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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑮

灰に覆われた屍で囲まれた巨大な円形闘技場――通称≪屍灰の闘技場≫。


そこは、かつて生者たちの栄光と死が交差した古の戦場。今や、観客席に人影はなく、ただ無数の白骨が静かに積み重ねられているだけだった。それらはすでに意思を持たぬ証人たちであり、灰と沈黙の中でなお、決闘の始まりを待ち続けていた。


そんな異様な静寂の中心に、今、二つの影が相対していた。


一人は、アーヴァ=ンシュタウンフェン。


灰と青が混じったハーフツインテールが、乾いた風にさらさらと揺れる。彼女はゆっくりと息を吐き、胸元から熱気をふうっと漏らした。その仕草には、獣の本能に近い緊張と、自らの力に対する確かな自信が宿っている。


アーヴァの身体は小柄で、華奢とも言える細身の輪郭をしていた。しかし、その体を包むのは、重厚さと機能美を備えた青の戦装束。布と金属が織り交ぜられた独特な装いは、洋風の軍服にどこか東方の神秘を宿した意匠を加えたような、異国の気配を漂わせている。


その装束が、頭上から差し込む冷たい陽光を受けてきらりと輝き、彼女の輪郭を際立たせた。


背中からは、青色の長い竜の尾が静かに揺れている。その尾は、ただの装飾ではない。生きた筋肉と鱗で構成されたそれは、彼女が人ならざる魔族:竜人族の血を継ぐことの証だった。


さらに耳の後ろには、湾曲した角が一対、鋭くも美しい弧を描いていた。彼女がかつて存在した名家――ユ=ツ・スエ・ビルのンシュタウンフェン家の末裔であることを、見る者すべてに強く印象づけていた。


この日、この刻。彼女は家名を背負い、審判の目の前に立っていた。


闘技場にはまだ始まりの合図が訪れていない。


だがその静寂の中で、空気は確実に戦いの気配に染まりつつあった。


アーヴァの瞳が細くなる。


対するは、魔族:ラミア――メドゥリーナ。


蛇の血を引く魔族であり、艶めく長い紫色の髪を二つに束ねたその姿は、妖艶と狂気を同時に纏っていた。頬に浮かべた微笑には、毒が滲んでいる。緋色の瞳が、獲物を見定めるかのように細められ、その先にいる少女を嘲るように見据えていた。


彼女の下半身は、しなやかにねじれ、地面を滑るように進み出る。人間の脚ではない。腰から下は、巨大な蛇の胴体へと変じており、濡れたように艶めく緑と黒の鱗が、差し込む光に照らされて妖しく反射していた。まるで、生きた宝石のような不気味さ――だが、その美しさには死の香りが付き纏っていた。


「あらあら…?……おチビちゃんがアタシの相手かしら…?」


くぐもるようなその声は、濡れた絹のように柔らかく、聞く者の耳にまとわりつく。まるで、誘いを含んだ罠のように甘く、同時に不気味だった。


対峙するアーヴァ=ンシュタウンフェンは、挑発に動じることなく、むしろ口元に鋭い笑みを浮かべた。その唇が吊り上がると、彼女は両手を打ち鳴らす。


「そのようじゃな。くふ……楽しみにしておれ、蛇女。わっちは容赦せんぞ…?」


その言葉とともに、彼女の足元に赤い火が咲く。


炎は空気を巻き込みながら、舞うように広がった。乾いた灰塵を巻き上げ、アーヴァの足元から立ちのぼるその熱気は、まるで小さな竜が目を覚ましたかのようだった。火の粉が戦装束に舞い散るたび、彼女の青き衣は揺れ、戦神のような存在感を放っていた。


「生意気…」


メドゥリーナの口は音もなく歪み、ゆっくりと裂けていく。左右に広がるその口元から、ぬるりと長い舌が這い出した。血を求めるかのように空を舐め、彼女自身の頬を滑って垂れる。視線は炎の少女から片時も離さず、蛇の本能を宿した瞳が、獲物に向けて爛々と輝いた。


そのときだった。


審判の骸骨が、天へと腕を掲げる。


無音の中、空間が軋むような重い圧に包まれた。


そして――


号令が、空間そのものを裂くように響く。


次の瞬間、二人の異形の少女が、灰の舞う闘技場で同時に動き出す。

メドゥリーナの細く白い腕が風を裂いた。


それはまるで舞い踊る蛇のように、しなやかで無駄のない動きだった。彼女の指先から解き放たれたのは、毒針。透明な死を宿した数本の細い針が、風の囁きのような静けさでアーヴァへと迫る。


しかし――その動きは、アーヴァの眼には映っていた。


「……ふっ!」


足裏に集中した魔力が炎となって爆ぜる。小さな爆風と共に、アーヴァは宙を舞った。青の戦装束が翻り、竜の尾が空気を切る。毒針は空しく石畳を貫き、そこに黒く焦げた穴を残した。


空中で体勢を整えたアーヴァは、手を掲げて声を張る。


「手始めじゃっ!『ファイアボール』っ!」


詠唱と同時に、掌の前に青い火球が浮かび上がる。鼓動のように脈打つそれを、彼女は拳で殴るように勢いよく打ち出した。蒼炎の尾を引く火球が、唸りを上げながらメドゥリーナに向かって突進する。


「遅いわねっ!」


メドゥリーナは舌を打つように笑うと、蛇の胴体をくねらせながら身をひねる。その動きは鋭く、そして流麗だった。火球は彼女の目前を掠めて通過し、石畳に激突。轟音と共に炎が炸裂し、地を焼いた。


灼熱の衝撃が闘技場を包む。爆風が灰を巻き上げ、空を焦がす。


だが、その中でメドゥリーナの瞳が怪しく揺らめいた。真紅の双眸が細められ、彼女の口元から微かに霧が立ち昇る。


それは、猛毒の霧。


見た目には儚く、美しい霧にすら見えるその蒸気は、周囲のわずかに残った草木を触れた瞬間に黒く枯れさせる。命を削る毒が、じわじわと戦場を覆い始めた。


しかし、アーヴァの瞳に恐れはなかった。


むしろ、炎に照らされたその口元がにやりと吊り上がる。


両手を大きく広げ、魔力の奔流が彼女の身体を包み込む。


「『バーン・フレア』!」


その瞬間、彼女の全身から蒼炎が立ち昇った。炎は一気に広がり、猛毒の霧すらも焼き尽くすように空間を支配する。


灼熱の光がアーヴァの輪郭を縁取り、竜の如き魔族の少女は、まるで神話の火竜のように、炎を纏って舞い降りる。


アーヴァはためらいなく、一歩、また一歩と毒霧の中へと踏み込んだ。


彼女の身体を纏う蒼炎が猛り狂い、触れた毒の靄を焼き払いながら進んでいく。その炎の勢いに、空間すら熱に軋むように揺れる。


「なっ……!?」


メドゥリーナの目が驚愕に見開かれた。毒霧が霧散し、火の鎧を纏った小柄な影が、突風のような速度で迫っていた。


灼熱を伴った突進――それは竜人族が誇る怪力と俊敏さを活かした、まさに一撃必殺の突貫だった。


アーヴァは拳に力を溜める。その拳はまるで隕石のように重く、空気を巻き込みながら振り下ろされる。


ごぉ、と轟音が響く。


メドゥリーナは咄嗟に身をひねって回避する。だが、その髪の一房が熱風に焦がされ、黒く焼け落ちた。わずかでも反応が遅れていれば、直撃を受けていただろう。


だが、アーヴァは動きを止めない。すでに次の魔力を構築しながら、呪文を紡ぎ始めていた。


「空より下れ、灼熱の雨――『フレイム・レイン』!」


鋭く天を指さした瞬間、空が青く染まる。雲の合間から覗く空が灼熱に染まり、無数の火の矢が空から弧を描いて降り注いだ。


それはまるで空が涙を流しているかのような光景だった。


闘技場全体を照らす炎の雨が、まっすぐにメドゥリーナの周囲へと落ちてゆく。


彼女は蛇体をくねらせ、鱗を立てて応戦する。だが、炎の軌道は鋭く、逃げ道は限られていた。一撃、二撃、三撃――紅蓮の矢が彼女の身体を撃ち抜き、鱗の隙間から焼け爛れる熱が侵食してくる。


焦げた匂いと共に、痛みが幾度となく肉を裂いた。


それでも――ラミアは笑った。


「ふふ……面白いじゃないっ!…」


その声と共に、彼女の髪の房が蠢き始める。髪は生きていた。まるで意思を持ったかのように何本もの蛇へと変貌し、それぞれが鋭い牙を剥き、滴る毒を撒き散らしながらアーヴァに襲いかかってきた。


毒蛇たちは音もなく地を這い、宙を舞い、標的を取り囲む。


だが――アーヴァの瞳が鋭く光った。


「螺旋せよ、炎の竜巻――『インフェルノ・スパイラル』!」


彼女の足元に魔法陣が現れ、その文様が赤熱しながら激しく輝いた。


アーヴァはその中心で拳を地面に叩きつける。


瞬間、地の底から噴き出すように巨大な火柱が立ち上がった。それは炎の槍ではなく、炎の竜。渦を巻きながら天を目指し、烈火が竜の咆哮のように轟く。


炎の壁が毒蛇の群れを飲み込み、次々と焼き尽くしていく。火の波はさらに広がり、逃げ遅れたメドゥリーナの身体までも包囲した。


「きゃぁぁっ!?」


地面が、不穏に低くうなった。次の瞬間――轟音とともに爆風が巻き起こり、悲鳴と共に、メドゥリーナの身体が宙を舞った。まるで突風に攫われた紙片のように軽々と空へ投げ出され、そのまま地面に激突する。


骨が砕ける音すら掻き消すほどの衝撃。悲鳴を上げる暇すらなく、彼女の細身の身体は土煙を上げて地を転がり、やがてぴたりと動かなくなった。


闘技場に、微かな静寂が訪れる。


アーヴァは肩で息をしながら、立ち込める砂塵の向こうにじっと目を凝らした。体の奥から熱が立ち上り、額に滲んだ汗が一筋、頬を伝う。


だが、やがて風が吹き抜け、砂を払いのけると――彼女の視界に映ったのは、人ではなかった。


「……ぬ?」


その場に横たわっていたのは、白く乾いた蛇の抜け殻だった。ひび割れた鱗の破片が風にさらわれて舞い、皮膚を擬したそれは、まるで本物の遺体のように横たわっている。


一瞬の油断。


アーヴァの尻尾がぴくりと跳ねた。地面にかすかに触れていたその先端が、ごく微細な振動を捉える。そして、すぐに彼女の肌を這うような冷たい気配が忍び寄ってきた。


遅かった――。


「ふふっ!」


ぬるりと、背後から蛇のように絡みつくものがあった。気づいたときにはすでに遅く、冷たく滑らかな鱗がアーヴァの腰から肩にかけて這い上がり、絞首刑の縄のごとく全身を締めつけてくる。


メドゥリーナだった。

彼女は脱皮の瞬間に本体を隠し、死を偽装していたのだ。その戦略は見事に嵌まり、アーヴァは背後から拘束される形となった。


「このまま絞め堕としてあげるっ!」


メドゥリーナの声は耳元で囁くように響き、息の熱すら冷たく感じられる。


蛇としての本性を剥き出しにした彼女の身体は、まるで生きた鎖のようにアーヴァの全身に絡みつき、力強く締め付けてくる。滑るような感触と冷たい鱗が、嫌というほど肌に密着し、力が容赦なく注ぎ込まれていった。


「早く棄権しないと、死ぬわよ…?棄権しても放さないけどねっ」


ニヤリと笑うその顔には、魔族らしい嗜虐の色が浮かんでいた。


アーヴァの体を包む圧力は瞬く間に強まり、軋む肋骨が悲鳴を上げる。肺から空気が強制的に絞り出され、視界がかすむ。体中の関節がきしみ、まるで骨ごと押し潰されるような感覚に襲われる。


「くっ―」


「く…?苦しいかしら…?ほら、苦しんだ顔をアタシに見せなさ――」


苦しんだ表情を見ようと、メドゥリーナがアーヴァの顔を覗く。


そこにあった顔は、苦悶に満ちた表情ではなかった。


「くふふっ♪」


アーヴァは、締め上げられたままのその姿で、ふいに口の端を吊り上げた。かすかに肩が震え、くつくつと喉の奥から笑い声が漏れ出す。


それは苦悶ではなく、嘲笑だった。


「…確かに並みの魔族ならこのまま身動きできず死ぬじゃろう…じゃが…甘いぞいっ!」


絞めつけられていた小柄な体に、次の瞬間、異変が起きた。


まるで何かがはじける音が聞こえたようだった。その身体から噴き上がるように、青白い炎がぼうっと立ち上がる。


「ンシュタウンフェン家を舐めるでないぃっ!!『バーン・フレア』!」


叫びと同時に、アーヴァの全身を蒼い炎が包んだ。


焔は生き物のようにゆらめき、巻き上がりながら四方へ広がる。意志を持つかのようにその業火は暴れ回り、触れたものを拒絶し、焼き尽くす力を発揮していた。


蛇の鱗と鱗の隙間から、青い炎が染み込む。次の瞬間、肉が焼けるじゅうっという音が空気を裂き、炎に焼かれたメドゥリーナの口から凄まじい苦鳴が漏れた。


「ぎ……ぎゃあああああっ!!」


その悲鳴は獣のうなり声にも似ていた。蛇の身体が大きくのたうち、締め付けていた力が徐々に緩んでいく。


アーヴァは、身体を締めていた重圧が消えていくのを感じながら、満足げに鼻をひくつかせた。そして、くすくすと愉快そうに笑う。


「くんくん…くふっ…良い具合の焼き加減じゃな…」


「っ!?」


その言葉に、メドゥリーナの顔が引きつった。


蛇の長い身体が一気に解けるようにしてアーヴァから離れ、地を這って後退する。その動きには、明らかな恐怖と焦燥が混じっていた。


メドゥリーナの体表にはところどころ黒く焼け焦げた痕が残り、そこからは細く煙が立ち昇っている。鱗は剥がれ落ち、皮膚は炎の熱でひび割れていた。


一方、アーヴァはなおも青白い焔に包まれたまま、静かにその場に立っていた。髪をなびかせながら、肩で息をしているが、その双眸にはまだ揺るぎない余裕の光が宿っている。


蒼炎の勢いが徐々に弱まり、青白い焔の壁が崩れ落ちていく。


そしてその中心──燃え盛る炎の核に立つ少女の姿が、ゆっくりと露わになった。


煙を纏うように揺らめく空気の中、アーヴァ=ンシュタウンフェンは凛然と佇んでいた。灰青の髪が熱風に踊り、薄く浮かぶ笑みはまるで勝者の余裕。まさに、蒼炎の竜と呼ぶにふさわしい威容であった。


そんな彼女を見て、メドゥリーナの表情が恐怖に染まる。


「ま、待ってっ!?分かったわっ!…き、棄――」


震える声で言葉を発しながら、彼女は両手を前に突き出す。棄権の意思を示そうとしたのだ。しかし、その声は燃え立つ戦意に満ちたアーヴァの耳には届かない。


「…終いじゃ、蛇女。覚悟するぞいっ!」


その声と同時に、アーヴァは拳を振り上げた。拳はなおも蒼炎を纏い、熱と魔力と怒りの象徴のように輝いている。


一気に踏み込んだアーヴァの小さな身体が、一条の光となって突進する。


メドゥリーナが身をかわすよりも速く、放たれた一撃が彼女の腹部を正確に捉えた。


蒼炎と怪力が合わさったその一撃は凄まじく、打撃音とともにメドゥリーナの身体が宙を舞う。


彼女は地面を滑り、転がり、そして石畳に激しく衝突した。乾いた音が響き、土埃が舞い上がる。


その身体には焦げ付いた鱗がまだ残り、蛇の髪は炎に焼かれ傷んでいた。


何よりも──彼女の腹部にはぽっかりと穴が開いていた。まるで、最初から穴が空いていたように中の骨、臓物が蒼炎によって焼き尽くされた。

かすかな痙攣を残して、メドゥリーナの身体はやがて動かなくなる。


静寂が支配する中、審判の声が高らかに響き渡った。


「勝者――アーヴァ=ンシュタウンフェン!」


誰もいないはずの観客席から、不思議などよめきが湧いたように感じられる。


その空気の中で、アーヴァはふっと肩を落とし、纏っていた炎を払うように手を振る。


熱気が消えていくと同時に、彼女の唇に小さな笑みが浮かぶ。


「わっちに挑むには1000年、早いぞいっ!」


その言葉は勝者の余裕と、そして確固たる誇りの響きを帯びていた。


戦いは終わった。しかし、それは同時に――

始まりに過ぎなかった。



―――



号令が響き、空気が張り詰めていた。


風だけが吹く静寂の中、砂塵が舞い上がり、ざらつく音だけが耳に残る。無人の観客席に囲まれた戦場の中央──二つの影が、まるで対をなすかのように相対していた。


一方の影は、ルドラヴェール。


その姿は虎に似て、しかし虎ではない。赤い体毛を纏い、黒の縞模様が走る、四肢を地につけて低く構えたその姿は、精悍という言葉だけでは表しきれぬ気迫に満ちていた。


しなやかに鍛えられた筋肉は獣の動きを極限まで洗練させ、風にたなびく赤いたてがみは、焔のように揺れる。


口元から突き出した二本の長い牙は、まるでサーベルタイガー。鋭く、獰猛で、殺意を宿した輝きが鋼のように光る。


尾は鉱石のごとく硬質でありながら、風を切るようにしなり、今にも何かを撃ち落としそうな緊張を孕んでいた。


「グル…貴様ガ俺ノ相手カ…」


その声は低く唸るようであり、喉の奥で熱を宿していた。


対峙するは、ベルザ・モーグ。


人の面影をかろうじて残してはいるが、その巨躯と気配は、もはや獣の枠にあるといっても過言ではなかった。


その身長は優に二メートルを超え、岩のように盛り上がった筋肉が全身を覆っている。その一つひとつがまるで武器のように無骨で、彼の動きには一挙手一投足すべてに質量と破壊力が伴っていた。


濃く粗い毛が肩から腕、脚に至るまでを覆い、獣皮のような質感を持つそれは、まさに肉体そのものが鎧であった。


肩口や胸元に刻まれた幾筋もの古傷は、彼が幾度も死地をくぐり抜けてきた証。血と痛みに鍛え上げられた戦士の証明だった。


右手には、鉄塊を彷彿とさせる巨大な槌が握られている。その先端は禍々しいまでの重量感を持ち、地面に軽く触れるだけで砂塵を巻き上げる。


その頭部には牛のような角が生えており、低く傾けたそれが、今にも突進の合図となりそうな気配を発していた。


一歩、ベルザが地を踏みしめる。その一撃で、地面がわずかに震えた。


「お前…ぶっ潰す…!」


獣のように荒れた息が鼻孔から漏れ、白い蒸気となって宙に立ち昇る。まるで戦の狼煙のように、彼の殺意を世界に知らしめていた。


「ブモォッ!!」


耳をつんざくような咆哮が、闘技場の空気を震わせた。

ベルザが吠えた。音というより、衝撃だった。


咆哮と同時に、地を割るような踏み込み──まさに猛牛の突進だった。凄まじい質量が爆発的な加速を伴って一直線に突き進み、踏みしめた石畳が爆ぜるようにめり込む。闘技場全体がその一撃で揺れ、観客席の石壁すら微かに軋む音を立てた。


それを、ルドラヴェールは真正面から迎え撃った。


エメラルドグリーンの瞳が鈍く光を捉え、獣の直感が殺気の軌道を読む。


ベルザの握る大槌が唸りを上げながら頭上に振り上げられた、その刹那。


ルドラヴェールの身体が、地を滑るように動いた。まるで重力すら欺くような滑らかな動きで死角へと回り込み、反撃の牙を剥く。


──斬ッ!

風が裂け、閃く爪がベルザの背へと襲いかかった。三本の鋭い爪が重厚な筋肉をも貫き、背中に深い爪痕を刻む。


血飛沫が舞う。しかし、それでも倒れない。


ベルザは呻き一つ漏らすことなく、獣の直感に従って反転するや、巨腕を横殴りに振るった。


その動きはまるで山が動くかのようだった。鉄塊のような重さを持つ腕がルドラヴェールの肩口に直撃し、乾いた衝撃音が響いた。


赤き獣の身体が宙を舞い、風を切って壁際まで吹き飛ぶ。


だが、叩きつけられたその瞬間にはもう、ルドラヴェールの脚が再び地を蹴っていた。


崩れ落ちる瓦礫の中から赤いたてがみが再び風に舞う。

砂塵を裂くように跳躍。鋭く開かれた顎が狙うは、巨獣の腹。


その牙が肉を割り裂き、ベルザの腹部へと突き立った。肉が裂け、血がほとばしる。低くくぐもった、獣の悲鳴が響いた。


だが──


「グルルル……ッ!!」


ベルザの両腕が持ち上がる。怒りの篭もったその動きはまるで断罪の鉄鎚。


がっしりとルドラヴェールの頭部を両手で掴むと、勢いのままにその身体を振り下ろし──


ドゴォンッ!


地が割れた。


闘技場の石床が砕け、土砂と石片が爆煙のように舞い上がる。大地が呻き、破片が飛び交う中、ルドラヴェールの肉体が地に叩きつけられた。


衝撃に一瞬、赤き身体が硬直する。しかし、そこで終わりはしなかった。


ルドラヴェールの尾が、閃光のように動いた。


鋼のように鍛えられた尾が風を裂き、唸りを上げてベルザの顔面を正面から撃ち抜く。


ガキィンッ!


金属がぶつかり合うような音が鳴り、尾がその角を狙って叩き込まれる。鋭角に打ち据えられた頭が、大きく横に揺れた。


しかし──ベルザは、崩れない。


僅かに顔をそむけたまま、その瞳にはなお闘志の火が燃えていた。


二体の猛獣が、再び跳躍した。


血に濡れ、無数の傷を抱えながらも、その瞳には決して消えぬ炎が灯っている。もう互いに止まる気配はない。ただ、ぶつかり合うことだけを求めて、その身を宙に躍らせた。


爪が閃き、牙が唸り、拳と大槌が風を裂く。


硬質な毛皮が裂け、鍛え抜かれた筋肉が砕け、骨が軋む音すらかき消されるほどの衝撃が交錯する。戦場には、理性も技術ももはや存在しなかった。


あるのは、ただむき出しの「力」と「本能」、そして──絶対に引けぬという執念。


それだけが、二つの命を駆り立てていた。


闘技場を囲む観客席からの歓声も、誰かが息を呑む気配も、この地獄には届かない。


ただ、飛び散る血の匂いと、喉を焼くような荒い呼気。そして、獣同士が命を削り合う轟音が、空間を支配していた。


「ヤルナ…」


重く、低い声が響く。獣の心から、言葉が漏れた。


「お前…強い…」


短くも、深い言葉だった。互いに、好敵手として相手を認める。そこに偽りはない。


「ダガ、俺ハ負ケン…我ガ主…クトゥル様ノ為ッ!」


叫びは咆哮のように大気を震わせ、決意が籠もった瞳に炎が揺れる。


「俺も、同じッ」


静かに、だが確かに、答える声が重なる。言葉は少なくとも、心はぶつかり合っていた。


そして、ふたたびぶつかる。


理屈など存在しない。戦術も意味を成さない。ただ、己の中にある最も原初的な闘志と、喰らいついてでも譲らぬという誇りが、肉体を突き動かしている。


拳が肉を叩き、爪が皮膚を引き裂き、牙が血を啜る。


熱を帯びた空気が揺れ、荒れ狂う呼吸と爆ぜる衝撃が、闘技場のすべてを満たしていく。


そこにあるのは、ただひたすらに「ぶつかり合い」。


獣としての全てを込めた激突だった。もはや、言葉は必要なかった。


だが──そんな極限の死闘のさなかに、確かに「静寂」があった。


怒号や咆哮が渦巻くはずの闘技場に、ふと、妙な違和感が生じたのだ。


誰もいないはずの観客席。その虚ろな空間から、ひときわ鋭く「息を呑む音」が響いた。


それはまるで、この命のぶつかり合いに魂ごと引き込まれた幻の観衆が、無言の驚愕を吐いたかのような気配だった。


その瞬間、戦況が──動いた。


ベルザ・モーグの腕が唸りを上げる。全身の筋肉を震わせ、振り抜かれたのは、巨体に見合う鋼鉄の大槌。暴風のごとく振るわれるその一撃は、直撃すれば何者であろうと無事では済まない。


だが、ルドラヴェールの双眸はそれを見逃さなかった。


地を滑るように踏み込み、獣の尾がしなる。瞬間、風を切る音が鋭く走り──尾の一閃が、大槌を打ち払った。


金属と獣の骨の激突。大槌は軋む悲鳴をあげながら、宙へと舞い上がり、弧を描いて場外へと吹き飛んでいく。


好機を逃すはずがない。尾撃の余韻すら残る間もなく、ルドラヴェールの両脚が地を蹴った。


紅きたてがみが風を裂く。獣の咆哮とともに飛翔し、そのままベルザの胸へと鋭く跳び蹴りを叩き込む。巨体が僅かに仰け反った、その隙を逃さず──


二本の牙が、寸分の迷いもなく、ベルザの喉元へと突き立った。


「──グガッ……!」


肉を裂く音。牙が喉の奥深くへと食い込み、噴き出した熱い血潮が、鮮烈な弧を描いた。


だが、ベルザはまだ沈まない。獣の執念が、魂を燃やす。拳が振るわれ、吠えるような息が喉から絞り出される。圧倒的な力で、噛みつくルドラヴェールの身体を引き剥がそうと、最後の力を振り絞った。


──しかし、その拳には、もはや力がなかった。


あれほど猛り狂っていた肉体が、どこか迷いと弱さを帯び始めていた。


牙は容赦なく肉を割り、さらに深く──命の源へと喰い込んでいく。


血が溢れ、紅く染まった砂の上に波紋を描く。ベルザの荒い呼吸が次第に濁り、やがて──


その瞳が、白く濁っていった。


戦士の魂が抜け落ちるように、巨躯が崩れ落ちる。ルドラヴェールの牙に抱かれるようにして、ベルザ・モーグの体が静かに沈んだ。


闘技場の空気が止まる。血の池に映るのは、風に揺れる紅いたてがみ。


どこから見ていたのか、審判が姿を見せ、声が高らかに前言した。


「勝者――ルドラヴェールっ!」


「ルドラヴェールっ!」


「グルゥ…貴様トハ、違ッタ出会イ方ヲシタカッタナ…」


低く呟かれた言葉は、唸るように闘技場に響いた。


勝敗は決した。差は、ほんの紙一重だった。


だがそこにあったのは、単なる勝者と敗者の構図ではない。


互いの命を、肉体を、魂を尽くしてぶつけ合った末の、静謐なる終焉──猛き者たちに許された、ただひとつの安息だった。



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