかで、しかし底が見えない。

空気に溶け込むような佇まいでありながら、同時に空間を支配している不思議な重厚さを放つ男だった。


四者四様――


いずれも常軌を逸した存在。

それぞれが異なる異質を纏い、ただそこにいるだけで、空間が歪み、理が削れた。


沈黙。


言葉はなかった。

呼吸音さえ聞こえない。

空気が、止まっていた。


ただ――


セラフィスの足音だけが、冷たく硬い石の床を、静かに、そして確かに打ち鳴らした。


その音が、唯一この場に響く現世の証だった。


――そして、誰もが理解していた。


この先に、玉座に現れるのだ。

彼が。この神塔の主――邪神クトゥルが。


謁見の間は石造りでありながら、直線的な無機質さとは程遠く、むしろ生物の内部を彷彿とさせる有機的な曲線が空間全体を形作っていた。


柱や壁、天井にいたるまで、意図されたはずの建築が、どこか生きているような錯覚を抱かせる。

まるで塔そのものが意思を持ち、この空間を孕んで脈動している――そんな異様な感覚があった。


天井の高みに浮かぶのは、紅と黒が螺旋する巨大なシャンデリア。

その中心から垂れ落ちるように流れ出す光の筋は、霧とも瘴気ともつかない揺らぎとなり、地表へと染み込んでいく。

まるでこの場が、別次元の影を現世に投影しているかのような、そんな空気が漂っていた。


静寂。

だが、それは単なる音のない空間ではない。

そこにあるのは、あまりにも濃密な「気配の沈黙」。

場を満たすのは沈黙そのものが支配者であるかのような、圧迫感すら伴う重苦しさだった。


――エリザベート、アーヴァ、イグロス、テネブルは、扉が開かれた瞬間からその瞳で訪問者を射抜いていた。

しかし誰一人、言葉を発しない。

まるでそれすら不要であるかのように、ただ沈黙のまま、ひたすら「待っていた」。


そして――


ザァァァァァ……。


耳に聞こえぬ音。

それは、風か、息吹か、あるいは名もなき意識のざわめきか。

空気を震わせるでもなく、音のない波が脳を撫で上げるような違和感として、突如全員の意識に染み込んだ。


次の瞬間。


――それは、来た。


姿はまだない。だが、確かにそこにいる。

見えぬ何かが空間を支配し、理すら反転したような重圧が、訪問者たちを襲った。

魔力ではない。呪気でも、殺気でもない。


ただ存在するというだけで、空間そのものが捻じれ、現実の枠組みが軋むような――

それは、異形そのものの気配だった。


数秒間。

誰もが声を忘れ、目を見開き、ただ立ち尽くした。


そして。


「――邪の神の御前にて、無礼は赦されないわ…」


沈黙を破ったのは、エリザベートだった。


彼女は静かに片膝をつき、石床に広がるドレスの裾が、重厚な音もなく地を這う。

その所作には気品と威厳があり、まるで玉座の神への誓いを捧げる巫女のような神聖さすら纏っていた。


その動きが、合図だった。


アーヴァは、頬をうっすらと紅潮させ、どこか恥じらいながらも、恭しく膝を折る。

イグロスは重厚な体を沈めると、猛獣のように鋭い眼光で床を睨みつけ、触手の先がピクリと動く。

テネブルは一糸乱れぬ騎士の作法で、完璧な姿勢のまま跪いた。


そして――

ティファーも膝をつき深く頭を垂れていた。

ルドラヴェールもまた、魔獣としての威厳を保ちつつ、その巨体を静かに伏せた。


その一連の動作を見届けながら、セラフィスは目を細めた。


「皆さん…膝を…」


その呟きに導かれるように、彼もまた滑らかな動作で膝を折る。

服を整え、胸元の髪を払うと、深く、深く誰もいないはずの玉座に向かって頭を垂れた。

 

「ノクス、ルーナ……」


セラフィスの小さな呼びかけに、双子の兄妹はすぐに気づいたように膝をついた。

ノクスは真剣な面持ちで唇を引き結び、ルーナはわずかに肩を震わせながらも、その眼差しに敬意と畏れを宿して俯いた。

まるで彼らだけが、これが何を意味するのか、最初から知っていたかのように――。


アリシア、フレイヤ、ミレイユの三人も、最初はわずかに逡巡した。

歴戦の冒険者として培ってきた理性と誇りが、一瞬だけ膝をつくことを拒んだのだ。

だが、その抵抗はほんの刹那で打ち砕かれた。

この空間を満たす何かが、彼女たちの精神に圧をかけ、ついに膝を折らせる。


マルグリットもまた、咄嗟に喉を鳴らし、渇いた唾を嚥下すると、黙って跪いた。

彼女の額には、じわりと汗が滲んでいたが、それは恐怖のためではない。

言葉も理屈も超えた、本能的な畏敬が、彼女をそうさせたのだ。


そして沈黙の中、ついにそれは訪れる。


――コツ、コツ、と。


石の床を叩く足音が、荘厳な謁見の間に響き渡る。

誰が歩いているのかなど、問うまでもない。

これは˝神˝の足音。

天に属さず、地にも属さぬ、理の外より来たる存在が、いままさに降臨するのだ。


その瞬間、空気が変わった。


重く張りつめた沈黙の中で、ふと、風が吹き込む。

だがそれは、物理的な風ではなかった。

塔に窓はなく、隙間などないはず。

それなのに、どこからか理を超えた何かが流れ込んでくるような感触。

この空間に、まったく別の「世界」の片鱗が染み込んできたかのようだった。


やがて、厚く閉ざされたはずの扉が、ゆっくりと、まるで自らの意志を持つかのように開かれる。


現れたのは――一人の青年だった。


音もなく、ただ石床を踏みしめて進むその姿は、遠目には人間に見える。

背丈は高くない。せいぜい160センチ台。

衣服の下の体躯も、骨ばっており、筋肉の隆起すら感じさせないほどに細い。

だがその輪郭には、確かに異質が潜んでいた。


肌は褐色に近く、それでいて灰を帯びたようなくすんだ色をしていた。

それは生者の血を失った死人の肌とも、生きているはずのない異形の皮膚とも形容できる、不確かな色。

ウロボロスでは存在しえない黒髪。

月の光すら吸い込むほどに純粋な闇の色をしており、一本たりとも光を反射しない。

その目もまた黒――

黒というには深すぎ、まるで虚無そのものが瞳となって宿っているようだった。


――ただの青年。

そう、言い張ることもできる。

だが、彼が一歩踏み出すたびに、空気がゾゾゾ…と音を立て震えた。


不可視の触手が、空間全体を撫で回すような音が、誰の鼓膜にも届いた。

足音は静かで、彼自身は何の力も示していないというのに。

まるで空間そのものが、彼の通過に反応して軋んでいるようだった。


セラフィスは、目を伏せたまま、その足音――いや、存在そのものから放たれる振動を、魂で受け止めていた。

わずかに震える身体。それは、恐怖からではない。

深く、胸の奥からせり上がる――歓喜。


「(…はぁ…この気持ち…何度味わっても飽きないっ…私たちの邪神クトゥル様……!)」


心の奥で静かに囁かれたその言葉は、まるで恋慕に近い信仰の熱を帯びていた。


その圧に、他の者たちもひとしく打ちのめされていた。

背筋を冷たい電流が走るような感覚に、マルグリットは無意識に息を呑む。

彼女の厳めしい表情に、微かに怯えにも似た敬意の色が浮かぶ。


アリシアは、胸の奥を締め付けられるような圧に眉をひそめた。

戦場でも見たことのない、自身の内側から圧し寄せる異質の存在感――

それに、身体が反応していた。


フレイヤは、己の膝が初めて「戦い」以外の理由で地についたことを、重く実感していた。

屈辱ではない。敬意でも、恐れでもない。

これは、理性では語れない――神への無条件の「帰依」。


ミレイユはいつもの涼やかな微笑みを浮かべることすらできず、まるで何かに魅入られたようにただ視線を上げていた。

彼女の瞳には、言葉という枠に収まらない異の姿が映っていた。


そして、ノクスとルーナは、まったく異なる反応を見せていた。

二人の眼差しは恐れず、怯まず、むしろ喜びに満ちていた。

それは、再会の熱と信仰の喜悦がないまぜになった輝きだった。


「……クトゥル様……」


ルーナが、まるで祈るかのように、その名を静かに紡ぐ。

震える唇から漏れたその響きは、謁見の間にさざ波のように広がっていく。


ノクスもまた、うっすらと口元に笑みを浮かべた。

それは安堵とも、愛着ともとれる表情。

彼の視線は、たしかに――神の姿を捉えていた。


クトゥルは、何も語らず、ただ歩いてくる。


その歩みは重くも軽くもなく、威圧も威厳もまとってはいない。

まるで、神であることに特別な意味などないとでも言うように。

まるで、それが「在るべき姿」であるかのように。


謁見の間に満ちていくのは、信仰。

畏怖。

そして――確信。


この瞬間に立ち会った者すべてが知っていた。

いま、この場に、本物がいると。




―――




クトゥルの歩みは静か。だがその一歩ごとに、空間そのものがわずかにひび割れていくような、異様な存在感が広がっていく。

玉座の間を満たす空気が、ぴたりと張り詰める。


その後ろには、アビスローゼ家の侍女――リュミエールが付き従っていた。


彼女はテネブルたちと合流するや否や、すぐさま片膝をつき、深々と頭を垂れる。


クトゥルは歩みを止めず、ただその黒い瞳だけを、微かに動かした。

無言のまま、前方を――いや、訪問者たちの列を――静かに見据える。


「(……おっ!)」


視線の端に、見慣れた顔が浮かぶ。


ノクス。ルーナ。そして、あの異様なまでに神聖な気配を纏った男――セラフィスか。


「(…なるほど。あいつらか。……でも他の連中は見たことないな。誰だ…?)」


ほんの一瞬、「よっ!久しぶりっ!」と親しげに声をかけそうになった。だが、その刹那。


クトゥルの背筋が、無意識にぴんと伸びた。


「っ(…っと…いかんいかん!)」


ここは混沌の神塔、謁見の間。

神の権威が満ちる聖域であり、決して「くだけた友人の集い」ではない。

そして、何よりクトゥルはウロボロスの世界では邪神と呼ばれている立場。

軽い言葉など許される場ではないのだ。


彼は、表向きは邪神としての面を整える。


ひとつ深く息を呑み、内心の動揺を無表情の仮面の奥へと封じ込めた。

そして、堂々とした歩調のまま、玉座への道をまっすぐに進んでいく。


ゾゾゾ……ッ。


異音が、石の床を這うように鳴り響く。

それは靴音ではない。魔力の揺らぎでも、気配のうねりでもない。

まるで世界の裏側から染み出してきたような、異質な音の波。


その正体は――《サウンド・クリエイト改めオール・オブ・ラグナロク》。


クトゥルが持つ唯一無二のスキル。

頭の中で思い描いた音を、実際に現出させるという、ただそれだけの能力。戦闘には何の役にも立たない、奇妙な力。


――だが、この瞬間、この場においては、それこそが絶対の演出装置であった。


異形の神の降臨にふさわしく、場の空気は張り詰め、重く、沈む。


セラフィスたちは、無意識に身を強ばらせた。

ノクスもルーナも、かつて共に旅をしたはずの存在に、いまや言葉を失っていた。


その気配が、まるで神そのものだったからだ。


そして玉座の前で、クトゥルは一歩、足を止める。


そこに聳え立つのは、禍々しき意志の象徴――混沌の玉座。

赤と漆黒の魔金属で構築され、背面には巨大な瞳の紋様が浮かび上がっていた。

それは見る者の精神を削るような奇怪な意匠でありながら、神威を示す紛れもない印だった。


――それは、地上における神の座だった。


ギィィ……。


重く、鈍く、椅子が軋む。

クトゥルが、その身をゆっくりと沈めていく。

ただそれだけの動作で、世界が静止するような錯覚が生まれた。


その瞬間――


謁見の間を満たしていた空気が震えた。

音もなく、振動もなく、ただ「場」が異変を起こしたかのように、空間の重力すら微かに歪んだ。


誰もが、息を呑んだ。


誰もが、目を逸らせなかった。


そこに在るは、玉座に君臨する混沌の主――クトゥル。


その身から放たれる神威は、もはや言葉では説明のつかぬ概念と化していた。

その場にいた者たちは、ただ悟るしかなかった。


――神話を歪め、理を狂わせる存在。

混沌の君主、邪神クトゥルが、いま再び、この地上に降臨したのだと。





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