聖光教会と魔族の兄妹①
曇天の空に〈混沌の神塔〉が聳え立ち、遥かなる空を巡る輪──ウロボロスが、わずかに軋み始めたころ。
ティルナモの北方、海霧に包まれた孤島に、ひときわ白く輝く建造物があった。
白銀の陽光が静かに降り注ぐ、神の座所に最も近き聖域。
そこに佇むのは、聖律の大聖堂。
教会の名は――聖光教会。
正式名称:聖律の輝宗。
世界に聖を敷く者たちの総本山であり、あらゆる信仰の中枢を担う権威の象徴だった。
その内部は、まるで神の祝福そのものを具現化したような静寂と荘厳に包まれていた。
天を模した円天井には、創世神と、その十二使徒が金と瑠璃の彩で描かれており、その姿は空よりも高く、まるで天界の断片がこの地に降ろされたかのようだった。
列柱の隙間から射す光は、わずかに揺らめきながらも澄みきっていて、床に敷かれた大理石の上に、神の意志を示すかのような輝きを落としていた。
祭壇を覆うのは、息を呑むほどの沈黙。
それは、ただ静かなのではない。
荘厳で、冷たいほどに清らか――
まるで、咎を許さぬ神の眼差しが、この空間すべてを見据えているかのような威圧を孕んでいた。
香炉から立ち上る白煙が、ゆるやかに宙を舞い、静かに空間を染めていく。
それは魂を祓い、言葉を清めるための香。
床を撫でるようにさざめく祈りの声とともに、微かな木の軋みが調和し、聖域の空気を作り出していた。
神官たちが唱える聖句は、もはや言葉ではなかった。
それは音であり、響きであり、旋律だった。
音節一つひとつが光の粒となって、空間そのものに祝福を降らせていく。
そのときだった。
鐘が鳴った。
誰も打った覚えのないはずの、鐘が。
それは、誰の手も触れず――
天から、あるいは、天の彼方から――響いたような音だった。
荘厳であるはずの鐘の音が、異様な重低音となって聖堂の隅々まで震わせる。
その音の芯は、鈍く。だが、どこまでも深く――まるで聴く者の胸の奥底、心臓の中心を打ち据えるかのような暴力的な響き。
瞬間、聖域の空気が激しく揺れた。
「っ…!?こ、これは……」
祈祷室の奥で沈黙の祈りを捧げていた女が、即座に反応する。
異端審問団団長――マルグリット・レニエール。
栗色の髪を、戦場でも邪魔にならぬよう実用的に編み上げ、首元でまとめた女傑。
その真紅の瞳が、鐘の音に反応して鋭く光を灯す。
瞬間、彼女の全身から空気が変わる――静寂の中で燃え立つ刃のような気配が、祈祷室に充満した。
立ち上がるその所作は、無駄一つなく、獣のように研ぎ澄まされている。
彼女の腰、一振りの異形なる刃。
名を――《アッシュ・サンクレール》。
聖灰の名を持つ、その白銀に光る日本刀状の武器が、わずかに鞘鳴りを響かせた。
刃は抜かれていない、それでも、空気が切り裂かれる。
静かに、だが確実に空間が「戦いの気配」に染まっていく。
聖堂を包む鐘の音は、なおも止まない。
神の名のもとにあるべき清らかな鐘――
だがその音はどこか歪んでいた。荘厳を模したはずの旋律に、異物の気配が紛れ込んでいる。
整っているはずの音程が、どこかずれている。
その不協和音は、まるで神の秩序を裏返し、終焉の鐘を告げるかのようだった。
「……聖鐘の乱れ……?ありえん…ッ!」
彼女の声には、怒りと恐怖――そして、ほんの一瞬、抑えきれない疑念が混じっていた。
それは鋼鉄の意志を持つ者ですら、抗えぬ本能の揺らぎだった。
次の瞬間――
〈ステンドグラス〉が、黒い靄に呑まれた。
まるで何者かの吐息が、天井から聖堂へと這い下りてきたかのように。
祭壇を彩っていた神々の姿は、徐々に光を失い、煤けた絵画のように翳っていく。
かつては祝福の象徴だったその光景は、瞬きの間に不穏さを帯びた影の偶像へと変貌していた。
天井から注いでいた白銀の光も、微かに揺れる。
それは、風ではなかった。
この聖域を満たしていたはずの神の秩序――その根源が、ほんのわずかに、しかし確かに崩れた証だった。
騎士たちが反射的に腰の剣に手を伸ばす。
鋼の音が一斉に空気を震わせかける――が、誰一人として抜かなかった。
否――抜けなかった。
刃に手を掛けたその瞬間、身体が凍りついたのだ。
敵意の気配は、この空間の内部にはない。
むしろ、それを遥かに超えた、外側に存在していた。
剣を抜くには、あまりに曖昧で、あまりに巨大な何かの圧が、すでにこの聖堂を包んでいた。
誰もが、ただ……天を、仰ぐ。
頭上に広がるはずの天国の絵――その向こう側に、何が蠢いているのかを確かめるように。
祈りの声が止んだ。
聖句も、旋律も、まるで一斉に息を引き取ったかのように消え失せる。
残されたのは、ゆるやかに昇る香の煙だけだった。
それは天へ祈るかのように、だが決して届かないかのように、ゆっくりと揺らぎながら昇っていく。
――そして、鐘の音はなお、鳴り響いていた。
深く、重く。
どこまでも、心をねじるような鈍痛を伴って。
それは、ただの異変ではなかった。
百年をかけて築かれた聖光教会の秩序。
それを支えていた見えざる法則が――今、ついに軋みを上げ、形を持ちはじめていた。
鐘の音が、なおも鳴り続ける。
その響きは、ただの鐘ではなかった。
重く、深く、心を揺さぶるその音色は、まるで大地の奥底から響き出る何かの鼓動のようにさえ思えた。
それは、神の律法を記したはずの聖域に、逆説的な不和と揺らぎの種を撒き散らす呪音でもあった。
荘厳だったはずの空間が、どこか軋みを上げるようにきしむ。
天井に描かれた創世神と十二使徒の姿が、淡く揺らぎ、祈りの言葉が口からこぼれる前に霧散してゆく。
そして――その音の濁流に混じって、新たな音が浮かび上がった。
コン……コン……
空気を縫うように鋭く響く、靴音。
床に触れるそれは、重厚でありながら不思議な静謐をまとい、広間全体を切り裂くように明瞭だった。
すべての視線が――中央聖壇、その背後に伸びる大理石の階段へと集まる。
そこから、ゆっくりと、一人の青年が姿を現した。
姿は、20代半ばの青年の姿。
だが、現実に存在するには整いすぎている容姿をしている。
肉体としての違和感がないにもかかわらず、彼の姿は、どこかこの世の摂理から浮いて見えた。
その男の名は――カーズ・ナリア。
聖光教会の頂点に立つ存在。
教会法を司り、神の意志を代行する第一座主。
聖律の守人の称号を持つ、絶対権威の象徴。
両耳は、常に布と装飾付きのフードで覆われ、誰一人としてその下を見たことはない。
長く、銀のように白く輝く髪は、完璧なまでに整えられたオールバックに束ねられ、乱れひとつないその姿は、見る者の背筋を正させる威厳を放っていた。
肩にかかる聖衣は、雪のごとく純白。
その上に金糸が縫い込まれている。
その全てが、神の代弁者としての威容を持ち――否。
それはもはや、神に等しい法そのものだった。
だが彼の深い緑の双眸は、祭壇を見ていなかった。
騒然とする神官たちにも、剣を構えた騎士たちにも向けられてはいなかった。
――ただ、空を見ていた。
歪み始めた天井の向こう。
揺らぐ聖光の彼方に広がる、名もなき虚空。
そこに、彼の視線はまっすぐに突き刺さっていた。
「……止めろ。神の前で剣を抜く気かい…?」
その言葉は、波風一つ立てぬ湖面のように静かだった。
だが、ひとたびその言葉が放たれれば、それは神罰にも似た重みを持って空間の隅々にまで響き渡った。
カーズ・ナリアの静かな一声は、聖堂という聖域に在る者すべての魂に突き刺さり、反射的に膝を折らせた。
騎士たちはまるで糸の切れた人形のように剣を下ろし、誰ひとりとして逆らうことなく、頭を深く垂れた。
その動きには、もはや意思すら宿っていない。命ずるよりも先に、畏敬と恐怖が肉体を支配していたのだ。
「…カーズ様…で、では、これは…」
マルグリットが、ステンドグラスの方向に目を向けると、黒い靄は消えていた。
「聖なる場に、神すら触れぬはずの理の外から、異物が滲み始めているのだ。これは――混沌の気配…」
隣に立つカーズ・ナリアが、微かに息を吐きながら呟く。深く低い声は、まるで祈祷のように、空気を震わせた。
マルグリットの瞳が、鋭く揺れる。
「混沌…ですか…?」
静かに紡がれたその言葉は、嵐の中心にだけ訪れる絶対の無音にも似た威圧をまとっていた。
カーズ・ナリアの翠玉の瞳は、遥かなる高み――この空間の天井すら超え、天界をも越えた、その先の理の外側を見つめていた。
「そうだ。黒い靄は、秩序と法則の外側に在る何かの息吹だ。神すら定義できぬ異端の存在が、ウロボロスの理に亀裂を生じさせている…」
その声に怒りはない。しかし、そこには明確な敵意と、揺るがぬ信念があった。
聖光教会が信じ、守り続けてきた百年の秩序。それを覆す存在が、この空の下に現れた――その事実に対する、徹底した警戒。
言葉は低く、地を這うように放たれ、それでも空間の中心に確かな重力を生む。
神官たちの顔からは色が消え、ひとりが崩れ落ちるように膝をついた。続けて、ひとりが嗚咽を漏らし、顔を覆う。
言葉も、祈りも、この理解を超えた異変の前には無力だった。
縋るように手を組み、神へすがる者たち。だがその祈りが届くかどうか、確証はなかった。
彼らを包んでいたのは、神に仇なす理の気配。
それは形なきままに、確かにこの世界の根本を蝕み始めていた。
「……始まるな」
カーズはゆっくりと、深く息を吐いた。
その吐息は、静かなる覚悟の現れだった。
そして、静かに右手を掲げる。
法衣の袖が揺れ、金糸が光を反射して揺らめく。
その手は、天井を――いや、天のさらにその先にある未知の存在を、明確に指し示していた。
「均衡の崩壊が…」
その瞬間、祭壇の上に差していた光がわずかに歪んだ。
ただの照度の変化ではない。
この聖域を満たしていた神聖なる調和が、見えぬ圧力によって、わずかに軋み始めたのだ。
聖光教会――神の名を冠するこの聖域が、今まさに、神をも否定する異なる理に侵食されつつあった。
その中心に立つカーズ・ナリアもまた、神の座を仰ぐことをやめ、新たなる敵の胎動に、冷徹な眼差しを注いでいた。
「――神律に背きし力――混沌が、扉が開いたのだ。」
その呟きは、吐息のように静かであった。
だが、それは確かに――聖堂そのものを震わせた。
誰もが口を閉ざす中、音もなく、まるで世界の裏側から響いたかのようなその言葉は、空気の振動となって天蓋を揺らし、荘厳な空間に染み込んでいく。
静寂の中で、中央聖壇の後方にそびえ立つ石柱群が、かすかに軋んだ。
それはただの建材ではない。創世より神意の象徴とされ、百年もの間、神の法を支え続けてきた柱。
その中心、祭壇の奥に据えられていた――一冊の巨大な書が、不意に震え始めた。
神律大全。
聖光教会創設の折に封じられ、誰ひとりとして触れることを許されなかったその聖典。
それが、誰の手も触れぬままに、ふるふると震え、厚い頁を――自らの意思で捲りはじめた。
風はなかった。
窓は閉ざされ、香の煙すら揺れない密閉された空間。
にもかかわらず、頁は止まることなくめくれていく。
ぱらり……ぱらり……と、紙の擦れる音だけが空間を支配する。
それは、まるで長き封印がいま、破られたかのようだった。
まるでこの瞬間のために、全てが定められていたかのように。
神官たちは凍り付いたように動けなかった。
その神秘が神意に等しいと本能で理解していたがゆえに、誰も止めることができなかった。
そして――
書の動きが止まる。
最奥。
未だ誰の目にも触れられたことのなかった、最後の章。
その頁が、ゆるやかに、まるで指で押されたかのように開かれた。
『終焉の黙示録』
その章のタイトルが、光を孕んだ金文字で、まるで燃え立つ炎のように浮かび上がっていた。
カーズは、古の神託が記された金文字の頁に指先を這わせる。
触れた箇所から微かに光が滲み出し、聖なる文字がまるで血のように脈動し始めた。
静かに、だが抗えぬ重みを持って、彼の口から預言の言葉が紡がれる。
「混沌の深淵、姿を得し時。
神の律は裂け、光と闇とが溶け合う。
偽神の座に、新しき名が刻まれる――」
言葉が空間を満たした瞬間、聖堂の空気がわずかに揺らいだ。
神の秩序を司る場所であるはずの大聖堂に、不協の気配が生まれる。
その場にいた神官たちは、反射的に背筋を伸ばし、無意識のうちに呼吸を止める。
ぞわり、と粘り気のある冷気が首筋を撫で、誰もが本能で悟っていた。
――これは、ただの詩ではない。
預言だ。しかも、すでに成り始めている現実なのだと。
マルグリット・レニエールが、聖壇の階下から一歩踏み出した。
真紅の瞳が、鋼のような強さを湛えてカーズを射抜く。
その顔には怒りでも不信でもない、ただ問いが刻まれていた。
だがカーズはすぐには応じず、瞳を伏せたまま静かに言葉を継ぐ。
「……その地は、長き沈黙の末に、再び口を開いた。
かつて、神が退けたはずの闇が、そこから蘇った。
……否。闇ではない。名すら与えられぬ理外のもの。
理を歪め、法を溶かす、真なる混沌だ。」
声は静謐でありながら、その一語一語が、聴く者の思考を深く抉るようだった。
マルグリットの目が大きく見開かれる。
その瞳に浮かぶのは、確信に近い戦慄。
「まさか……」
彼女の呟きに応えるように、カーズはゆるやかに顔を上げる。
その視線は、聖堂の天井をも越え、遥か北方――雲と霧に閉ざされた辺境の彼方へと注がれていた。
そこに何があるのか、視界には映らない。
しかしカーズ・ナリアの深緑の瞳は、まるで見えているかのように鋭く、確信を持って何かを射抜いていた。
「ユ=ツ・スエ・ビル」
重く低い声が、聖堂の奥へと響いた。
それは呪詛のようでいて、どこまでも確信に満ちた宣告だった。
祭壇の前に立つカーズ・ナリアの唇が、その名を刻むように動いた。
「……忘れられたはずの忌み地。忌まわしき混沌の神が顕現した地……そこにいる。名は……クトゥル……」
その名が放たれた瞬間、空気が変わった。
まるで石を投げ込まれた湖のように、静謐だった聖堂に波紋が広がる。
聖なる灯火が微かに揺れ、神官たちが一斉にざわめき出す。
「クトゥル……そ、それは、最近人々を救うとされる……」
声を上げた神官の一人の顔には混乱と動揺が浮かんでいた。
噂として民の間で囁かれている存在してはならぬ存在――それが、いまこの場で、神の言葉として名指しされたのだ。
一歩前に出たマルグリットの口元が微かに震えている。
しかしその真紅の瞳は、確かな意志の光を帯びていた。
揺れる内心を抑えながら、彼女は静かにカーズの言葉を待つ。
そしてカーズ・ナリアは、まるで裁定を下すように一度静かに瞼を伏せ、
ゆっくりと翠玉の瞳を開いた。
その瞳には、怒りも憎悪も宿っていない。
ただ、凍てついたような峻厳と、揺るがぬ断定だけがあった。
「――違う」
その一言。
けれど、まるで断罪の鐘の如く、場の空気を一瞬にして支配する。
全員が、無意識に息を飲んだ。
「救いとは、神の律に従い、人の魂を正しき道へと導くことを言う。
苦しむ者を癒し、彷徨う者を導き、罪を悔い改めさせるものだ。
だが、あれは違う。」
言葉は剣となり、空気を断ち切った。
カーズはその視線を宙へ――この聖堂の天井のはるか向こう、北の地を見据えるように向ける。
「クトゥルとやらは、確かに民を救った。
だが、それは理を超えた力で災厄をねじ伏せただけのこと。
信仰を与えず、悔いも導かず、ただ服従と狂気を根付かせただけ……
それを救いと呼ぶのかい?」
その言葉が落ちた瞬間、聖堂の空気は凍りついた。
誰一人として反論することができない。
誰もが、本能で理解していた。
――あの鐘が鳴った瞬間から、何かが、戻らぬ段階に入ったのだと。
神の律が揺らいだ。
そして、聖光教会という秩序の砦に、かつてない亀裂が刻まれ始めていた。
それでもなお、誰も口を開けない。
静けさのなかで、ただ、遠くの空に響くはずの鐘の残響だけが――胸を抉るように鳴り続けていた。
「ウロボロスが……変わる…」
低く静かに漏れたその声には、確かな哀しみが滲んでいた。
カーズの瞳が、かすかに翳る。
「誰かが動かなくては成らない…」
聖堂の空気が、痛いほど張りつめる。
マルグリット・レニエールは沈黙のまま、刀の柄に手を添える。
その指先には僅かな震えもない。
まるで、その決意が肉体の奥にまで刻み込まれているかのようだった。
「(ならば、私は……その理の乱れに抗う剣となる)」
内なる誓いと共に、彼女は振り返る。
編み込まれた左右の髪が、静かに弧を描きながら揺れた。
鋭く、冷たい決意を湛えたその眼差しは、今や一切の迷いを棄てていた。
「……団を動かします」
刃を研ぎ澄ますような声。
しばしの沈黙。
聖堂の奥、祭壇の高みに立つカーズ・ナリアが、ゆるやかに口を開いた。
「…いいだろう。マルグリット。審問団を動かす許可を下す。」
低く響いた声は、深い湖底のように整っていた。
青年のような端整な容貌には、微かに陰を落とす冷徹さが浮かぶ。
そこには慈悲も激情もない。
ただ、時の流れの中に沈殿した、宗としての重さだけがあった。
「僕らの信仰が、正しきものか。
いままさに――天に試される時が来たんだ。」
その横顔に浮かんだ微笑。
それは安堵でもなく、歓喜でもなかった。
予兆への陶酔――破滅の気配に心を蝕まれながら、それでもなお、そこに美を見出す者だけが浮かべる、危うい微笑だった。
聖なる灯火が、微かに揺らぐ。
まるでその微笑に呼応するように。
マルグリットは、決然と一歩を踏み出す。
その足取りは、迷いなき剣の如く真っ直ぐだった。
腰の《アッシュ・サンクレール》が、わずかに鞘鳴りする。
「神律は未だ我らの旗印たるか――異端を、討て。」
その言葉と共に、空気が震えた。
異端審問団の面々が無言で立ち上がり、手にした剣や槍を静かに構える。
剣戟もなく、叫びもなく――ただ、意思だけがその場を満たしていた。
神の言葉を奉じる者たちが、今まさに地へと降る。
天上の楽園に仕える者たちが、血と汚泥の世界へと足を踏み入れる時が来た。
秩序と混沌、聖と邪の境界が崩れゆく中――
聖光教会は、その刃を掲げて歩み出す。
戦いの火蓋は、すでに静かに落とされていた。
けれどその裏で、誰よりも深く、誰よりも静かに――
己が胸奥に渦巻く異端を、ただひとり隠し続けてきた男がいた。
カーズ・ナリア。
聖なる法衣に身を包み、人々尊崇を集める聖律の守人。
だがその翠の瞳は、今――荘厳なる祈りの光の内側で、己の深奥に巣くう飢えを映していた。
祭壇の影、気配ひとつ通さぬ静寂の中。
彼は、ごく小さく、ほとんど聞き取れぬ舌打ちを落とす。
胸の奥で、声にならぬ囁きが熱を帯びる。
「……どこにいるんだい…?」
思考の底から漏れ出した、その問いに応える者は誰もいない。
だが、彼の内に燃える渇望は、もはや隠しようがなかった。
「僕の後継者を産むべきの妻――光の魔族˝リュミエール˝…そして、リュミエールを奪った忌まわしきゴミ…˝テネブル˝……」
沈黙の中で響く、心の声。
それは、理性と信仰を鎧としたはずの男が、決して拭えぬ欲望に呑まれていく音だった。
清廉の仮面の裏で、カーズ・ナリアという男は知っていた。
神を信じる者が、神の名の下に異端を狩る――
その構図が、いかに都合よく正義を演出するかを。
そして、誰よりも先に神の代弁者を名乗ったこの男こそが、
妻と子を得ようとし、異端を――自らの欲の前に、敵を排除しようとしていた張本人だった。
それは、神託でも救済でもない。
ただ、欲望の形をして生まれ落ちた、もっとも深き業――
信仰の衣を纏った、歪みの胎動に他ならなかった。
神に見捨てられたのは、果たして誰だったのか。
それはまだ、誰も知らない。




