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三大名家の舌戦

夜が明けきらぬ時間。

ウロボロスがようやく、東の空から光を受け入れ始めたばかりの黎明――。


アビスローゼ邸の奥深くにある静謐な一室。

天蓋付きの椅子と、重厚な黒檀のテーブル、透き通るような薄絹のカーテンが朝の気配をわずかに揺らしていた。


その部屋にただ一人、邪神クトゥルは静かに佇んでいた。


カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、蒼白な月の残滓と朝の息吹が入り混じるような淡い輝き。

家具も壁も、どこか夢のように曖昧で、空気はしんと張り詰めている――まるでこの世界に、彼だけが取り残されたかのようだった。


その手には、一杯の茶。


白磁のカップからはほのかに蒸気が立ち昇っている。

しんとした空間の中で、その湯気だけがゆるやかに形を変え、消えていくさまは、まるで過去の記憶が姿を取り戻し、また霧散していくようにも見えた。


カップに注がれているのは――アビスローゼ・ティー。


液体は、深紅と漆黒が絶妙に溶け合い、光の角度によっては微かに金色の光を孕んでいる。

その輝きはどこか神秘的で、まるで禁じられた知識の書からこぼれたインクのようにも見えた。


それは、アビスローゼ家が代々、栽培してきた、アビスローゼの花弁による秘茶。

そして、味覚を失った――クトゥルですら、˝味わえる˝と感じる唯一の飲み物だった。


芳香は妖しく、どこか危うい。


花の蜜のような甘い香りが最初に鼻腔をくすぐるが、その奥には、まるで墓所の香煙のような静謐な死の匂いが混ざっていた。

だが、それは決して毒ではない。むしろ、どこまでも純粋で澄んだ気配――すべてを見透かすような透明な深さを持っていた。


一口。

液体が喉を通るたびに、かすかな甘味が喉奥に余韻を残し、次いで舌の根に絡みつくような苦味が静かに広がっていく。


クトゥルはその味に陶然としながらも、眉ひとつ動かさず、優雅な手つきでティーカップをそっとテーブルへ戻した。

白磁が受け皿に触れるごくわずかな音だけが、静寂の部屋に溶けて消える。


重く、しかし濁りのない息を吐く。

その吐息は、部屋の空気をわずかに震わせ、紅茶の芳香がふたたび濃密に広がった。

まぶたを薄く閉じ、微睡むように意識を深奥へと沈めていく。


「(念のため、確認しておくか。)」


心中の言葉が水面に投げられた小石のように広がり、己の存在そのものへと探る意識が静かに沈降していった。

霊的な波動が内面を満たし、そこに確かに、新たなスキルの芽吹きが感じ取られる。


浮かび上がる文字。

現世の法則とは異なる、神性に近い何かが、静かに告げる。


《新スキルを取得しました》


【ディヴァイン・プレッシャー】


効果:自身の姿が周囲の精神を威圧する。


影響力は信仰者の数に比例して上昇し、臨界点を超えると追加効果が発生する。


その瞬間――魂の深奥、誰の目にも触れぬ内なる領域に、火花のような閃きが走った。


信仰という名の供物を糧にして膨張していく存在圧。

それはもはや、ただそこにあるというだけで周囲に影響を及ぼす、神格に至る現象。


見ること。

ただそれだけの行為が、対象の心を侵し、削り、精神を屈服させる。


それは攻撃ではない。

支配――究極の受動的暴力。

抗うすべもなく、ただ崇めるほかにない、圧倒的な神威。


――神性の発露。

あらゆる戦術における、否応なき優位性。


静かに、クトゥルの唇が綻んだ。


「……クク」


短く、抑えきれぬ喜びの気配。

それはもはや笑みですらなく、歓喜がほんの一瞬だけ漏れ出た、感情の雫。


揺れた紅茶が、かすかにカップの中で波紋を広げる。

再び立ち上る湯気に乗って、香りはさらに濃密になり、部屋の空気を満たしていく。


――しかし。


「……またか」


低く吐かれた声は、明確な落胆を含んでいた。

クトゥルは視線を窓の外へ逸らしながら、思わず眉間を指で押さえる。

しんと静まり返った部屋に、肌をなでるような朝靄の光が差し込みはじめていたが、その柔らかな輝きも、彼の気分を和らげるには至らなかった。


「(俺のスキル…攻撃……しないなっ!。全くっ!)」


心の中で呟いた嘆きは、誰にも届かない。だが、その響きは妙に生々しく、彼の内側で何度も反響した。


確かに、新たなスキルは強力だった。

信仰者が増えるほどに、敵対者の精神を自動的に抑え込む。

ただ在るだけで周囲に圧を与える究極の受動的威圧。まさに神の威光そのもの。


だが、それは――あくまで見る者に課せられる「圧力」であって、自らの手で「打ち砕く」ものではない。


殴れない。裂けない。燃やせない。


そう、クトゥルが得たのは、またしても平和的とさえ言えるスキルだった。


「(俺だって、エリザベートみたいに黒い雷をドーンと落として、無双したいのにっ!?)」


悔しさが、言葉にならない叫びとなって胸に渦巻く。

エリザベートのように、己の力で世界を薙ぎ払い、敵を瞬時に塵と化す。そんな見せ場のひとつも、クトゥルにはなかった。


力が増していくのは確かに喜ばしい。

だが、なぜか――本当に、なぜか、攻撃的なスキルだけが自分の元をすり抜けていくように感じられるのだ。


ふと、邸宅の外から人々の気配が聞こえてきた。

信者たちが動き始めている。


都市の再建に携わる者たち。

広がる信仰の波。

新たに建設されつつある礼拝所。


そのすべてが、クトゥルという存在を中心に回り始めていた。

邪神として祀られる身でありながら、彼の心には――誰よりも人間的で、俗な願いが静かに芽吹きつつあった。


戦える力が欲しい


祈られ、崇められ、称えられるだけでは物足りない。

真に敵を退け、信者を守る力を――そう、力そのものを渇望する自分がいる。


「……まぁ、いい。次に期待するか」


そう呟いて、彼はもう一度カップを手に取る。

蒸気が立ち上る紅茶を静かに喉へと流し込み、深く染み込むような甘苦しさに身を委ねた。


アビスローゼ・ティー。

その奥深い味わいだけが、今はせめてもの慰めとなる。


静寂を破るように、応接間へと続く扉が、控えめなノック音とともにわずかに軋んだ。

まるでその音ですら、ティータイムの空気を壊すまいと遠慮しているかのようだった。


ゆっくりと開かれた扉の向こうから姿を現したのは、整った顔立ちにわずかな翳りを帯びた男――テネブルであった。


いつも冷静で隙のない彼が、何かを案じていることは、わずかに強張った表情と沈んだ瞳からすぐに読み取れた。


扉を閉じるよりも早く、彼は無言で床に片膝をつき、頭を深々と垂れる。

完璧な礼節を備えたその所作には、仕える者としての誇りと、同時に切迫した思いが滲んでいた。


「……ティータイムの最中、誠に申し訳ありません、クトゥル様」


その声音は柔らかく低いが、どこか焦りを帯びていた。

それは、報告の内容が決して些細なものではないことを、誰の耳にも明確に告げる響きだった。


クトゥルは表情を一切変えることなく、静かに手元のカップを受け皿へと戻す。

磁器の触れ合うかすかな音が、妙に研ぎ澄まされたように響いた。


彼がゆっくりと立ち上がると、それだけで空気が変わった。

冷気のようなものが肌をなぞり、室内の温度がほんのわずかに下がったように感じられる。

それは、彼という存在から放たれる威圧ではなく、存在圧そのものだった。


「申せ、テネブル(ん?何かあったのか…?)」


無駄のない静かな声。

だが、その一言に込められた力は、膝をついた男の背筋をより一層強張らせるに足るものだった。


「……応接室にて、エリザベート様、イグロス様、アーヴァ様の三名が……少々、感情的な言い合いを始めておりまして。状況はまだ制御不能ではありませんが、放置すれば問題に発展するかと……」


報告は簡潔かつ正確だったが、その内容は十分に重い。

三人の名が示す通り、どれも今やクトゥルの側近に等しい強者たちであり、かつてなら敵として戦火を交えていた者同士でもある。


感情的な衝突。それは、些細なきっかけであっても、取り返しのつかない火種となりうる。


「――ふむ」


短く発されたのは、重みを含んだ沈思の声だった。

クトゥルの内に何かが動いたか否か、外からは読み取ることはできない。


「(うわぁ…面倒くさそう…)」


脳裏に浮かんだその独白は、確かにクトゥル自身のものであった。

心の奥底、深く沈んだ意識の淀みに、確かな形をもって湧き上がる感情――面倒だという、極めて人間臭い、しかし否定しがたい思い。


神性とされる存在に似つかわしくない感情かもしれないが、クトゥルという存在には、あまりにも自然に宿っていた。


それもそのはず、彼の前世は人間の青年なのだから仕方ないことだ。


だが、表層に浮かび上がる表情は、いつも通りの静謐と理知に満ちていた。

彼は、その俗なる感情を一切滲ませることなく、むしろ内にある威厳を形に変えたような、荘厳な一歩を踏み出す。


「……ならば、我が赴こう」


ただそれだけの言葉であった。

だが、その声が空間に放たれた瞬間、テネブルは深く頭を垂れた。

それは安堵であり、そして確信でもあった。


神が動く。それはすなわち、事態が終息へと向かうということ。

争いは、神の沈黙のもとで育ち、神の意志の前に終わる――それを知るが故に、テネブルは迷いなく従った。


クトゥルが応接間へ向けて歩み始める。

扉が音もなく開かれ、その背中が視界から消えると、廊下の空気が一変した。


張り詰めた。まるで冬の氷壁が突如として降り立ったかのように。

温度が下がったわけではない。音が消えたわけでもない。

だが、確かに世界が息を潜めたと感じさせるほどの、異質な静けさがそこにあった。


彼の歩みには足音がない。

だがその歩調に合わせて、屋敷そのものが沈黙を選ぶ。

そこにあるのは、忌むべき混沌の気配――けれども、それすらも優雅に昇華させた存在の威容だった。

優美でありながら畏怖を孕み、神聖でありながら禍々しい、矛盾そのものが歩を進めていく。




―――



神の訪れをまだ知らぬ者たちが集う応接室では、火花のような声が飛び交っていた。


重厚な扉の向こうから、鋭く切り裂くような声が漏れ聞こえていた。

アビスローゼ邸――貴族すら畏れを抱く古の名家。

その中でも最も格式ある応接室は、訪れる者すべてを圧倒する威容を備えている。


だが、今――その場に満ちていたのは、上品さとは対極の熱だった。


「……私がクトゥル様をお連れしたの…当然でしょう!」


その言葉は、氷の刃のように鋭く空気を裂いた。

発したのは、エリザベート。赤き瞳に冷ややかな怒気を宿し、まるで異を唱えること自体を拒むような威圧を放っている。

その声音に続くように、部屋の空気がぐらりと揺れた。


「はッ、だから、どうしたぁ…?最初の信者様よぉ…?」


低く、獣じみた咆哮。

口元を歪め、不敵に笑うのは、深海の魔族――イグロス。

筋肉質な褐色の腕を無造作に組み、三白眼の視線は挑発的にリザベートを見下ろしていた。


さらに、その緊張をあえて楽しむかのような声音が割って入る。


「くふっ…イグロスの言う通りじゃぞいっ!主が最初にクトゥル様に仕えたのは事実じゃが、わっちの方が信仰心は高いぞいっ!」


声の主は、灰青色の髪と尾を揺らすアーヴァ。

小柄な体をピンと張り、目を潤ませながらも負けじと主張を返す様は、子供のような純粋さと姫君としての誇りを併せ持つ、不思議な迫力を孕んでいた。


「いいえっ。私の信仰心の方が高いわっ」


「俺様に決まってんだろがっ!」


熱のこもった叫びが次々と飛び交い、空間はまるで火花が散るような騒然とした有様と化していた。


頭上の魔石シャンデリアが、まるで怯えるように細やかな音を立てて揺れている。

高天井に張り詰めた魔力が、いつ爆ぜてもおかしくないような緊張に満ちていた。


部屋の中央――言葉を交わす三者の姿は、まさに一触即発。

エリザベートは優雅な立ち姿のまま、冷ややかな視線を二人に向けていた。

イグロスは余裕たっぷりに笑みを浮かべ、余計な言葉をさらに添えようと喉を震わせている。

アーヴァは両手を腰に当て、尻尾をぶんぶんと揺らしながら、頬をふくらませて反論の機をうかがっていた。


その様子を、応接室の隅で見守る三人の姿がある。

俯くリュミエール、無表情を崩さぬルドラヴェール、そして青みがかった瞳を揺らすティファー。

三者三様に沈黙を守り、場の空気に飲まれぬよう努めている。

だが、誰一人として口を挟む者はいない。

この場に言葉を差し挟むことは、まさに火に油。

直感が、そう警鐘を鳴らしていた。




―――




音もなく――それこそ、世界の摂理すら逆らうように――扉は静かに開かれた。

その先から、ただ存在するだけで空間の意味を変えてしまう異形が姿を現す。


クトゥル。


混沌の深淵より来たる神。

その身は人の形を模しながら、全ての理を逸脱していた。

触れることも、測ることも、拒むこともできない。

彼がそこに在るというだけで、空間が――いや、世界が膝を折る。


重々しい気配などなかった。

だが、クトゥルがただ一歩、応接室に足を踏み入れた瞬間。

まるで打ち寄せる波が全てを飲み込んだように、騒がしさの残響までもが霧散した。


応接室には、水を打ったような沈黙が広がった。

空気は張りつめ、時間すら凍りついたかのようだった。


真っ先に頭を垂れたのは、エリザベート。

その紅い瞳に沈痛な光を宿しながらも、まるで神前に立つ巫女のように静かに、深く。

続いて、イグロスが重く組んでいた腕をほどき、無言のまま姿勢を正す。

傲岸不遜の塊のような男が、何の抵抗もなく頭を垂れたその様は、まさに神威の前の服従そのものだった。


アーヴァですら、膨らませていた頬を引っ込め、口を固く結ぶ。

神に対峙する時にのみ見せる、竜の姫としての威厳を思い出したかのように、背筋を伸ばしていた。


そこにあったのは、恐怖ではなかった。

絶対的な崇拝。

存在そのものが支配となる異形の神性に、彼らは無意識のうちに跪いていた。


邪神が見ている――それだけで全てが制される。


そして、その沈黙を貫くように、静かなる声が響いた。


「……我の眷属同士で、何を言い争っている?」


その声は、雷鳴でもなければ怒声でもない。

静かに、低く、しかし確かに空気を震わせた。

言葉以上の意味が、そこには込められていた。


誰の耳にも確実に届き、そして心を貫いた。

尊厳という言葉では足りぬ何かが、音を超えて存在していた。


――だが。


その神格の皮を被ったまま、内心でクトゥルは深いため息をついていた。


「(頼むから、また敵対するってのは、やめてくれよ…俺、平和に暮らしたいし…)」


静かな威厳を保ったまま、彼は冷や汗をかいていた。

神とは思えぬ内心の叫びを押し殺しつつ、それでも崩れることなく場を制する姿は、まさに威厳の仮面だった。


凍りついた空気の中――

最初に口を開くのは、誰なのか。


その沈黙は、剣を抜かずとも命を懸ける戦場に等しい緊張を湛えていた。


無言の圧力が室内を支配し、誰もが次に発される言葉を待っていた。


 最初にその緊張を破ったのは、エリザベートだった。


 しなやかな所作で顔を上げ、漆黒に染めた髪が微かに揺れる。

 紅い瞳に宿るのは、冷ややかな光。けれど、その奥には熱を秘めていた。


「私は――このアビスローゼ邸こそ、クトゥル様がお住まいになるに相応しいと考えています」


 その声音には揺るぎない確信があった。

 静かであればあるほどに、言葉が放つ力は強まる。

 膝の上に重ねた指先は慎ましく見えるが、そこにもまた、誓いのような決意がにじむ。


「…住む所…?」


クトゥルは、首を傾げる。

そう、今回の言い争いの原因は、邪神の居所。

それを巡り、それぞれの領主が誇りと執着をぶつけ合う、静かなる戦場となっていた。


「はい。この地へお連れしたのは、私。最初の信者としての責務を、ここで全うしたいのです」


彼女の語るその一言一言が、空間に静かな波紋を広げていく。

その主張に、一歩も退くつもりはない――明確な意志が、言外に滲んでいた。


だが、それに黙って頷く者など、この場にはいない。


「ハッ、貴族ぶってご立派な理屈だな。だがなァ……」


挑発するような口調と共に、イグロスがゆっくりとポケットに手を突っ込む。

鍛え抜かれた褐色の腕に浮かぶ筋肉が、彼の攻撃的な存在感を際立たせていた。

金の三白眼が細められ、まるで野獣が獲物を見据えるような光を宿す。

緑の髪と触手がわずかに揺れ、空気が再びざわつく。


「力の象徴であるクラゲインの城こそ、絶対者であるクトゥル様にぴったりだぜぇっ。」


その声音に込められたのは、あまりに濃密な「崇拝」だった。

尊大な言葉の裏に潜む信仰の深さは、誰よりも純粋な狂信に近い。

だが、彼らの言葉が交わされる中――まだ城すら持たぬ存在が、飄々と口を挟んだ。


「……ふふん、二人とも自分ばっかりじゃのう」


アーヴァが長い袖を揺らしながら、手を後ろでに組んだ。

彼女の小さな体には不釣り合いなほどの存在感がある。

鋭角の角が照明を受けて淡く光り、竜の尻尾が不満げに左右に振れる。


その様は、気高き竜の姫君そのものだった。


「そもそもじゃ、アビスローゼもクラゲインも、邪神様に仕える器として古くはあっても……わっちのンシュタウンフェン家こそが数千年前から存在する最も古き魔族の血脈なんじゃ。元ンシュタウンフェン領にあるわっちの家をリフォームするゆえ――完成の暁には、是非ともそこに!」


子どものような無邪気さと、竜人としての自負。

その両方を抱いた声音が、室内に彩を与えるように響いた。


「貴方だって…自分ばっかりじゃない…」


「それに、数千年前の記録何て残ってねぇし。どの家がもっとも古い何て分からねぇだろうが…」


「バカね」


「だ、だ、誰がバカじゃっ!」


三人三様の意志が交差し、それぞれが譲らぬ理由を胸に抱く。

だが、交差した意志は決して調和せず、火花のように空気を灼いていく。



―――



視線が交錯し、場の空気が再び凝固するように沈黙が支配した。


応接室の天井は高く、微かな風が窓辺のカーテンを揺らしているというのに、その空間だけが閉ざされたような圧を帯びている。


そしてその中心に座すのは、他でもないクトゥル。


彼は、周囲の言葉に一切の反応を示さず、静かに目を伏せていた。

まるでアビスローゼ家が淹れた香り高い茶の余韻を、まだ口内で確かめているかのように、唇を一文字に閉ざして動かさない。


そこには傲慢でも沈黙でもなく、ただ、世界の流れを待つ静謐な意志が宿っていた。


やがて、一つ、吐息とも溜息ともつかぬ静かな呼吸と共に、クトゥルは口を開いた。


「……ならば、我は《カオスの塔》に住まうとしよう」


一言。

それだけの言葉だった。けれど、それは雷鳴にも似た衝撃となって、場の空気を激しく震わせた。


「カ、カオスの……塔ですか…?」


エリザベートが思わず声を漏らした。

その声音には動揺があった。唇をかすかに震わせながら、目が見開かれている。


カオスの塔――

それは、三大名家の版図のちょうど狭間に立つ古塔。

通常は祭礼時のみ開かれ、長らく中立の象徴として誰にも属さず、誰の支配も許されてこなかった場である。


「アビスローゼ、クラゲイン、ンシュタウンフェン……その全てを統べるには、中立の地が必要だろう。」


淡々と、しかし確信に満ちた語り。

その響きは、天の意思がこの世の理を定めるがごとく重く、どこか甘やかな余韻をも孕んでいた。


その張りつめた静寂の中で、神のごとき沈黙を保っていたクトゥルの内心は、実のところまるで別の方向を見ていた。


「(…おっしゃぁっ!夢のマイホームだぁっ!!)」


心の中で拳を突き上げるような勢いで、彼は叫ぶ。


「(エリザベートの家でも良いけど、居候だと遠慮するし、やっぱりプライベート空間欲しいよなっ…うんっ!)


神の面持ちを保ちながらも、その裏では極めて人間的な歓喜に満ちていた。

まさかの豪邸ゲット、三大名家が支援してくれるならば、立地も設備も最高級。誰にも邪魔されない自分だけの空間――それは彼にとって、信仰よりも尊い理想の住まいだった。


しかしその心の声が外に漏れることは決してなく、表面上のクトゥルは、ただ神秘の光をたたえた瞳で沈黙を貫き、重々しく場を支配していた。


「塔の改修を進めよ。寝所、研究室、拝所を整え、三家からの転移路を繋ぐ門を築け。必要な素材は、お前たちが持ち寄るといい(建築の知識ないからお任せしとこ…)」


命令ではない。

だが、その声音には「選択」の余地が存在しなかった。

それは、神が己の在所を告げたというだけの事実。だからこそ、誰も否を唱えられない。


三者は、それぞれに表情を翳らせた。

それぞれの誇り、思惑、願望――全てが打ち砕かれた訳ではない。だが、その全ては神が選んだ地という一点に吸い込まれ、飲み込まれた。


やがて、一人、また一人と、頭を垂れる。


「承知しました…」


その声に込められたのは、敗北ではなく、誓約。

神の住まう地は決まった。ならば、いかにしてその地を神の意に沿った神殿とするか――それが新たなる使命となる。


――カオスの塔。


かつては誰のものでもなかった中立の古塔が、今まさに、神の選びし住処として、聖域へと変貌を遂げる瞬間だった。


……静寂。

先ほどまで重々しかった空気が、ようやくひと息ついたかのように落ち着きを取り戻す。

神の言葉は絶対であり、それがもたらしたのは、いっときの平穏――。


「…(ふぅ…どうやら、舌戦も終わ――)」


クトゥルは心の内で安堵の息をついた。

カオスの塔を新たな居所と定めたことで、三家の駆け引きは一段落し、場も収束へ向かう――そう思ったのだ。

だが、現実は甘くない。


「ところで……」


穏やかになりかけた空気を、再びかき乱したのは、エリザベートだった。

彼女は優雅な所作でティーカップを口元に運びながら、氷のような笑みを浮かべる。


「私たち三家の序列について、然るべき形で決めておくべきではないかしら?曖昧にしては、指揮系統が混乱するから…」


その言葉は、まるで無邪気な提案のように聞こえながら、明確に挑発の意図を孕んでいた。

場の均衡が再び揺らぎ始める。


「ふん、そんなもん決めるまでもねェだろ。俺様の氷獄の暴君たる力、見たろ…?」


イグロスが唇の端を吊り上げ、誇らしげに笑った。

椅子にもたれながら、逞しい腕を組み、先ほどの戦いの余韻を思い返すように。

その声音には、すでに「序列1位」の称号を得たつもりの響きがあった。


「いやいや、待て、待つぞい」


椅子の背にもたれたアーヴァが、ぱたぱたと両手を動かしながら制するように声を上げる。

その小柄な体を揺らしつつ、あくまで軽妙に、しかしどこか自信に満ちた眼差しを周囲へ向ける。


「ンシュタウンフェン家は最古の血脈…つまり序列一位はわっちで決まりじゃなっ!」


口調は砕けていても、その言葉に込められた誇りは確かだった。


「いいえ。邪神様を常に崇拝してきたアビスローゼ家。つまりアビスローゼ家当主である私が序列1位だと思うけど…?」


エリザベートは微笑みを崩さぬまま、静かに断言する。

まるで当然の理を説くかのように、淡々と。

その瞳は誇りと忠誠に満ち、いかなる異論も受け入れぬ強さを湛えていた。


三者三様、譲らぬ正当性の主張が、またしても交差する。

先ほどまでは探り合いの応酬だったが、今や火花が散るような衝突の気配すら漂っていた。

この場において誰もが一歩も引く気はない――名家としての矜持、神への忠誠、そして自身の正義が、彼らの背中を押していた。


ティファーたち従者は、誰一人として口を開かない。

目を伏せたまま、あるいは神を見つめたまま、静かにその瞬間を待つ。


――クトゥルの一言が、再びすべてを定めるのを。


「(今度は序列か…うーん…どうする…?)」


静かに腕を組みながら、クトゥルは無言のまま沈思する。

彼の瞳は、ゆるやかに――しかし確かに、向かい合う三人へと移ろっていく。


エリザベート。

イグロス。

アーヴァ。


三大名家、それぞれの当主。

彼らはそれぞれの誇りを胸に、己が血脈の正統性を信じ、そして何より――邪神であるクトゥルを、誰よりも深く、誰よりも純粋に信じていた。


クトゥルは思う。


「(ここで、エリザベートたちに序列を付けたら…後々、三大名家同士で争いかねない……よし)


静かに目を閉じ、深く頷く。

覚悟を決めたのだ。

その選択が、神としての立場をさらに明確に示すものとなるだろう。


「……序列、か」


その一言が、重く場に響いた。


三人の当主たちは息を呑む。

誰もが、次の言葉を固唾を呑んで待っていた。

その口から発せられるひとつの音が、自らの立ち位置を、名家の運命を、そして神との関係を左右するのだと直感していた。


だがクトゥルは、静かに首を横に振る。


「我は――」


低く、穏やかに。しかし、揺るぎない意志を込めて言葉が紡がれる。


「序列を築くものは多い。だが我は、序列をつける必要はないと思う」


静まり返った空間に、思索の種が落とされる。


「必要…ない…?」


誰かの小さな声がこぼれる。

確かに、理解の及ばぬ神の言葉に、思考が追いつかぬ者もあろう。

しかし、クトゥルはためらわず、言葉を続けた。


「そうだ。序列など、我を信仰する上で不必要なもの…故に、我は序列を定めぬ。代わりに名を与えよう。」


その宣言は、宣告でも裁きでもない。

それは祝福のように、あるいは啓示のように響いた。


クトゥルはゆるやかに右手を掲げる。

その手には何も握られていない。だが、見る者によっては、そこに何か神秘的な輝きすら宿っているように映ったかもしれない。


再び訪れる静寂。


「三家を、今より《混沌の三契こんとんのさんけい》と定める。それぞれが異なる形で我を支え、我を呼ぶ。どれが上でも、どれが下でもない。我の信仰を形成する三本の柱だ」


神の宣言が下された。


その瞬間、空気がわずかに震えた気がした。

それは言葉が放つ重みのせいか、それとも神性が場に干渉したせいか。

とにかく、そこには確かに「何かが変わった」という感覚が存在した。


エリザベートは、その言葉の意味を受け止めるように、わずかに目を細めた。

そして静かに、深く頷いた。

自らの誇りと、信仰と、立場が保たれたことに、納得と忠誠の意を込めて。


イグロスは腕を組んだまま、ほんの一瞬だけ視線を外した。

その眼差しの奥には、得体の知れぬ熱が揺れていた。

だが、彼はすぐに顔を戻し、ふんと鼻を鳴らして頷いた。

言葉にはせずとも、その行為が忠誠の証明であることに、誰も異論はない。


アーヴァは小さく肩を揺らし、くすりと笑った。


「くふっ…悪くないぞい…」


その声音には、満足と共に、どこか面白がるような響きも混じっている。

そして、彼女もまた、肯定するように小さく頷いた。


次に、クトゥルの視線がゆっくりと移る。

今度は三大名家ではない、だが神に近しく仕える者たちへと。


「さらに、三契とは別に、ティファー、リュミエール、テネブル、ルドラヴェール。お前たちは混沌の中核として、我を支えろ。」


それは序列ではない。

だが、紛れもなく、明確な「位置づけ」だった。


神の意志により選ばれた役割――それは何よりの栄誉であり、同時に抗いようのない運命の枷でもある。


「……そのように分けることで、お前らの誇りも、信仰も、役割も――損なうことはない。」


静かな口調。

だが、そこには絶対が宿っていた。

否定を許さぬ、絶対の裁定――いや、裁定などという生ぬるいものではない。それはまさに邪神の掟だった。


誰も声を発さなかった。

いや、発することができなかった。

この場において、クトゥルの言葉は、世界の摂理そのものであったのだ。


そして、そのときを境に――。《混沌の三契》という言葉は、三大名家にとって新たな象徴となった。


その刻印は静かに、だが確実に、この世界の深層に染み渡っていく。

それはやがて、宗派の輪郭を定め、勢力の均衡を形づくり、

ひとつの信仰体系として、世界に波紋を広げ始めていくことになる。


すべては――この日、この瞬間、この邪神の一言から始まった。

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