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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑲

氷気を孕んだ沈黙を破ったのは――一陣の風だった。


それは、まるで死の帳が下りた戦場に舞い降りた春風のように、冷たくも確かな変化を告げるものだった。斃れ伏した者たちの血を揺らし、折れた旗をかすかに揺らしながら、その風は誰かの到来を予感させる。


「お待たせして申し訳ございません。クトゥル様」


静けさを切り裂くように響いたのは、どこか艶を帯びた聞き慣れた声音だった。その声が放たれた瞬間、戦場の空気がまるで別物へと変貌する。張り詰めていた殺気が和らぎ、死の気配に支配されていた空間に、凛とした気品と威厳が差し込んだ。


そこに現れたのは、長く艶やかな黒髪を風にたなびかせながら、静かに、そして確かな足取りで歩み寄ってくる女――エリザベート。血の飛沫も、塵ひとつも纏っていない混沌のローブは、どこか非現実的なほど完璧で、その姿はまるで戦場に舞い降りた女王のような威光を放っていた。


「勝ちましたぞいっ! クトゥル様っ!!」


その隣を、ふわりとした足取りで並び歩くのは、灰青色の髪をハーフツインに結い上げた小柄な少女――アーヴァ。

彼女の瞳は誇らしげに輝き、跳ねるような声色には喜びと忠誠が滲んでいた。


二人の装いにはまったく乱れがなかった。激戦の最中にあったとは到底思えぬその姿は、裾にすら塵一つ纏わず、むしろどこかの舞踏会帰りかと錯覚するほど。


「やるじゃない。アーヴァ」


エリザベートは、優雅に歩み寄りながら隣に立つアーヴァを一瞥し、満足げに微笑んだ。戦いを終えた直後とは思えぬほど整った立ち姿で、その紅い瞳には確かな信頼と誇らしさが宿っている。


「……フン、当然じゃ。わっちに負けなどないぞい!」


アーヴァは鼻で笑い、青灰の髪をふわりと揺らしてそっぽを向く。ハーフツインテールの先が軽く跳ね、青い竜の尻尾が誇らしげに振れた。言葉にはいつものように尊大な響きを込めていたが、その横顔にはわずかな照れも滲んでいた。


そんな二人のもとへ、続いて現れたのはルドラヴェールだった。

肩口に裂けた痕があり、そこから少し血が滲んでいる。しかしその足取りは確かで、神獣の如き威容を保ったまま、静かに喉を鳴らす。


「グル…我ガ主ヨ。遅レテ申シ訳アリマセン。」


低く、くぐもった声。その一言に、忠誠と誇りが込められていた。

彼の双眸は主であるクトゥルを真っ直ぐに見据え、次の命を待つように静かに立つ。


そして――最後に姿を見せたのは、遅れて駆け込んできたリュミエールだった。


「はぁっ、はぁっ……リュミエールっ。勝利しましたっ…」


その姿は満身創痍だった。

白い肌には無数の擦り傷、焼け焦げた跡。黒を基調としたメイド服は裂け、ところどころが煤けている。

だが、それでも彼女は倒れなかった。痛みに顔を歪めながらも、よろめく足取りで一歩ずつ、確かに前へと進み続ける。


戦いを終えたばかりの体は限界に近く、魔力の残滓すら感じられない。

それでも、主のもとへたどり着こうとするその姿に、仲間たちは何も言わず、ただ静かに見守っていた。


「ふっ…ようやく来たか。我が眷属たちよ…」


クトゥルは両手を後ろに組み、静かに呟いた。

エリザベート、アーヴァ、ルドラヴェール、リュミエール――頼もしき仲間たちが並び立つその姿を、まるで余裕たっぷりに見渡す。


「(キタァッーーー!!これで俺の勝ちは決まったっ!!)」


だが、その内心では歓喜が暴れまわっていた。

顔には一切出さぬよう努力しつつも、心の奥ではガッツポーズを取って叫び出したいほどに、クトゥルは歓喜に沸き立っていた。


「――ッ……!?」


その瞬間、イグロスの表情が凍りついた。

氷の刃を思わせるような金色の三白眼が、驚愕と混乱に揺れ、大きく見開かれる。

筋肉質な肩がわずかに震え、鋭く研ぎ澄まされた全身から、まるで魂そのものが揺らいでいくような気配が漏れ出す。


目の前には、クトゥル側の代表として四人の女たちが並び立っていた。

誰もが戦いを終え、傷つきながらも、確かに勝者の足取りでそこにいる。

それはすなわち――自らが選び、育て上げ、戦場に送り出した誇り高き魔族の精鋭たち、四魔の柱の敗北を意味していた。


「…四天魔よんてんまが…敗れた、だと……?」


しわがれたような、低くかすれた声が喉の奥から漏れた。

それは驚愕ではなく、拒絶の色すら滲んだ呟きだった。

信じたくない。だが、確かに目の前に突きつけられた現実だった。


四天魔の柱――それはクラゲイン家当主としてのイグロスを象徴する存在。

その力は、彼の威光の礎であり、支配の証であり、幼き日々に与えられなかった強者としての肯定そのものであった。


その四本の柱が、今、音もなく崩れ落ちた。

ただの敗北ではない。エリザベートたちの様子――誇らしげに立ち、傷つきながらも動じぬその姿――それは、完膚なきまでの勝利を物語っていた。


胸の奥を鋭く引き裂くような痛みが走り、息が詰まる。


「(くそがぁっ!)」


呻くような、心の叫び。

それは、イグロス=クラゲインにとって二度目の――屈辱だった。


彼の誇りは、凍てつく氷のように硬く、二度と誰にも壊せぬものだと信じていた。

だが今、それが音を立てて崩れはじめる。

長年にわたり積み上げてきた力と支配の象徴が、まるで砂の城のように。


金色の瞳が微かに揺れる。

氷獄の暴君、その名を持つ男の心に、初めてひびが入った瞬間だった。


「…ふっ…もはや勝敗は決したな…(エリザベートたちが居ればお前何て怖くないっ!)」


クトゥルは腕を組み、余裕をもって口を開く。表でも裏でも勝利を確信し安堵していた。


「……てめぇら如きに、俺様の誇りを穢されるとはなぁッ!」


その叫びは怒号というには微かに揺れていた。

怒りとも悔しさともつかぬ、混じり合い、制御不能となった感情の奔流がイグロスの胸の内を満たしていた。

氷のように冷たいその金の瞳が、冷たい氷のように鋭さを増す。歯を食いしばった口元が苦悶の色を浮かべている。


そのまま、イグロスはゆっくりと手を動かし、腰に巻かれたベルトへと指を這わせる。

動作は重く、そして確かな決意に満ちていた。


彼の指が止まったのは、封じられた最後の手段――本来ならば、この戦いで使うべきではないとさえ思っていた、究極の切り札だった。


「――ならば見せてやるよ。俺様の力をなっ!」


咆哮とともに、イグロスの手の中に現れたのは、禍々しい輝きを放つ赤黒い球体だった。

表面には異様な文様――無数の眼のような模様が彫り込まれ、中心にはまるで生きているかのように脈打つ一つの瞳が浮かんでいる。

それは、見た者の本能に訴えかけるような不気味さと、異質な存在感を放っていた。


「(え…何あの禍々しい眼球みたいなの何だよっ…)」


クトゥルはそう思いながらも、表情には出さず、余裕を見せイグロスを見据えていた。

しかし、内心は予期せぬ異物の登場に困惑を隠しきれていなかった。


「…あれは…混沌のレガリア…やはり、持っているのね。」


ぽつりとエリザベートが呟いたその瞬間――空気が、変わった。

冷たい空気の中に、重苦しく圧し掛かるような圧力が混じる。

まるで空間そのものが異界へと繋がりかけているような、世界の法が乱されていく感覚。


「ム…?ソレハナンダ?」


ルドラヴェールが低く唸るように問うた。

その獣の瞳が、微かに警戒の色を帯び、獰猛な戦意を浮かべている。


「混沌のレガリアは、私の持つ混沌のローブ。アーヴァの持つ混沌のキューブと同じものよ。」


エリザベートが静かに告げたその言葉に、場の空気がさらに重みを増す。

混沌のレガリア――それは、かつて邪神と恐れられた存在が、選ばれし者に直々に授けたとされる禁断の遺物。


ただの魔具ではない。そこには、異界の意志すら宿っていると伝えられていた。


「そのキューブが、お主に壊されたこと…忘れていないぞい…」


アーヴァがジト目でエリザベートを睨む。

灰青の髪がふわりと揺れ、怒りを帯びた尻尾がぴしりと跳ねた。

その小柄な身体には、確かに混沌のキューブの効力を失った時の屈辱が刻まれている。


「邪神クトゥル様からの贈り物よっ」


アーヴァの抗議を、エリザベートは軽く無視した。

声には喜びと誇らしさがあふれており、彼女はキラキラと輝く視線をクトゥルに向ける。

だが、当のクトゥル本人はというと、内心で「知らない、知らない……!」と全力で否定していた。


見たことも、覚えもない。それでも話が進んでしまうのが彼の日常だった。


「ちげぇなっ!これは、邪神である俺様の所有物――力なんだよぉっ!」


イグロスが割って入るように叫ぶ。

ドクンドクンと赤黒く脈打つ球体を掲げながら、獰猛な笑みを浮かべるその顔には、支配者としての誇りが戻りつつあった。


クラゲイン家の当主として、己こそが˝真の邪神˝の血を引く者であるという信念を、彼は決して譲らなかった。


「レガリアの放つ赤き閃光を浴びたヤツは、魔力の奔流を断たれ、動きすら封じられるっ!」


その声は勝利の確信に満ちていた。


イグロスの瞳は、狂気と興奮の入り混じった赤い光に染まっていた。

彼の中で渦巻く感情は、歓喜にも似た破滅的な高揚。

その手に握られた混沌のレガリアは、決して誰かに「与えられた」ものではない。

彼自身が力によってねじ伏せ、掴み取った証だった。


「このレガリアでクトゥルっ…貴様がまがい物の邪神であることを教えてやるよぉっ!」


低く唸るような声が響いた瞬間、獣のような殺意が空気を切り裂く。

イグロスの眼光は鋭く、獲物を狩る捕食者そのものだった。

その視線が真っ直ぐにクトゥルへと突き刺さる。


「この力に抗えるのは邪神か、それに相当する力があるヤツだけだぁ!」


言葉と共に、唸るような魔力が周囲を圧迫し始める。

灼けるような熱と、心をかき乱す混沌の波動が、闘技場の空間そのものを震わせた。


「ククク…やってみるが良い…」


対するクトゥルは、表面上は余裕の笑みを保っていた――が。

その内心は、嵐のごとき混乱に支配されていた。


「(やばい。やばい、やばい、やばいッ!?…イグロスの話が本当なら、俺の正体が…バレるっ!?)」


視線を巡らせれば、周囲には自らの眷属がずらりと並んでいた。

エリザベート、アーヴァ、ルドラヴェール、そしてリュミエール。

誰か一人でも気づけば、連鎖的に「クトゥルが邪神ではなかった」という疑念が広がるのは時間の問題だ。


「(かといって逃げるなんて……それはそれで、威厳が損なわれるっ …ッ!)」


頭が割れそうなほどの混乱。心では額から背中まで冷や汗が流れ、心臓の鼓動が喧しく鳴る。

それでも、笑みだけは崩せない。崩してしまえば、全てが終わる。


「(…終わった…完全に詰んだ……)」


クトゥルは諦めたように肩を落としかけた――その瞬間だった。


「――混沌のレガリア、解放ッ!!」


イグロスの叫びが、雷鳴のように空間を打ち鳴らす。

同時に、彼の掌にあった赤黒い球体が眩い光を放ち始めた。


ギィィィイイイイイイン……!


鋭く金属を引き裂くような共鳴音が、耳を劈く。

空間が軋み、重力そのものが狂ったかのように歪んでいく。


そして――閃光が爆ぜた。


それは、闘技場を埋め尽くすかのような赤黒の凶光。

屍灰の舞う地面を這い、上空へと奔るその光は、まるで目そのものだった。

眼球のような球体の中心から放たれた閃光は、視界すら焼き尽くすほどの烈しさで世界を染め上げた。


まるで˝真理を告げる目˝が、この世界に審判を下すかのように――。


閃光が闘技場を呑み込んだ。

赤黒く染まった光は、ただの視覚現象ではなかった。

それは力そのものであり、空間を捻じ曲げ、存在するものすべてに圧をかけていた。


紅蓮の波が地平を押し流すように、全方位へ拡がる。

それに触れた空間は音を立てて軋み、魔力の流れがねじ切られたかのように途絶する。

一瞬にして、すべてが凍りついた。

風も、音も、鼓動すらも――止まったように感じられる、異常な静寂。


――そして。


「……うっ!」


最初に異変を示したのはリュミエールだった。


まるで重力に押しつぶされるように膝をついた。

その身を包んでいた柔らかな光が弾け飛び、制御を失った魔力の残滓が宙に漂う。

肩で荒くしていた呼吸が唐突に止まり、額にはじっとりと汗が浮かんだ。


続いて、ルドラヴェール。

猛虎の如き威容を誇る獣の体が、ギリ、と音を立てるほどに緊張していた。

地に踏みしめた四肢は微動だにせず、まるでその強靭な筋肉が急激に硬直したかのようだ。

普段なら爆発的に迸る魔力も、今はまったく流れていない。


裂けるような鋭い双眸に浮かぶのは、抗えぬ力に対する苛立ち、そして――ほんの僅かな焦り。


「……小癪ナッ…」


それは呻くように漏れた一言。

その声には、単なる怒りではない、尊厳を侵された者の重みがあった。


そんな様子を見て、イグロスの唇が愉悦に歪む。

眷属たちの沈黙は、彼にとって確信を得るに十分だった。


――当然だ。これが、「混沌のレガリア」の真価なのだから。


「フン、所詮はその程度――!」


イグロスが勝者の余裕を込めて吐き捨てた刹那――


「……?」


空気が、わずかに揺れた。

そしてその中で、小さい影が前に出る。


「んぅ…?確かに体は重いが……『バーン・フレア』…魔法は使えるぞい…?」


アーヴァは、不思議そうな顔をすると片手に蒼炎を集める。


続いて、髪を揺らしながら、深紅の瞳を細め、静かに前へと歩を進めるエリザベート。


彼女の脚は確かに地を踏んでいた。

動かぬはずの闘技場で、例外のようにその身を運んでいる。


無音の空間にあって、エリザベートの存在だけが異質だった。

その歩みには迷いもためらいもなく、紅の瞳は冷ややかに状況を見据えると、指先から電気を流す。


「拍子抜けね…何ともないわ。」


「…なん…だと…?」


イグロスの双眸がかすかに揺れる。

圧倒的な力を持つはずの自らの魔力が、なぜ2人の魔族には通じていないのか。

その答えを求めるように、彼はエリザベートたちを凝視する。


だが、その動揺すらも――次の瞬間、さらに異常な現象によって打ち消された。


「…………?」


それは、クトゥルだった。


彼は、闘技場の中央にて棒立ちしていた。

まるで自分が行動を封じられていることにすら気づいていなかったかのように。


だが、ふとした仕草で首を傾げ、無造作に肩を回す。

その動きに合わせて、背から伸びた触手がゆったりと波打つ。

その様子はあまりにも自然で、まるでこの場の異常が彼だけを避けているかのようだった。


彼は、怪訝そうに自分の手足を見下ろす。

そこには拘束の影も、圧力の気配もない。


「(……え?動ける……?いや、なんで……?)」


驚きと困惑。

だが、状況を理解する前に、クトゥルの身体は直感的に動き始めていた。


思考より先に反応する。

それが、彼が今まで培ってきた˝なんちゃって邪神˝としての経験だった。


「(良く分からないけど…これは…チャンスっ!邪神ロールプレイで一気に相手の戦意を削いでやるっ!)」


そう心に決めたクトゥルは、一歩前に踏み出した。

その足音すら異様に重く響き、空間に波紋を広げる。


そして――《オール・オブ・ラグナロク》。

触手が揺れ、周囲に禍々しい音が立ち上る。

クトゥルは天を仰ぎ、重厚な演出と共に笑い声を放った。


ドロロォ――


「…クククッ!我がくれてやったおもちゃで、この我を封じようとは…身の程を知れっ!(…決まったっ!)」


宣言を終えた彼は、胸を張って堂々と立ち尽くす。

まるで自らが真なる支配者であるかのように。


その立ち姿には、何も知らぬ者ならば圧倒されてしまいそうな威厳が宿っていた。

――だが、彼自身の内心には、困惑と混乱、そしてちょっとしたノリと勢いが渦巻いていた。


「……っ!」


その光景を目にした瞬間、イグロスの目が大きく見開かれた。

その瞳に宿るのは、驚愕――そして、底知れぬ恐れ。


「(動いた……!?いや、それどころか――まるで、何事もなかったかのように……!)」


理解不能の事態が、容赦なく彼の思考を蹂躙していく。


空間を支配する、あまりにも異質な力――それは、見えざる鎖のように感覚を縛りつけ、意識の深部にまで食い込んでくる。

混沌のレガリア。神すら拘束するとも言われるそれは、本来ならば一部の例外を除き、決して抗うことなど許されぬ、絶対の力だ。


この空間を包むその波動に、対抗できる者など限られている。

真なる邪神。あるいは、イグロスのような――極限にまで到達した、選ばれし存在だけ。


「(アビスローゼとンシュタウンフェンなら…まだ説明は付く…奴らは、クラゲイン家と並ぶ名家だ…だが…)」


納得はできる。エリザベート。アーヴァ。

血統と格においても、力の由来においても、説明の余地はある。

だが――


視線が、ゆっくりと異形の存在へと向かう。


「(まさか……貴様……ッ!)」


思考の中で渦巻いていた疑念が、確信へと変わる瞬間だった。


ぞわり、と冷や汗が頬を伝い落ちる。

背筋を、鋭利な刃物のような冷気が這い上がっていく。

体温が急激に奪われていく錯覚と共に、思考が白く霞み始める。


その存在は、もはや偶像ではない。

˝偽り˝ではない――˝真なる˝邪神。


理解が、恐怖を連れてやってくる。

己の支配が、音もなく崩れていくのを、イグロスは肌で感じていた。


そしてその一方で、当のクトゥルはといえば――依然、無言のまま立ち尽くしていた。


「(…この後…何を言えばいいんだ…?)」


内心では焦りが渦巻いているものの、外見は不動そのもの。

表情は完璧に無表情であり、沈黙は堂々たる威厳となって場を支配していた。


だが実のところ、彼はただセリフを考えていただけだった。

何を言えば邪神らしく見えるか――それを脳内で必死に練っていたに過ぎない。


にもかかわらず――その沈黙は、周囲にはまったく別の意味をもって映っていた。


エリザベートが小さく笑みを浮かべ、両手を胸元に重ねる。

その瞳はまるで祈るように、ただ一人の存在を信じていた。

そう、最初から――彼女はクトゥルの力を疑っていなかったのだ。


アーヴァも、その小さな口元に確かな微笑を宿していた。

彼女の紫の瞳が、光を宿して輝き出す。


リュミエールもまた、身体の自由は奪われながらも、瞳だけはしっかりとクトゥルを見つめていた。

その澄んだ光の中に宿るのは、崇敬、憧憬、そして感動――


そして、ルドラヴェール。

歴戦の獣である彼の瞳もまた、今だけは一点を捉えていた。

動かぬ肉体の奥で、彼は無言のまま牙を軋ませていた。


エリザベートたちの目には、はっきりと告げていた。

目の前の存在こそ、ウロボロスの頂点に立つ者。支配者、王、そして邪神。


静寂の中で、すべての視線が集まっていた。

ただひとり、何も語らぬ男に。


その無言の姿に――崇敬が、降り注いでいた。



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