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荒野の魔獣⑤

ロイの剣が、焚き火の赤い灯りを反射し、まるで血を吸った刃のように鈍く輝いていた。


砂粒を含んだ風が吹きすさぶ中、剣先は微動だにせず、ただまっすぐに、クトゥルの胸元を指している。


そこに込められていたのは、迷いを捨てた覚悟――あるいは、追い詰められた者の必死の意地だった。


だが、その鋭い殺意の矛先に立つ少年――クトゥルは、どこか間の抜けたような表情でその剣を見つめていた。


凍りつくような張り詰めた空気の中、ただ一人だけ、まるで緊張感というものが欠落したかのように。


その内側では、まったく別の嵐が吹き荒れていた。


心臓が喉元までせり上がり、背筋には冷たい汗が流れている。


外見の静けさとは裏腹に、内心は今にも爆発しそうなほど動揺していた。


「(うっ…マジで剣向けてきた。やば……やる気だ、こいつ…)」


焦燥と驚愕が交錯する思考の中、クトゥルはちらりと隣に目を向けた。


そこには、焚き火の赤い光に照らされながら、静かに佇むエリザベートの姿。


彼女は、宙に舞った火の粉を払うように、冷ややかに手をひと振りしただけだった。


その一動作に、クトゥルの胸がすっと軽くなる。


「(あ、エリザベートが落ち着いてるなら大丈夫だな……てか、こいつら……)」


視線を戻し、彼は相手を観察する。


ロイの剣の持ち方――力み過ぎており、逆に隙が多い。


ミナの声――引きつった震えがあり、精神の動揺は明らか。


ゲルの握る杖――指先に余裕がなく、いつでも取り落としそうな不安定さ。


そして何より、三人の手首に下がる銅製のタグがすべてを物語っていた。


――ブロンズランク。初級の冒険者に与えられる、最も低い等級の証。


瞬間、クトゥルの表情にはひたりと冷たい自信が浮かび上がった。


背筋にぞくりと走るような、妙な昂揚感。


それは恐怖の裏返しでもあり、彼自身に宿る何かが目覚める合図でもあった。


「(これは……勝てる!)」


確信した彼の胸の奥で、ふと何かが囁いた。


いたずら好きな悪魔が微笑むように、愉快で、少し危険な衝動が息を吹き返す。


ならば――やるべきことはただ一つ。


「……クク」


それは、確かに少年の声だった。


だが、焚き火の空気を震わせたその笑みには、もはや人間の感情は含まれていなかった。


笑っている。それは間違いない。けれど、その笑みに込められた何かが、聴く者の心の奥底をぞわりと撫でる。


それは悪意でも、善意でもない。ただひたすらに、理解を拒む異質。


クトゥルは静かに立ち上がった。


焚き火の淡い橙の光が、その細い身体の輪郭をなぞる。


影が地面を這い、風が止まる――そして、変化が始まった。


骨が軋むような、内側から崩れるような不快な音が響いた。


少年の身体がひときわ大きく震えたかと思うと、輪郭が徐々に崩れ、まとまり、歪んでいく。


やがて、人体としての形を失い、それはなめらかに、しかし異様な滑らかさで球体へと変貌していった。


不定形のその塊は、まるで呼吸するように脈打ち、次第に硬質な外殻を生み出していく。


金属とも生物ともつかない質感のそれは、光を吸い込み、返すことなく沈黙していた。


だが、焚き火の揺らぎがその表面に触れると、禍々しい輝きがゆっくりと浮かび上がる。


殻の稜線は、生物の背骨にも似た骨格的な美しさを持ちながら、どこか構造として破綻していた。


左右対称であるはずのその形状は、視る角度ごとに違って見え、見る者の視界に錯覚の波紋を広げる。


その外殻の至るところに、ひとつ、またひとつと赤い眼が開いていった。


瞼を持たぬその眼球たちは、ただ見るのではない。


見られる側の思考を探り、暴き、嗤い、引きずり出す。


それは、捕食者が餌に向ける視線ではなかった。


審問者でもない。

――ただ、「存在」そのものへの、無垢な好奇心と冷徹な無関心が交差した視線だった。


そのとき、クトゥルの口元が静かに動いた。


だが、その声はもはや人間の声帯を経て発せられるものではなかった。


響きは深く、重く、何層もの意味をまといながら、空気を振動させるのではなく、思考へと直接侵入してくる。


「我は混沌の端より歩みし者……虚空の律を超えし、ことわり無き存在……――すなわち、万象を喰らう、真なる災厄」


その声が放たれた瞬間、空気が張り詰めた。


「我が名は、クトゥル。深淵なる混沌の邪神なりっ…(ここで、オール・オブ・ラグナロク使っとこ)」


バァァァァン……!


耳慣れない衝撃音が響き渡り、空気の層が裂けるように風が巻き起こる。


焚き火の炎が激しく煽られ、火の粉が赤い花弁のように宙を舞った。


夜の空間が一瞬、異界へと切り替わったかのような錯覚。


「(おっ…良いタイミングで、風吹いてくれたぞっ)」


少年――いや、邪神を名乗る者の心に、したたかな満足感が走る。

その裏で、目の前に広がる地獄絵図は、確実に始まっていた。


「うぅ…ぃ…」


ゲルが最初に崩れた。声とも呻きともつかぬ音を漏らし、そのまま尻餅をついた。


目は見開かれたまま焦点を失い、唇は震え、言葉にならない声が喉奥でくぐもる。


脚が震え、立つこともままならない。くすんだ水色のズボンの股間部から、ぬるりとした音と共に、じわりと濡れが広がっていく。


生理的な恐怖反応――彼の理性は、既に限界を越えていた。


ミナもまた、続いた。手にしていた弓が力なく指を滑り、乾いた音を立てて地面に落ちた。


「ひ、ひぃぃ……あ……あぁ……」


そのまま膝から崩れ落ち、スカートの裾が砂にくしゃりと沈む。


そして、彼女の足元にもまた、水音が滲んだ。


瞳は虚ろに彷徨い、頬を伝う液体は涙とも違う、感情を超えた絶望の産物。彼女の世界は、既に崩壊していた。


だが、唯一、ロイだけは――辛うじて剣を握っていた。


だが、その手は明らかに震えている。


剣先はわずかに揺れ、呼吸は浅く、心拍は恐怖に追い立てられるように早鐘を打っていた。


――理性が、恐怖と混乱にかき乱されていた。


「(な、何なんだこいつは……!?)」


あれは何だ?


魔物か? 魔族か?

いや、違う。そんな分類に当てはめようとすること自体が、何かの冒涜に思えた。


その存在は、そこにいるというだけで現実を踏みにじる。


ただ存在するという事実が、世界の理を侵す異形。


「だ、大丈夫……か……ミナ、ゲル……!?」


ロイは、声を振り絞った。だが返ってくるのは、嗚咽と、喉を詰まらせた呻きだけ。


剣を掲げたまま、ロイは一歩、わずかに後ずさる。


けれど、それは決して臆病ではなかった――理性をつなぎ止める、精一杯の防衛本能だった。


だが、その刹那。


クトゥルの体に刻まれた無数の眼が、一斉にロイへと向けられた。


笑っているのか。


威圧しているのか。


その表情は定かでない。


だが、ただひとつ明らかなのは――見られたという事実。


その視線の重圧に、ロイの膝が音もなく軋んだ。


崩れ落ちる寸前の静寂があった。



―――




クトゥルは――悠然と、一歩前へと踏み出した。


まるで重力の束縛を受けていないかのような、滑らかで優雅な動き。


だが、着地の瞬間には、足元の砂利が弾けて飛び、硬い地面が微かに呻いた。


空気が重く、押し潰されるような圧力が辺りに充満する。


無数の眼が、同時に瞬きをした。


まるで神域に在る意思が、無数の窓からこちらをのぞき込んできたかのような、神聖にも似た畏怖と戦慄の混合。


「退け、矮小な魂どもよ。これより先は、理の届かぬ深淵…貴様らのような半端な命など、踏み躙るまでもない…。」


その声音は、地上のどこにも属さぬ響きだった。


低く、深く、空気と骨の奥にまで染み込むような重低音。


まるで天地の底、太古より眠り続けた神の鼓動そのもの。


そして同時に、その気配は確かに生きているものではなかった。

むしろ、生ある者たちが本能で避けるべき、存在してはならぬもの。


ミナは、地に伏したまま動けなかった。


体は丸まり、手足は力なく、ただぶるぶると震えている。


浅く、細かい呼吸音だけが喉から漏れ、指先はもはや弓どころか、土を掴むことすらできない。か細く微動するだけの存在。


ゲルは――すでに意識の彼方だった。


白目を剥き、半開きの口から、かすれた音が漏れる。虚ろな表情のまま、肩を支点に崩れ落ち、身を折り曲げたまま地面に倒れ込んでいた。


――彼らはもう、戦士ではなかった。

ただの、生きた人形に過ぎない。


だが、ひとりだけ。

ロイだけは――まだ、剣を握っていた。


その手は激しく震え、顔は死人のように青ざめ、唇は血が滲むほど強く噛み締められている。

それでもなお、彼は前へ出た。


腕を上げ、剣を構える。


その一瞬の姿に、クトゥルの内部で何かが確かに軋んだ。


ぞわり、と異質な感覚が胸の奥に這い上がる。


「(え……?なんで? ていうか、なんでまだ剣、構えてるんだっ…!?)」


――異常だ。

ここまでの演出は完璧だったはずだ。


姿を変え、恐怖を纏い、周囲の空間すら歪めた。


音も光も幻もすべて使い、圧倒的な威圧感で膝を折らせるだけの威容を作り上げたのに。


「ふぅ…愚かね…」


耳に届いたのは、静かな、しかし呆れを含んだ溜め息だった。


それはエリザベートの声。

けれど、彼女が落胆していたのはクトゥルではない。


神に膝を折らず、なおも向かおうとする――愚かな者への、ため息だった。


それでもロイは、退かなかった。

震えたまま、それでも目をそらさずに、砂地に足をめり込ませるように立ち尽くす。


「……お、俺は……まだ……終わってない………どんな相手でも、戦って、みせる……!」


焦点の合わぬ目。

だがその奥には、消えぬ火があった。


力のすべてが奪われ、希望は潰え、恐怖が支配するこの場において――

彼の心だけが、未だ折れずに残っていた。


「(いや、待って、何これ……! こいつ……何者!?)」


異形の殻の奥で、クトゥルの思考が悲鳴を上げていた。


その巨躯に宿るのは神話級の威容。


地上の何者をも圧倒する存在として、圧倒的演出を整えたはずだった。

しかし今、その全てが通じなかった。


眼前に立つはずのない者が、なおも剣を握っている。


ブロンズランク――下級の冒険者。

精神耐性も戦闘経験も、到底この恐怖に耐えられるほど備わっているはずがない。


だというのに。


「(これ、予定と違う……!)」


予定調和を破られた瞬間、クトゥルの中で演者としての焦りが膨らむ。


それは冷や汗にも似た感覚――決して神が流すはずのないものだった。


けれど、外面にそれを出すことは許されない。


相手が剣を下ろさぬなら、こちらは邪神としてその威容を保ち続けなければならなかった。


ならば、演技の続きを。


クトゥルは目を細め、重々しく笑みを浮かべた。


「ククク…我を前にしてまだ、剣を向けるか…哀れな奴だ…」


嘲笑を込めた声。

だが、内心では思考が回転を速めていた。


「(ど、どうしよう…)」


焦り。誤算。綻び。

理性の仮面の下で、混乱がじわじわと広がっていく。


この膠着――不自然な均衡。


神が人を睨み、人が神へ剣を向けるという滑稽な構図を、どのように打破すべきか。


舞台の上に立つ邪神は、誰にも悟られぬよう、次なる一手を模索していた。

この一瞬の静寂こそが、彼にとって最大の敵だった。


――そしてその間にも、ロイは剣を下ろさない。


空気が張り詰めていく。


砂煙が、わずかに舞い上がるたび、二人の影が揺れる。


それは、偶然が生んだ演劇ではなかった。


混沌と覚悟が交錯する、ひとつの決断の場。


そして、その場に立つ邪神は、思った。


「(どうすれば……自然に、引き際を演出できる?)」


なぜなら、これは――負けられない芝居だったのだから。


沈黙が降りた。


時間にすれば、わずか数十秒――

しかし、それは永遠にも似た緊張の刹那だった。


クトゥルにとっては、次なる一手を思案する一瞬の空白。


だが、ロイにとっては、地獄のように長く、重く、恐怖に満ちた刻だった。


風は止まり、夜の死者の荒野に一切の音が消える。


焚き火の残滓が、ぱちりと鳴るか鳴らぬかの沈黙。


その中心で――異形のそれは、ただ立っていた。


動かない。まったくの無言。


あの異様な体躯がわずかにもしなれば、それだけで神経が断ち切れそうな緊迫の中。


ロイは震える息を吐いた。


目の前の存在は、魔でも獣でもない。ただそこにいるだけで理を侵す、理解の外にあるもの。


「(なんだ……動かない……なぜ……)」


手にした剣が、汗ばんだ掌の中で重たくなる。


手足の末端が冷え、鼓動が喉まで競り上がるような感覚に、彼は思わず左手を胸にあてた。


荒く乱れた呼吸を整えるために、深く、深く、吸い込む。


肺の奥に焼けつくような空気が入り、それでも恐怖は収まらない。


額から垂れた冷汗が眉を伝い、視界の隅を滲ませていく。


その時だった――


「(胸…心臓……閃いたっ!よし…ロールプレイ…開始だっ)」


異形の存在――クトゥルの瞳の一つが、微かに瞬いた。


それは意図的なまばたきだった。無数の眼のうち、たった一つだけが、意味深に閉じて、開く。


続いて、口元がゆっくりと、まるで愉悦を含むように緩んだ。


そして。


「――苦しいか?」


静かに、だが底のない冷たさを宿した声音が、虚空を這うように響いた。


空気が凍り、周囲の空間がひとつ呼吸を止めたかのようだった。


声に込められたのは、憐れみか、嘲りか。

あるいは――そのどちらでもない、ただ“人間という存在”への純粋な興味。


冷気が足元から這い上がり、荒野に新たな戦慄を刻み込む。


クトゥルはゆるやかに動いた。


その異形の指が、胸の前でふわりと宙を切り、禍々しい赤黒い外殻に覆われた掌が静かに、何かを握るように丸まっていく。


まるで何かを掴むような所作――その動きに、ただならぬ重さがあった。


「心臓の鼓動が、やけにうるさいようだな……˝貴様˝の。」


その言葉が夜気を裂いた瞬間――


「心の臓は…」


ドクン……ドクン……


空間を伝う、規則的で生々しい音。


確かに、それは聞こえた。どこからともなくではない。クトゥルの――あの拳の中から。


まるでそこに、本当に心臓があるかのように。


ロイの目が見開かれ、全身が硬直する。


突如として湧き上がる恐怖に、彼は言葉を喉から絞り出した。


「なっ……なぜ、手の中から音が……!?」


彼の声はかすれ、唇は震えていた。


理性と感覚が食い違う。自分の胸はまだ鼓動を刻んでいる。けれど――なぜ、目の前のそれの掌からも、心音が?


クトゥルはにやりと笑った。


禍々しい仮面のようなその顔に、邪悪な余裕が滲む。


そして、静かに一歩、ロイの方へと足を踏み出した。


「愚かな魂よ……この手にあるもの、わからぬか?」


闇に溶けるような声音。

空間がまた一段、重く沈む。


「――これは、貴様の心の臓だ。」


その言葉は鋭利な刃のように空気を裂き、魂の奥底まで突き刺さる。

信じ難い。けれど、あまりに現実味を帯びていた。


「なっ……!?」


ロイは本能的に胸に手を当てた。


確かにそこに心臓はある。鼓動は感じる――だが、それでもなぜ。

なぜ、相手の手の中からもそれが聞こえるのだ。


「い、いつの間に……? 俺の…心臓を…?」


混乱が思考を濁らせる。


その異常な現象に、仲間たちも正気を失いかけていた。


ミナは悲鳴を上げ、まるで蜘蛛の子を散らすように地面を這って後退する。

ゲルは悔しさと恐怖に奥歯を噛み鳴らし、顔を伏せて地に頭を擦りつける。


「う…そ…」


否定しようとする言葉は虚しく宙を舞い、理解不能の恐怖が彼らの脳を染めていく。


もはや目に見える現実すら疑わしく思えるほど、異様な空気が周囲を包み込んでいた。


「(よしっ…良い感じだっ!)」


焚き火の揺らめきが、クトゥルの頬を照らす。


表情の裏で、彼は密かに勝利のガッツポーズをしていた。


冷酷非情の混沌の邪神――その仮面をかぶりながら、内心ではまるで舞台役者のように、己の演技を自画自賛している。


実のところ、彼には心臓を抜き取るような恐るべき暗殺スキルなど持ち合わせていない。


そんな精密で致命的な技術を習得した覚えもない。


これは、全て演出だった。


彼が行使したのは、自らのスキル――《オール・オブ・ラグナロク》。


頭で想像した音を鳴らし、音量の大小、音を鳴らす箇所を指定できるスキル。


ただ、音の振動で相手を攻撃することはできないため、攻撃には転用できない。


そのため、彼は、掌の中で心音を鳴らしていた。


「ドクン」「ドクン」と、恐怖と絶望を象徴するような重低音を、まるで本当に心臓を握っているかのように発生させたのだ。


それだけのことだった。

だが、周囲の反応はまったく違った。


「我ガ主ハ、……イツ心臓ヲ抜イタノダ……」


ルドラヴェールの声音だった。


魔獣であり、絶対の忠誠を誓う存在。その彼ですら、知らず言葉を漏らすほどだった。


クトゥルの演技は、魔すらも欺いたのだ。


さらに、後方からもう一つの声が低く漏れる。


「まさか……これが……クトゥル様の唯一無二の力……《オール・オブ・ラグナロク》……!」


それはエリザベート。


その瞳には驚愕と、同時にほんのわずかな興奮が浮かんでいた。


彼女の中で、狂信がまた一歩、深化していく。


その反応すら、クトゥルは無言で読み取り、余裕の仮面を崩さずに続きを演じた。


「貴様の矮小な牙が届くころには…」


低く、嘲るように。


言葉の一つひとつが圧力を持ち、相手を押し潰す。


「…心の臓を潰してくれよう……ッ!」


握られた拳が、ギリギリと音を立てるように締め上げられる。


「――ッ……!!」


ロイの顔から血の気が引いた。


その場で全身の力が抜け、握っていた剣が指の隙間をすり抜けて、乾いた音を立てて地面に落ちる。


目は虚ろに開かれ、動きを失った膝が崩れる。


ロイは――地に伏した。


完全なる戦意喪失。


カラン……


金属の落ちる乾いた音が、風すら息を潜めた荒野に虚しく響いた。


死者すら忌むこの地において、それはまるで、敗者に捧げる侮蔑の鐘の音のようだった。


「た、頼む…いえ、お、お願いしますっ…どうか……い、命だけは……!」


ロイの声が震え、かすれ、血に濡れた喉から悲鳴のような嗚咽を混じえてこぼれ落ちる。


その声に続くように、ミナとゲルも、引き攣った足取りでずるずると地を這い、ロイの隣に膝をついた。


彼らは全身を泥に塗し、額を地面に擦りつけるようにして頭を垂れた。


乾いた土と風に運ばれた砂が肌を刺す。


それでもなお、彼らは恐怖を振り払えず、ひたすら哀願の言葉を繰り返す。


「お、お願いです……許してください……」


「わたしたち、悪気があったわけじゃ……た、助けようと……」


彼らの目の前に立つ存在。


赤黒い皮膚に似た外殻を纏い、異形の威容を放つそれは、あまりにも神聖で、あまりにも絶望的だった。


それは、もはや人智の及ぶ存在ではない。


理屈も、正義も、懇願も、通用しない。


この世界において絶対を体現する存在を前にして、彼らに残された選択肢など、とうに途絶えていた。


しかし――その背後から、さらに冷たく鋭い声が届いた。


「邪の神であるクトゥル様に剣を向けた罪……ただそれだけでも、死には値するわ。」


その声は、氷の刃のように鋭く、なおかつ美しかった。

振り返る勇気を失った者たちの耳に届いたそれは、エリザベートのものだった。


紅玉のように冷ややかに輝く瞳で、彼女は跪く者たちを見下ろし、その唇に嘲笑を浮かべていた。


「貴方たちは、地上で最も愚かなる者たちよ。相応の代償を払うべきじゃないかしら…?」


言葉が突き刺さるように沈黙を支配し、空気をさらに重苦しく染め上げる。


そこへ、地の底から響くような、低く濁った唸り声が加わった。


「我ガ主ニ、剣ヲ向ケタ罪。死以外ノ贖イハ…ナイ……」


ルドラヴェール。


魔獣の身にして、新しく邪神に絶対の忠誠を誓う存在――その声には理も憐れみもなく、ただ粛々と死を告げる判決の響きがあった。


その場にうずくまるロイの歯が、恐怖にかちかちと鳴った。


顔を土に伏せたまま、彼は呼吸を忘れたように震え続ける。


ミナも、ゲルも、すすり泣くことしかできず、やがて懇願の言葉すら止み、額を地に擦りつけたまま動かなくなった。


逃げようとは思わない――逃げれば、即死だと本能が告げていた。


今ここで殺されるかもしれない。


それでも、動かなければ、数分だけでも生き延びられるかもしれない。


ただそれだけを頼りに、彼らは微動だにせず、ひたすら存在を消すようにして命を繋ごうとした。


その沈黙の中で――


クトゥルは、ただ静かに佇んでいた。


地に伏す三人の冒険者を見下ろしながら、彼の内に渦巻くのは、単純な怒りでも憎悪でもなかった。


「(殺すべき、か?)」


無数の眼の奥で、知性の光がうねる。


確かに、彼は剣を向けられた。


だが、あまりにも稚拙で、あまりにも力不足だった。

傷一つつけられず、終わってみれば、己が威容に震え伏せるだけの存在。


クトゥルは思考を止めない。

問題は彼らの命ではない。

――この者たちが、今後何を為すか、だ。


「(ここで、殺しても。帰しても……後々、こいつらがギルドに報告すれば、次はシルバーやゴールドランクの冒険者が来るかもしれない…)」


戦う価値のある敵ではない。

だが、数が集まり、事態が広がれば、煩わしい展開になる可能性はある。


ならば、選択肢は一つ。


「(――帰すついでに、トラウマを、くれてやろうっ)」


その瞬間、クトゥルの身体の一部――膨大な瞳の一つが、ぐにゃりと不気味に歪み、内側から光を帯びて開かれた。


重い空気が一層淀み、地そのものが軋むような圧を帯びる。


「貴様らの恐怖を、深淵に刻みつけてやる……」


その声は低く、地響きのように空間を支配する。

クトゥルはゆっくりと掌を開き、指先をわずかに震わせた。


直後――


ドクン……ドクン……ドクン……


低く、湿った鼓動音が、どこからともなく響いた。


しかしそれは、空気の振動ではない。

三人の冒険者の脳内に直接叩き込まれるような感覚だった。


――それは、先ほど己の命を握られた瞬間に聞こえた、あの忌まわしい心音。


理屈を越えた恐怖が、再び三人を蝕む。


「今、貴様ら3人の心臓を我が掌握した。」


静かに告げられたその言葉に、ロイの口から嗚咽が漏れた。


ミナは顔を地面から上げることすらできず、流れる涙だけが、砂に小さな染みを作る。


ゲルは唇をだらしなく開け、涎を垂らしながら、体を痙攣させていた。


「だが、我は今機嫌が良い。故に、この心臓は返してやろう…だが、返す条件がある。…我の存在をギルドまたは、知り合いに口外すれば……分かっているな…?」


返答はなかった。


けれど、彼らの動きが答えだった。


三人は声を失ったまま、全身を用いて「はい」と叫ぶように、頭を深々と地に叩きつける。


生きたい。それだけが、すべてを上回っていた。


クトゥルはさらに一言、冷たく突き刺すように言葉を重ねる。


「条件を飲むなら…誇りも、冒険者としての未来も、ここに置いて行け…」


その言葉に、ロイはわずかに顔を上げた。


血に汚れ、土まみれになった震える手が、もう片方の手首に伸びる。

そこに提げられた、ギルドタグ。

冒険者としての身分と誇りを示す小さな銅製のプレート――ブロンズランク。


彼は唇を噛みしめ、ぎゅっと握ったそれを外し、そっと地面に置いた。

それは静かに、土の上で転がった。


紛失すれば再発行はできない。

タグを失えば、彼はもう冒険者ではない。


ミナも、ゲルも、同じように震えながらタグを取り出し、地に投げ捨てる。


三枚のプレートが、無言の風に吹かれて乾いた荒野の中に転がった。


それは、誇りの喪失だった。


夢と未来を、その場に置き去りにする証だった。


そして、三人は――


涙と涎、鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでもなお、生き延びたという事実に縋るように、地を這ってその場を離れていった。


視線を後ろに向けることなく、足をもたつかせながら、ただひたすら前だけを見て。


二度と、あの存在には近づかぬと誓いながら。




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