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凱旋する邪神

東の空がまだ夜の名残をとどめ、鈍い紫のベールに包まれていた頃――静寂のなかを、七つの影が一列をなして進んでいた。


踏みしめるたびにきしむ氷の地面。樹々は霜に閉ざされ、枝葉の一片に至るまで白く凍りついている。

空気すら冷気に軋み、吐く息はすぐさま白煙と化し、霧のように流れていった。

まるで世界全体が、ひとつの古の呪いに覆われているかのようだった。


そのなかを進む彼らは、忌まわしき名を背負った者たち。

だが彼らの足取りは迷いなく、目指す先はただひとつ――かつての故郷、アビスローゼ家。


先頭を行くのは、ルドラヴェールにまたがる黒衣の影。

漆黒の髪、灰色に近い褐色の肌に鋭い眼光を宿し、その姿は小柄ながら、並ぶ者のない存在感を放っていた。

邪神――クトゥル。


彼の背筋は真っ直ぐに伸び、身じろぎ一つせず、まるで王の帰還を待つかのような気配をまとっている。


「(気持ち良い朝だ。実に気分が良いなっ!)」


心中では思わずはしゃぐような感情が踊っていた。

戦いを経てなお、その表情は変わらぬ冷徹さを湛えているが、その裏には勝利の余韻が広がっている。


ユ=ツ・スエ・ビルを支配していたもう一人の邪神、イグロス=クラゲインを打ち破ったばかりだった。


その圧倒的な力の差を見せつけた戦いを経て、クトゥルはこの地における脅威を一掃した。

もはや、彼の行く手を阻む者はいない。


そして今、彼を待つのは――

アビスローゼ家という名の居城における、優雅で自堕落な生活。

混沌の影を引き連れし旅路の果て、彼はそれをこそ、心から楽しみにしていた。


クトゥルのすぐ背後を歩くのは、エリザベートだった。

朝露の光を受けて揺れるその衣は、まるで星々を内包する深淵のようにきらめき、見る者の魂を魅了する。


彼女の瞳もまた、その黒の向こうにある存在――クトゥル――を慈愛と畏怖を込めて見つめていた。


「ふふ…朝日で輝くクトゥル様…何時にもまして神々しいです…」


微笑みを浮かべながら、エリザベートはそっと指を組み、静かに祈りを捧げる。

その姿はまるで神殿に仕える巫女のようであり、歩くたびに混沌のローブの裾が氷結した大地を滑るように揺れた。


その少し後方、やや距離を取った位置で、低く落ち着いた声が静寂を破る。


「再び、リュミエールと歩みをともにするとは思わなかったよ。」


声の主は、燕尾服をきっちりと着こなした男――テネブル。

かつてはイグロスに仕える四天魔のひとり、インプ族の中でも異彩を放つ存在だ。


歩くたびに肩にかかる紫の髪が風を撫で、燕尾服の裾がしなやかに揺れる。


彼の青い眼差しが横に流れ、ふと視線を合わせたのは、同じく青の双眸を持つ少女――リュミエールだった。

眼鏡の奥で光る彼女の瞳には、懐かしさと安堵、そして少しの照れが浮かんでいる。


「あたしだって、もう会えないと思ってたし。」


かつては離ればなれになった兄妹。

その距離は時の流れと運命によって引き裂かれていたが、今こうして、再び共に歩いている。


リュミエールは兄を見上げるようにして笑い、テネブルもわずかに目元を緩める。


クトゥルの背後を、まるでその存在を守るかのように静かに歩む男がいた。

氷に覆われた古道を軋ませる足音は重く、だが迷いはない。


彼の名はイグロス=クラゲイン。「氷獄の暴君」と恐れられた深海悪魔にして、クラゲイン家の当主。

かつては邪神を自称し、周囲を威圧で屈服させてきた男――だが今、その姿には明確な変化があった。


深緑の髪と触手を風に揺らしながら、褐色の肌を凍てつく朝日が鈍く照らす。

右の金の三白眼には、かつての猛り狂う焔はもはやなかった。

代わりにそこには、前を行く真なる邪神クトゥルへと向けられる、熱のこもった敬慕の色が宿っていた。


その心の変化に呼応するかのように、大地の氷がひび割れを起こす。

みしり……と鈍い音が足元から広がった。亀裂が、静かに冷気を吐き出しながら走る。


「…む…?。見るぞい…氷が解けていくぞい…」


その変化を誰よりも早く気づいたのは、最後尾のアーヴァだった。

灰青の髪を揺らし、マロ眉の下に輝く瞳を細める。

角のある耳がぴくりと動き、青の尻尾が喜びを表すようにゆらりと振れた。


彼女の言葉に呼応するように、遠くの林に張り付いていた樹氷がぱきぱきと割れ、霧の向こうから枝葉が姿を現す。

まるでこの凍てついた世界そのものが、イグロスの忠誠の転換を感じ取り、ゆっくりと新たな主を迎えるために氷の鎧を脱ぎ捨てているようだった。


「これぞ、本来のユ=ツ・スエ・ビルじゃな…」


アーヴァはうっとりとした表情で呟き、軽やかな足取りで割れた氷を踏みしめていく。

まるで冬眠から目覚めた竜のように、生き生きとした気配を身にまとっていた。


そのとき、イグロスがふと立ち止まり、小さく口を開いた。


「…俺様の力は、クトゥル様の歩む道を、開くためにある。」


その言葉に込められたのは、かつて見せたことのない純粋な忠誠心だった。

彼は視線をそっと前方に送る。そこには黒髪の小柄な背中。クトゥルの姿があった。


しかし、返ってくるのは沈黙だけ。

クトゥルは振り返らず、ただ一言、小さく頷いた。


その頷きがどれほどの重みを持つか、誰もが理解していた。

言葉はいらない――その所作だけで、すべてが伝わるのだ。


…ただし、エリザベートたちは知らなかった。

クトゥルが実は何も聞いておらず、ただ気分よく頷いただけなのだということを。


沈黙が再び訪れた。

けれど、それは冷たいものではない。張り詰めた空気ではなく、何かが始まろうとする前の柔らかな静けさ。


春の訪れのように――

夜明け前の、芽吹きを孕んだ静寂だった。


七つの影が、霧の裂け目を縫いながら進んでいく。

朝の光が、ついに夜の残滓を押し返し、世界を照らしはじめる。


その先に見えるのは、かつての誇り。

そして、血に染まった過去を持つ屋敷――アビスローゼ家。

氷に閉ざされた時の狭間で、彼らの帰還を待ちわびているかのように、静かにその姿を現し始めていた。


空を覆っていた薄雲が風に流され、やがて淡い光が大地に降り注いだ。

夜の名残がほんのりと残る中、朝の光は確かに新たな一日を告げていた。


そのとき――ソーンベルの外縁に、異様なほど荘厳な門が姿を現す。

漆黒と深紅が交わるその構造は、まるで夜と血の意志を象徴しているかのようだった。

風雪にも負けぬよう施された魔術結界によって、石畳は常に自浄され、灰銀色の光沢を失うことはない。


その静謐な道は、まるで神殿の参道のように荘厳に延び、凛とした空気の中を貫いて門前へと至っていた。


すべては、帰還者を迎えるための準備だったかのように。

その道に刻まれる足音は、静寂の中にやさしく、しかし確かな重みでこだました。


門の前に、ひとりの男が立っていた。

灰茶色の毛並みを持つ犬系の獣人――カルド。

彼はこのソーンベルの最前線を守る者であり、アビスローゼ家に忠誠を誓う忠義の武人だった。


その鋭い耳が、音もなく動く。

鼻先に微かな魔力の変化が触れた瞬間、反射的に尾が立ち上がった。


視線の先に、七つの影が揺れていた。 

霧を払いながら、静かに、しかし確実にその存在を強めて門へと近づいてくる。


カルドは目を見開いた。

その先頭に立つのは、ローブに身を包んだ麗人。紅玉のごとき瞳をまっすぐに門へ向ける、威厳に満ちた姿。


「…エリザベート様……!」


声が自然と喉からあふれ出た。

カルドは膝を折り、頭を深く垂れた。

それは単なる儀礼ではない。魂の奥底から湧き上がる、純粋な忠誠と歓喜の表れだった。


「顔を上げなさい、カルド。私は…私たちは戻ったわ」


エリザベートの声音は、まるで鍛えられた鋼のように冷徹でありながら、芯には柔らかな温もりを孕んでいた。

彼女の言葉は、揺るぎない誇りと、家への深い想いをそのまま響かせるものだった。


その瞬間、門に張られていた魔法障壁が震えた。

エリザベートの魔力波長を検知した門は、忠実な従者のように応え、淡く光を放ちながら音もなく動き出す。


重厚な扉が、静かに、荘厳に開かれていく。


「ほぉ…ここが、アビスローゼ領の門か…中々立派じゃねぇか」


その言葉とともに、一人の男が足を止めた。

姿勢は猫背、両手は無造作にポケットへ突っ込まれている。

粗野な態度とは裏腹に、その背中からはただならぬ圧が滲み出ていた。

イグロス=クラゲイン――かつて「氷獄の暴君」と恐れられた深海悪魔にして、クラゲイン家の現当主。

金色の三白眼が、漆黒と深紅の門を見上げ、口元には小さな笑みを浮かべる。


「まっ…俺様のクラゲイン領には劣るがな…」


余裕と自負に満ちたその声に、門前にいたカルドがぴくりと反応した。


「そ、そちらは……っ!」


言葉を途中で呑み込む。

その目は驚愕に見開かれていた。


まさしくそこに立っていたのだ。

あのクラゲイン家の当主が――エリザベート様のすぐ背後を、まるで従者のように歩いているではないか。


かつて名を聞くだけで戦意を喪失する兵もいたという存在。

巨大な氷触手を自在に操り、冷酷非道をもって知られた深海悪魔。

その男が今、波打つように氷を纏った触手を静かに揺らしながら、何の抵抗も示さず、黒装束の少年――クトゥルの傍らに侍っていた。


「ククク…安心しろ。此奴は我の配下。貴様に危害は加えん」


冗談とも本気ともつかぬ口調で、クトゥルが笑う。

その言葉に応じるように、イグロスもにやりと笑い、


「ま、よろしくしてくれよぉ」


と気軽に言い放った。


「……なんてことだ。クラゲイン家の当主が…!」


カルドの声が震えた。

信じ難い光景を前にして、目を背けることもできない。

だがその震えは、やがて畏怖ではなく、別のものへと変わっていく。


カルドは悟ったのだ。

この少年――クトゥル。

彼こそが、エリザベート様が「唯一、跪くに足る存在」と語った、真なる異形の神。


その名を、かつてはただの伝説としか思っていなかった。

だが今――現実が、それを否応なく認めさせる。


カルドの背筋が自然と伸び、胸を張る。

忠義を尽くすべき主は、確かにここに帰ってきたのだ。


門が完全に開かれた瞬間、ソーンベルの内部がその全貌を現す。 

紅と黒を基調とした重厚な装飾。

街の至る所に点在する魔力結晶が柔らかく輝き、幻想的な光を撒き散らす。

空には飛翔する魔獣たちの影が舞い、城館の尖塔からは長く伸びた旗が風にはためいていた。

 

その異変に、遠くの屋敷の窓がひとつ、またひとつと開く。

朝の静寂を破るように、ざわめきが生まれた。

誰もがその気配を感じ取っている――この街の主が、帰ってきたのだと。


やがてそのざわめきは波紋のように広がり、

ソーンベル全域を、ゆっくりと、確実に包み込んでいく――


石畳に触れる靴音が、静かに――されど確かに響いた。

まだ朝靄の残るソーンベルの大通りに、その音は異様なまでの存在感を刻んでゆく。


先頭を歩むのは、漆黒の衣を風に靡かせたクトゥル。

その歩みは悠然として揺るぎなく、まるでこの街全体が彼のために道を開いているかのようだった。


そのすぐ後ろを、気高き姿で追随するのは、アビスローゼの姫君――エリザベート。

深紅のローブが美しく翻り、彼女の足取りには威厳と品位が滲んでいた。

その瞳に映る光は、朝の光彩だけではない。

彼女自身が抱く誇り、信念、そして決意がそこに宿っている。


その二人に続くのは、かつて敵として剣を交えた者たち――

筋骨たくましく、冷気を纏う異形の体躯を持つイグロス=クラゲイン。

そして静かなる闘志をその瞳に宿した、元幹部テネブル。


彼らが従者として歩を揃えていることに、誰もが目を見張った。


ソーンベルの住民たちは、目の前の光景に言葉を失い、やがて無言のまま道の脇へと身を引く。

立ち尽くす者、震える手で胸に十字を切る者、そして――静かにひざまずく者すらいた。


それは恐怖からではない。

敬意。畏怖。信仰にも近い感情が、この行進に込められていた。


「エリザベート様…」


「邪神様が……」


「あの者はクラゲインの……」


呟きが、囁きが、祈りにも似た声が次々に漏れる。

その一つひとつが波紋のように広がり、街全体を包んでいった。


朝の風が静かに吹き抜ける。

ざわめきの中に熱が灯り、ソーンベルの住民たちは、ただ無言のままその姿を見つめる。

あたかも神話の再臨を目の当たりにしているかのように――


街は静かに、だが熱狂を孕みながら、

真なる主たちの帰還を、心の底から迎え入れていた。


空を翔ける魔獣、エアリオーンの影が、ゆるやかに旋回しながら朝の陽光のなかを滑ってゆく。

その翼が風を裂く音とともに、ソーンベルの上空には静謐な祝福の気配が満ちていた。


街の中心にそびえる塔の尖端では、埋め込まれた魔力結晶が淡く光を帯びる。

深紅と紺碧が交じる神秘的な光――

それはまるで、街そのものが彼らの帰還を歓迎し、祝福しているかのようだった。


やがて、行列の先頭がアビスローゼ邸の前庭へと到達する。


赤と黒が混じったバラ――アビスローゼが咲き誇る荘厳なる庭。

彩られた花弁が、朝露を纏いながら、まるで主の帰還を待っていたかのように美しく咲き乱れていた。

その先――正門の前に、一人の騎士が静かに立っていた。


ティファー。


鋼のように引き締まった背筋。

磨き上げられた銀鎧が陽の光を反射し、燦然と輝く。

プラチナブロンドの長髪は高く束ねられ、ポニーテールとなって後ろに流れていた。

その立ち姿はまさに騎士そのもの――気高さと誓約の具現。


ティファーの瞳には、数多の戦場をくぐり抜けてきた者にしか持ち得ぬ強さと、

それでもなお人の心を信じる温もりが宿っていた。


クトゥルを神として信奉する女騎士にして、かつては神を嫌う背信者。

そして今回、代表戦の座をリュミエールに譲った本人でもある。


彼女は無言のまま、一行を出迎えていた。

その表情は厳格でありながら、どこか誇らしげで。

かつて育て上げた若き芽が、いま花を咲かせて戻ってくるのを、見守る者のそれだった。


「ティファーよ。帰ったぞ」


その声に、ティファーの背筋がさらに伸びる。

クトゥルの言葉に応え、彼女は胸に手を当てて深く頭を垂れた。


「おかえりなさいませっ。クトゥル様っ」


その声音には凛とした敬意があった。


「頭を上げよ。リュミエールと気持ちを分かち合いたいだろう…?」


クトゥルの視線が、彼の背後で落ち着かずに身を揺らしていたリュミエールを捉える。


「――ティファーさん!」


その許しに気づいたリュミエールが、抑えきれない想いを小さな叫びに変えて、一歩前へと歩み出た。

その瞳は光を湛え、感情が溢れ出していた。

誇りと喜び――そして、どこか子どものような純粋な輝き。


「勝ったわ。クトゥル様たちも、あたしも。ちゃんと……この手で、守ったの」


ティファーの双眸が揺れた。

それは戦場の冷徹を知る者が、心から信じた若き者の言葉に心を動かされた証。


「……見事だ…っ。リュミエール…!」


声が、震えていた。


鉄のような意志で己を律してきた騎士の頬に、一筋の涙が流れる。

それは、長き忠誠と責務の果てに見た、奇跡の瞬間だった。


「私が代表戦の座を譲った甲斐があったものだっ!」


「ふふ……泣いてるの、ティファーさん?」


リュミエールは小さく笑いながら、そっと彼女の手を握る。

その手のひらの温もりに、ティファーは確かな成長と、なによりも確かな勝利を感じ取った。


「うるさいっ、これは……感涙だっ!」


どこか照れくさげに怒鳴り返すその声に、二人の絆が、静かに、確かに結ばれていく。


邸の門の奥、黒薔薇の香りが風に乗って揺らめいた。

 それはまるで、彼女たちの未来を祝福するかのように――




―――




イグロスとテネブルが仲間になってから翌日。

クトゥルは、イグロスを連れある小さな村へ足を運んでいた。


「クトゥル様…ここが例の村ですか…」


粗暴な口調のイグロスだが、クトゥルに対しては、口調も姿勢も正し丁寧に直し辺りを見渡していた。


それは、氷に閉ざされた村だった。

未だ、凍りついた家々、崩れた街道。息絶えた魔族たちの影が、今もなお地に残る。


だが、生き延びた者はわずかにいた――獣人の親子だ。


イグロス=クラゲインは、歯噛みするような表情で瓦礫を踏みしめる。


「そうだ。クラゲイン家の従者と名乗る魔族がした所業だ…(話しを付けないとな)」


「……あいつら……」


その声は低く、普段の傲慢さを殺した冷ややかな怒気に満ちていた。

彼が言うあいつらとは、クラゲイン家の名を使い「従者」名乗った、この村を氷漬けにした犯人たち。


イグロスの配下の一人――いや、かつてそうだった魔族である。


「俺様が命じてねぇにも関わらず、勝手に村を襲いやがって……おまけに、俺様の名まで使いやがった。いい度胸だよなァ?」


だがその魔族――元・従者は、クラゲイン家が敗北したと知るや否や、クラゲイン家を見捨て、他の仲間の魔族たちと共に行方をくらませていた。


「…他の連中もだ。敗け犬の尻尾振ってた奴らは、まとめて逃げやがった。俺様の顔に泥を塗った上に、後始末すら残しやがるとはな…」


イグロスの背後で、砕けた氷の欠片が小さく跳ねた。触手がわずかに動き、地を穿つ。

彼の左目に残る火傷の痕が、じんわりと痛む。


ふと、残された親子の姿が目に入る。小さなウサギ型の獣人の子どもミレルが、イルメナの腕の中で震えていた。


彼女は、鋭い視線を向けるが、恐怖からか子を守るようにするだけで、向かってはこなかった。


イグロスは、眉を顰めたまま、しばし彼女らを見つめ――やがて、ぽつりと呟いた。


「逃げられたからって……責任が消えるわけじゃねぇ。俺様の名が、てめぇらに地獄を見せたってんなら……そのケツは、俺様が拭くしかねぇだろうが…」


いつものような尊大な口調でありながら、そこには確かに、自身の名に対する責任と誇りがあった。



―――



「何してきたのでしょうか…?」


壊れた家屋の影に、白い毛並みが風に揺れていた。


雪解けの泥に足を取られながら、白うさぎ獣人イルミナは、崩れた井戸の縁に腰を下ろしていた。その瞳には疲れと怯え、そして――強い拒絶の色があった。


「クラゲイン…様…」


目の前には、クラゲイン家の当主――イグロス=クラゲイン。


背筋を伸ばし、腕を組んだまま、彼は静かにイルミナを見下ろしていた。

だが、そこにいつもの傲慢さはない。怒りでも、優越でもない。ただ、確かな責任の色がある。


「……支援を申し出たい。…材料も、労働力も、食糧も金も、クラゲイン家がすべて用意する。」


短く、低く、イグロスは言った。


イルミナは無言のまま立ち上がると、強い目で睨み返した。


「……ふざけないでくれますか…?。村をこんなにしたのは、あなたの˝家˝ですよ…?」


声が震える。だが、それは恐怖からではない。


「確かに…俺様の家の関係差がやったことだ…何でもしよう…」


「何でも…ですか。なら、夫を蘇らせて下さい。」


「っ…それは」


――いくら、名家でも死者を生き返らせることは不可能だった。


「村の人々。生き返らせて下さい…」


彼女の言葉に、イグロスは目を伏せた。左目の火傷が、今も焼き付けるように疼く。


「できないですよね…?よくも、よくもそんな顔で……!」


「確かに蘇らせるのは…無理だ。…だから、俺様は……けじめをつけに来た」


「けじめですか…?仲間を凍らせた代わりに、物をよこせばいいとでも?」


イルミナの声が、乾いた風に乗って広がった。


そんな二人の間に――ひとつの影が、音もなく立つ。


「ならば……˝命˝で返すとでも言えば納得するのか…?」


静かなる声。それは、影の主――クトゥルだった。


「クトゥル様…」


イグロスとイルミナ、双方が息を飲む。


「奇跡的にお前たちは、生き残った。そして、この男もまた、己の家を恥じている。……ならば、与えようではないか。…償いの刻を」


静かに響いたその声に、場の空気が変わる。


漆黒の衣をまとう異形の存在――クトゥルが、静かに歩を進める。

靴音は雪の大地に吸い込まれるように、ほとんど響かない。

だが、その一歩ごとに、空間に重圧が生まれ、見る者すべての心を縛り付けていった。


「我の名にかけて、この男に誓わせる。˝この地の再建こそ、我が魂の贖い˝と」


その言葉と共に、クトゥルはイルミナの前で静止した。

赤い瞳を見上げ、イルミナはわずかに目を見張った。


彼の声音は、まるで氷で包まれた泉のように静謐で、美しい。

そこに宿る冷たさすら、妙に心を震わせる。


「この男は、我を知り、膝を折り、その愚かさを悔いた者だ。我が命ずれば、イグロスは死をも選ぶだろう。だがお前が求めるのは˝血˝ではあるまい?」


ゆるぎない声だった。

絶対者としての断言でありながら、どこか相手の心に寄り添うような奇妙な響きも孕んでいた。


イルミナは、しばしその言葉を受け止め――やがて、唇を強く噛みしめ、視線を伏せた。


そのとき、不意に視界の端に小さな気配が入る。

気付けば娘のミレルが、そっとクトゥルの足元に立っていた。

少女は、無言のままイルミナを見上げる。その目は、何も語らず、ただまっすぐだった。


クトゥルはゆるやかに微笑み、そっとミレルの頭を撫でた。

その仕草は、まるで混沌の主とは思えぬほど優しかった。


撫でられたミレルは、目を細めてその手のぬくもりを受け止めていた。

そこには怯えも怒りもなく、ただ落ち着きと信頼のような感情だけがあった。


「……もし、本当に……心から、死んだ方たちに謝りたいって思うのなら…」


ミレルはイグロスに向き直り、真っ直ぐに見つめた。

その眼差しには、幼さを超えた強い意志が宿っている。


「――この村を、元どおりにして。それがどれだけ時間がかかっても、あなたがやり遂げて下さい。でなきゃ、あなたのこと……絶対に許しません。」


イグロスは、ふっと鼻で息をついた。

その表情に嘲りも怒りもなかった。

ただ――己の責を受け止める者の、静かな覚悟だけがあった。


「当たり前だ。言われなくても、俺様が始めたことだ。死ぬまで責任は背負ってやる」


短くそう言い放つと、彼は振り返ることもなく、すぐさまクラゲイン領にいる魔族たちに作業の指示を出し始めた。


イルミナは、その背中をただ黙って見つめていた。

言葉はなかったが、その瞳に宿るものは確かに変化していた。

彼女は、そっと空を仰ぐ。


冬は、まだ終わっていない。

大地には凍てついた名残が残り、空気の中にも冷気が混じっている。

だが――風は確かに、春を孕んでいた。


「(丸く収まった、俺はエリザベートの家でニート生活満喫しようっと…)」


呑気に今後の生活を考えるクトゥル。

しかし、彼の考えが甘かったと気づくのは、今から数日後だった。


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