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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑳


静寂が、まるで霧のように場を包んでいた。


誰もが動けずにいた。誰もが声を失っていた。

そしてその視線は、ただ一人の男――クトゥルに注がれていた。


畏敬。驚愕。恐怖。

混沌のレガリアという絶対的な拘束を跳ね除けたその存在に向けられる感情は、もはや単なる敬意ではない。


それは、信仰――人が神に向けるそれに限りなく近い、崇拝の色を帯びていた。


時間が、まるで凍りついたように流れない。


しかし、その沈黙の最中。

ひとり、緊張を違う意味で抱える男がいた。


「(……よしっ!邪神っぽいセリフ考えついた!)」


心の中でガッツポーズを決めるクトゥル。

ようやく思いついた決めゼリフを披露しようと、口を開く。


「イ――」


――が、その一言が発されるよりも早く、静寂を引き裂く声が場を打ち砕いた。


「まだだ……まだ終わってねぇ……ッ!」


その叫びは、地の底から響き上がるようだった。

イグロス=クラゲイン。

血走った三白眼が金色にぎらつき、全身から立ち上る怒気が場の空気を震わせる。


荒れた呼吸を吐きながら、彼は地面を踏み締めて立ち上がった。

唇の端から飛び出した泡混じりの唾液すらも、彼の怒りの象徴のように見えた。


その身体から吹き出すのは、冷たく蒼白い魔力の奔流。

ただの魔力ではない。怒り、未練、屈辱、そして執着――そうした感情が混ざり合い、氷嵐となって渦巻いていた。


制御などとうに失われている。

その力は、ただひたすらに暴走し、拡大し、あらゆるものを凍てつかせる。


氷獄の暴君――その名を冠するにふさわしく、

イグロスはまさに、凍てつく破滅そのものとなりつつあった。


地が、鳴いた。

空が、凍った。

天井から舞い落ちる氷の粉塵が、白銀の雨のように降り注ぎ、すべてを呑み込もうとしていた。


ウロボロスが、彼の咆哮に応じるように震えていた。


「全て凍らせてやる……てめぇも、そこらのおまけも、この闘技場もッ!」


イグロスの絶叫が、天を裂いた。

その瞬間、膨れ上がった魔力が空間を貫き、天井を突き破る勢いで上昇する。

それと同時に、地の底から噴き上がるかのように、巨大な氷柱が闘技場の四方からせり上がった。


氷――否、それはもはや凍牙と呼ぶべきだった。

鋭く、硬質で、僅かな光すらも反射し砕くその牙は、まるでイグロス自身の怒りと執念が形を成したようだった。

牙たちは意志を持ったかのように軌道を変え、観客席を、天蓋を、戦場の隅々までも貫こうと猛り狂う。


「な……!」


リュミエールが、震える声を漏らした。

既に彼女の体力は尽きており、蒼ざめた頬に冷たい汗が伝う。

ふらつく足を引きずるように、場外の柱に縋りつき、崩れ落ちるように寄りかかった。


「……申し訳ございません…動けません…」


彼女はそう呟くが、その声は風に掻き消されそうなほど小さく、力がなかった。

混沌のレガリアが解除されているが、その表情には、立ち上がる気力すら残っていない。目に映る氷嵐が、まるで終焉の幻のように揺らめいていた。


その瞬間、ルドラヴェールが獣のような咆哮を上げた。


「ッ!」


鋭く跳ね上がった彼の四肢から、爪が閃光のように迸る。

りくる氷柱を、斬撃が真っ二つに切り裂いた。

だが――数は減らない。追っても追っても、次の刃が空間を突き進んでくる。


まるで尽きることなき死の波。

無尽蔵に湧き上がる氷の牙が、獣戦士すらも徐々に追い詰めていた。


「はぁぁっ!」


アーヴァは、己が掌を前方の氷壁に突きつける。

次の瞬間、掌から燃え上がる蒼炎が走り、氷に食らいつくように広がった。

だがそれも一瞬。凍気の勢いが上回り、彼女は後退を余儀なくされる。


「ぬう……なんとしつこい氷じゃ……!」


唸るように歯噛みしながら、アーヴァは肩を震わせる。

その視線には、まだ闘志が宿っていたが、力の釣り合いは明らかに崩れていた。


エリザベートもまた、紅玉の瞳を怒りに染め、両腕から雷を撃ち出す。

紫電の槍が氷柱を粉砕し、凍気を吹き飛ばすも――


「…次から次へと!」


彼女の言葉の通り、氷は止まらない。


万全なエリザベートなら、これくらいの魔力なら対処できる。

だが、グライアとの戦いで魔力を使いすぎたために苦戦を強いられていた。


氷を破壊しても新たな氷が迫りくる。


まるでこの場そのものが氷獄へと変貌しようとしているかのようだった。


そのとき――


「…我が動くしかないか…」


低く、静かな声が吹雪のような魔力の奔流の中で響いた。


場の中心に、変わらぬ表情で立ち尽くしていたクトゥル。

彼が、ゆるやかに右手を掲げる。

その動きは、まるで世界を拒む神のように緩やかで、だが圧倒的な存在感を放っていた。




―――




氷獄の咆哮が、闘技場全体を包み込んでいた。


天を衝く氷柱は、ただの魔法の産物ではなかった。

それは怒りと憎悪、そして執念が形を成した魔力の奔流。まさに暴走。

空間そのものがイグロス=クラゲインという存在の負の感情によって塗り替えられていく。


その凶嵐の中心で、エリザベートたちは必死に応戦していた。


ルドラヴェールは、氷の牙を斬り裂きながら咆哮を上げ、

アーヴァは次々に蒼炎を放ち、吹き荒れる凍気を焼き尽くそうとしていた。

エリザベートの魔弾は他を圧倒する威力で氷柱を打ち砕いていたが、すぐに次の氷が空間を埋め尽くすように伸びてくる。

 どれだけ砕いても、終わりが見えない。


そして、リュミエールは――既に限界を迎えていた。


その惨状を前に、闘技場の中心でただ一人、動かず立ち尽くしていたのがクトゥルだった。


「(……ヤバい、想像以上だ……あいつ、完全にキレてるじゃないか)」


額には出さないが、内心では冷や汗をかいていた。

無尽蔵に膨れ上がるイグロスの魔力。想定していた範囲をはるかに超えていた。

荒れ狂う魔力はまるで竜巻のようで、下手に近づけば巻き込まれかねない。


「(けど……今さら後ずさるなんてできない…)」


さきほどの威厳。

レガリアの光を跳ね除け、神のように立った自分の姿に、人々の視線が信仰の色を帯びたことをクトゥルは覚えていた。


もし今、ここで何もしなければ――あの威厳は全て水泡に帰す。


「(……やるしか、ないっ)」


自分で自分に言い聞かせるように、クトゥルはそっと息を吸い込んだ。

手足がわずかに震えていたが、それを周囲には悟らせぬよう、背筋を伸ばす。


「やれやれ…我が動くしかないか…」


そして――一歩、足を前に出した。


それは静かな動作だった。

だが吹き荒れる氷の嵐の中において、その一歩は確かに場の空気を変えた。


轟く氷嵐のなか、静かに、しかし確かな決意をもってクトゥルは歩みを進めた。

その姿はまるで、凍てつく暴風の只中を進む神話の英雄のようで――荒れ狂う魔力の渦にすら気圧されることなく、彼は一歩、また一歩とイグロス=クラゲインの咆哮が渦巻く中心へと近づいていく。


そして、ぴたりと足を止めると、低く、だがはっきりとした声で告げた。


「エリザベート、アーヴァ、ルドラヴェールよ…下がれ…あとは我がやる…」


言葉の重みに応じるように、三人はわずかに目を見開いたが、即座にそれぞれ頷き、素直にその場を離れる。


もはや自分たちの手に余る相手であることを悟っていたからだ。だがそれ以上に――彼を信じていた。


冷気が吹き荒れる戦場の中心に一人立ち、クトゥルはそっと片手を上げた。


「(ふふふ…レベルアップした…俺の力を見ろ!)現れろ…『トリニティー・ディザスター』」


クトゥルの体内から重力と混沌のオーラをまとった三つの球体が宙に浮かび上がった。濃厚な闇と異質な圧力が場を支配し、周囲の氷すら微かに蒸発していく。


クトゥルはそのうちのひとつへと向き直り、呼びかけた。


「来い、マジク」


名を呼ばれた瞬間、球体のひとつが淡い緑色の光を灯す。

光が次第に強まり、やがて球体が弾けるように砕け散った。中から溢れ出したのは、粘性を帯びた緑色の念液体――ぬらりと光る表面を持ち、中央には黒曜石のように鈍く輝くコアが浮かんでいた。

その周囲からは、まるで血管のように黒い筋が広がり、不規則な鼓動のような脈動を繰り返していた。


「▼◆◆●」


マジクと名を呼ばれた存在は、電子音にも似た不気味な音を響かせながら、クトゥルの前でぷるぷると身体を揺らす。まるで、主の命令を今か今かと待っているかのようだった。


クトゥルは静かに命じる。


「マジクよ…ヤツ…イグロス=クラゲインとその周りの魔力をすべて吸収するのだ」


再び応えるように、マジクが短く音を鳴らす。


「●●」


その瞬間、彼の体がビクリと震えたかと思うと、黒曜石のコアが淡く光を帯びる。次の瞬間――イグロスの全身から吹き荒れていた魔力の奔流が、音もなく、滑らかに、まるで水を吸い上げるかのようにリクスへと収束し始めた。


「な、何だっ…魔力が…吸われているっ…」


イグロスの悲鳴が響く。

その凶暴な魔力の嵐が、吸い取られるように急速に衰え始める。暴風のようだった冷気は鎮まり、空を突いていた氷の魔柱たちが次々に崩れ落ちていく。


魔力を吸収され、崩れ落ちた魔柱の残骸の中で、イグロス=クラゲインはなおも屈服を拒み、荒々しく声を上げた。


「チィッ、まだだ……まだ俺様は――!」


その叫びが空しく響く中、クトゥルは静かに振り返り、背後に浮かぶ球体のうち、二つ目に手を伸ばした。指先が触れると同時に、球体がまるで硝子細工のように崩れ、中から新たなる存在が現れる。


「アラク」


その名が発せられた瞬間、ぬるりと空間を滑り出たその姿は、美と恐怖が不気味に融合した異形の存在だった。


アラクの身体は黒曜石のような光沢を放つ硬質な甲殻に覆われており、光を浴びるたびに深い闇のような艶を帯びてきらめいた。頭部からは髪の代わりに、細く長い漆黒の触角が無数に伸びており、それらは静かに、しかし確かに蠢いていた。見る者に不安を覚えさせる不規則な動きだった。


顔立ちは人に近く、妖艶で整っているが、額には六つの小さな宝石のような目が並んでいた。それらは独立して瞬きを繰り返し、まるで思考しているかのように不規則なリズムで光を放つ。


口元には細く鋭い牙が並び、アラクが微笑むたびに、それは銀の刃のように冷たく輝いていた。


「クトゥル様…如何いたしましょう…?」


静かに膝をつき、アラクは恭しく頭を垂れる。その声には艶がありながらも、不気味な余韻が残る。


「アラクよ。お前の強靭な糸で、ヤツを拘束するのだ」


クトゥルの命を受けたアラクは、ゆっくりと顔を上げ、にこりと微笑んだ。


「はい――」


柔らかく頷くと、彼女は身を翻し、イグロスに向かってしなやかに跳躍する。甲殻の脚が宙を裂き、触角が風を切る音を立てる。


「ふふふっ! イケメンじゃなぁいっ!その褐色の肌を私色に染めてあげるぅっ!」


先ほどまでの冷静さが嘘のように、アラクの顔には妖しく狂気じみた笑みが広がる。口元が裂け、並ぶ牙が笑みに彩られるたび、その姿はまるで悪夢の化身のようだった。


高速で舞うようにイグロスの周囲を飛び回り、一瞬の隙を突いて彼の背後を取る。


「――ッ!」


刹那、彼女の口から放たれたのは、銀に光る強靭な魔糸。その糸は鋭い蛇のように飛びかかり、イグロスの両腕、両脚、そして胴体を絡め取った。まるで生き物のように蠢きながら、瞬時に彼を縛り上げる。


「グッ……くそ、何なんだ、これはぁああッ!」


全身に絡みついた糸を振りほどこうと暴れるイグロス。しかし、どれほど足掻いても、アラクの糸は微動だにせず、その動きを完全に封じていた。


こうして、氷獄の暴君と恐れられた魔族は、異形の従者によって拘束された。


「……最後だ」


低く響くクトゥルの声とともに、彼の背後に浮かぶ最後の球体が静かに輝きを放ち始めた。深い紺の光が淡く拡がり、その中心から、重々しい気配とともに黒き巨影が現れる。


そこに姿を現したのは、全身を黒曜石のごとき甲冑で包んだ、巨大な騎士だった。


牛を模した兜の中に顔はなく、そこには虚ろな空洞があるのみ。しかしその内部には、燃え盛る青白い炎が揺らめいており、まるで感情を持たぬ意志のように、ただ静かに燃えていた。


右手には、巨体に相応しい漆黒の大剣を携えている。刃は分厚く、打ち下ろされればあらゆるものを粉砕せしめるに足る重圧を纏っていた。


「ヴァラキリオンよ…我に仇を成すヤツを倒すのだ。」


クトゥルが名を呼ぶと、騎士の炎が一際強く揺らめく。


「ギョイ…」


濁った、機械のような音で返事をすると、ヴァラキリオンは無言のまま一歩前へと進み出た。甲冑の軋む重厚な音が、荒廃した闘技場に低く響く。


その両腕が、大剣を高々と振り上げた。


「…シズメ…」


その声とともに、黒き刃が空を裂く。


「ぐっ…はぁっ!?」


瞬間、闇のエネルギーを纏った剣が振り下ろされ、その軌跡は黒雷のごとくイグロスの胸元を目掛けて直撃した。


激しい衝撃が空間を圧し潰し、重低音とともに爆風が四方へと奔る。


氷が砕け、瓦礫が空へ舞い上がり、闘技場全体が一瞬で混沌とした闇の嵐に包まれる。


そして――静寂が訪れた。


舞い上がる粉塵の中、砕けた氷の破片が地に落ちる音がかすかに響き、その中に、膝をついた一つの影が浮かび上がる。


それは、イグロス=クラゲインだった。


ヴァラキリオンの一撃をまともに受けた彼の身体は、凍てついた氷の鎧に守られていたものの、もはやそれは亀裂だらけで、その巨体を支えるのがやっとだった。


地を踏みしめるその足は沈み込み、全身は重く、動かない。


「……俺様が……俺様が、負けた……?」


呆然と、途切れがちな声でイグロスが呟いた。


かつて「氷獄の暴君」と恐れられた男のその瞳には、初めて、敗北という二文字が映り込もうとしていた。


認めたくはない――だが、事実は眼前にあった。


心は否定しても、身体はすでに答えを出していた。クトゥルという存在に、抗うことなどできなかったのだ。


神器をもってしても沈黙させられる、圧倒的な力の象徴――沈黙の強者。


その存在こそ、まさに「邪神」の名に相応しい威圧と現実だった。


三体の異形――クトゥルによって召喚された、恐るべき力を持つ眷属たちは、その役目を終えると、主のもとへと戻っていった。


それぞれが無言のまま、黒く浮かぶ球体へと沈み、その姿を闇へと還す。機械仕掛けのような規則的な動きに感情の色は見られず、ただ忠誠のみがそこにあった。


イグロスは膝をついたまま、その光景を呆然と見上げる。


深く、底知れぬ静寂の中――彼は気づいた。


その眼差し。全てを見下ろすようでありながら、一片の感情も読み取れない冷たさ。絶望に似たそのまなざしに、イグロスはようやく、否応なく「格の差」というものを理解させられていた。


自分が敵視していたのは、もはや同じ舞台に立つ存在ではなかったのだ。


周囲には、重苦しい沈黙が流れていた。


誰もが息を呑み、次の言葉を待っていた。だが、その中心にいるクトゥルは何も語らない。語る必要さえ感じていないように、ただそこに立ち尽くしていた。


イグロスは敗北を宣言してはいなかった。ましてや、服従を誓ったわけでもない。


だが、それは誰の目にも明らかだった。


――戦意は、すでに消えていた。


「(お、終わったか…?)」


クトゥルは心の奥底で、戸惑っていた。今までになく静かな結末に、どう反応すべきかもわからぬまま。ただ、黙して立っている。


だが、その沈黙がかえって「神の威厳」とも思える静謐を纏わせ、場に厳かな空気を広げていた。


その時だった。


「クトゥル様、この男――イグロス=クラゲインを処刑するべきだと考えます。」


凛とした声が、冷たく場を貫いた。


一歩、静かに前へ出たのはエリザベートだった。


彼女の混沌のローブが、闇の中で静かに揺れ動く。その姿はまさに、闇の中に咲く毒の華のようであり、ひと目で誰もが息を呑んだ。


戦いを終えた直後とは思えないほど、冷ややかで理知的な声音。氷のような瞳で、彼女は跪いたままのイグロスを、まるで罪人を見るように見下ろしていた。


「彼はユ=ツ・スエ・ビルの者を多数傷つけました。さらには、自身を邪神と名乗りクトゥル様に牙を向いたこと、命では償え切れない蛮行です。」


言葉には一切の情がなく、事実のみを突きつける審判の刃のようだった。


「む……確かにっ!」


アーヴァは、声ではなく、ピンと跳ねた尻尾で強く同意の意を示した。小さな身体に秘めたる憤りが、しっぽの動きに現れている。


「グル、言葉二スルマデモナイ…」


ルドラヴェールが重く、うなるように口を開く。その声には激情も同情もなく、ただ当然の理を語るような厳しさが宿っていた。


「決着ノ後、情ケヲ掛ケル必要ハナイ」


その言葉に、誰も反論はしない。

そして、控えていたリュミエールは何も言わずにいた。だが、その背筋を伸ばしたまま俯く様子からは、エリザベートの意見に否はないと、無言のうちに肯定しているのが伝わってきた。


闘技場には再び、凍りつくような沈黙が訪れていた。


その中心にいるのは、もはや名家の誇りを失い、誇大な自負の残骸だけが残ったイグロス。そして彼を裁こうとする、冷酷なまでに理を貫く者たち――そして沈黙の邪神だった。


静寂が張り詰める中――エリザベートの視線が再び、膝をついたままのイグロスに注がれた。


凍てつくような瞳が、容赦なく彼の存在を射抜く。


「何か言い残したいことは…あるかしら…?」


その声は冷たく、氷刃のように鋭く響いた。


だがイグロスは――黙っていた。


顔を上げることはない。肩一つ震えず、ただ地面を見つめたまま。かつて「氷獄の暴君」と恐れられた男の姿は、そこにはなかった。あるのは、敗北を受け入れた一人の敗者に過ぎない。


言葉を返す資格が、自分にはないと――彼は悟っていた。


その静謐さが、かえって処刑の刻を明確に告げる鐘の音のように場を支配していく。


エリザベートの指先が、静かに魔力を帯び始める。


まるで何の感情も挟まず、ただ冷徹に理を貫くように。彼女の手元に集まる魔力が、空気を歪めた。ぴり、と刹那、周囲の空間が震える。


――決断の時は、訪れた。


「待て、エリザベート」


その一言が、まるで雷鳴のように空気を裂いた。


クトゥルの声だった。


静かでありながら、不思議な力で全員の耳に真っ直ぐに届く。まるで神の声のように、否応なく人の心に浸透していく。


エリザベートは、驚きと共に手を止めた。魔力の波動が緩やかに収束していく。


クトゥルは迷いもなく、一歩――イグロスの元へと近づいた。


その行動に、緊張が場を包み込む。


誰よりも敵意を向けられていた相手に、無防備にも近づくという行為。普通ならば狂気の沙汰と断じられてもおかしくはない。


エリザベートをはじめとする仲間たちは反射的に身を強張らせた。再び戦闘が始まるのではないかという緊迫が、全身を駆け巡る。


だが――クトゥルは、ただ落ち着き払っていた。


その佇まいは、どこまでも冷静で、まるで「万が一にも攻撃されても、すべてを受け止めてやろう」という余裕を滲ませていた。


「(…戦力アップチャンスだっ!)」


内心、彼の思考はまるで別だった。


――何も考えていない。


本当に、何も。相手が完全に降伏したと思い込んでいたからこその、無防備な接近であった。


単に「終わったから話しかけよう」という、場の空気を理解していない者ならではの天然の行動である。


エリザベートは、戸惑いを隠しつつも一歩退き、主の意図を汲むべく言葉を待った。


そして、静かに――クトゥルは口を開く。


「エリザベートの言う通りだ。このモノは、我という邪神が居ながら自らが邪神を名乗った。それは、死んで償えん…」


その言葉が、イグロスの耳に届くと、彼の身体が僅かに反応した。


ゆっくりと顔を上げる。


張り詰めた空気の中、頬を汗が一筋流れ落ちる。喉がごくり、と大きく鳴った。


逃れ得ぬ審判の瞬間。だが、クトゥルの言葉は、そこで続く。


「よって、イグロス。我の手の元。力を振うのだ…」


その声は、許しでもなければ、同情でもない。


それは、ただ――選択だった。

絶対的な主の声。拒むという選択肢など、最初から存在しない。


「な…」


イグロスを含め周りの者が驚きの声を上げる。


「お前は、我の仕える˝価値˝のある存在だ」


その言葉は、まるで雷鳴のようにイグロスの内側を打ち砕いた。


「っ……」


わずかに――本当にわずかに、イグロスの瞳が見開かれた。

それは、強者としての矜持でもなければ、敗者の屈辱でもない。

それは、感情という名の震えだった。長く凍てついていた心に、微かに熱が走る。


声にはならない想いが、彼の中で過去を呼び起こす。

頭の奥に響くのは、忘れたくても忘れられない男の声――。


―――出来損ないが……クラゲインの名を穢すなっ!


――触腕も出せぬ、氷魔法を操れんヤツが、クラゲインを名乗るとは笑わせるっ


冷酷な声。クラゲイン家当主にして、父アグロス=クラゲイン。

幼き日のイグロスは、その男の視線に怯えていた。


その腰には、家の証である触腕が生えず、異端と断じられた。

父は容赦なく彼を打ち据えた。虐待に近い教育で、左目を焼き、ついには視力をも奪った。


――何度言えば分かるっ!


期待を裏切り続けたと蔑まれ、弟の影に追いやられた少年。

その日々は、父のみならず、屋敷の使用人たちからの侮辱にも彩られていた。


母を早くに亡くし、イグロスは孤独と痛みに耐えて、必死に努力した。

そしてついに――クラゲイン家の証である触腕を生やし、力を手にした。

だが、その心は、埋まらなかった。


誇り高き当主を気取り、氷を纏い、冷酷に徹しても、彼の中にあったのはただの虚無だった。


――……混沌のレガリアを手にしても、何も変わらなかった


――父、弟、使用人を斬りすべて切り捨て、家を背負ったはずなのに……空っぽだった


その虚無の中、彼の前に現れたのが――邪神クトゥルだった。


イグロスを真っ直ぐに見据え、そして宣言した。

「価値のある存在だ」と。


その言葉に、彼の中で何かが決壊した。


「……俺様は、ずっと……認められたかっただけかもしれねぇ」


声が震える。

それは敗北者の嗚咽ではない。

孤独に耐え続けた者が、初めて救いに触れたときの――歓喜の震えだった。


「ようやく……ようやく、見つけたんだ」


彼の瞳が揺れる。

冷たい氷の奥に、確かな炎が灯る。


「俺様が心から、屈してもいいと思える……主を……!」


そして彼は、氷のように硬く張りつめた自尊心を砕き、誇りを捨てて地に頭を垂れた。


「どうか……俺様をお傍に…!この命、我が魂、混沌ごと……貴方様に捧げますっ…邪神クトゥル様……!」


その瞬間、場に重く、不可思議な静寂が流れた。

頭を垂れたイグロスの前で、クトゥルの触手がゆらりと揺れる――


「(……なんで急に敬語に!?)」


静けさの中、邪神の内心には焦りの色が走っていた。

決して動揺を見せてはならない場面で、彼は叫ぶように自分に言い聞かせた。


「(いや、これは……落ち着け、ここで動揺したら終わる……とりあえず黙ってろ、俺!)」


ただ沈黙を保ち、触手を揺らすことで威厳を演出するクトゥル。

だがその無言の姿こそが、イグロスにとっては「肯定」そのものだった。


「(俺様は……選ばれた……! この御方の手となり、目となる……それが…俺様の…指名っ!)」


その瞬間、かつてクラゲイン家で「氷獄の暴君」と恐れられた魔族は、誇り高き忠誠者として生まれ変わった。


氷のような忠誠と狂気をその身にまとい――

イグロス=クラゲインは、その日を境に、邪神クトゥルの最も忠実な狂信者となったのだった。



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