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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑩

空間全体を包むのは、まるで音そのものが凍りついたかのような静寂だった。


会議室の壁は純白の氷で構成されており、そこに刻まれる装飾すらも、冷たい輝きを宿して息をひそめているように見える。

天井からは氷柱が垂れ下がり、まるで剣のように会議に集った者たちの頭上を脅かしていた。


風ひとつ吹かぬはずの密室にあって、空気は常に凍りつき、肌に触れるだけで体温を奪っていく。だが、それ以上に冷たかったのは、この場を支配する緊張感そのものだった。


窓の外には、一面の氷に沈んだ世界が広がっていた。白銀に染まった大地、その下には凍りついた村の影が淡くぼやけて浮かび、かつて命が息づいていたことをわずかに感じさせる。


コの字型に配置された長卓のまわりには、クラゲイン家の血と威光に従う者たちが静かに座していた。


異形の獣はその巨大な躯体を窮屈そうに折り曲げ、翡翠色の皮膚を持つ魔女は黒水晶の指輪を弄びながら妖艶に微笑む。


炎のように赤い髪を揺らす鬼族は、牙を剥くことなく燃えるような瞳で前を睨み、血の匂いを纏った老術士は、薄く笑みを浮かべながら杖を撫でていた。


――全員が、一騎当千の力を持つ魔族たち。だがその誰一人として、口を開く者はいない。


彼らの視線は、会議の最奥に座する一人の男に集中していた。


氷で組まれた玉座にふんぞり返るようにして座るその男。

クラゲイン家の現当主――イグロス=クラゲイン。


その姿はまさしく、支配を体現する者であった。


乱れたままの濃緑の髪は肩にかかり、前髪から2本の触手が無造作に垂れ下がっており、腰部分から複数の触腕が蠢く。それはまるで意志を持つ生き物のように蠢き、イグロス自身の存在がただの「人」ではないことを否応なく印象づけていた。


褐色の肌には禍々しいタトゥーが浮かび、魔の力が脈打つように光と影を交互に描いている。彼の左目は裂けたように縦に開き、黄と灰の混じった異様な光を放っていた。人ならざる者の目だ。


胸元を大きく開けたピンクの上着から覗くのは、鋼のように引き締まった腹筋。その下に巻かれた金属製のベルトには、クラゲイン家の紋章――鋭利な氷結の紋が刻まれ、彼の身分と力を誇示するかのように輝いていた。


――その姿は、もはや「魔族」ではない。

「支配する絶対者」。

この場に集った誰もが、そう認識していた。


「……集まったなァ…さぁてやるかぁ…」


低く、濁った声が氷の空間を割るように響いた。


まるで呪詛のように重く、耳にまとわりつくその声に、魔族たちの表情が一斉に引き締まる。誰一人として、イグロスの言葉に逆らう者はいない。ただ静かに、忠誠の姿勢を整えた。


「偽りの邪神どもが、再び˝俺様˝の地に足を踏みつけたらしいなァ」


答える者はいなかった。


だが沈黙は、同意と服従の証。


イグロスは静かに立ち上がる。

氷の椅子が軋む音すら、彼の力の前では威圧となって響いた。


彼の身体を包む触腕がふわりと宙を舞い、一瞬、会議室の空気が震える。


会議卓の中心に立つイグロスは、鋭い三白眼を細めながら唇を歪める。

嘲笑とも怒りとも取れるその顔つきで、まるで氷を割るかのような声を発した。


「滑稽だと思わねぇか…? ˝本当の邪神˝である俺様を差し置いて…アビスローゼやンシュタウンフェンが˝偽りの邪神˝を信仰していることに――」


足音が鳴るたび、凍てついた床に氷のひびが走る。

その身を覆う筋肉と魔力はまさに暴威の塊であり、緑の髪から伸びる触手が、空気の冷たさを帯びてわずかに揺れた。


だがその暴君は、次の瞬間、まるで神にでもなったかのように手を広げ、声を低く響かせる。


「だが、俺様は赦そう。真なる邪神とは何か――」


腰から伸びる触腕がぞぶりと音を立てて蠢く。

まるで天啓のように、その身から発せられる瘴気が空間を震わせた。


「この˝真の邪神˝イグロス=クラゲインが、それをウロボロス全土に知らしめてやろう。血と恐怖、粛清と理によって、なぁっ!」


その言葉は、剣よりも鋭く、氷よりも冷たく、会議室に響いた。

一瞬の間を置いて、配下たちの胸に熱い何かが走る。

いや、熱いというより、それは――冷たい忠誠。冷酷で絶対的な支配への悦び。


ここはただの策略の場ではない。

それはまさに、新たな˝冷たい神話˝が胎動する始まりの地であった。


沈黙を破るように、ひとりの魔族が前のめりになり、抑えきれぬ興奮をそのまま言葉にした。


「それでは、イグロス様…アビスローゼ領に侵攻するのですね…」


彼の目は血走り、声には飢えが滲んでいた。

いつでも戦いの号令を受ける準備はできていると、その身体すべてが語っている。


「俺たちが全員で攻めれば、いくらアビスローゼ家でも厳しいはずっ!」


その一言が火種となり、次々と声が上がり始める。


「先陣は我にお任せをっ!」


「いえっ…私にっ」


「俺こそ…先陣に相応し――」


「慌てるなぁ」


イグロスの低い声が響いた瞬間、まるで凍てつく刃が通ったように場が静まり返った。

熱狂の只中にあった魔族たちは、即座に口を閉ざし、ぴたりと動きを止める。


氷の暴君は、ゆっくりと彼らを見回しながら、淡々と告げる。


「確かに、今の戦力で潰せば勝てる…だが、敵はアビスローゼ家。それも当主の歴史でも最強とされる吸血鬼――エリザベートが相手だ。こちらの戦力も大幅に削られるだろう。」


彼の言葉に、魔族たちは顔を見合わせ、頷いた。

どれほど兵を持とうとも、あの女の名は重く、深く刻まれていた。


「そうなったら、ユ=ツ・スエ・ビルを立て直すのが面倒になる…そこでだ…俺様に考えがある…多少の犠牲で、アビスローゼ家を潰す…方法をなぁ…」


その一言に、広間にどよめきが起きる。

知略と暴威を併せ持つ主の策に、感嘆の息が漏れる。


イグロスは、ゆっくりと右手を上げた。


「…テネブル…」


呼ばれた名に応じ、一歩進み出たのは、会議室の片隅に控えていた青年だった。


名をテネブル。

紫がかった髪を肩まで垂らし、額には鋭く湾曲した赤い双角。右目にモノクルをかけ、背中には闇に溶け込む蝙蝠の翼、腰からはしなる尾が揺れている。見た目は優美な青年だが、その実は魔族のインプ――策略と残虐に長けた者である。


「はい…」


凍りついた会議室に響くのは、彼の柔らかく、それでいて芯のある声。


イグロスが、薄く笑みを浮かべながら問いかける。


「お前なら俺様の意図が分かるだろぉ…?」


「もちろんでございます…直ちにご用意いたします。」


テネブルは恭しく頭を垂れ、完璧な最敬礼を捧げる。

その唇には、氷より冷たいがどこか妖しく柔らかな笑みが浮かんでいた。



―――



誘拐事件の余韻がまだ町の空気に微かに残る――そんな早朝のことだった。


霧が地表を這い、空にはまだ夜の残り香が滲む時間。ソーンベルの城門に、一つの影が現れた。


重々しい鉄門の前に立つその姿は、ただの通行人とは明らかに異なっていた。黒の燕尾服に身を包み、光を弾くように艶やかな紫がかった髪を持ち、頭部には湾曲した赤い角が二本、禍々しく突き出ている。背には蝙蝠のような翼が広がり、腰から伸びる尾の先端は刃のように鋭く、月光を受けてかすかに煌めいていた。


その魔的な外見は、紛れもなく魔族――しかも、インプのそれである。


名を、テネブル。


門番たちは一瞬にして武器に手をかけたが、彼は落ち着いた様子で、丁寧な声音を響かせた。


「…クラゲイン家当主より、アビスローゼ家の当主に言伝を届けにまいりました。」


冷ややかだが丁寧な声が、凍てついた空気を割って響いた。瞬間、門番の表情が引き締まる。クラゲイン家の名が告げられたと同時に、彼は即座にアビスローゼ邸へ使いを走らせた。


本来ならば敵対する家の使者など、門前払いにしてもよいはずだった。だが、屋敷の判断はあえて「迎える」という選択をした。――その意図を測るために。


やがて、屋敷の応接室。


蝋燭の火がゆらゆらと揺れる室内に、黒衣のテネブルは静かに腰を下ろしていた。椅子に座るその姿勢には無駄がなく、冷たい沈黙すら自らの領域として支配するような緊張感を纏っていた。


そこへ、扉が開く。


ゆるやかに入ってきたのは、アビスローゼ当主エリザベートと、神格の気配を宿す邪神クトゥル。続いてティファー、アーヴァ、ルドラヴェール、そしてリュミエールも控えていた。


視線を向けられたテネブルは、きっちりと頭を下げた。


「お初におめにかかります。僕はクラゲイン家に仕える。テネブルと申します。」


その口調は礼節を保ちながらも、どこか凍てついた感触を含んでいた。


「……クラゲイン家とは、また唐突だな…」


応対するクトゥルの声はあくまで威厳ある邪神として余裕に振る舞っていた。

だが、その内心では驚愕が走っていた。演じる神の余裕とは裏腹に、彼の思考はぐるぐると渦巻いている。


「(本当に来ちゃったよっ!?今日も紅茶を楽しもうと思ってんだけどっ!?何の用だ…!?早く帰ってくれっ!?)」


クトゥルの内心を知る由のないテネブルは口を開いた。


「我が主――イグロス=クラゲイン様は、無用な戦いを望んでおりません。」


テネブルの言葉は、まるで氷のように静かだった。


「ほう、それは結構。我らも無駄な争いは好まん…(おっ…?向こうも以外と小心者なのか…?)」


クトゥルはそう返しつつ、手にしたアビスローゼ・ティーを優雅に口へと運んだ。外見にはまったく動揺を見せない――邪神としての威厳を保つために。


だが、次の言葉が空気を一変させる。


「――ゆえに、条件をひとつ。アビスローゼの血を、我が主に差し出していただければ、と。参った次第です…」


空気が、ぴたりと止まった。

室内に冷たい沈黙が流れ込む。


「なっ…!?」


「んぅ…?」


ティファーは、意図が見えたのか目を見開き、アーヴァは意味を理解できず、首を傾げる。


「……ずいぶんと回りくどい言い方ね。」


エリザベートが口元に薄く笑みを浮かべながら、静かに呟いた。その声は微笑を帯びながらも、瞳の奥には鋼のように鋭い殺意が宿っている。


「私自身を差し出せ…と、そう言いたいのかしら…?」


「(えっ!?ちょ、待てよっ!?)」


突然の展開に、紅茶を吹き出しそうになったクトゥルだったが、顔色一つ変えずに堪えた。


その一方で、アーヴァたちが小さく驚きの声を漏らしている。


「…はい…クラゲイン家、アビスローゼ家がぶつかれば互いに大損害は免れないでしょう…ですから、今後の未来のため、名家を統一するのです。」


テネブルは、凛とした声音で続けた。


その言葉を、リュミエールはじっと聞いていた。視線がテネブルの顔に釘付けになる。


やがて、彼女の両手がそっと胸元に触れる。唇がかすかに震え、目が揺れる。そこには迷いと、懐かしさ、そして恐れが滲んでいた。


「(まさか……兄さん?)」


その胸中を誰にも見せることなく、彼女は静かに立ち尽くしていた。


なぜ今――彼がクラゲイン家にいるのか。疑念と動揺が、静かに彼女の心を揺らしていた。



―――



重苦しい空気が、応接室を満たしていた。


「…ククク…貴様は道化か…?我を笑わせたいのか…」


その中心で、クトゥルはゆっくりと腰を上げた。ソファの深くから立ち上がるその動きは、まるで底知れぬ深淵から何かが浮かび上がってくるかのように緩やかで、だが決して抗えない威圧感を帯びていた。

そして、無言のままテネブルを見下ろす。


「エリザベートは、我の眷属だ。気安く取引材料にしてよい存在ではない。……まさか、その程度の認識で我らと語らうつもりか…?(最強戦力の邪神を取られたら…俺…マジで死ぬから取らないでくれっ!?)」


静かに放たれたその声は、さざ波のように淡く、しかし確かな圧力を帯びて、空間そのものを軋ませた。

異質な力が室内の空気をわずかに歪ませ、魔力とは異なる恐れの感覚が肌に滲む。


テネブルは一瞬、言葉を失ったようだったが、すぐに目を細め、形だけの穏やかさを取り戻して小さく肩をすくめた。そして一礼。


「意図を誤解されたのであれば、申し訳ありません。あくまで友好のための提案に過ぎません。」


その場を穏便に済ませるための言葉だったが、誰の耳にも、誠意よりも策謀が勝って聞こえた。


その時だった。


「友好、か。わっちとしては、エリザベートをクラゲイン家に嫁がせる腹積もりじゃと思うがの…」


アーヴァが低く呟くように言った。いつもの古風な口調の中に、冷たい鋭さがひそんでいる。

その瞳は、ただの疑念ではない。相手の腹の底を覗き込むような、猛禽のそれに似た光を宿していた。


「…友好ならば、まずは手土産のひとつでも持ってくるべきだったわね。」


エリザベートの言葉には明確な棘があった。柔らかな口調の裏に潜む冷徹さが、場を一層冷やす。


そのやりとりのすべてを、クトゥルは黙して見守っていた。

(エリザベートは渡さないぞっ!)内心ではそう叫びながらも、邪神としての威厳を保つべく、表情は崩さず、ただ視線だけを強くする。


「…失礼しました…」


やがて、テネブルはそれ以上の発言を控え、アビスローゼ邸を後にした。


廊下を歩むその背中には、言葉にできない圧がなおも張り付き、長く伸びた尾が不快そうに鋭く揺れていた。

外の光に染まる彼の輪郭が門の向こうへと消えるまで、館の者は誰も口を開かなかった。


その姿を、屋敷の奥――人目のない回廊の影からじっと見送っていたリュミエール。


端正なその顔に、感情が滲む。


彼女の両手は、気づかぬうちに強く握りしめられ、手袋越しにわずかな震えさえ伝わる。


「(……兄さんが生きていた…)」


かつて失われたはずの、けれど決して忘れることのなかった温もり――その記憶と、今目の前にあった冷たい現実の影が、彼女の胸の中で交錯していた。



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