混沌の旅路
――夜明け前の静寂を切り裂くように、空が紅に染まった。
朝焼けの光が、黒く焼け焦げた大地に長い影を落とす。
風が吹くたびに灰が舞い上がり、焦げた肉の臭いが鼻を突いた。
かつてこの地には、人々の笑い声と家畜の鳴き声が響いていた。
しかし今は、そのどちらも存在しない。
崩れ落ちた建物の残骸が、むき出しの地面を覆っている。
黒く変色した瓦礫、炭と化した木造の支柱、ねじ曲がった鉄骨。かつて家を支えていたものは、今や無惨に砕け散り、ただの瓦礫と化していた。
この街の名はシセエカーポ――畜産業に秀でた町…だった。
栄えた町の象徴だった市場は焼け落ち、牛や羊の姿はどこにもない。ただ、焦げた骨と焼き尽くされた肉片がそこにあるだけ。
そして、最も目を引くのは、地面に広がる焼け焦げた人影だった。
かつて、そこに立っていた者の輪郭が、黒く刻まれている。
誰かの足跡の途中で、影が途切れていた。
その者は何かに気づき、逃げようとしたのだろう。
だが、その先にあるのは焼け落ちた建物の一部と、焦げた腕の残骸だけ。
辛うじて形を留めた肉片が散らばり、生々しい血の臭いが漂う。
風が吹くたび、廃墟に木片がぶつかり、不吉な音を立てた。
ここはもう、生の営みが存在しない――死の領域だった。
「ここが…シセエカーポだった町か…」
荒廃した大地の中心に、一つの影が立っていた。
銀髪をなびかせ、右腰に日本刀のような武器を携えた男――エドワール・レティウス。
彼は静かに焼け焦げた大地を見渡しながら、瓦礫の間を歩いていた。
歩く度、手首の黒鉄のタグが揺れ、埋め込まれたダイヤモンドがキラリと輝く。
彼は、ティルナモのダイヤモンドクラス冒険者、20代という若さながらその名に恥じぬ風格を備えた男だった。
その姿は、絶望と死が支配するこの場所にはあまりにも場違いなほど、堂々としていた。
白金の鎧が朝の光を受けて鈍く輝き、宝石のような銀髪を引き立たせる。
踏みしめるたびに、炭と化した木片が崩れ、乾いた音が響く。
エドワールはゆっくりと膝をついた。
焦げた土に指を伸ばし、そっと撫でる。
「……」
ざらついた感触が、指先に残る。
泥と煤が指先を汚し、1週間前に起こっていた惨劇を物語っていた。
これはただの破壊ではない。
理不尽な暴力――否、狂気そのものが刻まれた痕跡だった。
エドワールの碧い瞳が細められる。
「…実に…信じがたいな」
その呟きは、かき消されるほど静かだったが、滅びの大地に深く沈んでいった。
ティルナモで、邪神が復活したと仮定していた彼だが、邪神の復活など、ただの噂話に過ぎないと思っていた。
古今東西、滅びの地には決まって「邪神」や「呪い」の逸話が付きまとう。
それらは不安を煽り、恐怖を生むための方便にすぎない。
だが――この惨状は、それを否定するにはあまりにも現実的すぎた。
瓦礫の山の向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。
「……ここが、シセエカーポ…だった町……凄まじいですね。」
透き通るような水色の髪が、朝日に照らされ美しく輝き、濃い紫色の瞳が静かに、エドワールを見つめていた。
彼女の名前は、カトリーヌ・ラフィネ――エドワールと同じく、ティルナモのダイヤモンドクラスの冒険者の一人だ。
エドワールを深く慕い、幾度となく戦場を共に駆け抜けてきた相棒でもある。
エドワールの鎧に似せた白銀の鎧には、一点の汚れもない。
冷静さを装っているが、その指先がわずかに震えているのをエドワールは見逃さなかった。
「エドワール様、どう思われますか?」
彼女の声は、静けさの中で驚くほど澄んでいた。
エドワールはゆっくりと立ち上がる。
燃え尽きた大地を見渡しながら、ひとつ息を吐いた。
「……『邪神の復活』。まるで子供向けの寓話だが……」
焼け焦げた鉄屑を足で転がし、土に残る無数の影を見つめる。
これが単なる戦争の爪痕であれば、どれほど気が楽だっただろうか。
彼はゆっくりと目を閉じ、そして開く。
「これを見て、それでも否定できるほど私は愚かではない…。」
「…」
遠く、陽の光が地平線を染める。
その朝日は、絶望の大地にも容赦なく降り注ぐ。
カトリーヌの指が、わずかに震えた。
彼女は気丈に振る舞おうとしているが、その紫水晶のような瞳の奥には、隠しきれぬ恐怖の色が滲んでいる。
「ほ、本当に…邪神が復活したと…?」
彼女の声は、冷たい風に乗って微かに揺れる。
「そうだ…」
エドワールの碧眼が、鋭く光った。
風が吹き荒れ、彼の銀髪が無造作に揺れ頬を撫でる。
「この力の片鱗を感じただけでも、私の身体は本能的に拒絶している…」
彼の言葉には、一切の誇張も虚勢もなかった。
ただ、純然たる事実がそこにあった。
「エ、エドワール様でも…?」
「…あぁ…」
エドワールは、ティルナモ――いや、世界の冒険者の中でも頂点と言っても過言ではない。
その彼を恐怖させたことに、カトリーヌは息をのむ。
焼け焦げた瓦礫の隙間から、見え隠れする黒ずんだ骨。
それは人のものか、あるいは……家畜のものか。
「……」
言葉が出ない。
恐怖という感情は、時に沈黙を生む。
エドワールは静かに息を吸い、冷静な声で続けた。
「正直に言おう…カトリーヌ」
その声音は、静謐でありながら、どこか張り詰めていた。
彼は、焼け焦げた大地に視線を落とす。
そこに刻まれたのは、単なる破壊ではない――圧倒的な何かが通った痕跡だった。
「もし本当に、この地に邪神が蘇ったのなら――私たちの知る戦いとは別次元の話になるだろう。」
「それは…」
「…闇雲に攻めたとしても…一方的な戦いになるだろう…。邪神側の、な…」
カトリーヌは唇を噛み締めた。
冷たい風が焼け焦げた瓦礫を撫でるように吹き抜け、灰がゆっくりと宙を舞う。
紫の瞳が、微かに揺れた。
「……ならば、どうするおつもりですか?」
彼女の問いかけは、鋭さを帯びていた。
焦りではない。
恐怖に流されることなく、確かな意志を持って問いただしている。
エドワールはふと、静かに空を仰いだ。
紅く染まりつつある空は、どこまでも広がっている。
その視線の奥で、彼は何かを思案しているようだった。
「…まずは、事実を確認し、判断する…」
「判断……?」
「そうだ。まず、この惨劇を招いた…存在を見つける…私たちの役目は戦闘もそうだが、ただ敵を討つことではない」
エドワールの声には、一点の迷いもなかった。
それは、長き戦いの果てに培われた覚悟そのものだった。
彼の瞳に宿るのは、確固たる意志。
それは剣よりも鋭く、魔法よりも強固なもの――ティルナモのダイヤモンドクラスの冒険者としての矜持だった。
「この世界の未来を選択するために、真実を知る。それが冒険者の務めだ…もちろん…勝てる算段があるなら討つがな…。」
エドワールがほほ笑む。鋭く切れ長の碧眼がカトリーヌの姿を映す。
一瞬の静寂。
やがて、カトリーヌの唇が、僅かに緩んだ。
彼女はふっと微笑む。
「ふふっ…エドワール様らしい」
その微笑みは、確かな信頼の証だった。
吹きすさぶ風が灰を舞い上げる。
燃え尽きた街の残骸を越えて、新たな時代の胎動が――
彼らの前に、静かに幕を開けようとしていた。
―――
死者の荒野に、影が三つ。
荒涼とした荒野がどこまでも広がる。
砂漠のように乾ききった地表には、無数の亀裂が走り、まるで大地そのものが呻き声をあげたかのように口を開いていた。
まばらに生えた草木。見渡す限りの灰色の景色。
遠くで風がうねり、乾いた塵を巻き上げる。
空には鈍色の雲が低く垂れこめ、陽光すらも鈍く遮られていた。
薄暗い地。
まるで生の気配すら失われたかのようなこの地を、一頭の魔獣が歩いていた。
魔獣ティグリス・グラディウス――名をルドラヴェール。
漆黒の縞模様に赤い毛並みを持つ、巨大な魔獣。
四肢はしなやかでありながらも、鋼のごとく強靭。尻尾はまるで刃のような光沢を放っている。
彼の背には、二つの影があった。
ひとりは、黒髪、黒の瞳を持つ浅黒い肌の青年。
クトゥル――今は仮初の人の姿だが、元に戻れば見た目だけは、最強の邪神である。
荒野を見据え、大股でルドラヴェールに跨り、堂々たる姿勢を取っている。
その後ろには、漆黒よりもなお暗く長い黒髪を持ち、絶世の美貌を備えた吸血鬼が優雅に座していた。
彼女こそ、真祖の吸血鬼、エリザベート。
その表情は、どこまでも冷たく、気高い。
まるでこの荒野そのものが、彼女の庭であるかのように。
「(……ふふん、こいつ、かなり便利だぞ)」
内心では小躍りしたいほどの快適さを享受しつつも、クトゥルは邪神らしく振る舞うことを忘れなかった。
威厳たっぷりに腕を組み、ゆっくりと目を閉じる。
背中をまっすぐ伸ばし、どこか神秘的な沈黙を貫く。
――さながら、深遠なる邪神。
そして、その様子を見た二人は――またしても、勘違いした。
「……ナント荘厳な御姿……!」
ルドラヴェールの声が震えた。
その目には、感動すら滲んでいる。
「コノ圧倒的ナ神威……!マサニ邪神……!」
「神々しいですっ。クトゥル様っ!」
エリザベートは恍惚とした表情で、恭しく頭を垂れる。
「(……いや、ただ乗ってるだけなんだけど……)」
クトゥルは内心でツッコミながらも、邪神の威厳を保つべく、ただ静かに頷いた。
―――
ルドラヴェールは、背に乗る主と信者に向けて、低く問うた。
「我ガ主…エリザベート殿……乗リ心地ハ、ドウデショウカ…?」
エリザベートは足を組み、ゆるりと顎に手を添える。
その仕草すら、貴族然としていた。
黒き長髪が彼女の肩を滑り、風に遊ばれる。
その指が、無意識のうちに髪をくるくると巻き取る。
エリザベートは、微かに揺れるルドラヴェールの背で、ゆったりとした姿勢を崩さぬまま呟いた。
「……ちょっと揺れるのが気になるけど、まぁまぁね…」
その声音には、不遜とも取れる気だるげな響きが含まれていた。
ルドラヴェールは、わずかに目を伏せる。
彼は魔獣の王――かつて多くの存在を踏みしだき、その背に乗ることを許した者は一人としていなかった。
背に乗ること、それはすなわち、彼の覇道の象徴であった。
しかし、今こうしてクトゥルとエリザベートを背に乗せ、そのうちのひとりからの評価が――
『まぁまぁね』
何かを言うべきかと迷い、しかし、すぐに気づく。
エリザベートの視線は、自分ではなく――
クトゥルへ向けられている。
ルドラヴェールの緑色の瞳が、ほんの一瞬細められた。
「(……彼女二トッテ重要ナノハ、ヤハリ、コノ御方ナノダナ。)」
彼の中にわずかばかりの屈辱が過ぎるが、同時に確信する。
エリザベートにとって、自分はあくまで『移動手段』にすぎない。
しかし、それでよい。
彼が忠誠を誓ったのは、彼女ではなく――
邪神クトゥル、その御方なのだから。
ルドラヴェールは、静かに息を吐くと、さらに安定した歩みへと切り替えた。
その行動が、誰に向けられたものなのかを悟られぬように――。
一方、クトゥルはエリザベートの言葉を聞きながら、
「(ちょっと待て、今の評価なんか微妙じゃないか!?)」と内心焦っていた。
「フッ…ルドラヴェールよ。我は気に入ったぞ…」
クトゥルは、ルドラヴェールをフォローするため腕を組み、満足げに頷く。
彼が頷いたのを見た、ルドラヴェールは、耳をぴくっと動かすと尻尾を揺らし嬉しそうにしている。
「ア、アリガトウゴザイマスッ…我ガ主っ」
「…っ…はいっ。クトゥル様の言う通りですっ。素晴らしい座り心地ですっ。…ルドラヴェール…感謝しなさいっ…」
「……」
先ほど、打って変わって態度を変える180度変えるエリザベート。
ルドラヴェールは、あきれているのか無言で歩き続けた。
―――
ルドラヴェールの広い背の上、乾いた風が吹き抜ける中で、クトゥルはふと二人の眷属を見やった。
エリザベート。
彼女の長く流れる漆黒の髪は、まるで夜の闇そのもののよう。
吸血鬼――真祖の名を冠しながら、邪神を信仰する存在。
エリザベートは、静かに目を閉じると、唇に微かな笑みを浮かべた。
その仕草すらも、どこか神秘的で、邪悪な魅力に満ちている。
そして、ルドラヴェール。
その巨体は堂々とした威圧感を放ちながら、揺るぎない足取りで荒野を進んでいる。
エメラルドグリーンの瞳は、暗い輝きを秘め、しなやかな筋肉を覆う黒の縞模様が赤みを帯びた毛並みに映え、サーベルタイガーを彷彿とさせる。
希少で強力な魔獣でありながら今、彼はクトゥルの従者として、主の運命を共に歩んでいる。
クトゥルは、ゆっくりと腕を組んだまま、二人の姿を見つめる。
「(……いや、ちょっと待てよ)」
彼の心の中で、小さな疑問が芽生えた。
だが、それを言葉にすることなく、彼はただ、さらに深く思索の表情を浮かべる。
風が再び吹き抜け、彼の黒髪を軽く揺らした。
「(改めて考えると、すごい奴らが仲間になってるな…)」
後ろに真祖の吸血鬼。
下には、巨大な魔獣ルドラヴェール。
大地を踏みしめるたび、周囲の砂塵が微かに揺れ、彼の圧倒的な存在感を誇示する。
クトゥルは無意識に唾を飲み込んだ。
彼らはただの強者ではない。
世界の最上位に位置する異形の覇者たちだ。
本来ならば、クトゥルが挑んでも敵わないような存在。
それが今、こうして己の従者として控えている。
ルドラヴェールは一歩ごとに堂々たる足取りで荒野を進み、エリザベートはまるで王の玉座に腰掛けるかのように優雅に振る舞っていた。
その背に座るクトゥルは、無意識に頬を緩める。
「(……なんだこれ、実質、チート能力得た感じで最高じゃんっ)」
熱い喜びが胸に広がる。
まさかこんなにも充実した転生ライフを送れるとは、夢にも思わなかった。
だが、クトゥルの脳内に最悪な未来がよぎる。
「(…けど…も、もしバレたら?)」
彼の本当の力が、ただ「音を出せる&変身できる」だと知られた時。
この最強クラスの信者たちは、果たしてどうするのか…?
クトゥルの背筋を、一瞬だけ冷たい悪寒が走った。
「…クトゥル様…いいえ…これが私の信仰する邪神様?…ありえません…死になさい…ゴミが…」
――エリザベートの黒き雷が、天を裂く。
漆黒の魔力が天空を貫き、クトゥルの体を焼き焦がす。
「グルゥッ…コノ俺ガ、コンナ雑魚相手二従ッテイタナド…アリエンッ…死ヌガ良イッ!ガオォッ!!」
――ルドラヴェールが咆哮し、巨大な牙を突き立てる。
漆黒の縞模様を持つ魔獣の牙がクトゥルの異形の肉を引き裂き、臓物が乾いた大地にぶちまけられる。
尊敬も忠誠も、一瞬で霧散する。
『お前、全然強くないじゃん…死ね…』
冷たい言葉とともに見限られ、次の瞬間には存在ごと消し飛ばされるのではないか。
「…(やばい……!)」
クトゥルの全身が小刻みに震えた。
自らの運命を思うと、寒気が止まらない。
「(やばい、やばい、やばい……!考えたくない!!)
フルフルと震えるクトゥル。
だが、その様子を目の当たりにした二人の眷属は、まったく異なる解釈をしていた。
エリザベートの漆黒の唇が、うっとりと艶やかに開く。
「……クトゥル様…武者震いですね。今この瞬間すらも戦いを想定しておられるとは……」
その言葉に、ルドラヴェールが低く唸りながら頷く。
エメラルド色の瞳が真剣に細められ、尊敬の光を宿していた。
「……全身ガ震エテイル。コレハ、マサシク、神ノ昂ブリ……!」
エリザベートは瞳を恍惚と輝かせ、さらに言葉を重ねる。
「その通りよ。ルドラヴェール。クトゥル様は、あまりの闘志に身体が震えてしまっているのっ!」
ルドラヴェールは深く頷いた。
「……グルッ…ナルホドっ!」
クトゥルの震えは止まらない。
しかし、それは畏怖によるものではなく、武者震いの証と捉えられていた。
エリザベートは狂信的なほどに恍惚とした眼差しでクトゥルを見つめる。
「常に戦意を高めるその姿勢…私たちも見習わないとっ…」
ルドラヴェールも、頷く。
「……ウムッ!」
クトゥルの震えは止まらない。
しかし、それは違う意味で信仰の炎をさらに燃え上がらせていた。
「(……な、なんかすごい誤解されてるけど…ま、まぁいいか!!)」
内心で必死に開き直るクトゥル。
彼の偽りの神話は、またひとつ厚みを増したのだった。




