氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑪
夜の帳が明け、人々がようやく朝の光の下に活動を始めた頃――
ソーンベルの巨大な門が、音もなく、まるで重力そのものを忘れたかのような滑らかさで開かれた。
きしみも軋みもなく、それはまるで、風に押されたかのように自然な動きだった。
だが、門の動きには確かな意志があった。意思を持たぬはずの扉が、何かに応じて開かれたかのように。
門の向こうから、姿を現す者がいた。
全身を黒の燕尾服で包み、影のごとく歩み出てくるその男は、前回と同じ姿をしたテネブルであった。
燕尾服は一糸乱れず整えられ、まるで暗闇が人の姿を借りて歩いているかのように、視界に馴染みながらも異様な存在感を放っている。
その中で唯一、鋭く光を返すのは彼の目元――
冷たくも強く、曇りなき双眸が、低く垂れ込める朝霧すら射抜いていた。
「昨日は大変失礼なことをしました――」
彼は、ひざが地に届かんばかりに深く頭を垂れた。
その声は低く、よく通り、まるで礼節という刃で相手の心に触れるような硬質さを帯びていた。
そして今回、彼の腕には一際目を引く品が抱えられていた。
それは単なる箱ではない。
金と白銀の糸で緻密に織り上げられた豪奢な文様がその表面を飾り、縁には大小さまざまな宝石が幾重にも嵌め込まれている。
あまりに神々しく、ひと目見た者にこれはただの贈り物ではないという印象を与える。
それはまるで、古の聖人が奇跡を封じ込めた聖遺物でも納めているような、神聖な気配すら纏っていた。
館の主の許可を得て、彼は館内へと案内された。
応接室に通されると、彼は一言も発さず、丁寧な所作で室内を見渡す。
無駄な動きひとつなく、彼の足取りは絨毯の上を静かに進み、テーブルの前で静止する。
その後、彼は芝居がかったようにゆっくりと身体をかがめ、両腕に抱えていた箱を、まるで神へ捧げる供物のようにテーブルの上へと置いた。
その仕草には、誇張された演出ではなく、あくまで丁重であることへの強い意識が滲んでいた。
どこまでも礼儀正しく、どこまでも慎重に。
だが、決して媚びるという印象を与えない、それが彼――テネブルという男の立ち居振る舞いだった。
「ふむ…高そうな箱じゃ――」
ふと、箱の中を覗き込んだアーヴァが、感嘆の息を漏らしながら口笛を吹いた。
箱の中には、眩いばかりの光が詰め込まれていた。淡い魔光を宿した宝石の数々――ルビー、サファイア、エメラルド、トパーズ。そして、希少価値の高い星の石までが惜しげもなく収められている。まさに、選りすぐりの宝石が隙間なく詰め込まれていた。
「なんじゃ……これは、国の貴族でも躊躇するレベルじゃろ……」
言葉の端に驚嘆を滲ませながらアーヴァが呟く。その尾がぴくりと反応し、揺れるたびに青色のうろこに淡い光が走る。ハーフツインに結ばれた髪も、宝石の輝きに反射してほのかに煌めいた。
だが、空気を震わせるほどのその輝きに、差し出した当の本人は一切心を動かされていないようだった。
「――我が主からの、ささやかな贈り物です。」
テネブルは、箱の中身に一瞥も与えぬまま、無感情なまでに淡々と述べた。その声には、驚きも誇りも一切含まれていない。ただ粛々と任務を遂行する、それだけの調子であった。
彼にとってこの箱は、贈り物ではなく手段に過ぎないことが、言外に伝わってくる。
その静謐な空気を断ち切るように、応接室に柔らかな声が響いた。
「で…?手土産も持たず…今回は何の用かしら?」
声の主は、エリザベートだった。
肘掛け椅子に優雅に腰掛けながら、紅の唇に浮かぶ笑みはどこまでも穏やか。だが、その眼差しには凍てついた月光のような冷ややかさが宿っていた。
彼女の視線は、決してテーブルの上の箱に向けられていない。まるでそこに存在する価値など一切ないとでも言うかのように、宝石の煌きすら意に介さない態度だった。
エリザベートの目が向けているのは、ただ一人――
己の言葉を携えて再訪した、テネブルという男だけである。
その沈黙の圧に気づいたのか、テネブルの口元がわずかに引き締まる。だが、それでも彼は礼節を崩すことなく、重々しい所作で一歩を踏み出した。
「前回の件について、再考をお願いしたく…」
静かながらも芯のある声が、部屋の空気を震わせる。
彼はその場で立ち止まらず、さらにもう一歩踏み込み、続けざまに言葉を重ねた。
「この宝石の他、クラゲイン家の後ろ盾も――」
「いらないわ」
刹那、空間を断ち割るような鋭い声が室内に響いた。
それは、エリザベートの声音だった。
柔らかさを纏っていたはずの彼女の声は、冬の刃のように冷たく鋭く、あらゆる打算や策謀を瞬時に凍らせる力を帯びていた。
テネブルの口に乗せられた言葉は、その一言で凍結される。
まるで冷気の壁に叩きつけられたように、彼の意図は空中で粉砕されたのだった。
エリザベートの瞳が、まっすぐに彼を射抜く。
その深紅の眼差しには、偽りも迷いもない。見透かすように、貫くように、彼女の拒絶は冷徹にして明確だった。
「……ふん。貴様らの主人は、あまりに我が眷属を軽んじているようだな…」
その声は、刃のように鋭く、なおかつ雷鳴のような重みを伴って室内に響き渡った。
空気が凍りつくような静寂。応接室にいた全員が、その声の主に視線を向ける。
ティーカップを指先に挟んでいたクトゥルが、ゆるやかな動作で立ち上がった。
手にした白磁の器は、何の乱れもなく――それどころか、まるでそれすら儀式の一部であるかのように――静かに窓辺の卓上に置かれた。
カップが光を柔らかく反射しながら、音もなく落ち着いたその瞬間、空間に違和が生まれた。
風も音もなく、影のようにテネブルの背後に彼は立っていた。
瞬間移動とは違う、より本能に訴えかける異様な移動。
意識がそれを捉えるよりも早く、彼はそこにいた。
「(絶対、エリザベートはやらんっ!『オール・オブ・ラグナロク』)」
クトゥルの心中は、熱く燃え上がる決意に満ちていた。
だが、その内心の炎を誰にも悟らせることなく、彼は冷徹な仮面を顔に貼りつけたまま、テネブルの背を静かに見下ろしていた。
「……っ」
ようやく、異様な気配に気づいたテネブルが反射的に身を翻す。
振り返った彼の視線の先には、先ほどまで柔和さすら感じさせていた男の、まるで彫像のように無機質な表情があった。
仮面の奥に魂が隠されているかのような、その不気味さに、彼の眉がわずかに跳ね上がる。
――そして。
ゾゾゾゾ……。
空間が蠢く。
耳を撫でるように、粘着質な音が広がり始めた。
それは聞こえるはずのない感覚を伴って、テネブルの背後から押し寄せてくる。
まるで、空間の裂け目から、何か得体の知れぬものが這い出してくるような――あるいは、触手のようなものが空気を舐めるように這っているかのような、不快でねっとりとした音。
クトゥルが放つ演出。
その名は『オール・オブ・ラグナロク』――狂気と破滅の神威。
「…っ!?(イグロス様は、このモノを偽りの邪神と仰っていたが…本当なのだろうか…)」
テネブルの胸に、冷たい疑念が突き刺さる。
背筋を這い上がるような悪寒が、じわりと脳を蝕む。
まるで背後から自分の存在そのものが飲み込まれるような感覚。
呼吸が浅くなり、喉が締めつけられる。冷汗が背中を伝い、指先がかすかに震える。
「(まるで、背後から僕を飲み込もうとする…この異質な気配…っ。)」
視界の端が暗く滲む。
これは演技などではない。
人智を超えた何かが、この部屋に確かに存在している――
その理解が、否応なく彼の精神を揺らがせていた。
テネブルが沈黙を守る中、静寂を切り裂くように、クトゥルがその口を開いた。
「クラゲイン家が、どんな高価な宝石や土地を取引材料にしようとも…我の意思は変わらぬ…」
その声は、凍てついた空気の中を音もなく滑る刃のようだった。静かでありながら、明確に威圧を孕み、部屋に響いた瞬間、空間そのものが緊張に染まる。
その言葉には、疑念も逡巡もない。内心では冷や汗が背筋を伝い、足元から感覚が抜けていくのを感じていたクトゥルだったが――その声音だけは、まさしく邪神としての風格に満ちていた。
彼の放つ威圧は虚飾ではない。演じているはずの存在が、いつしか現実を侵食しはじめている。迫真の気迫は、まるでこの世界に異質な次元を接続する儀式の一部のようだった。
「エリザベートを渡すつもりはない…」
静かなる宣告。
それは、拒絶というには生温い。クトゥルのその一言は、絶対的な否定であり、まるで世界の摂理として宣言されたかのような重みをもっていた。
誰もが、その言葉の刃に打たれたように、言葉を失う。
「クトゥル様っ…」
エリザベートの瞳が大きく見開かれた。
張り詰めた感情の糸が一気にほどけ、彼女は両手を胸に当て、ゆっくりと膝を折った。
その目元には、光の粒が浮かぶ。
静かに、だが確かに流れた涙。
それは、単なる感動ではなかった。彼女にとって、家族を喪い、孤独を抱え、孤高を貫いてきた年月を初めて肯定された証――魂が祈りの形に溶けた瞬間だった。
「……あたしも…クトゥル様に同意します」
部屋の静寂を破ったのは、もう一つの声だった。
リュミエールが、一歩前へと進み出る。
その足取りに迷いはない。少女の体に宿った意志は、静かに、しかし揺るがぬ確信を持っていた。
「あたしは˝アビスローゼ家˝のメイド。意志を捨てるつもりはありません。」
その一言は、刀のように鋭く、そして美しかった。
彼女の声が空気を切り裂くと、部屋に張りつめたような沈黙が訪れる。
誰もが息を呑んだ。誰もが、彼女の宣言の余韻に目を見張った。
数秒。
まるで世界が停止したかのような静寂の後――
テネブルが、ふっと肩をすくめた。
軽く、さも予定調和のように。
だが、そのこめかみに光る一筋の汗が、彼の内心を裏切っていた。
クトゥルの放った異質は、確かに彼の理性を蝕んでいた。
直視できぬものを背にしたときの、説明不能な恐怖。
それが、彼という優秀な使者の心に確かな裂け目を生んでいた。
「やはり――我が主の予測どおり、でしたか。」
そう呟く声は平静を装っていたが、わずかに震えていた。
彼は懐から、一枚の羊皮紙を取り出す。
古の封蝋が押され、慎重に折りたたまれたそれを、テネブルはまるで聖典を扱うかのような手つきで丁寧に広げた。
そして、恭しく、両手で差し出す。
クトゥルは無言でそれを受け取る。
彼の視線が羊皮紙の表面に滑る。
瞳の奥がわずかに揺れる。
しかし、顔には何の感情も浮かべなかった。ただ、静かに、緻密に、文字を追う。
隣に控えていたエリザベートが、興味を惹かれたように身を寄せた。
彼の肩越しから、共に文面を覗き込む。
紙の上には、これまでとは違う、新たな局面を告げる文字列が、確かに刻まれていた。
「ふむ…(な、何て書いてあるんだ…?)」
羊皮紙を手にしたクトゥルは、あたかも重厚な意味を噛みしめるかのように、静かに目を走らせていた。
眉一つ動かさぬその姿は、一見すればまさに威厳ある決断者そのもの。だが、彼の内心では冷や汗が額を伝い、視線の先の文字は、異国の神聖文書でも見るように意味不明の記号にしか映っていなかった。
「(読めねぇぇぇぇ……!いや、これは多分そう、魔族文字……きっと魔族語なんだ……!それとも古代文書か……?とにかく読めない……!)」
内心で悲鳴を上げながらも、表情はあくまで無表情のまま。それどころか、わざと呼吸を整えることで深く考察しているように見せかけるという謎の技を発動する。
そんな必死の演技をしているクトゥルの横で、ふと――
「…これは…決闘状…」
エリザベートの冷静な声が、部屋の空気を震わせた。
彼女は隣から羊皮紙を覗き込み、明確な語調で読み上げる。
その声音には驚きも怒りもなかった。ただ、事実を見極める者の冷静さだけが宿っていた。
「はい。正式には《魔族の誓約決闘》」
すかさず応じたのは、対面のテネブルだった。
彼は微笑を浮かべながら、まるで舞台の俳優のように一歩踏み出し、その声色にやわらかな自信と計算を含ませる。
「名誉と血統をかけた、古き魔族の伝統儀礼。全面戦争を避けるための、由緒正しい形式です」
その説明は穏やかでありながら、言葉の奥に鉄の芯のような強さがあった。
策を巡らせた者だけが持つ、揺るぎなき確信。
場に漂う空気が、静かに緊張を増す。
羊皮紙には、重厚な筆致で以下の内容が刻まれていた。
《誓約内容》
・アビスローゼ家およびクラゲイン家は、当事者間の紛争を決闘によって解決することに合意する。
・各家は5名の代表を選出し、名誉と意志をかけて戦うものとする。
・決闘は中立地《屍灰の闘技場》にて行われる。
・敗者は、勝者の条件を受け入れること。
「なるほど……」
しばし紙面を眺めていたクトゥルが、低く息を吐いた。
まるで先ほどの演技を継続するかのように、ゆっくりと羊皮紙を折りたたむと、静かに机の上へと置いた。
その所作は、言葉以上に重みを帯びていた。
すぐには答えを出さない――しかし、決して無視できぬ重大な局面であることを悟った者の動き。
場の空気は張り詰めたまま。
決闘という血と誇りを賭けた選択肢が、今、静かに、確かに彼らの前へと差し出された。
「つまり、戦を避けるための決闘、か。……血が流れることには変わりないが、無分別な殺戮よりは遥かに理にかなっている」
クトゥルは重々しい声音で呟いた。
その言葉はまるで凍てついた岩壁を打つ雷鳴のように低く、そして重く部屋の空気を震わせる。
黒曜石のように深く冷えた瞳が、羊皮紙の文面からゆっくりと離れ、虚空へと向けられる。
その視線の先には、決して見えるはずのない未来――それでも、確かに訪れるであろう血の運命が潜んでいるかのようだった。
争いを避けるための決闘という形式であっても、そこに血が流れるならば、それは戦にほかならない。
その事実を、クトゥルは一切の幻想を抱かずに受け止めていた。
彼の沈黙の奥には、冷徹で静謐な覚悟が潜んでいた。
「ええ。ですが、条件次第では命すらも失われます」
対するテネブルの声は、氷の刃のように鋭く、それでいて静かだった。
恐怖を煽るわけでも、警告を強めるわけでもない。
ただ淡々と、そこにある現実を告げる――まるで古き時代の預言を語る司祭のように。
「それでもなお、断られますか?」
その問いには、挑発の色など一切なかった。
それゆえに、返答の一つひとつに正面から向き合わざるを得ない。
テネブルの目は、まるで相手の内面を覗き込むように冷静だった。
それは意志の強さを量り、相手の格を見定める一撃。
「ふん。当然だ。我らが負けることなど、万に一つもありはしない」
クトゥルは鼻で笑い、ゆったりと背もたれに身を預けた。
椅子の革が軋む音が、余裕の響きを添える。
その漆黒の瞳には、絶対的な自信と軽やかな皮肉が宿り、どこか状況を愉しんでいるような気配すら漂わせている。
「(五人か。エリザベート、アーヴァ、ティファ―、ルドラヴェール。そしてリュミエール……うんっ、行ける!)」
内心ではすでに編成を終え、計算を済ませていた。
そしてなにより、自らが˝戦わない˝という前提が確定した瞬間、彼の心には明確な勝算と安堵が広がっていた。
その横で、エリザベートが静かに姿勢を正す。
美しき横顔には冷徹な知性が宿り、柔らかな声が空気を切り裂くようにテネブルへと投げかけられる。
「ただし、こちらの代表を選ぶ時間くらいは設けてもらうわよね?」
「もちろんです…こちは、すでに決定しているのでいつでも…」
応じたテネブルは、形通りの礼を深々と取った。
その一礼には礼儀と冷酷が絶妙に同居しており、一切の隙がない。
彼は背を向け、黒いマントをふわりと翻す。
その足音は、まるで結末を知っている者のそれ――静かで、確信に満ちていた。
彼の姿が扉の向こうに消えるまで、誰一人言葉を発する者はいなかった。
残された応接室には、静寂と緊張だけが取り残される。
まるで、時の流れすら一瞬、凍りついたかのように。
だが確かにそこにあったのは――
これから始まる血の闘いの幕開けを告げる、凶兆の予感であった。