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聖光教会と魔族の兄妹②

夜気が微かに差し込む、小さな窓の隙間から、一筋の風が室内を撫でていく。

それは古い蝋燭の火をかすかに揺らし、紙の端をそっとめくるように机上の書類を動かした。


聖光教会の本棟から離れた、団員用の宿泊棟。

その奥にある事務室は、装飾の一つもない質素な造りだ。

粗末な木製の机と、古びた椅子。それだけが、空間のほとんどを占めている。


その机に、マルグリット・レニエールは肘をつき、じっと一点を見つめていた。

彼女の前に広がるのは、散乱する異端の目撃報告、魔族の行動記録、消えたとされる古代魔法の復活兆候――そして、その中心に広げられた一枚の地図。


地図の最北端、ぼんやりと黒ずんだ領域。

そこには、重く呪われたように「ユ=ツ・スエ・ビル」の名が記されている。

地図の他の部分が時の摩耗で黄ばんでいるのに対し、そこだけが不自然なほど暗く滲み、まるで何かが拒絶の意志を刻んだかのようだった。


人が踏み入れることを禁じられた土地。

法も祈りも届かぬ深淵。

今、再び――その沈黙が破られようとしている。


「…団を動かすと言ったが、敵の情報が不明確。無策で行けば、全滅は免れない…ここは、私が、単騎で赴くべきか…」


静かな呟きが、紙とインクの匂いに満ちた空間に滲み、消えた。

応える者はいない。

夜の気配が染み込む事務室は、まるで思考すらも吸い取ってしまうかのように沈黙を保っていた。


マルグリットは、無意識のうちに羽根ペンをつまみ、指先で転がす。

カツ、カツ、と木机に刻まれる乾いた音。

彼女はふと、目を閉じた。感情と任務、その狭間で揺れる思考を切り離すために。


――コン、コン。


思考を断ち切るように、扉がノックされた。

乾いた音が空気を震わせ、彼女の睫毛がわずかに揺れる。


「…入れ」


呼吸を整えながら発した一言。

その直後、扉が静かに開いた。


「失礼します、団長」


低く、よく通る声。

現れたのは、銀鋼の鎧に身を包んだ男だった。

月光を僅かに纏ったその姿は、闇に咲く白百合のように厳かで――

やがて、マルグリットの視線が、ゆっくりと彼へと向かう。


「クリスか」


低く発せられたマルグリットの声に、扉の男は静かに頷いた。

クリス・プラット――異端審問団の副団長にして、マルグリットが最も信頼を置く“右腕”。

その存在は、彼女にとって剣であり盾であり、何より信頼を託せる唯一の同志だった。


「はっ。ただいま任務より帰還しました。」


銀鋼の鎧が、控えめに軋む音を立てる。

クリスは姿勢を正し、胸に手を当てて一礼した。

その所作には一切の無駄がなく、誠実な忠誠の色がにじみ出ていた。


彼の瞳が、すぐに机上の地図に吸い寄せられる。

濁りのない碧眼が一点に注がれると、その空気がわずかに緊張を孕む。


「その地図……ユ=ツ・スエ・ビルへ、誰かを向かわせるおつもりですね。」


真っ直ぐに見据えるその眼差しは、彼がすでに覚悟を決めていることを物語っていた。


マルグリットは、椅子から軽く身を起こした。

背筋を伸ばし、目の前の副官を見据えた。


「あぁ。……あそこは、人が立ち入らない未踏の地だ。地形も、敵勢力も、何一つ明らかではない。命を賭すには余りある地――私が行くべきだと、そう考えていた。」


その言葉の最後を告げ終える前に、クリスは一歩、前へと足を踏み出す。

鎧の籠手がわずかに鳴り、彼の意志が空気を切り裂いた。


「それなら、俺を行かせてください」


その声音には、一片の迷いもなかった。


「……クリス」


マルグリットの声に微かな揺れが混じる。

だが、クリスはひるむことなく、まっすぐに言葉を続けた。


「俺は迷いません。風がそうであるように。異端がいようと、魔族が巣くっていようと、俺の正義は揺るがない。俺が行って、必ず真実を掴みます。」


その言葉はまるで風の剣。

澄んだ刃が、彼女の胸の奥を貫いてゆく。


誰よりも真っ直ぐに、誰よりも彼女の背を支え続けてきた男。

その姿が、今ほど誇らしく、同時に不安を抱かせることもなかった。


「……お前には、命を託せる。しかし、それでもなお、あの地は危険すぎる。何も残らないかもしれないぞ…?。」


低く絞られた声に、母のような、あるいは上官としての哀惜が滲んだ。

だがクリスは、それすらも正面から受け止め、わずかに頷く。


「分かっています。……でも、俺にしかできないことがあると信じています」


その言葉に宿るものは、使命感だけではない。

彼女への揺るぎない信頼、そして深い敬意が、滲むように現れていた。


マルグリットは、しばし何も言わず彼を見つめた。

そして、静かに息をひとつ――重たく、深く吐き出すと、机の上に置かれた地図の端をそっと摘まむ。


慎重に、丁寧に、折りたたんでいく指先。

まるで、その地に向かう者の未来を祈るかのように、地図は静かに姿を閉じていった。


「……分かった…クリス副団長。お前に任務を課す。だが部隊は少数精鋭で。慎重に動いてくれ。」


静かに告げられた言葉に、クリスは背筋を伸ばし、即座に応じた。


「承知しました。精鋭を選抜し、三日以内に出立の準備を整えます」


その声には迷いがなかった。だが、その奥底――声には出さぬ胸中には、別の感情が微かに渦巻いていた。


「これは、あくまで偵察だ。敵る限り戦闘は避け行動しろ。」


「はっ……承知しました。」


鋼の意志を秘めた返答。だがマルグリットはその言葉の奥に、クリスの警戒を感じ取っていた。


「……気をつけろ。必ず生きて帰ってこい。」


それは、団長としての命令ではなかった。

むしろ一人の人間として、心からの願い――彼の命を思う、祈りに似た言葉だった。


その真摯な気持ちを受け取ったクリスは、頷き、真っ直ぐな声音で応える。


「必ず、戻ってきます……」


その後、ふと口を閉ざしたまま数秒が流れた。

呼吸が浅くなり、言いにくそうに顔を背ける。


「団長…あの、無事に帰ったらお話が…」


唐突な言葉に、マルグリットは小さく眉をひそめた。


「話…?それなら、今話せば良いだろう…?」


怪訝そうに問い返すが、クリスの頬が珍しく赤く染まる。


「い、いえ。まだ決心がついていないので…」


その反応に、マルグリットは少し呆れたように肩を落とし、しかしすぐに頷いた。


「…そうか。分かった。」


彼女はまだ納得のいかない顔で彼を見つめていたが、無理に追及はしなかった。

やがてクリスの顔色は落ち着きを取り戻し、一礼して部屋を後にする。


扉が静かに閉まり、再び室内に静寂が戻った。

古びた木の机の上には、地図と報告書が広がり、燭台の揺らめく炎がわずかに影を揺らしている。


マルグリットは無言のまま、一枚の書類を手に取った。

それは、カーズ・ナリアからの特命指令――

――インプの兄と妹を見つけたら、密かに僕に報告しろ。


対象も明確でなく、行動方針も曖昧。しかも、教会を通さず「僕個人へ」とある点が、引っかかった。

公文書の体裁を取りながら、あまりにも私的な響きを含んでいる。

そんな印象を受けたのだ。


どこか引っかかる。マルグリットの心に影が差す。


「(あの方は、すべてを見通しているのか……それとも、ただ、こちらに見せたがらない何かがあるのか……)」


無意識に、指先に力がこもる。


──信仰とは、絶対であるべきか。それとも、見極めるべきか。


カーズの言葉には、確かに威厳がある。

だがその奥に潜む何かが、心のどこかでひっかかる。

クリスの目もまた、同じ不安を孕んでいた。カーズに向ける瞳には、忠誠よりも冷静な距離感があった。


彼女もまた、そこに揺らぎを覚えている。


「……本当に、あの方の導きは本当に神の光なのか?」


心の中で誰にも届かぬ問いを投げかける。


そして、書類の束の下から一通の密書を抜き取った。

それは数日前――「セラフィス」と名乗る者の動向について、秘密裏に届けられた報告である。


「セラフィス・ヴァルド。リナウテキメノスで邪神教を広める異端の教祖、か…いつかは、ヤツを倒さねばならんな…異端審問団団長の責務として…」


彼女はそれを見つめたまま、瞳を伏せた。

揺れる炎の中、マルグリット・レニエールの影が、静かに伸びていく。

彼女の中で何かが目覚め始めていた。




―――



ティルナモの空は、重く沈んだ曇天だった。

鉛色の雲が幾重にも折り重なり、まるで大地を押し潰すかのように空を覆い尽くしている。

だが、その曇天をも貫くように、ひときわ異彩を放つ建造物が天を突いてそびえていた。


――灰銀の塔。


灰と銀が交じり合うその塔は、まるで天を喰らう蛇のように螺旋を描きながらそびえ立ち、王都ティルナモの中心を貫く象徴である。

その存在はまさに支配そのものであり、地に生きる者すべてにとって、あまりに遠く、冷たい。


塔の最上階。

雲をも見下ろすその階層は、広く、静まり返っていた。

銀の装飾が散りばめられた空間には、無駄なものが一切存在せず、ただ厳格さと権威のみが支配している。


その広間に、四人の冒険者が立っていた。

彼らは、ティルナモにおける冒険者階級の頂点――ダイヤモンドクラスの称号を持つ、選ばれし存在たちだ。


厚い静寂を破ることなく、一人の男が椅子に腰を下ろしていた。

その姿はまさに研ぎ澄まされた刃そのものだった。


エドワール・レティウス。

全身から漂うのは、無駄を削ぎ落としたような洗練された気配。

背に流れる銀髪は曇天の光を柔らかに反射し、碧眼は手元の報告書を突き刺すように細められていた。


「……また、か。ユ=ツ・スエ・ビルには、行けそうにないな。」


低く紡がれた声は冷ややかでありながら、焦りの色は微塵も感じさせない。

その声音には、幾度となく経験を積んだ者だけが持つ静かな諦念と、それでも抗う意志が宿っていた。


そう――これで何度目になるのか。

彼らが邪神が眠るとされるユ=ツ・スエ・ビルに向かおうとするたび、ティルナモからの新たな任が降りてくる。

そしてそれは、国を背負う者たちにとって、拒むことのできぬ絶対の命令だった。


「これも、エドワール様のダイヤモンドクラスとしての実力故ですから…」


柔らかな声が、重たい静寂に一筋の清涼を落とした。

言葉の主は、カトリーヌ・ラフィネ。

水色の長い三つ編みを背に垂らし、白を基調とした戦闘服に身を包んだ彼女は、控えめな笑みを浮かべてエドワールの隣に静かに腰を下ろしていた。


その笑みには敬意と親しみが混じり、頬はほんのりと朱に染まっている。


彼の冷徹な振る舞いの裏に潜む誠実さと揺るぎない信念――

それを最も深く理解しているのは、他ならぬ彼女だった。


エドワールは視線を逸らすことなく、カトリーヌを見つめる。

言葉はない。ただ、芯から揺るぎない信条として刻まれている。


戦い――それは、彼にとって存在の核であり、剣を振るうことこそが己を示す道だった。


目の前に立つ敵が何者であれ、それが神であれ、山賊であれ、彼にとっては敵に過ぎない。

命令がある限り、彼は剣を携え、戦場へと向かう。それは義務ではなく、宿命のようなものだった。


そのとき、張り詰めた空気を破ったのは、広間の隅から轟いた怒声だった。


「ふざけんな……何が命令だ。オレは…オレはもう限界だぞ!」


バルトロメウス・ガルトナー――

雷のごとき戦斧を背負った筋骨隆々の男が、憤怒のままに立ち上がる。

深緑の瞳には、獣のような苛立ちが燃え立ち、肩を震わせるほどの激情が滲み出ていた。


「毎回毎回、小競り合いばっかだ。雑魚掃除はもういい。オレはよォ、強ぇのとやり合いてぇだけなんだよ!」


その咆哮には嘘がなかった。

戦を欲する本能――それが、彼をここまで駆り立ててきたのだ。だが、度重なる任務は、常に期待はずれを与え続けていた。


「……まぁた、始まったわね。」


低く吐き出すような声が、広間の反対側から響く。

ヴィオレッタ・サンクチュス。

広間の柱にもたれかかるようにして佇む彼女は、紅と黒の魔装に身を包み、腰まで届く紫紺の髪を揺らしていた。


彼女の指先には緩やかに魔力が灯っており、細く整えられた爪先を退屈そうに眺めながらも、紅の瞳だけは僅かに鋭く輝いていた。


「報酬は充分。命を懸けるには物足りないけど、金になるならそれはそれで価値があるわ。――ねえ、エドワール。次の依頼も受ける気?」


ヴィオレッタ・サンクチュスが紫紺の髪をかき上げながら、紅の瞳で銀髪の剣士を見やった。

その口調は軽やかだが、そこに込められた本音は、冗談めいた響きの奥に滲んでいた。

彼女にとって戦いは手段であり、報酬は動機ではあっても執着ではない。


「……受けるつもりだ。そのためにここに来た。」


即答したのは、やはりエドワールだった。

碧眼は揺らがず、声には曇りも迷いもない。


「俺たちはティルナモの剣だ。王がそれを求める限り、斬る。それだけだ。」


その言葉に、誰も反論しなかった。

それが正論であることも、そしてそれ以上に、彼がその言葉に責任を持つ男だと全員が知っていたからだ。


――だからこそ、誰も気づかぬふりをした。

エドワールの左手が、ほんのわずかに震えていたことに。


彼の心は、別の戦場を望んでいた。

未踏の地、ユ=ツ・スエ・ビルの奥底に潜む、理を超える存在。

命を賭けるに値する、真の敵。

それを求める渇きは、彼の内に燻り続けている。

だが今は、その本能すら封じねばならない。


「まったく……あんな化け物がいるって噂されてるのによ。オレたちゃあ、国の便利屋かよ」


椅子の背にもたれ、重たい溜息をついたバルトロメウスがぼやく。

雷の戦斧を背にした屈強な体が軋み、緑の瞳がぼんやりと天井を仰いだ。

力を持ちながらも、それをぶつける戦場を得られない――その焦燥が、彼の声に滲んでいた。


「……いずれ行けますよ。邪神の住処に。そんな気がしますから」


穏やかに、だが確信めいた調子で言葉を紡いだのはカトリーヌ。

三つ編みの髪が揺れ、紫の瞳がほんの少しだけ、遠くを見るように細められる。

それは理ではなく、直感。だが、彼女の予感は往々にして的中する。


「あぁ。必ず行くことになる…そのためにも」


エドワールの応答は静かだったが、その奥に宿る意思は強い。

準備の時期を経て、いずれ“本物”と剣を交える日が来る。そのためにこそ、今がある。


「今は準備の時よ。命令に従いながら、時を待つ。そういうの、あなた得意でしょう?」


ヴィオレッタが唇の端をわずかに上げ、皮肉交じりに囁いた。


「……皮肉だな、ヴィオレッタ。」


エドワールは口元を緩め、ごく僅かに笑った。

それは、ほんの一瞬だけ見せる人間味――

だが、それがこの銀の死神という異名を持つ剣士の、唯一の温度だった。


ヴィオレッタ・サンクチュスが、紅の瞳を細めながら静かに口を開いた。

声は涼やかだが、その奥には冷たい知性が宿っていた。


「そう言えば……聞いたかしら。北の島の大聖堂。あそこ、今は聖光教会の前線拠点になってるらしいわ」


高窓から射す薄光が、彼女の漆黒と紅を纏った魔装に淡く反射していた。


その言葉に反応したのは、部屋の隅にどっかと腰を下ろしていた男――バルトロメウス・ガルトナー。

戦斧を肩に立てかけたまま、鼻を鳴らす。


「ああ、聞いた。ユ=ツ・スエ・ビルに異端審問団を送り込むって話だな?動きやがったか、あの堅物どもが」


嘲るような声音には、教会に対する根深い不信が滲んでいた。


「あら、怒ってるのかしら? 教会が先に動いたのが悔しいってこと?」


ヴィオレッタが口元をわずかに緩め、挑発するように返す。

だがバルトロメウスはその挑発に乗ることなく、戦斧を抱え直して座り直した。

重たい金属の軋む音が、無言の苛立ちを代弁する。


「……その異端審問団の団長ってのは、どんな奴なんだ?たしか、エドワール、お前、そいつと共闘したことがあったな?」


広間の空気が少しだけ引き締まった。

視線が、中央の席にいる銀髪の剣士――エドワール・レティウスへと集まる。

彼は報告書を静かに閉じ、少しだけ眉を動かした。


「――マルグリット・レニエール。聖光教会の審問団団長。戦場では理性を持った刃のような女だ」


淡々と告げる口調には、過去の記憶が微かに滲んでいた。


「つまり、強いってことか」


バルトロメウスが短く返す。


「ああ。信念も、剣も、迷いがない。信用できる戦士だ。俺たちダイヤモンドクラス冒険者に引けは取らないだろう」


エドワールの言葉には誇張も飾り気もない。

それでも、その短い評価には、彼なりの敬意がはっきりと込められていた。


重苦しくも静かな空気が、広間を満たしていく。


その一方で――と、エドワールは報告書から目を離し、曇り空の向こうへ視線を落とした。


「だが――その上に立つ男、第一座主のカーズ・ナリアには、どうにも違和感を覚える。」


微かな沈黙のあと、ヴィオレッタ・サンクチュスがカップの縁を細指でなぞりながら首を傾げた。

その仕草はあくまで優雅で、しかし紅の瞳にはわずかな興味が揺れていた。


「違和感? あなたがそこまで言うのは珍しいわね。理由は?」


「……説明はできない。ただ、あの男を見ていると、皮膚の下で何かがざわつく。目の前にないはずの毒を感じるんだ」


その言葉に、豪胆な戦士バルトロメウス・ガルトナーは言葉を発しなかった。

いつもなら感情的に噛みつくような場面でも、今回は口を閉ざしたまま静かにエドワールを見つめている。

それは、仲間としての信頼の証だった。


理屈では説明できなくとも、エドワールの勘が、幾度となく彼らの命を救ってきた――それを誰よりも理解しているからこその沈黙だった。


カトリーヌもまた、静かに頷いた。

水色の三つ編みが肩先で揺れる。


「……確かに、エドワール様の言う『違和感』は、ただの主観ではありませんわね。私たちには見えないものを、あなた様は感じ取る。今回もきっと」


穏やかな声だったが、その瞳の奥には確かな信頼が光っていた。


「ふふ。なら、私も信じておくわ。気に食わない直感でも、あなたがそう言うなら、従っておく」


ヴィオレッタは微笑みを浮かべると、長い指先で自身のローブの裾を撫で、淡く紅の魔力が揺らめくのを見つめた。

その仕草には、どこか気品と妖艶さが同居していた。


そのときだった――


重厚な扉が、まるで風に応えるように静かに開いた。

青と銀の儀礼服に身を包んだ老人が、音もなく広間へと足を踏み入れる。

彼の歩みは威圧感こそないが、空間の空気を一瞬にして引き締める確かな存在感を放っていた。


白髪は一本の乱れもなく梳かれ、額の輪郭に沿って整えられていた。

その容姿に宿るのは、年齢相応の落ち着きと威厳、そして過度な誇示を許さぬ慎ましき気品。

男の名は、ティルナモ冒険者ギルド本部――その副長官である。


彼が足を踏み入れた瞬間、広間の空気は静かに引き締まった。


「――ご苦労様です。次の依頼が王国より通達されました。」


凛とした声が響くと同時に、四人の冒険者たちが席を立った。

彼らは剣の流派も思想も異なる。だが今は、王都ティルナモの守護者として、共にこの地に立っている。

それは、頂点に立つ者たちにだけ許された重責と、誇りの証だった。


副長官は懐から巻物を取り出し、重みを込めるように前へと差し出す。


「今回の標的は、南方の獣化被害地帯。討伐対象は《グラシュ・ベルム》……災厄級の魔獣です。」


その言葉に、場の空気がわずかに重たくなる。

 

沈黙を破ったのは、戦斧を背負う屈強な男――バルトロメウス・ガルトナーだった。


「また雑務かよ……」


呻くような声が洩れる。だが、それはすぐに咽喉の奥で呑み込まれた。


「……ま、いい。やることやりゃあ、そのうち本命も見えてくるだろう」


彼は苛立ちを鎧の内に収めるようにして、無骨な指を拳へと握りしめた。

静かに歩み出たエドワール・レティウスが、無言のまま巻物を受け取る。

その碧き瞳が仲間一人ひとりを見渡し、やがて淡く、短く告げる。


「行くぞ。終わらせる。最短でな」


それは命令ではない。だが、誰よりも確かな意志だった。

その背に揺れる銀の髪と共に、彼の歩みが始まる。


――邪神の影。

――聖光教会の暗躍。

――そして、あの直感という名の剣が、今もなお心の奥底で鋭く灯っている。



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