カオスの塔改築計画⑤
カオスの塔――かつては特別な年にしか開かれぬ、中立の象徴とされた場所。
だが今、その静謐な威厳は姿を変えつつある。混沌の主を迎えるため、新たな意思と力によって再構築され、まるで古の神殿が再び目覚めるかのように息吹を宿し始めていた。
改築が始まって、七日。塔を覆う霧は薄れ、空を裂くように伸びていた尖塔には仮設の足場が組まれ、幾人もの魔族や使い魔たちが黙々と作業に励んでいた。
陽は高く、空は晴れ渡っている。
その光は穏やかにアビスローゼ邸の高きバルコニーへと差し込み、大理石の床に薄い金の輪郭を描いていた。
その静謐な空間に、男が腰かけている。
混沌の邪神と呼ばれる存在――クトゥル。
今は前世の人間の姿をとり、黒い学ランに身を包んで、深く静かに椅子に身を預けていた。
手にしているのは、漆黒の輝きを宿した磁器のカップ。
その中で揺れているのは、黒にまるでルビーを溶かしたかのような赤黒い液体。
名は、アビスローゼ・ティー。
この世界で、彼が唯一「味」として認識できるもの。
舌に触れた瞬間、甘く。けれどすぐに深く沈むような苦みが広がる。
香りは妖しくも優美で、どこか懐かしい。まるで、かつて存在したはずの記憶を蘇らせるかのような。
「(……やはり、この香りは他に代えがたい…味…最高だっ)」
その思念は言葉にならずとも、深く満ちていた。
万象を超越した存在でありながら――あるいはだからこそ、クトゥルはこの一杯に、ただの嗜好品以上の意味を感じていた。
なぜか。
理由は分からない。分からなくてもいい。
ただ、この紅茶だけが、無為に満ちた永劫の時間の中で、彼に「今」という確かさを与えてくれるのだった。
「クトゥル様。おかわり、いかがですか?」
穏やかな声が、横合いからそっと響いた。
音を立てずに控えていたのは、リュミエール。
白と黒のメイド服を身に纏い、紫の髪を揃えたインプの少女。
その手には蒸気の立つポットがあり、彼女の尾の先で結ばれた鈴が、風に乗って澄んだ音を一つ、軽やかに鳴らした。
クトゥルは、手元のカップから視線をゆっくりと外し、わずかに首を振った。
「……よい。今はこれで足りる。」
その声は、深淵の底から響くような低さを帯びていた。静謐でありながら、聞く者の胸にじわりと沁み渡る重みがある。威厳に満ちながらも、どこか満ち足りた響きを含んでいた。
カップを卓上に戻すと、彼はわずかに背もたれへと身を預けた。瞼の奥に揺れる残香を感じながら、静かに外の景色へと視線を向ける。
邸宅の高窓の先、遠くにそびえるのは――建築途上の塔。
巨大な足場が組まれ、周囲には淡く輝く魔術障壁が展開されている。空中に浮かぶ幾重もの魔法陣が絶えず交差し、空間そのものが絶え間なく変容を繰り返していた。
塔の周囲には、様々な種族の職人たちが行き交い、鋼を運び、呪具を据え、呪文を唱えている。誰もが一様に汗を流し、声を荒げ、熱を籠めて作業に没頭していた。
――その時だった。
「おーいっ! そこっ! 梁がズレてるぞーッ!」
「なにっ!?馬鹿、そっちは魔力制御陣の基盤だっての!」
甲高い怒声が、空気を割って響いた。塔の高所で、数人の魔族が身を乗り出して叫び合い、慌ただしく動いている。怒鳴り声と罵声は、空にこだまし、やがて風に溶けていく。
クトゥルは目を細め、その喧騒の方へと静かに顔を向けた。
「……随分と騒がしいな。何かトラブルか…?」
その呟きは小さく、しかし空間に重く沈んだ。
すぐ傍らで控えていたリュミエールが、一歩前に進み出ると、そっと膝をつき、丁寧に頭を垂れた。
その姿勢は礼節に満ち、背筋はまっすぐに伸びている。彼女の尾に括られた金の鈴が、微かに揺れて、静謐な澄んだ音を一つ落とした。
「ご心配には及びません。クラゲイン領の職人たちは、仕事に熱心なだけです。改築は順調に進んでおります」
その声音は穏やかで、誠実だ。
彼女の言葉の端々には、「エリザベートの主」への揺るぎない敬意の念が滲んでいた。
「塔の完成を心待ちにしている者ばかりです。……クトゥルも、視察など、いかがでしょうか?」
その提案に、クトゥルはゆるやかに目を閉じる。
心に浮かんだのは、三人の契約者たち――エリザベート、アーヴァ、リュミエール。今やそれぞれが、自らの立場と務めに応じ、各地を統べている。
残された静寂。
そして、束の間の自由。
「…そうだな。…見てみるか。」
ゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、まるで空気の密度が変わったように、周囲の世界がわずかに揺らぐ。
存在そのものが、空間に圧を与えている――それは神性にも等しい質量の波動だった。
「案内せよ、リュミエール。我が新たなる棲み処……見定めておこう。」
「かしこまりました、クトゥル様」
リュミエールは恭しく頭を下げ、静かに立ち上がる。
鈴の音が、再び一つ、柔らかく響いた。
二つの影が、ゆるやかに並びながら塔の方角へと歩を進めていく。
陽光に伸びたその影は、どこか不吉でありながら、美しくもあった。
―――
アビスローゼ邸を出てからというもの、クトゥルは一言も発していなかった。
漆黒の学ランは風を孕んでたなびき、彼の歩みに合わせてゆるやかに揺れる。
後ろを歩くリュミエールの足音もまた、気配を殺すように静かで、砂利の上を踏む微かな音だけが、二人の存在をこの現世に確かに刻んでいた。
空は高く、青が冴え渡る。雲は白く尾を引き、その一端が遥か遠くの尖塔に触れようとしている。建築中の塔は、まるで空を穿つ神の槍のように聳え立ち、その影は地上に細く、長く伸びていた。
あたりには、作業の音が絶え間なく響いていた。鉄と鉄がぶつかり合う甲高い音、木材を運ぶ掛け声、魔力障壁が調整される微細な震動音。そのすべてが、この塔が今も生きて成長していることを示していた。
――その時だった。
「はっ!そこだ!間を詰めてっ!」
突如、空気を震わせるような鋭い声が飛んできた。女性の声。それもただの声ではない。鍛えられ、通るべき相手に確実に届くよう鍛えられた、現場を率いる者の声だった。
続いて、木と木がぶつかる鈍い音。掛け声のリズム。動きの合間に息を飲む気配すら交じっている。
クトゥルは立ち止まり、わずかに顔を上げて声の方角を探った。視線の先、塔の手前に広がる小さな広場――資材置き場の一角を利用した、日除けもろくにない粗末な空間だった。
そこには、数人の魔族の子供たちが立っていた。
年齢も、種族も、体格もばらばら。紫の肌に金の瞳を持つ者もいれば、褐色の角と尾を持つ者もいる。だが彼らに共通していたのは、その瞳に宿る光だった。まっすぐで、真剣で、必死に何かを掴もうとする、生の熱。
彼らの前に立つのは、銀の鎧を纏った一人の女性――ティファーだった。
陽光を受けてきらめく鎧の上に、風に揺れるプラチナブロンドの髪。その姿はまさに戦場の騎士。
木剣を地面に突き立て、片手を腰に当てて子供たちを見渡すその姿には、一片の妥協もなかった。
「腕の振りが甘い!剣は怖いものだ。だからこそ、正しく振れ!」
ティファーの鋭い叱責に、子供たちは一斉に木剣を構え直し、気迫を込めて振るう。たどたどしくはあるが、そこには怯えも、甘えもなかった。
クトゥルは、その光景に目を細めた。静かに、だが確かに、足を踏み出す。
一歩、また一歩。彼が歩を進めるたびに、空気がわずかに軋む。重圧とも余韻とも言えぬ何かが周囲に染み出し、場を支配していく。それは、ただそこに在るというだけで、周囲の空気が変容するという異質さだった。
その気配を最も早く察知したのは、やはりティファーだった。
「……あっ!」
瞬時に反応した彼女は、木剣を抱えるように片腕に収め、咄嗟に子供たちへ声を張る。
「休憩!水分補給はしっかりするようにっ!」
号令のようなその声に、子供たちは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに礼儀正しく木剣を下ろし、それぞれ水筒や壺のある方へと走っていく。
彼女の視線は、既に広場の端から歩み寄ってくる漆黒の影へと向けられていた。
駆け足で、ティファーがクトゥルのもとへと近づいてくる。
先ほどまで子供たちの前で見せていた凛然たる教官の姿とはうって変わり、その顔には素直であたたかな笑みが浮かんでいた。
柔らかな光が彼女のプラチナブロンドの髪に反射し、その輪郭をふわりと浮かび上がらせる。
「クトゥル様っ!どちらに向かうのでしょうか…?」
その問いかけに、クトゥルは足を止め、ほんのわずかに顎を傾けて答える。
「我の新居の視察に向かう所だ。」
変わらぬ冷静な声。まるで周囲の空気さえ凍らせるような、深淵を思わせる静寂が言葉に宿る。
ティファーは一歩前へ出て、手にした木剣を横に収めるようにして口を開いた。
「なら、私が護衛を――」
だがその言葉は、彼の静かな動きによって制される。
クトゥルはゆっくりと手を上げ、鋭さをもってではなく、静かな意思の力で言葉を断ち切った。
「いや、お前は子に剣を教えている途中だろう。しっかり子供たちに剣を教えてやれ(今のところ、俺を襲う奴らはいないだろうし、大丈夫だろう。)」
その言葉にティファーは一瞬きょとんとしたが、すぐに肩の力を抜いて小さく笑った。
「そ、そうですね。」
彼女の眉が柔らかく下がり、まるで表情に春の風が吹き込んだようだった。
「もしものことがあれば、あたしが身を挺してクトゥル様を守るから安心して。」
「あぁ。任せたぞ。リュミエール。」
「はいっ」
リュミエールの言葉に安心すると、視線をそっと子供たちに向ける。穏やかなまなざしのまま、嬉しそうに口を開く。
「クトゥル様聞いて下さい。ユ=ツ・スエ・ビルの子たちは、見込みがありますよ。見る見るうちに剣術が上達していってますからっ」
誇りと喜びが滲んだ声だった。
クトゥルは静かに目を細め、彼女の視線の先――木陰で水を飲む子供たちの姿に目をやった。
汗を光らせ、肩で息をしながらも、生き生きとした眼差しで互いに剣を交えていたあの少年少女たち。
異なる種族の血を持ちながら、共に汗を流す姿は、確かに一つの芽吹きを思わせる。
「ふむ……」
短く声を漏らし、クトゥルの口元がほんのわずかに動いた。
それは、表情というにはあまりに儚い変化だったが、ティファーにはそれが確かに微笑に見えた。
そして、彼は言葉を投げかける。
「……続けるがよい。お前の剣は――我の誇りだ」
その言葉は、何よりの賛辞だった。
ティファーの背筋がすっと伸びる。胸に灯った熱が、その青い瞳をより一層澄ませる。
「はっ……!」
彼女は深く頭を下げ、そのまま真っすぐ子供たちの元へと戻っていった。
木剣を片手に、再び教官としての気迫をその背に宿しながら。
広場を後にしたクトゥルは、静かに歩を進める。
彼の纏う漆黒の衣が、風に乗ってひるがえるたび、地面に映る影が奇妙な形に揺らめく。
その頭上――塔の高みでは、魔法工事の光が幾重にも閃いていた。
重厚な魔力が大気を震わせ、塔の側面からは古代語の術式を刻むような残光が幾筋も走っている。
まるで塔そのものが目覚めるように、鼓動にも似た振動が周囲に満ちていた。
近づくごとに高まる波動は、すでにこの場所がただの拠点ではなく、力の拠り所となりつつあることを示している。
混沌の神塔――それは、ただの建造物ではない。
クトゥルが歩む先、その塔は今、静かに、しかし確かに、神域の胎動を見せ始めていた。
―――
アビスローゼ邸を後にし、しばし静寂に満ちた街路を歩く。
無言で続くその足取りの先に、やがてそれは、姿を現した。
白昼の空の下、高くそびえ立つ未完成の巨塔。
祭儀や祝祭の折にしかその扉を開かぬはずの――かつて「中立の塔」と呼ばれたカオスの塔。
今やその呼び名も失われ、塔は新たなる名を得ようとしていた。
混沌にして深淵。
それは邪神を迎えるための殿堂。
再び築かれつつあるその構造物は、まるでこの地に帰還した存在に呼応するかのように、冷たい威圧を空に向けていた。
塔の周囲には、数十名に及ぶ職人たちの姿があった。
いずれも他国からも腕を買われた熟練の者ばかり。
石工、大工、鍛冶、魔術細工師。各分野の精鋭たちがそれぞれの技術を惜しみなく発揮し、この塔を邪神の居城たらしめんと、昼夜を問わず作業に励んでいる。
「おいっ……手伝ってくれっ!足場が崩れる!」
「この資材、どこに運べばいいんだ!?そっちじゃないのか!?」
怒号が飛び交い、作業の混乱と熱気が渦巻く。
宙を裂くような金属音、鉄が石にぶつかる硬質な響き、ハンマーが岩盤を打ち砕くたびに地が小さく揺れた。
空には微細な粉塵が舞い、光を淡く曇らせながら、再構築の痕跡を描いてゆく。
カン、カン、カン……。
その空間全体を満たす音の奔流――。
だがその洪水に、一瞬の断絶が走った。
空気が重く沈む。
まるで空間そのものが緊張に飲まれたかのように、音が、消える。
ひときわ異質な沈黙。
それは音ではなく、存在が発する圧であった。
現場の誰かが何かに気づいたように動きを止め、続いて次々に、職人たちが手を止める。
不安や畏れではない。だが、誰もが無言のまま、視線をある一点に集めていた。
――クトゥル。
漆黒の衣が風に揺れ、その影が塔の足元をゆっくりと歩む。
深淵をそのまま具現化したかのようなその瞳には、一片の揺らぎも宿らず、ただ黙して塔を見上げている。
ただ立つだけで空気が変わる。理屈ではない。生き物が本能で察知する絶対の階位――それが、そこにあった。
腕を静かに組み、クトゥルは目を細める。
彼の視線の先、改築中の神塔は、まさに胎動の只中にあった。
混沌の神塔――その全容は、未だ完成には遠い。
だが、その姿はすでに荘厳の兆しを放ち始めていた。
塔の下層部には重厚な石壁が積み上げられ、要塞めいた厳しさと神殿の神聖さを兼ね備えた構造が形作られている。
中層部は、まだ骨格だけが組まれた未完の構造体。風に晒された梁や鉄骨が、まるで竜の肋骨のように空を切り裂いていた。
その遥か上――雲に届かんばかりの上層部には、建築用の浮遊足場と魔法式による支柱が張り巡らされ、光の帯が空中に煌めいていた。
風が吹き抜ける。
鋭く冷たいその風は、職人たちの汗を拭い、同時に黒き影の裾を翻した。
「……ふむ。」
低く、湿度を帯びた声が、空気を割る。
その一言だけで、まるで魔術でもかけられたかのように、周囲の喧騒が一瞬にして静まりかえる。
怒号も衝突音も、石を打つハンマーの音さえも、空気の層に吸われて消えた。
職人たちはその声の主に視線を送り、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
クトゥルの姿は威厳と冷気を帯びた虚無をまとい、あくまで沈着に、目の前の塔を見上げていた。
しかし――その内面は、まったく別の感情で満ちていた。
「(……俺もついに家持ちかっ!)」
心中で叫ぶその言葉は、彼の外見からは一切読み取れない。
表情は動かず、口元にはわずかな緩みも見られない。
だが、その瞳の奥にだけ、確かに小さな炎が灯っていた。
――歓喜の炎。
抑えきれぬ喜び。
それでも彼は、それを露わにすることなく、いつものように邪神の仮面をかぶり続ける。
偉大で、冷徹で、誰の心にも触れぬ異端の象徴として。
だからこそ、口にしたのはたった一言。
「……悪くない」
そして、風に煽られる衣を翻し、クトゥルは再び歩き出す。




