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カオスの塔改築計画⑦

何度も額を地に打ちつけ、ようやく赦しを受けたと悟ったドワーフたちは、土の感触を名残惜しむようにしながら、ゆっくりと身を起こした。


その動作には、まだ明確に震えが残っていた。

それは単なる恐怖ではない。圧とでも形容すべき、言葉にできぬ重圧が、彼らの関節から筋肉の隅々までを鈍く支配していた。


中心にいたガンもまた、深々と頭を垂れていたが、やがてそっと顔を上げ――そして再び、目を奪われる。


小さい。

その第一印象自体は、間違っていないはずだった。

確かに目の前の主は、ドワーフ族よりはやや背が高いが、いわゆる巨躯とは呼べぬ体格である。

普段見上げることの多い魔族の中では、首の負担が軽い部類だと感じていた。


だが――それは外見だけの話だった。


「(改めてみたら…すげぇな)」


心の中で洩れたその言葉には、畏怖と困惑と、なによりも純然たる畏敬が滲んでいた。

目の前に立つ存在は、ただ小さいなどという言葉では片付けられない。

それどころか、あまりに異質すぎて、認識が歪んでくるほどだった。


見慣れない装束――

その布地は闇のように沈み、周囲の光すら吸い込んでいるかのようだ。

風の一切ない場で、なぜか裾がひらりと揺れ、まるでそれ自体が意思を持っているかのように感じられる。

視線が合った瞬間、ガンの心臓が一拍、凍りついた。


魂の奥まで突き刺さるような眼差し。

否、それは「眼差し」という枠では語れない。

黒い2つの目で見られているはずなのに、無数にこちらを見据えている気がする。

そのたった一瞥で、胸の内に冷たい指が這うような悪寒が走った。


――存在しているだけで、周囲の理を歪める。

この空間の空気すら、あの者の在り方によって変質しているように感じられる。

それは決して誇張ではなかった。


ガンはごくりと喉を鳴らし、口を開く前にしばしの沈黙を要した。

言葉を選ばねばならないと、心の底から思った。


「…あんた様を見て分かった。正真正銘の邪神様だ…」


ガンが絞り出すように呟いたその声には、先ほどまでの軽快な調子がまるでなかった。

陽気さは跡形もなく消え、代わりにあったのは、圧倒的な力に屈しかけた者の、ひたむきな敬意と畏怖の色だった。


それでもなお、彼の中には職人としての矜持が残っていたのだろう。

ガンは震える手で自らの頬を軽く叩くと、無理やり口元を持ち上げ、笑みとも言えぬ歪な表情を作った。


「ひ、一目でわかんなかったのは、目が節穴だったってこった。すまねぇ。」


笑いながらも、その声の奥底にはまだ恐怖がこびりついている。

それでも彼は、恐る恐る視線を少しだけ持ち上げ――全身を通して、言葉を続けた。


「やっぱり…すげぇ圧があるな……。」


そのつぶやきに対し、クトゥルは無言のまま片眉をわずかに上げた。

沈黙。だが、それは否定ではなかった。追及でもなかった。

むしろ、応答しないという選択が、より深い威圧と余裕を感じさせた。


言葉を重ねることすら無用――そう思わせるほど、そこに立つ存在は異質で、絶対だった。


その姿に、リュミエールはそっと眉を下げた。

ガンの砕けた口調に、思わず内心で肝を冷やす。

けれど、怒りを見せるでもなく、悠然と構えているクトゥルの姿に、彼女は安堵の吐息を漏らす。


「うっ…(――こ、ここにお嬢様が居なくて本当に良かったです。)」


内心でそう呟きながら、彼女は尻尾をそっと撫でていた。

ガンの物言いは、もしあのエリザベートが傍にいたら――間違いなく、ただでは済まなかっただろう。


彼女にとってクトゥルは、崇拝すべき絶対者。今のような馴れ馴れしさは、赦されることのない不敬となる。


そんな緊張感が残る中、場には一瞬の沈黙が流れる。


――そしてその静寂を破るように、ガンがふいに手を打った。

まるで何かを思いついたかのように、パチン、と音が響いたその瞬間、空気がわずかに動いた。


「そ、それよりだ! よければ、下層の様子を見てってくれねぇですか…? まだ工事中だが、形になってきてるますぜい。あんた様に認めてもらえたら、職人冥利に尽きるってもんだです!」


ガンの声は、やや上ずっていた。それに敬語が慣れてないのか喋り方がおかしい。

だがそこには、畏怖と同時に、職人としての誇りがにじんでいた。

恐れを抱きながらも、自らの仕事を邪神に見せたい――それが彼の本心だった。


頭を下げたままの他のドワーフたちにも、彼は目配せと気配で合図を送る。

彼らはすぐに反応し、まるで儀式のような静けさと慎重さで、塔の下層への視察準備を始めた。


周囲に散らばっていたハンマーや鑿、崩れた石くずの数々を、一つひとつ丁寧に、けれど急いで片づけていく。

いつもの倍は神経を使いながら、無駄な音を立てぬように――まるで神の眼前にあるかのように。


その様子を、クトゥルはしばし無言のまま見つめていた。

彼の眼が淡く光る。

何かを計るように、思案するように、しかしやがて――小さく、頷いた。


「……案内せよ(楽しみだなっ)」


その低く響く声は、まるで闇に沈む鐘の音のように、場の空気を震わせた。

だが内心では、ひそかに期待を抱くような気配が滲んでいた。


ガンはその声を聞くや否や、背筋をピンと伸ばし、反射的に敬礼めいた動作を取る。


「お、おうっ! こちらだです。足元、お気をつけてくれですぜ……!」


導かれるようにして、一行は塔の奥へと足を進める。



―――



塔の内部構造は、まるで異界の骨格のようだった。

天井からうねるように伸びる巨大な螺旋階段は、白骨を思わせる素材で組まれており、歩くたびに軋む音を立てる。

壁面には、時の彼方から呼び出されたような古代文字が、緻密に刻まれていた。


それは装飾でありながら、どこか術式の残滓のような力を感じさせ、見る者の意識を吸い込むような不思議な引力を放っている。


「へへ。どうですっ。カオスの塔一部を用いたんだですっ。」


「ふむ…悪くない。」


クトゥルは、腕を組み頷いていたが、それは寡黙で威厳ある姿だが――


「(いいじゃんっ!カッコいいっ。手が疼くなっ。)」


心では、カッコいい外壁に興奮していた。


階段の途中には、まだ積み上げられたままの石材や金属資材が並んでいた。

だが、それを邪魔に思う間もなく、ドワーフたちが的確な動きで道を開けていく。


足元には注意を要する箇所も多い。だが、その一つひとつに、職人たちの手が既に回っていることが、現場の息遣いから伝わってくる。


リュミエールもまた、静かにクトゥルの後を追った。

その表情には張り詰めた緊張が浮かんでいたが、それでも彼女はクトゥルの傍に寄り添うことをやめなかった。


彼女の尻尾に下げられた鈴が、かすかに、不安げな音色を響かせる。

音は小さく、しかしどこか寂しげで、塔の奥へと吸い込まれていった。


かくして一行は、未だ建設途上の聖域――

完成途中の混沌の神塔の下層へと、静かにその足を踏み入れる。


石材の擦れる音と、ドワーフたちの低く控えめな掛け声が、どこか神聖な響きをもって塔内に反響する。その音を背に、クトゥルは静かに一歩を踏み出した。


重厚な足音が床を伝い、まだ整いきらぬ聖域に威厳を刻む。その背後には、緊張を隠しきれないリュミエールが、そっと寄り添うように続き、誇らしげな眼差しを浮かべるガンが控える。


彼の瞳には、造りかけの塔がすでに完成された栄光として映っているようだった。


――混沌の神塔。


名の通り、神の名にふさわしい威容を目指して築かれる居城であり、ことわりを捩じ曲げた神性が満ちるべき空間。現時点で完成しているのは、下層の第三階までにすぎない。


だが、その限られた区画ですら、すでに圧倒的な存在感を放っていた。


彼らが今、足を踏み入れたのは、最下層――《混沌の門》と呼ばれる区画だった。


眼前にそびえ立つ巨大な門は、黒鋼を基調に組まれており、全体に施された文様は不規則で、だが確かに意味を持つ何かを語っていた。


視線を注ぐ者に錯視を引き起こし、まるで門自体が生きているかのように、わずかに脈打つ気配を放っている。


「今は誰もいねぇですが、完成したら門の近くに、三大名家の門衛たちが、睨みを利かせて、内部への侵入を監視するって寸法ですぜっ。」


ガンが誇らしげに胸を張り、指で門の両脇を示す。そこにはすでに、衛兵が立つ予定の台座と結界の骨組みが組み込まれていた。


「なるほどな(セキュリティバッチリって感じか…?いいじゃないかっ)」


無意識に漏れた内心の喜びに、クトゥルはほんの少し口元を緩めた。戦闘力をもたない彼にとって、この塔が安全であることは切実な願いであった。


門を抜けると、一行は重厚な黒石で構築された広間へと足を踏み入れた。

天井は高く、柱には歪んだ幾何学模様が彫り込まれており、空間そのものが何かを秘めているかのように圧力を感じさせる。


広間の中央には、緻密に刻まれた転移陣が敷かれていた。


中心には暗紫色の魔石が浮かび、その後方に、赤、緑、青――それぞれ異なる力を宿す三つの魔石が静かに輝いている。


「ここは…何だ?」


クトゥルの問いに、ガンが嬉々として答える。


「へいっ。ここは、転移陣の間ですぜ。真ん中の石は、上の階へと続く転移ルート。後ろにある3つの石はそれぞれの名家の玄関前に行けるルート。今は上に続く転移ルートしかできてねぇですが、この塔が完成した頃には、他の三つも動く予定ですぜ。」


「ふむ…ここから転移できるのは素晴らしい…だが、名家の玄関前に転移できるとなると、仮に門衛が突破された場合はどうなる…?」


その疑問に対し、リュミエールが一歩前へと進み出る。細かな鈴の音が空気を震わせ、少女の声が清澄に響いた。


「大丈夫ですっ。名家に転移できるのは、クトゥル様とお嬢様たち三契だけになります。それに、上の階に行くには三人の門衛または、お嬢様方の了承がないと上がれない作りになる予定です。」


「もちろん。クトゥル様は、了承なしで最上階まで行けますよ」と付け足す。


「嬢ちゃん。補足ありがとな。まだ、完成してねぇですから、今は門衛がいなくても上に行けますぜ。」


ガンが笑みを浮かべながらうなずくと、クトゥルは一度だけ深く頷いた。


「では、二層も見るとしよう。」


言葉と共に、彼らは転移陣の中心へと立つ。そして、わずかな魔力の振動の後――空間が淡く歪み、一行は次の階層へと転移する。


第二層、《礼拝堂》。


現れた空間は、まるで星々の死骸が沈む宇宙の淵を再現したかのような神秘に満ちていた。照明は一切存在しないにもかかわらず、空間全体は幽かな青白い輝きに包まれている。


その光源は、中央に聳え立つ黒曜石の邪神像だった。


彫刻されたそれは、明らかにクトゥルを模したものであり、頭部には触手が這い回り、その合間から無数の目が覗いていた。だが、その目はどこかを見ているようで、同時に何も見ていない。


像の両サイドの台座から立ち上る青い炎が、空間をただ静かに照らしていた。


崇拝と畏怖を兼ね備えた空気が満ちる中、神の降臨を待つ聖域のように、場の空気は自然と厳かになっていった。


「……ほう」


低く漏れた感嘆の声が、厳かな沈黙を破った。


その瞬間、ガンの肩がぴくりと震える。音に敏感なドワーフの職人である彼は、主の評価に対して過敏と言ってもよかった。だが、その感情を堪え、彼はじっと立ち尽くす。


一方で、クトゥルは腕を組んだまま、無言のまま天を仰ぐように螺旋階段を見上げていた。


それは異形の美を湛えた構造物だった。漆黒の触手を模して編まれた階段は、あたかも神の像より這い出し、上層へと絡みつくように続いていた。階段の根元からはほの青い炎が吹き出し、周囲を幽かな光で照らす。天井はなく、闇の中に階段が消えていく様は、どこか異界への道を思わせた。


「蒼炎はアーヴァ様に提供して貰いました。裏手に火種があり仮に蒼炎が消えてもすぐに、明るくなりますっ」


「悪くない。(かっけぇっ!やっぱり青い炎ってテンション上がるなっ!)」


吐き出された短い一言。しかしそれが意味するものの重さを、ガンはよく理解していた。


ドワーフの頬が、赤銅の肌にしては珍しく、真紅に染まる。


「ま、マジか!? ははっ……やっぱり、設計図通りに作ったかいがあったぜ!」


込み上げる喜びを抑えきれず、思わず声が漏れた。慌てて両手で口を覆うガンの仕草に、リュミエールが小さくくすくすと笑った。


そして一行は、階段を登り、第三層――現在の塔の最上層、《信徒の謁見階》へと至る。


そこは一転して、静謐と神秘に包まれた空間だった。


壁一面に使用された半透明の鉱石は、霧がかったように曇っており、その内側には無数の「目」が浮かんでいた。見る角度によってゆっくりと瞬き、視線を投げかけてくるそれらは、神の監視のようであり、信者の内面を覗き込むかのようでもあった。


――信仰を強制する、異様な空気。


この空間の存在そのものが、謁見の場としての機能を完璧に果たしていた。


「ここでは、外部信徒や幹部たちと謁見できるようにしてありやす。入神の儀や洗礼の儀も、いずれここで……」


ガンは言いかけて、ふと口を閉じた。


それは、目の前に立つ邪神が、無言のまま壁を見渡していたからだった。


半透明の壁、その内奥に揺らめく無数の神の目。クトゥルの視線がそれらをなぞるように、ゆっくりと空間全体を巡る。表情は乏しいが、そのわずかな動作だけで空気が凍りつくような緊張が走った。


やがて、重い沈黙の末、クトゥルは小さく頷いた。


「……良い。信仰を受け入れる器として、まずは合格だろう。」


その言葉を受けた瞬間、ガンの目が見開かれる。


胸の奥に打ち寄せる、言葉では言い表せぬほどの達成感。膝が震え、今にも崩れ落ちそうになるのを、必死に踏みとどまった。


「へ、へへっ……よかった。これでようやく、建築家の名に恥じねぇ仕事ができた……」


感極まり、言葉が途切れそうになる中、リュミエールもまたほっとしたように胸を撫で下ろし、どこか誇らしげに微笑む。


――混沌の神塔は、確かにその礎を築きつつあった。


暗き空に浮かぶ三層の構造。だが、それは未だ序章にすぎない。


いずれ来たるであろう信仰の嵐の前触れ。

この塔が完全なる神の居城となる時、世界は再び理の外へと引きずり込まれるのだ。



―――



クトゥルが混沌の神塔を視察してから、すでに1か月の時が流れていた。


その間に塔の建設は徐々に進んでいたが、未だ完成には至っていない。

そして〈混沌の三契〉――その忠実なる眷属たちは、それぞれが持ち場にて役目を果たしていた。


その一柱。魔族の血を引く、吸血鬼エリザベート。


彼女は今、故郷であるアビスローゼ家の本邸――夜に沈む美しき魔城の執務室にて、領主としての重責を担っていた。


執務室は荘厳かつ静謐で、黒を基調とした大理石の床が月光を柔らかく反射していた。高い天井には紫銀のシャンデリアが揺れ、かすかな蝋燭の灯が室内を淡く照らしている。


中央に鎮座する漆黒の大理石の机。その上には、領地運営に関わる報告書が文字通り山のように積み重なっていた。どれも厳重な封が施され、急を要するものから定例報告まで多岐にわたる。


だが、その冷たく美しい指先は、一切の迷いもなく紙を捌いていく。一枚、また一枚。流麗な動きは、まるで舞を舞うかのようだった。


「……税の徴収率は良好ね。貢納品も、予定通り来月には神塔へ送れるでしょう。次の案件を」


低く落ち着いた声が、静寂を破った。


「はい、お嬢様っ」


隣に控えていたのは、氷のように涼やかな気配をまとう少女――リュミエール。


彼女は一礼すると、すぐに新たな書簡を差し出す。その手際は慣れたもので、主との信頼関係が長い歳月にわたって築かれてきたことを物語っていた。


差し出された文書には、盗賊討伐の詳細報告、農民たちからの苦情、近隣諸侯の動向といった多様な情報が詰め込まれている。だが、エリザベートはそれらすべてに動じることなく、ただ淡々と処理していった。


「神塔周辺の安全は確保済み。周辺諸侯の動向も静観の域を出ず、現時点で脅威なし…ですね。」


リュミエールの報告は簡潔かつ的確だった。その口調にはどこか誇りが宿っていた。


「ええ。とはいえ油断は禁物ね……。」


エリザベートは答えながら、羽ペンを手に取り、流麗な筆跡で書き記していく。その表情に迷いはなく、瞳には冷ややかな決意が宿っていた。


まるで氷の彫像のような冷静さと、吸血鬼ならではの気品。そして、〈混沌の神〉に忠誠を誓う者としての覚悟。


彼女の内に燃える忠義は、どこまでも静かで、だが決して揺らがない炎のように、闇の中で確かに息づいていた。



―――



一方その頃、極寒の嵐が絶え間なく吹き荒ぶ、北方の氷雪地帯にそびえる魔城――クラゲイン宮。


その冷たき牙の宮殿に君臨するのは、魔族の中でも恐れと畏敬を集める存在、「氷獄の暴君」イグロス=クラゲインであった。


氷で築かれた広間。壁面を走る霜の筋はまるで生き物のように蠢き、天井から吊るされた氷柱が、近づく者を威圧する。重厚な空気の中、彼は玉座代わりの石椅子に腰掛け、報告書の束を手にしていた。


「……何だその報告書は。字が汚ぇ。やり直しだ…」


無造作に放り投げた書簡が床を滑り、凍てついた石板に乾いた音を立てて止まる。その瞬間、報告を手渡した若い魔兵の肩がビクリと震えた。


ぶっきらぼうで荒々しい口調。しかし、イグロスの金色の三白眼は真剣な光を湛えていた。

ただの暴君ではない。彼の言葉には、実利と規律に基づいた明確な意図がある。


宮殿の外では、吹雪の中に設けられた訓練場で兵たちが叫び、雄叫びを上げながら修練に励んでいた。鋭い氷の刃を振るう音、地を蹴る足音、そして時折響く悲鳴が、厳寒の空気に混ざって耳に届く。


「新兵どもはもう一度、鍛え直しだ。クトゥル様の元に名を連ねるには、牙がなきゃ務まらねぇ。」


凍てつく空気の中、彼の声は鋼のように響きわたる。


戦場で役に立たぬ者は不要――それがイグロスの信条であり、混沌の神に仕える身としての覚悟であった。


彼の周囲には、信頼厚き幹部や兵たちが集い、次々と書簡や報告が届けられていた。その中には、信者候補の動向、物資の輸送状況、他勢力の監視報告など、多岐にわたる内容が含まれていた。


イグロスは、それら一つひとつに目を通し、時には手短に、時には厳しく命令を下していく。彼の指示に曖昧さはなかった。


「神塔への兵の派遣?ああ、そろそろ鍛え直した奴らを送り込む時期か。五十名、選りすぐりを出す。……言っとくが、舐められたら、その場で凍らせる」


唇の端に、わずかな笑みが浮かんだ。だがそれは温かさではなく、凍てついた牙のような冷笑だった。


彼の言葉こそ荒々しく粗野であるが、その背後にあるのは確固たる統治と力の支配だ。暴力による威圧ではない。実力に裏打ちされた恐怖こそが、クラゲイン城を一つにまとめていた。


魔の都と呼ばれるこの氷の城塞において、イグロス=クラゲインは、確かに領主としての義務を果たしていた。

それはただの暴君ではなく、混沌の神へ忠義を捧げる、ひとりの覇者としての姿であった。



―――



そして、第三の地――そこは、アーヴァに再び与えられた領地であった。


切り立った山脈の裾野に築かれたその城は、まるで地の龍が眠りについたかのような佇まいをしていた。

外壁は青白く輝く龍の鱗を模して造られ、蒼黒石と呼ばれる魔力を帯びた特殊な鉱石によって組み上げられている。

その石は、朝の光では深い群青に、夜の帳が降りれば鈍い銀青へと色を変え、時折、魔力の脈動に応じて微かに脈打つような光を放った。


領地の空気はどこか熱を孕み、肌にじわりとまとわりつく。城を囲む湖面からは絶えず淡い蒸気が立ち上り、それが光を透かして幻想的な霧となり、庭園や屋敷の輪郭をぼやかしていた。その熱は、かつて地中で用いられた炎魔法の余燼――すなわち、地熱の名残である。


巨大な正門には、蒼色に彩られた龍の彫像が二体、威圧的に睨みを利かせていた。その尾は門柱へと巻きつき、結界を構成する魔力の根を隠すように編み込まれている。


門をくぐると、蒼黒石で舗装された石畳の道が屋敷までまっすぐに続いていた。その両脇には、青い炎を灯した灯籠が間断なく並んでおり、魔力によって形を保ったその火は風にも消えず、静かに辺りを照らしていた。


主屋は五層の塔屋構造を持つ堂々たる建築であり、頂上には青い逆角――龍の反り返った角を模した尖塔が空に突き立っている。


屋根には青磁の瓦が鋭角に重ねられ、まるで竜の鱗のように輝きを放ち、外敵の魔力を弾く結界の一端を成していた。窓は少なく、その一つひとつには深いアーチが刻まれた魔法強化ガラスが嵌め込まれ、内部の気配を一切漏らさぬよう慎重に設計されている。


庭園と呼ばれる一角には、一般的な草木はほとんど見当たらなかった。代わりに、青く燃える炎花や、魔力で成長する蒼結晶の樹が整然と配置されており、人工的なものでありながらもどこか自然の調和を感じさせる、異界のような美しさがあった。


「ぐぬぬぅぅっ……うむむむぅぅっ!?」


城の一室、書斎の中央で、アーヴァは巻物と帳簿に囲まれながら、机に頭をぶつけそうな勢いで呻いていた。部屋の中には無数の紙束と報告書が散らばり、魔法陣で動く自動整理棚も追いつかぬほどに仕事が山積みとなっていた。


「むぅぅっ……この記録簿と、この報告書、どこが違うのじゃ……? わっちには同じに見えるぞいっ!……」


呪文も秘術も不要な、紙と数字の戦い。長年、ユ=ツ・スエ・ビルから離れ、廃都で隠者のように暮らしていたアーヴァにとって、「領主の仕事」というものは、まるで異国の風習にも似たものであった。


支出管理、農地調整、住民名簿、定期報告書――それらのどれもが、蒼炎では焼けもせず、彼女の精神を静かに、しかし確実に蝕んでいく。


「うぅ、わっちの蒼炎で、この書類どもを封印したいぞい……」


その呟きと同時に、背後から静かに差し出されたのは、一冊の簡易表であった。


「ソウ言ウ衝動ハ理解出来ルガ、許可ハデキンゾ、アーヴァ殿。エリザベート殿カラ預カッタ記入例ヲマトメタ簡易表ダ。見ナガラ転記スルンダ」


深い声音と共に現れたのは、魔獣ルドラヴェール。鋭利な赤毛と凍てつくような眼差しを持ち、彼は静かにアーヴァの背後に立っていた。


本来、彼が従うのはクトゥルのみである。


しかし、神塔建設という大義のもと、彼は必要な支援と判断された場面では、その忌むべき知性をもって的確に動いていた。


「おぉっ。ルドラヴェールっ…ありがたいぞいっ…危うくわっちの頭が崩壊するところじゃった……」


「マズハ、ココカラダ…」


鼻先を使い、器用に紙束を仕分けていくルドラヴェール。その動作には無駄がなく、アーヴァが混乱するであろう書類の順序を先読みして処理していく様子は、まさに影の書記官とも呼ぶべき働きであった。


こうして、混沌の三契の一角――アーヴァは新たなる地に根を下ろし、確かにその役割を果たしつつあった。


神塔の完成まで、残された時は僅か。

彼らの手によって、着々と混沌の礎が築かれようとしていた。


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