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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑬

夜の帳が静かに降り、アビスローゼ邸は深い沈黙に包まれていた。

窓の外では厚く垂れ込めた暗雲が、月の光を覆い隠している。邸内には自然光が一切届かず、灯された燭火だけが唯一、暗闇を照らす命綱のように揺れていた。


重厚な応接室の一室。壁に等間隔で並ぶ燭台が、淡く橙色の光を放っている。

その灯りは古びた背表紙が並ぶ巨大な本棚を照らし、精緻な彫刻が施された天井に長く不定形な影を落としていた。

空気は重く、澄んでいるというよりは、静まり返っている。


時折、蝋の滴が燭台から垂れ落ちる音だけが、張りつめた沈黙の中に微かな生命の気配を残していた。


その一角。

黒い石床が敷き詰められた応接室――重厚な革張りの椅子に、男が一人、静かに腰掛けていた。

クトゥル。異形にして、邪神と呼ばれ、確かな存在感をこの地にもたらした、黒き混沌の神。


彼の指は椅子の肘掛けをゆっくりと撫でるように滑り、その掌に宿る力の制御を確認するかのようだった。

やがて彼は、わずかに身を乗り出す。

蝋燭の光がその仮面のような顔にかかり、灰褐色の肌がほのかに赤く照らす。

そして、沈黙を破るように、低く響く声を発した。


「……して、エリザベート。決闘とは、どのように執り行うものなのだ?」


その声音は、低く威厳を帯びていた。

主として当然の関心を抱く者の問い――一見すればそう捉えることもできた。

だが、その奥底には、微かに震えるような気配があった。


探るように。

怯えるように。そして、何よりも知らぬ者としての慎重な問いかけ。


豪胆の仮面を被ったその裏側で、クトゥルの内心は静かに、しかし確かに荒れ狂っていた。

この先、自らが戦う羽目になったら――

想像だけで、触手の先がわずかに冷えるのを彼は感じ取っていた。


だがその気配を、誰にも気づかせることはなかった。

彼は邪神なのだ。

少なくとも、この館にいる者たちの前では。


「(俺、知らないから……! どうやったら逃げれるっ!?)」


脳裏に響く絶叫。

叫んでいるのは他でもない、彼自身。

心の中では警鐘が鳴り響き、無数の逃走ルートを想定しては潰し、また探し…と、思考が空回りしていた。


しかし、彼の顔に浮かぶのは――ただの沈黙と冷徹な風格。


薄明かりに照らされた部屋の一角、クトゥルはまるで威厳に満ちた審問官のような佇まいで椅子に身を預けていた。

鋭くも涼やかな瞳が揺らぐことなく虚空を捉え、その姿からは、動揺の欠片すら感じ取ることはできない。


だが実際のところ、頭の中では――火災報知器が鳴っていた。


その向かいで、エリザベートが優雅にティーカップを手に取る。

細くしなやかな指が磁器を支え、カップの縁が唇にそっと触れる。

紅茶の香りがほんのりと立ち昇り、彼女は一口含むと目を閉じ、その香味を静かに堪能する。


そして――そっと受け皿にカップを戻すと、微笑を浮かべたまま、落ち着いた声で語り始めた。


「由緒ある決闘であれば、五対五が基本です。ただ個別の勝敗ではなく、最後に残った陣営の代表が勝利となります。騎士団戦や名門家同士の紛争など、誇りを賭ける場合はこの形式が多いです。」


それはあたかも、舞踏会の順序や、晩餐会での正しいナイフの使い方を語るかのような自然さ。

そこに込められた優雅さと無慈悲さの両立は、まさしくアビスローゼの名にふさわしいものだった。


「ふむ…」


クトゥルは低く相槌を打った。

その声は深く響き、傍目には熟考の末の理解と納得に聞こえただろう。


だが――


「(……一人ずつ戦うんじゃなくて、同時か……ってぇっ!?絶対戦い回避できないだろっ!?)」


脳内で蹴散らされる理性。

邪神であれど、初見ルールには弱いのだった。


焦りの波が内側から押し寄せるも、クトゥルの外見は一切崩れない。

むしろ沈着さすら感じさせる風格で、背もたれに体を預け、氷のような無表情を保っていた。


「くふっ…クラゲイン家も愚かじゃな……わっちらだけではなく、クトゥル様を相手にするなど、勝率を0にするつもりぞいっ」


アーヴァは、応接室の一角のソファーに身を預け、背の一方に腕を引っかけながら、満足げな笑みを浮かべた。


彼女の竜の尻尾が、まるで意思を持つかのようにゆらりと揺れる。

そのリズムには余裕と愉悦が滲み、言葉より雄弁に彼女の感情を伝えていた。


彼女の身体は小柄で、まるで重力すら逸らすように軽やかだ。

ソファーの上に浮かぶように収まる姿は、どこか神秘的な浮遊感を与える。

袖の奥から覗く鱗に覆われた手首、そして尖った爪先の動きにまで洗練された気品が宿り、育ちの良さが滲み出ていた。


けれど――その丸い双眸の奥には、悠久の時を越えし古き竜の血を引く者にだけ宿る、冷ややかで底知れぬ深みがあった。

どれだけ笑みを浮かべていても、心の奥ではすでに戦の形を読み解き、計算し尽くしているのだろう。


「同感ですっ」


すぐ隣に座していたティファーが、静かに言葉を紡いだ。

その声音は控えめながらも確かな自信を含み、響くような芯の強さが感じられる。


彼女は背筋を微塵も崩さず、吸い込まれるような美しい所作で、ティーカップを指先に取り上げた。

その手の動きには一切の淀みも迷いもなく、まるでそれこそが戦場での剣の振るい方であるかのような精緻さがあった。


煌めくプラチナブロンドの髪が、暖炉の炎に照らされて銀の波となり、彼女の横顔を柔らかく照らす。

その表情は静謐にして、凛然。


揺らぐことなく見据えるその瞳は、まるで研ぎ澄まされた刃のように清冽で、美しさすら武器に昇華していた。


アーヴァとティファー――対照的な二人の少女が放つ確信の気配は、まるでこの場を完全に掌握しているかのようであり、応接室の空気は次第に重厚な戦の緊張へと傾いていった。


そしてその対面――重く張りつめた空気の中、ルドラヴェールが低く唸るような声を発した。


「全クダ…己ノ力ヲ過大評価シテイルノダロウ…」


その声音は、山間に響く遠雷のごとく、静かに、だが確かに場の空気を震わせた。

太く鍛え上げられた四肢、筋繊維の上からさえ覗く野性の気配。

粗野とも思える身なりに反し、その佇まいはまさしく王の風格を纏っていた。


床にどっしりと根を下ろした足元からは、まるで森の支配者が一歩ずつ世界を踏みしめているかのような、威圧の重みが感じられる。


二対の耳が僅かに揺れ、額には、険しい思考の刻まれた深い皺。

彼は今まさに、愚かなる敵を俯瞰する者の眼差しで、静かに断を下していた。


周りの言葉を聞き、クトゥルは低く、重みのある声がその唇から紡がれる。


「ふ……愚かなる者たちが、我が威光に抗おうなどと。滑稽だな…」


その一言はまるで、空間の温度を数度下げたかのような冷たさと威厳を帯びていた。

暖炉の炎が、その声音に押されて揺らぎ、光と影の輪郭が室内を不安定に踊らせる。


誰もが息を呑み、その場から一歩たりとも動けぬ緊張が広がる。

だが、その威風堂々とした姿の奥。漆黒の瞳に潜むのは、別の色だった。


「(いやいやっ!俺を過大評価しているのは、エリザベートたちだってっ……!?…何かないかっ、戦闘を回避できる方法はっ……!?)


心中では、まるで迷子のように出口を探す混乱が渦巻いていた。

威厳を演じる仮面の下では、汗がじっとりと背筋を伝い、冷静という皮を被った焦燥が、必死に逃げ道を模索している。


それでも、声音ひとつ乱さず、彼は神の如き存在として君臨し続ける。

その姿に誰一人として疑念を抱く者はなく、むしろ「邪神が裁きを下す」とすら思わせる威圧があった。


心と声が反転する異様な均衡のまま、応接室の空気はさらに冷え込み、近づきつつある戦の気配を孕んで張りつめていく。


クラゲイン家とアビスローゼ家の対立――それ自体は、クトゥルにとって予見の範囲内だった。


このウロボロスにおいて、血統と誇りを掲げる者たちの争いは常であり、避けられるものではない。

だが、まさかここまで多くの強者たちが真正面からぶつかり合うとは、想像の外であった。


それは、彼自身が決して望んだ未来ではなかった。


燃え盛る暖炉の前。

朱金の炎が壁を照らし、天井の装飾を影絵のように揺らしていた。

その光に照らされながら、室内には鋭い言葉と重みある視線が交差する。


アーヴァの小気味良い嗤い声。

ティファーの凛とした肯定。

そして、ルドラヴェールの一言が放つ圧倒的な威圧。


それらが重なり、応接室には嵐の前触れのような、張り詰めた静寂が支配しはじめていた。

その場にいる全員が、ただの言葉の応酬以上のものを感じ取っていた。


それは、決闘という名の避けがたい運命が、確実に近づいているという事実に他ならない。


――そんな空気を、ひと筋の風が切り裂いた。


誰にも気づかれぬように、そっと立ち上がる影がひとつあった。

インプのリュミエール。

彼女はゆっくりとエリザベートたちから離れ、周囲の誰とも目を合わせることなく、言葉も残さず静かに歩を進める。


軽やかで流れるような足取り。

その動きには迷いがなく、まるで既に次へと向かう決意がその身に宿っているかのようだった。


メイド服がすっと揺れ、柔らかく床を撫でながら後に流れる。

その布の音すら吸い込むような、応接室の深い沈黙。


白く細い指が、そっと扉の取っ手へとかけられたその瞬間――。


リュミエールは、ふと、振り返った。

目元が、ほんのわずかに緩んでいた。

言葉にはならない感情。声にならない決意。

その表情は、彼女の内面に宿る物語の一節が、静かに捲られたことを告げていた。


その笑みは、誰にも気づかれずとも確かな強さを持っていた。

淡く、それでいて決然とした意志を帯びた――戦士の、それとも信仰者の微笑だった。


扉が、静かに開かれた。

音もなく、その隙間から溢れた闇の向こうへ、インプの少女は一歩を踏み出す。



―――



月が、雲の切れ間からわずかに顔を覗かせる深夜だった。

その光は冷たく淡く、まるでこの邂逅の場を見届けることすらためらうように、慎ましく大地を照らしていた。


アビスローゼ家とクラゲイン家――ふたつの古き名家の境界に横たわる、打ち捨てられた古街道。

時の流れに忘れ去られ、苔むした石畳が風に沈黙を語るその道の中ほどに、老朽した石の橋があった。


橋は細く、脆く、風が吹くたびにきしむ。

その音はまるで、過去の亡霊が警鐘を鳴らすかのようだった。

生者の足音すら拒むような、朽ちかけたその橋の中央に、ふたつの影が対峙していた。


一方は、紫の髪を夜風にそよがせる少女――リュミエール。

その身を包む黒のメイド服は夜闇に吸い込まれ、裾だけが静かに揺れていた。

振り返る風に合わせて、尻尾の先につけられた鈴がわずかに揺れ、かすかな光を反射する。


歩を進めるたび、シャン、シャン……と澄んだ鈴の音が響いた。

それはまるで、彼女の心の揺らぎを代弁するかのように、夜の静寂に溶けていく。


彼女の双眸には、決意と、そして深い哀しみが滲んでいた。


「……やはり、来たか…」


低く、しかし橋上の空気を震わせるほどに確かなその声は、静寂を破らぬよう配慮された呟きだった。


その声の主は、紅い角と紫の髪を持つ青年――テネブル。

彼もまたインプであり、リュミエールと同じ血を引いている。


――テネブルとリュミエールは兄妹だ。

魔族:インプとして、同じ施設――否、檻と呼ぶにふさわしい監禁所で育ち、暴力と恐怖の中で肩を寄せ合いながら、わずかな温もりを分け合っていた。


逃げ出したあの夜。

炎が揺れ、怒号と悲鳴が飛び交う中、ふたりは必死に森を駆け抜けた。

追手に囲まれ、崖へと追いつめられたあの瞬間――


誰かの叫びと共に、世界が反転し、光が遠ざかっていった。

そして、ふたりは引き裂かれた――


月光の加減によって、テネブルの髪色が輝く。

目元の輪郭、表情の機微、言葉の端々にまで、過去の影が色濃く宿る。


懐かしいテネブルの顔。その顔には、一片の揺らぎもない。

瞳はまるで冷えきった鏡のように、感情というものを映さず、ただ虚空を睨んでいた。


「…まさかと思ったけど…やはり、お前だったのか…久しぶりだな。リュミエール」


その声音はどこか呆れたようで、そして微かに――名残惜しさすら滲ませていた。

だが、顔に浮かぶ表情は冷たく、月の光すら跳ね返すような硬質さを帯びている。


かつてあの崖から落ちてから、ふたりの時間は途絶えた。

それぞれが違う道を歩み、違うものに仕え、光と闇を背負う者となった。

そして今――この朽ちかけた橋の上で、ふたりの運命は再び交差する。


リュミエールは、彼の瞳の奥にある何か――埋もれた感情のかけらでも拾い上げようとするように、そっと一歩を踏み出した。

橋がきしむ。だがその音にすら、彼女は怯まない。


「兄……いえ、テネブル。あなたは、本当にクラゲイン家のためだけに動いているの?」


かつての呼び名に舌が触れた瞬間、胸がきゅうと締めつけられる。だが、それでも口に出した。

すぐに言い直したその声には、責める響きはなかった。

むしろそれは、過ぎ去った日々の中に微かに残るぬくもりを求めるような、懸命で、儚い問いかけだった。


その視線には――懇願があった。

思い出してほしいという一途な願い。

幼き日に交わした笑顔、温もり、守られた時間が、まだどこかに残っていると信じたかった。


あの夜のことが、脳裏によみがえる。

牢のような部屋に押し込められ、痛みと恐怖に震えていた日々。

テネブルはいつもリュミエールの隣にいて、傷つきながらもその身を盾にしてくれた。

火の手が上がったあの夜、ふたりは手を取り合い、命からがら逃げた。

追手に追いつめられ、崖の上に立たされたあの瞬間――

彼の手は確かに、リュミエールの手を離さなかった。だが、崩れた地面がふたりを分かち、彼女は落ちた。

意識が戻ったとき、もう彼はいなかった。


それ以来ずっと、彼の姿を探していた。

そして今――ようやく巡り会えたのに。


しかし――返ってきたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。


「そうだ。お前がアビスローゼ家に拾われたように。僕もイグロス様に拾われ、役目を与えられた。ただそれだけだ」


その声音には、迷いも感情も、わずかな温度さえもなかった。

まるで、感情というものを忘れた機械が台本を読み上げるかのように。

その表情は張り付いた仮面のように冷たく、かつての兄はそこにはいなかった。


リュミエールは、わずかに顔を俯ける。

唇をかすかに噛みしめたその仕草に、堪えがたい痛みがにじんでいた。

再会を夢見てきた日々、その答えがこれであっていいはずがなかった。


「それだけのはず、ない……兄さんは、本当は、誰よりも――」


リュミエールの声が震えた。

吐き出された言葉の尾は、夜風にさらわれて闇へと溶けていく。

声にならなかった想いが、ひとしずくの涙のように、静かに流れて消えた。


その瞬間――対峙するテネブルの瞳が、かすかに揺れた。

氷のように冷たかった視線に、ほんの一瞬、迷いとも名残とも取れる色が灯る。

遠い記憶の中の、あの寒い夜に、小さな手を握り返したぬくもりが――一瞬だけ、脳裏に浮かんだ。


だが、それも束の間のこと。

すぐに感情の痕跡は掻き消され、彼の表情は再び引き締まる。


「リュミエール。決闘に手を出すつもりなら、容赦はしない。これは、由緒正しい決闘だ…」


静かに、しかし鋼の意志を宿した声だった。

感情を殺したようなその言葉に、リュミエールはそっと首を横に振る。


その動きは、拒絶というよりも、悲しみそのものだった。

再び心が交わることはないと理解しながらも、テネブルは、あの時のまま、どこかで凍りついたままなのだと。


「……分かってる」


リュミエールの声は、静かに胸の奥底からにじみ出た祈りのようだった。

震えるようなその吐息に、夜の空気がわずかに揺れる。


白く細い指先が、そっと尻尾の鈴に触れる。

それは、かつて――まだ小さなあたしたちが、互いに唯一の存在だった頃。

彼が、作ってくれた、手作りの鈴飾りだった。

「離れないように」と、あの晩、リュミエールの尻尾に結びつけてくれた。


あのとき、火の手が迫っていた。

毎日繰り返される暴力、逃げ場のない檻のような施設。

それでも――唯一、彼だけは彼女を庇い、守ってくれた。

幼き日のリュミエールにとって、彼の存在は唯一の光だった。


あの夜のことは、彼女の記憶に深く焼き付いている。

一秒たりとも、忘れたことはなかった。


それから、十数年。

時が過ぎても、あの崖の夜に置き去りにされた「約束の続きを」リュミエールはずっと心のどこかで探し続けていた。


再び、夜の橋に沈黙が満ちた。

風が通り過ぎ、橋の下に生い茂る草木をやさしく揺らす。

遠く、夜の森の奥からふくろうの声が一度だけ響き、静寂を一瞬だけ破った。


テネブルは、対峙する彼女の瞳をじっと見つめていた。

その視線の奥に、なにか軋むような気配が走る。

心の奥底に沈めていた記憶が、鈴の音とともに、静かに水面に浮かび上がる。


けれど、彼は何も言わなかった。

ただ、静かに目を伏せる。

もし言葉にしてしまえば――何かが壊れてしまいそうで、それが怖かったのだ。


やがて彼は、無言のまま背を向けた。

橋を渡り、夜の帳の中へと消えていくその背に、かつてリュミエールの中で「兄」と呼んでいた少年の影は、もうなかった。


その背が、完全に夜に溶けようとしたその刹那。


「あたしも……この決闘に参加する」


鈴の音とともに響いたその声は、静かに、だが確かに、張り詰めた空気を切り裂いた。

それは、かつて救われた少女が――今度は誰かを守るために立ち上がる者へと変わった証でもあった。


その宣言に迷いはなく、むしろ凛然たる意志をまとっていた。

リュミエールの瞳は、過去を越えて進むべき未来をまっすぐに見据えていた。


その声に、テネブルの足が止まる。

橋の向こう、夜闇へと溶けかけていたその背が、ぴたりと動きを止めた。


肩がわずかに揺れたのは、風のせいか、あるいは――胸に響いた言葉のせいだったのか。

そして、ゆっくりと振り返る。

銀の月光が射し込んだ刹那、その表情には見慣れた冷淡さに混じって、目に見えぬ一抹の動揺が浮かんでいた。


「……弱いお前が、なぜ、そこまでする…?」


低く、抑えた声だった。

それは問いというよりも、思わずこぼれた独白のようにも聞こえた。

かつて、妹を庇って命がけで逃げ出したあの夜。

恐怖と痛みの中で握りしめた手。

あの手のぬくもりを、今も忘れたことなどなかった。


リュミエールはまっすぐに彼を見据える。

橋の中央で風を受け、髪がそっと揺れるたび、尻尾に結ばれた鈴がかすかに音を立てる。


「あたしは、目を背けてきたの…。

兄さんが何を選び、何をされてきたのか…向き合うことが怖かった…」


声は静かだったが、その奥に滲む感情は、胸の奥を締めつけるほどに熱を孕んでいた。

リュミエールの胸中には、崖の下に落ちてからの記憶が、今も鮮烈に焼き付いている。

あの瞬間、すべてが終わったと思った。もう二度と、彼とは会えないと。

けれど、こうして再び対峙している。まるで奇跡のように――。


「でも、逃げてばかりじゃ、何も変わらない。この戦いは……兄さんとの戦いであると同時に、あたし自身との戦いなの…。」


少女の言葉に、テネブルの眼差しがかすかに揺れた。

モノクルの奥、その静かな仮面の裏側で、封じていたはずの記憶がゆっくりと目を覚ます。

まだ幼かったあの頃。小さな体で互いに手を取り合い、地獄のような日々をただ生き抜いていた。

焼け焦げる音。暴力の連鎖。罵声と、血の匂い。


そして、あの夜。

追手が迫る中、彼は彼女を手を引いて走った。だが、崩れ落ちた崖の縁で、二人は引き裂かれた。

感触を覚えている。確かに繋いでいた手が――離れた、あの瞬間を。


――お前を守れなかった。

あの時点ですべてが終わったはずだった。二度と戻ることなどない過去。


だが今、リュミエールの存在が、彼の胸に沈めたはずの痛みを、確かに呼び起こしていた。


それでも、テネブルは冷淡な声音を保った。

しかしその眼差しの奥には、消しきれない迷いと、捨てきれぬ情がほんの一滴、灯っていた。


「……好きにしろ。ただし、誰であろうと、立ちはだかるなら……敵として処理するまでだ」


鋼のように硬質な響きを持つその言葉。

だが、耳を澄ませば、その中にかすかな震えが混じっていた。

それは感情ではない、と彼は否定したかった。だが、内心は否応なく軋んでいた。


背を向けたテネブルの歩みは、先ほどよりもわずかに重い。

まるで、踏み出すごとに過去が足を掴み、引き戻そうとしているかのようだった。


リュミエールは黙ってその背を見送った。

胸元にそっと手を添え、あの日崖に落ちた自分を思い出す。

ただ守られることしかできなかった、逃げ出すしかなかった自分は、もうここにはいない。


深く、静かに息を吐く。

風がその瞬間、彼女の衣を揺らし、鈴の音がひとつ、夜の静寂に溶けて響いた。

その音色はまるで、少女の決意そのもののように凛と響きわたる。


――たとえ、この戦いの果てに何が待っていようとも。

自分の意思で、それを見届ける。


夜空の月は、なおも雲間から顔を覗かせていた。

冷たく、それでも静かに照らされるその橋の上。

ふたりの影は長く、長く、沈黙の中に引き伸ばされていた――。

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