聖光教会と魔族の兄妹③
闇がやわらかく灯る、静かな部屋の一隅。
そこは魔族たちの集落の奥、堅牢な石造りの居室だった。
分厚いカーテンの隙間からこぼれる月光が、仄かに青白い輪郭を描きながら床を照らす。
ゆらぐ燈火の明かりが天井に影を揺らめかせ、あたりは暖かくも静謐な空気に包まれていた。
部屋の中には、数名の影が集っていた。
彼らは、苦難を共にしてきた仲間であり、深い絆で結ばれた同志でもある。
その中心に、ひとりの青年が静かに腰かけていた。
エメラルドのように透き通る長髪を腰まで垂らし、淡く光る瞳を持つその姿は、どこか幻想的だった。
セラフィス。
まるで森の奥にひっそりと息づく古き精霊のように穏やかで、しかしその奥に秘められた静けさには、誰もが本能的な畏れを抱かずにはいられなかった。
彼は手にした一枚の紙を丁寧に折り畳み、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「……ふふ。無事に、たどり着かれたようですね。クトゥル様」
その言葉に反応するように、傍らにいた少女が耳をぴくりと動かす。
ルーナ。
獣のような可愛らしい動きで跳ねるように身を乗り出し、声を弾ませた。
「セラフィスっ…今˝クトゥル様˝って言った…!?」
彼女の無邪気な興奮に、セラフィスは何も言わずに微笑むと口を開く。
「えぇ。遠くに派遣した信者様の情報によると、クトゥル様は、ここから最北端に位置するユ=ツ・スエ・ビルに居を構えたようですよ。」
「へぇ。クトゥル様の家ってどんなんだろうっ!」
楽しげにきらきらと瞳を輝かせるルーナに、控えめな声がかけられた。
「ルーナ、はしゃぎすぎ。」
注意したのは、ノクス。
彼は肩の力を抜きつつも、どこか照れくさそうに眉を下げていた。だがその耳も、ぴくりと跳ねている。
その瞳の奥に、彼自身の高鳴る鼓動が透けて見えていた。
セラフィスはそんなふたりの姿を目にし、そっと目を細めた。
それはまるで、無垢な子らを見守る兄のような、慈しみのこもった眼差しだった。
邪神――クトゥル。
深淵の支配者にして、混沌に祝福された存在。
その名は神話にすら収まりきらず、人の理すら超越した真なる神の名だった。
だが、この場に集う者たちは、その存在を恐れるだけではなかった。
敬い、畏れ、そして――心の底から、愛していた。
「でも、クトゥル様……ご無事で、本当に良かった……。あの方の導きがなければ、ボクたちは今頃……」
静かに口を開いたのは、ノクスだった。
まだ幼さの残る輪郭に反して、その瞳には曇りなき信仰の光が宿っている。
彼はただ信じていた。己の命を救い、世界に新たな理をもたらす者を。
隣で、ルーナが小さく頷く。
「うん。」
二人――ノクスとルーナは、かつて冒険者を装った野盗たちに襲われ、家族を殺され、仲間を奪われ、その後、自らも奴隷として売り飛ばされる寸前だった。
――そこに、現れたのが、クトゥル。
燃え盛る闇の中に差し込んだ、一条の黒き救い。
誰も逆らえなかった暴力を、無言で打ち砕いた存在。
あの時を境に、彼らの人生は狂い、同時に救われた。
「会いに行きましょうか…?」
不意に響いたその声に、ルーナの耳がぴくりと動いた。
「え?」
セラフィスは椅子から静かに立ち上がる。
滑るような所作は流れる水のように優雅で、身に纏う衣の揺れさえも神秘の気配を宿していた。
淡く微笑みながら、彼はルーナたちに目を向ける。
「信者も、ずいぶんと増えました。各地の人、そして、魔族たちが、ようやく名を受け入れ始めた。ならば、こちらから出向くべきでしょう。クトゥル様へ、代表としてご挨拶に。」
その一言が、部屋の空気を一変させた。
希望が燃え上がるように、皆の胸に広がってゆく。
「ほんとっ!?クトゥル様に会いに行くのっ!?」
ルーナの声がはじける。
喜びに顔を輝かせ、体を揺らすその様子は、年相応の少女そのものだった。
ノクスも、驚きと共に喜びを隠せない。
「久しぶりにお会いできるんだ……っ」
彼の口元にも微笑みが浮かんでいた。
誰よりも冷静であろうとする少年のその顔に、確かな感情が宿っている――それこそが、何よりの信仰の証だった。
セラフィスは、そっと二人の姿を見つめる。
その瞳に宿るのは、狂信ではない。
神を利用する意図でもなければ、表面だけの盲従でもない。
――それは、深く澄んだ敬愛。祈りの奥底に宿る、真の帰依だった。
「(久方ぶりに……お目にかかれますね、我が神よ)」
胸元で指を組み合わせ、静かに印を結ぶ。
それはどの宗教にも属さぬ、彼自身の内なる儀式。
深淵に繋がる回路を内心に開き、セラフィスはただ――祈った。
―――
夜明け前の霞が、魔族の集落を薄く包んでいた。
深い蒼に染まる空と、吐息のように漂う霧が、世界の境界を曖昧にしていく。静けさは重く、まるで何かが始まる前の祈りにも似ていた。
その一室。かつては人間たちの侵攻を警戒し、魔族たちが命を賭して築いた石の庇護――いまやその場所は、クトゥル教を信奉する者たちの新たな拠点として姿を変えていた。
装飾こそ質素だが、壁には混沌を象る印章が刻まれ、焚かれた香が空気に仄かな香りを残す。
異形と共にある者たちにしか理解されぬ、穏やかな温もりがそこには満ちていた。
その中央に、セラフィスが静かに立っていた。
白磁のように滑らかな肌、長く流れるエメラルドの髪は、差し込む薄明の光にふわりと揺れ、その輪郭を一層幻想的に際立たせている。
彼の身に纏う法衣は清廉でありながらどこか異質で、聖と魔の狭間に立つ者の象徴のようだった。
目元には一片の曇りもない。
その静謐な眼差しは、彼の前に整列する三人の影へと、まっすぐ注がれていた。
彼に従う者たち――
かつて˝ゴールドランク˝の称号を持ち、冒険者として名を馳せた者たち。今は信仰の旗のもとに集い、セラフィスの歩みに従う者たち。
その瞳に、かつての誇りと、新たな忠誠が宿っている。
まず一人、赤髪をひとつに束ねた女剣士が、他の誰よりも早く前に出た。
その背に背負うのは、柄にすら装飾のない無骨な大剣。刃に刻まれた無数の傷跡は、彼女の歩んできた戦いの軌跡を物語っていた。
フレイヤ――
褐色の肌に浮かぶ筋肉のラインは鍛錬の賜物であり、両腕を組んで立つ姿はまさしく鋼のごとく揺るぎない。
その瞳には、揺れる炎のような闘志が宿り、視線だけで空気が張り詰めるほどだった。
「……ユ=ツ・スエ・ビルか、長旅だな。正直、退屈しそうだけど。…ま、セラフィスの頼みだ。やってやるか…」
言葉は粗野だが、そこに宿るのは紛れもない忠誠と覚悟。
セラフィスは、その剣気を感じ取っていた。言葉で語るよりも先に、フレイヤの背から滲み出る気が、すでに敵を斬る覚悟を示していた。
そのすぐ隣。金髪の縦ロールツインテールを揺らしながら、艶やかな声が室内に響く。
「オーッホホホ♪アタクシがついていれば、百人力ですわっ!フレイヤやアリシアが無謀なことをしても、アタクシが全部指示を出しますわ!」
ミレイユ――
豪奢な装いと高飛車な口調は、初対面の者には誤解を招くが、彼女の真価は別にある。
緻密な戦術眼。地形、敵の配置、味方の陣形――全てを見渡すその目は、軍師として数多の戦場で功績を残してきた証だった。
口調の軽さとは裏腹に、フレイヤたちは彼女の指揮に幾度となく助けられてきたことを、誰よりも知っていた。
そして、最後に一歩だけ遅れて前へ進み出たのは、黒いローブを纏う少女だった。
アリシア。長いエルフ耳を隠すために深く被ったフードを、指先でそっと撫で下ろす。
彼女はその仕草を終えると、低く、かすれた声で呟く。
「……準備はできてる。セラフィス、行くなら早くいこ。僕、あんまり人前に立ちたくないんだ。」
その声音は少年のように中性的で、物静かだ。
だが、その身体に宿る魔力の奔流は、部屋の空気を微かに震わせた。
火と雷――相反する二属性を自在に操るその才は、魔法の歴史においても稀有。現在、この二つを完全に扱えるのは、ダイヤモンドクラスのカトリーヌと、彼女だけだった。
「皆さん。ユ=ツ・スエ・ビルまでは長旅になるので、今日は体を休めてください。」
セラフィスの穏やかな声が部屋に満ちた。
その気遣いに応えるように、フレイヤ、ミレイユ、アリシアの三人はそれぞれ静かに頷いた。
――と、そのときだった。
「セ、セラフィス様……」
控えめなノックとともに、か細く震える声が廊下の向こうから届く。
扉の隙間から差し込む光の中に、小柄な少女の影が浮かんだ。
茶色の髪をひとつに結い、丸い眼鏡の奥で潤んだ瞳がセラフィスを真っ直ぐに見つめている。
それはアルラだった。かつて冒険者ギルドに勤めていた受付嬢にして、今やセラフィスの秘書であり信徒として、彼らに同行している存在だ。
彼女は両手を胸の前で組みしめるように握りしめ、震える声で告げた。
「私も、やっぱりご一緒したいのですが……っ」
ほんの少し言い淀んだあと、涙をにじませた瞳で訴えるように続ける。
「さ、三人だけセラフィス様と一緒なんて…ずるいですよっ」
不満というより、心からの寂しさと焦がれる思いがにじんでいた。
その健気な姿に、部屋にいた三人の女性陣は、どこか気まずそうに視線を交わす。
最初に口を開いたのは、アリシアだった。
「いや…そりゃ無理だよ。」
彼女は小さくため息をつきながら、目元を伏せて呟く。
「そうよ。だって、貴方、武も魔法の心得もないじゃない。」
ミレイユがやや呆れたように、腰に手を当てて口を挟む。
その言葉に続けるように、フレイヤもぽつりと呟いた。
「…足手まといだ…」
言葉の刃が鋭く突き刺さった。
まるで雷に打たれたかのように、アルラはビクリと肩を震わせ、目を潤ませたまま「はうっ!?」と情けない声を上げた。
彼女の表情から色が失せ、今にも泣き出しそうだった。
確かに事実ではある。アルラは戦士でもなく、魔法使いでもない。ただの一般人。
それでも――彼女には、他の何者にもない熱意があった。
「で、ですがっ――」
縋るような声が、石造りの室内に小さく響いた。
目を潤ませたまま、アルラは胸の前で握った手をぎゅっと強める。
自分には戦えないことは分かっている。足手まといになることも痛いほど分かっていた。
それでも、ただ見送るだけなんて――それは、あまりに寂しかった。
そんな彼女に、セラフィスは困ったような微笑みを浮かべながら歩み寄った。
そして、そっと彼女の手を両手で包み込むように握り、穏やかな声で語りかける。
「ダメです。今回は危険な旅ですから、君には留守を任せたい」
その言葉は決して拒絶ではなかった。
あくまで信頼と、温かな配慮から来るものだった。
「……でも……」
小さな反発が唇から零れる。
アルラは必死だった。行かせてもらえないことは分かっていた。けれど、心だけは連れていってほしかった。
その想いが、彼女の手に宿る熱となってセラフィスへ伝わる。
そして――彼は、そっと口元を寄せて囁いた。
「代わりに、帰ってきたら一日中、私は君のものになりますよ。独占権という奴です。」
その言葉はまるで魔法のようだった。
アルラの頬が一気に紅潮し、息を呑んだまま、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
「……はい、わかりました。セラフィス様……どうかご無事で…」
瞳を伏せながら、小さく、けれどはっきりと頷くアルラ。
その声音には、不安と願い、そしてかすかな喜びが混ざっていた。
彼女はふと思い出したように顔を上げ、言葉を添える。
「それと、セリアさんとレイツァーさんが、ティファーさんによろしくと伝えて下さいと。」
その名を聞き、セラフィスは微笑を深めた。
かつて彼のもとに集い、今は離れた地で信仰を広めている者たち――彼らの絆は、確かに今も続いている。
「分かりました。と伝えて下さい。」
そっと手が離れ、別れの余韻が静かに漂う。
セラフィスは振り返り、待機していた仲間たちの前に立つ。
「さて、ルーナたちと合流――」
「セラフィス。こっちは準備おっけーよっ。」
扉の脇から、元気な声が飛び込んできた。
ルーナが背負った大きな鞄をくるりと回して見せながら、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「ふぅ…ルーナの荷物減らすのに…苦労した。」
その後ろから現れたノクスは、額に汗をにじませながら重そうに肩をすくめる。
どうやらまた一悶着あったらしいが――
セラフィスは苦笑を浮かべたまま、何も言わなかった。
こうした小さなやりとりもまた、旅のひとつの風景だった。
「それでは――行きましょうか。神の住まう地へ。クトゥル様に、私たちの信仰を、捧げるために。」
彼の宣言に、三人の護衛たちは無言で頷いた。
言葉は不要だった。既にその身は、神への忠誠に貫かれている。
こうして彼らは集落を抜け、霧の立ちこめる森を越え、未知なる頂を目指して歩を進めた。
向かう先は――ユ=ツ・スエ・ビル。
祝福か、破滅か。
その旅路の終着点がいかなるものであろうと、彼らは決して迷わぬ信仰のもとに、ただ歩みを止めることはなかった。




