氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑫
「……五人、ね」
テネブルがアビスローゼ領を後にしてから1時間後、エリザベートが静かに言葉を漏らし、優雅な仕草で椅子へと腰かけた。その所作は落ち着き払っており、まるですべてを見通しているかのような静けさがあった。
沈黙の空気が部屋を包むなか、クトゥルの視線がゆっくりと部屋の面々をなぞる。
エリザベート。金髪を染めた黒髪を揺らしながら、冷静に物事を見つめる彼女。
リュミエール。壁際に控えて無言を貫いているが、その瞳には知略の光が宿っている。
アーヴァ。青き鱗を持つ尾を陽に反射させ、小柄な身体からは想像もつかぬほどの覇気を放つ竜の姫。
ルドラヴェール。静かに控えるその姿は、まるで神獣のように研ぎ澄まされた力を秘めていた。
そしてティファー。凛とした佇まいの中に、まっすぐな忠誠心と情熱が燃えている。
「(うん…行けるっ!)
クトゥルの脳内で、応接室に並ぶ面々の姿が頼もしげに浮かび上がる。自身は戦わずとも、彼らならば勝利は確実――その確信が、内心を満たしていた。
「私は確定として……残り4人をどうするか、だけど…」
エリザベートが椅子の肘掛けに指を添えながら、冷静に周囲へと視線を向ける。
「わっちはもちろん出るぞい!」
勢いよく手を挙げたのはアーヴァだった。胸を張って腕を組み、竜の尾を誇らしげに振る。その動きに連動するように、照明が青く光る鱗を煌めかせた。
「元ではあるが、ユ=ツ・スエ・ビルの誇り高きンシュタウンフェン家としてやってやるぞい!」
その声には、かつて家を滅ぼされながらも信念を失わなかった誇りが宿っていた。
「では、私も参りますっ!」
ティファーが凛とした声で手を上げる。背筋をぴんと伸ばし、目を逸らさずにまっすぐ前を見据えるその姿からは、武人としての矜持がにじんでいた。
「この戦いは言わば、クトゥル様とクラゲイン家の戦い。負けは――!」
「ティファー様。お待ちください…」
彼女の言葉に待ったを掛けた者がいた。
リュミエールが一歩前に進むと鈴の音が応接室に鳴り響く。
「失礼を承知の上でお願いいたします。ここは、あたしに参加の権利を譲っていただけないでしょうか…?」
「む…何故だ…?」
ティファーの表情には怒りはない。ただ、リュミエールの意図を知りたい。ただ、それだけだった。
「…先ほど来た。テネブルと名乗る者…あれは、わたくしの兄の可能性があります。」
彼女の言葉に応接室が静まり返る。
「兄…か。それが本当なら貴女は出るべきではないのでは…? 血縁者となれば…戦いに迷いが生じるだろう」
ティファーの言葉に、リュミエールは一瞬だけ目を伏せた。長い睫毛が震え、心の奥にしまい込んできた記憶が、静かに水面を揺らすように蘇る。
だが彼女の瞳が再び上がったとき、そこには迷いではなく、凛とした光が宿っていた。
「……いいえ。だからこそ、あたしは戦わなければならないのです」
声は静かだったが、その一言には、揺るぎない意志が込められていた。
「あたしは……長い間、兄の存在に背を向けて生きてきました。
過去のこと…考えればすぐに分かったはずなのに、それをしなかった。向き合うのが……怖かったからです…」
彼女の手が、胸元にそっと触れる。そこには、幼き日にもらった小さなお守りが隠されていた。今はただの飾りに過ぎないそれも、リュミエールにとっては兄との唯一の絆だった。
「けれど……今ここで目を逸らせば、あたしは永遠に自分に打ち勝てないままです。この戦いは兄とのものだけではありません。
あたしの自身の過去と、弱さと……決別するための戦いでもあるのですっ。」
応接室を満たしていた緊張が、微かに変化した。ティファーはわずかに眉を動かし、リュミエールの決意を見極めるように彼女を見つめた。
そして、数秒の沈黙の後、静かに頷いた。
「……わかった。ならば、誇りを持って挑め。…それと、私に様づけは要らない…これからは、貴女と対等な関係でありたいからな。」
「っ…!…ありがとうございますっ。ティファ―さんっ!」
リュミエールは深く頭を下げた。その姿に、もはや戸惑いはなかった。
「決まったわね…頼んだわ…あと2人…」
エリザベートが柔らかな声で言葉を継ぐ。口調こそ冷静だが、その瞳には仲間への信頼が確かに宿っていた。
「グル…勿論、俺モ出ヨウ」
静かに一歩、前へ出たのはルドラヴェールだった。
しなやかな筋肉をまとった大柄な体躯が、まるで獣のように重く床を踏みしめる。
寡黙な彼はそれ以上何も言わずとも、その鋭い眼光と確かな足取りが決意を物語っていた。
「ふふ、頼もしいわ。」
エリザベートが目を細め、口元にわずかな笑みを浮かべる。氷のように冷たい印象を与える彼女の表情に、ほんの少しだけ人間らしさが宿る一瞬だった。
こうして、四人の戦士たちは即座に決まった。だが――残る一人が、まだ定まっていない。
静まり返った応接室に、再び重苦しい沈黙が落ちる。
時計の針が時を刻む音だけが、はっきりと響いていた。
「(よしよし、少しイレギュラーがあったけどおおむね予想通りだっ。さぁ、エリザベートっ!ティファーを指名するんだっ…!)」
応接室の椅子に深く腰かけながら、クトゥルは満足げに笑みを浮かべていた。余裕の表情。自分が戦わずとも、優秀なエリザベートたちがすでに前線を固めてくれている――その確信に満ちた笑顔だった。
エリザベートが一歩前に出る。長いドレスの裾が床をかすめ、その動きすらも品格を感じさせる。彼女は小さく息を吸い、唇の端に意味深な笑みを浮かべて言った。
「ふふ…最後の大トリを飾る御方…もちろんっ…」
その声音は、柔らかさの中に鋭い意図を隠していた。次の瞬間、部屋の空気が一変する。
ざわり、と視線の流れが生まれる。
誰もが同時に、自然とある一点――黒髪に灰褐色肌を持つ、異形の主へと目を向けた。
エリザベートたちが崇める邪神――クトゥルである。
「え…?(な、何で皆俺を見てるんだ…?ここは、ティファーだろう…?)」
動揺が脳裏を駆け抜けた。先ほどまでの余裕の笑みは、まるで霧が晴れるようにふっと消え失せる。
誰も声を出さない。けれど、その沈黙こそが雄弁だった。
「当然、主も出るもの」とする空気が、応接室の天井から床まで、張り詰めたように満ちていた。
戸惑いと困惑を内に押し込めながら、クトゥルはかろうじて威厳ある態度を保っていたが、内心ではただ叫んでいた。
「(ま、待てっ…違うだろう!?俺ではなくティファーだ、ティファ―が行くべきだっ…!)」
だが――誰もそれに気づいてはくれない。いや、気づいていながら、あえて口に出さないのだ。
この場で「出たくない」と言える空気ではなかった。否、それを言えば威信そのものが揺らぐ。
静寂が続く。
重苦しい緊張感が、クトゥルの胸をゆっくりと締め上げていった。
「…ふっ…」
全員の視線を一身に受けながら、クトゥルは静かに立ち上がった。
その動きはまるで舞台に上がる役者のように緩やかで、どこか優雅ですらあった。黒曜石のように深い瞳を細め、その口元に妖しげな笑みを浮かべる。
「最後は我、か…面白い…実に、面白い…ククク…フハハッ!」
重低音の笑いが応接室の静寂を破り、天井にまで届くかのように響き渡った。堂々たる振る舞い。
それは確かに邪神の名を冠するにふさわしい威容だった。背筋を伸ばし、腕を広げるその姿に、誰もが畏敬と信頼のまなざしを向ける。
――だが、その仮面の裏。
クトゥルの心中は、まさに火の車であった。
「(無理無理無理!!)」
脳内では警報が鳴り響き、混乱が暴風のように渦巻いていた。
目を閉じ、腕を組み、威厳たっぷりに見せてはいるが――内実は、必死に動揺を押し殺しているだけだった。
「(そもそも決闘って何だよっ!?格式も武器も知らないぞっ。ルールは?服装は?観客は?逃げ道はっ!?)」
深く根を張った焦燥が、彼の心を軋ませる。
「(どうしてこうなる! どうして、こう、自然な流れで俺が戦う流れになっているんだっ!!)」
ぐるぐると目が回る錯覚に陥りながら、クトゥルはそっと一歩、誰にも気づかれぬように後退しようとした。逃げ場を探すかのように――。
だが。
「クトゥル様がいれば、勝利は間違いないわっ」
エリザベートがうっとりとした目で彼を見つめ、声を弾ませる。
「グル」
ルドラヴェールが、短く、しかし力強く肯定する。
「くふっ!クラゲイン家の絶望の顔が楽しみじゃっ!」
アーヴァは両腕を広げるように笑い、青き尾を小気味よく揺らした。
「クトゥル様の加護がある限り、私たちは無敵ですっ!」
ティファーはひざをつき、真剣な表情で祈りを捧げている。まるで神託を受ける巫女のように。
「流石はお嬢様が信仰する御方…あたしも、全力で戦います!」
「(誰か一人くらい「無理しないで。別の者を出します」くらい言ってくれ……!)」
クトゥルは心の中で泣き叫んでいた。だが、その感情を表に出すことなど到底できない。
威厳を崩すなど、主としての存在を自ら否定するようなものだからだ。
そして――彼は完璧な笑みを浮かべたまま、両手をゆっくりと広げ、堂々と宣言した。
「我を加えた五人……もはや、勝利は決したも同然。クラゲイン家よ、せいぜい震えて待つがよい!」
威風堂々と放たれた言葉は、確かな重みを持って部屋を満たす。
仲間たちはその言葉に力強くうなずき、士気を高めていく。
――だがその胸中では。
「(嫌だぁっ! 決闘なんてしたくないっ!)」
クトゥルの心は、誰にも届かぬ悲痛な叫びに包まれていた。
―――
氷のような静寂が、世界を支配していた。
クラゲイン家の拠点――《氷獄宮》。
名の通り、そこは氷に封じられた獄のような空間だった。天井には逆さに吊るされた無数の氷柱が煌めき、石造りの床は深海のように冷たく、空気さえも凍てついている。誰もが言葉を呑み、鼓動すら忘れるような、緊張と圧迫の支配する場所。
その広間の中央に、ひとりの男が跪いていた。
テネブル。燕尾服を纏い、右目にモノクルをかけたインプの青年。身動き一つせず、頭を垂れたその姿はまるで処刑を待つ罪人のようにも見えた。
だが、彼が口を開いた瞬間、静けさがわずかに揺らぐ。
「……偽りの邪神および、アビスローゼ家、決闘を了承しました。」
低く、よどみのない声。
まるで決して情を交えぬ刃のように冷たく、事実のみを突きつけるその語調。
その言葉が発せられた刹那――
氷で作られた玉座の奥で、空気が震えた。
影が蠢く。巨大な、そして異形の何かが、眠りから目覚めるように動き出す。
玉座に腰を掛けていたその男――イグロス=クラゲインが、ゆっくりと立ち上がった。
その一歩が踏み出されるだけで、石の床に霜が走る。
氷の靄が足元を這い、全身から放たれる冷気が辺りの空気ごと凍らせていく。支配者の力、それは理屈ではなく本能で理解させられるものだった。
「…はっ…当然だ。…奴らに選択肢はねぇよ…」
重く響くその声は、傲慢と怒気の混じり合ったものだった。
けれどその奥に、微かににじむ哀しみの影。
それは過去に取り残された誰かの嘆きのようでもあり、氷よりも冷たい孤独そのものにも聞こえた。
ゆらりと、背後から伸びる無数の触手。
翠と黒の混じり合ったそれらは、淡く凍気をまといながら、まるで意志を持つかのように空間を漂い、テネブルの周囲を撫でる。
「それでぇ…? 偽りの邪神は俺様に戦いに挑むつもりか…?」
問いかける声には、冷笑の気配があった。
しかしその内には、微かに高揚すらも滲んでいた。
「まだ人選は決めていないようです…ですが、僕の見立てでは参戦するかと…」
テネブルは一瞬だけ顔を上げ、静かに主の目を見つめた。
イグロスの片目――金色に輝く三白眼が、鋭く細められる。
「――邪神を名乗る、力もねェまがいモノ風情が…」
言葉の端に、抑えきれぬ苛立ちが見えた。
しかし、それはただの怒りではなかった。
もっと別の感情――そう、かすかな既視感。
その名も知らぬ存在が、どこか自分の記憶を揺さぶるような、ざわめき。
なぜかはわからない。ただ、その存在が気に障る。だが、嫌いではない。
「まあ、いい。面白ェじゃねェか」
口元に浮かぶのは、冷えた悪意と飢えたような愉悦。
イグロスは片手を高く掲げ、氷霧を纏う掌で空気を切った。
「…――四天魔ここに招集する。」
イグロスの声が玉座の間に響いた瞬間――
広間の3方に刻まれていた魔法陣が、青白い光を帯びて脈動を始めた。
古代の呪文が刻まれたその文様は、氷の大地に淡い輝きを走らせ、やがて中央へと光が集束する。
やがて、地を揺らすような低い振動とともに、氷の床に蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。
冷たい蒸気を噴き上げながら、その裂け目から異形の影が這い出てくる。
――その第一の影は、地の底から漏れるような湿った音を伴って姿を現した。
背を折り曲げ、足を引きずるように這い出てきたその姿は、まるで深海の墓場から蘇った亡者。
それは、クラゲイン家の四天魔の一柱――グライア婆。
腐海の魔女。
そう呼ばれるに相応しいその外見は、見る者の理性を冷たく蝕んだ。
干からびたように瘦せ細った体は、茶褐色の肌に無数の皺が刻まれており、指の先には硬質な爪が伸びている。
骨と皮ばかりの手足で握りしめているのは、ねじ曲がったどくろと珊瑚の杖。そこには海中の苔と貝殻がこびりついていた。
顔は魚のように平たく潰れ、両目は頭蓋の奥に沈み込んでいる。
眼窩の下に備わった鰓が、ひくひくと脈打ち、湿った息遣いとともに泡を漏らしていた。
その存在が地上に顔を覗かせた瞬間、室内の空気がぐずりと湿る。
潮に腐った海藻のような臭気が広間に満ち、温度がさらに数度下がる感覚が走った。
そして、グライアは杖を軋ませながら立ち上がると、濁った双眼をゆるやかに細め、ぬめるような声を発した。
「ぐふふ。始まるようじゃな…クラゲイン家とアビスローゼ家の戦いが。」
その声は、耳元で囁く水音のように不快で、
言葉の合間には、ぴちりと泡のはじける音が混じっていた。
二柱:テネブル。
玉座の前に既に跪いていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
二柱目として名を連ねるのは、他ならぬテネブル。その人である。
闇の海に染め抜かれたかのような紫紺の髪が、冷気にたなびき、広間の青白い光をわずかに弾く。
その髪の下から覗く双眸には、奇妙な静けさが宿っていた。
それは激情の狂気ではない。
研ぎ澄まされた理性の奥底に沈殿する、冷たい狂気。
まるで計算式の一つにすら血の匂いを組み込めるような、戦略家の目――
相手の心理を読み解き、駒として捨てることに何のためらいもない者だけが持つ、鋭利な光を放っていた。
その額からは2本の角が赤々と突き出している。
身にまとう燕尾服は、動くたびに氷の光を拾って鈍く光り、
その裾はまるで地に這う霧のように静かに揺れていた。
三柱:ベルザ・モーグ
魔法陣が再び唸りを上げ、地の底から轟音が響いた。
そこに姿を現したのは、まるで要塞の壁面そのものが動き出したかのような、巨大な影だった。
ベルザ・モーグ。
その名を知る者なら、ただその姿を見るだけで背筋に冷たいものが走る。
身長は二メートルを優に超え、逞しさを通り越して獣そのものと化した肉体。
石を思わせる硬質な毛が全身を覆い、肩や胸元には幾重もの傷痕が刻まれている。
それは彼がいかなる戦場を歩んできたかを、否応なく語っていた。
彼の頭部は牛のそれに酷似していた。
ただし、普通の牛ではない――
その角は太く、根元から先端まで亀裂が走り、内部に何かが脈動するように、薄く蒼い光が走っている。
深紅の瞳がギラリと光り、威圧感は、もはや空気そのものを震わせていた。
右手には、鉄塊とも見まごう巨大な大槌が握られている。
鍛冶神の怒りを形にしたようなそれは、ただ地に触れるだけで、周囲の氷に罅を走らせた。
その足取りは重く、広間の床が震え、氷の天井から細かな欠片が舞い落ちる。
「ブモォぉッ!!」
鼻孔から吹き出す白い蒸気は、熱を含み大地をえぐるように拡散していく。
一歩踏み出すごとに響く轟音は、雷鳴のように天井へ反響し、魔物であるはずの彼の存在に、神々しさすら感じさせた。
その口が、わずかに動いた。
「……アビスローゼ。ぶっ潰すっ!」
ただそれだけの言葉。
だが、その一言には、千の咆哮を超える凶暴な意思が込められていた。
怒りでも、忠誠でもない。
それは本能に根差した、暴という名の衝動。
理屈も感情も超越した、圧倒的な破壊への欲求が、その巨躯の奥底でじわじわと沸き立っていた。
四柱:メドゥリーナ
最後に姿を現したのは、異様なまでに艶めかしく、かつ禍々しい気配を纏った影だった。
氷の床を滑るように現れたその存在は、腰から下が白銀の蛇の体、上半身は女の姿を持つ、ラミアの女王――メドゥリーナ。
その滑らかな蛇体は、一面の氷を撫でるようにうねりながら進み、床に薄く霜を引いていく。
全身を覆う鱗はわずかな光にも反応し、まるで虹を閉じ込めたかのように艶やかに輝いていた。
上半身の肌は白磁のように滑らかで、肢体の動きには不思議なまでの妖艶さがあった。
長く伸びた髪は艶のある銀紫で、高くツインテールに結い上げられている。
その髪の先が動くたびに、光が揺れて、見る者を幻惑しそうな美しさを放っていた。
そして、ピンク色の瞳――
その双眸がゆっくりと、玉座の前に立つイグロスを見上げる。
「ふふ……やっと舞台が整ったのですね。イグロス様。」
その声は、まるで毒を含んだ蜜のよう。甘く、しかし耳をくすぐるような刺激を帯びていた。
彼女はしなやかに上半身を揺らし、蛇体の尾で床を撫でながら進む。氷がその軌跡に沿ってわずかに濡れ、艶を帯びる。
「少しは骨のある相手だと良いけどね。」
唇の端がニヤリと持ち上がり、下唇に飾られたピアスが冷たい光を放つ。
その笑みには、戦いへの飢えと、相手を嬲ることへの期待が滲んでいた。
彼女が静かに並び立つと、ついに四柱――グライア、テネブル、ベルザ、メドゥリーナが揃った。
目の前に立つのは、氷獄の暴君、イグロス=クラゲイン。
氷の大広間に沈黙が満ちる。
それは、まさしく深淵より這い出た魔の軍勢。
いずれも常識を超えた異形たちであり、ただそこに立っているだけで、この世の理が崩れていくような感覚すら覚える。
イグロスはそんな四人の配下たちを、無言のまま見渡した。
唇の端がゆっくりと吊り上がる。
「これで˝まがい物˝の邪神がどうなるか……試してやるよぉっ」
その言葉と共に、背から生えた触手が音を立てて風を裂き、空気を凍らせるような圧が走った。
氷の広間に凍てつく沈黙が戻る――
決戦は、もはやすぐそこまで迫っていた。