氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑨
――深夜。ソーンベルの村外れに広がる《ノクティアの森》は、昼間の穏やかさとは打って変わって、異様な静けさと緊張感に包まれていた。
空には雲ひとつなく、澄み渡る夜の帳が世界を覆っている。月は青白い輝きを湛え、高々と天に昇っていた。光はまるで神の手によって注がれる祝福のように、森を覆う古木の枝葉を照らし出している。
黒に近い深緑の葉は、その輪郭に銀の縁をまとい、かすかに揺れながら月光を映していた。
だが、風はなかった。
空気は澱み、森の奥深くまで、ひとしずくの気流すら通っていないように思えた。
にもかかわらず、どこかでわずかに、枝葉の揺れる音がした。
それは自然が奏でる風のざわめきではなかった。まるで誰かが、そっと指先で梢を撫でたような、不規則で意味深げな動き。音の主を辿ろうとする者の耳には、そこに潜む"意志"のようなものさえ感じられた。
森は、音を飲み込んでいた。
鳥のさえずりも、虫の羽音もない。まるで世界が息を潜め、時間さえも眠ってしまったかのように。
そんな沈黙の中、ひとすじの旋律が、浮かび上がるように現れた。
「~~♪」
それは、あまりにもかすかで、あまりにも甘美な音色だった。
森の深奥から、霧のように静かに流れ出たその歌声は、ことばを持たず、それでいて誰の心にも染み込んでくるような旋律を奏でていた。
古の子守唄を思わせるような柔らかさ。
母が幼子の額に手を当て、夢の続きを語るような、慈しみに満ちた音。
その歌声は、聴く者の心を溶かし、思考を霞ませ、眠りの深淵へと誘ってゆく。
最初に異変に気づいたのは、村に住む老薬師だった。
その夜、ふと目を覚ました彼女は、寝間から見える戸がわずかに開いていることに気づいた。冷気がわずかに入り込んでくる。不可解に思い、羽織を掴んで外に出た彼女の目に飛び込んできたのは――
月明かりの下、まるで夢の中を歩いているかのように、森の方角へ向かって進んでいく我が子の背中だった。
「──……!」
咄嗟に呼びかけた声にも、子は反応しない。
振り返ることもなく、ただ虚ろな目を前に向けたまま、足取りも定かでないまま、ひたすらに森の闇へと歩を進めていた。
その瞬間、老薬師は直感する。
──何かが、おかしい。
―――
翌朝。
村の複数の家で、同様の出来事が報告された。
五人もの子供が、誰にも気づかれぬうちに布団を抜け出し、そのまま戻らぬままになっていた。夜の闇に誘われるようにして、姿を消したのだ。
「夢遊病だろう」
最初にそう口にしたのは一人の魔族だった。
子供は時に、眠ったまま歩き出すものだ。昔からあることだと。
しかし、それが一晩にして五人。
誰もが同じように「夜中」「森の方角に」「何か歌が聞こえたような気がする」と口にするとなれば――話は変わってくる。
人々の間に、じわじわと恐れが広がり始めた。
ざわめきは、やがて確信へと変わってゆく。
ある母親は、嗚咽を混じらせながら語った。
「眠っていたのに…あの子、まるで誰かに呼ばれたみたいに…笑っていたのよ…!」
その言葉に、誰も返す言葉を持たなかった。
森に満ちる、正体の知れぬ〈なにか〉の気配。
それはすでに、子らの夢に手を伸ばしていた。
―――
朝靄がゆるやかに晴れゆく頃、アビスローゼ邸の奥庭には静けさと気品が漂っていた。丹念に手入れされた薔薇のアーチを抜けた先、濃い紅葉色の葉を湛えた古木の下に据えられた小さな石のテーブル。その上には、湯気を立てる深紅の茶が注がれたカップが並んでいる。
クトゥルは、そのひとつを手に取り、ゆっくりと口元へと運んだ。
口中に広がるのは、アビスローゼの名を冠する特製の紅茶。薔薇に似た華やかさと、どこか鉄を思わせる深みのある香りが舌の奥に染み入り、ふわりと鼻へと抜けていく。
「(うんっ…味を感じるって最高だなっ!)」
心の内で、素直な感動がこぼれる。普段は味覚がほとんど働かないクトゥルにとって、この茶だけは例外だった。味覚が活躍する。それは彼にとって、過去と今をつなぐ確かな実感でもあった。
彼の隣では、紅のドレスをまとったエリザベートが、期待に満ちた瞳を輝かせながらその姿を見つめている。
「ふふ…邪神であられるクトゥル様がアビスローゼ邸にいる…何て光栄なことなのかしらっ」
その声には、崇拝と誇り、そして子どものような喜びが混じっていた。かつての邸を共に歩いた日々を思い返しているのだろう。
クトゥルはといえば、彼女の視線にもすっかり慣れたようで、肩の力を抜いた穏やかな微笑を浮かべる。かつてなら戸惑っていたであろう言葉にも、今では自然と余裕が滲んでいた。
だが――その和やかなひとときは、ある音によって破られた。
乾いた足音と、鈴の音。銀の風鈴が鳴るような清らかな響きが庭の奥から近づいてくる。そして、整えられた紫色の髪を揺らしながら、メイド服を纏ったリュミエールが現れた。
「クトゥル様、お嬢様。休息中失礼します。」
彼女は深く頭を下げた後、顔を上げた。いつもの微笑みはそこになく、代わりに緊張をはらんだ面持ちがその表情を引き締めている。
「ソーンベルの民たちが……お話があると。応接室にお越しください…」
その言葉に、クトゥルは内心で鋭く息を呑んだ。
「(え…また事件が発生したのか…?)」
柔らかな茶の香りが一瞬にして遠ざかり、胸の奥に冷たい予感がよぎる。まだ誰にも知られていないはずの帰還――それがすでに波紋を呼んでいるのか。
「分かったわ…」
静かに立ち上がるエリザベートの声は、どこか凛としていた。紅いドレスの裾がさらりと風に揺れ、クトゥルの視界に映る。
その背を追いながら、彼もまた、深くため息をつくことなく歩を進めた。
―――
応接室の扉が音もなく開かれると、室内にはすでに数人の魔族たちが静かに腰を下ろしていた。様々な衣服をまとい、年若い者から年老いた者までが揃っていたが、全員の顔にはただならぬ緊張と切迫が刻まれていた。
クトゥルたちの姿が現れるや否や、その場の空気が大きく変わる。魔族たちは一斉に立ち上がり、深く頭を垂れた。
「クトゥル様、エリザベート様っ!」
「どうか……どうか、我が子を……!」
「お願いしますっ!」
訴えるような声が交錯し、言葉は涙に濡れて震えていた。切実な願いが、部屋の空気に生々しく染み渡る。
突然の光景に、クトゥルは心の中で驚きながらも、表面は一切動じた様子を見せず、静かに一歩前に出た。
「落ち着くのだ。…お前たち…」
その威厳ある低音が部屋に広がり、民たちは瞬時に言葉を止めた。続けて、エリザベートが優雅にソファへ腰を下ろし、彼らに落ち着くよう促す。
「クトゥル様の言う通りだわ。落ち着いて話しなさい。」
その声は冷静でありながらも、どこか包み込むような響きを持っていた。民たちは促されるままに再び座り、順に事情を語り始めた。
それは、息子や娘たちが突如として姿を消したという、痛ましくも不穏な話であった。
「お願いしますっ…クトゥル様…私たちの子供をっ――」
彼らの訴えに、クトゥルは表情を変えずに耳を傾けながらも、内心では複雑な感情が渦を巻いていた。
「(いやいやっ、俺は……ここの主でもなければ、面倒ごとの係でもないんだけど…。ここの領主のエリザベートに頼んでくれ…っと言いたい…けど、断れば俺の地位が…)」
沈黙の中での葛藤。だが、彼はそれを微塵も表に出さず、静かに頷いてみせた。
「…その願い、聞き届けてやらぬでもない。」
その言葉が放たれた瞬間、部屋に安堵と感動の空気が広がった。魔族たちは目に涙を浮かべ、何度も頭を下げた。
そしてその様子を見ていたエリザベートの瞳が、わずかに細められ、静かに輝きを宿す。
「流石クトゥル様ですっ」
エリザベートの声には、心からの敬意と、わずかな喜びが滲んでいた。
やがて、応接室にはクトゥル、エリザベート、リュミエール、アーヴァ、ティファー、そして絨毯に寝転んでいたルドラヴェールが集まり、椅子に、ソファに、それぞれの位置を取りつつ、改めて状況を整理することとなった。
クトゥルは静かに周囲を見渡し、思考を巡らせながら口を開く。
「(まず、探す場所と言えば、森だろう)話を整理するとしよう。エリザベートよ。ノクティアの森は広いのか…?」
その問いに、エリザベートは背筋を正し、冷静に答えた。
「いえ、迷うほど広くはありません。仮に迷ったとしても数十分で抜けれるかと…」
「なら…誘拐…?まさか、クラゲイン家が…?」
ティファーは不安げに眉を下げ、唇に指を添えながら口を開いた。しかし、即座にリュミエールが首を振る。
「それはないかと…今までアビスローゼ領で悪さをしてこなかったのですから…」
「デハ、外部カラノ誘拐カ…?」
ルドラヴェールが絨毯の上から顔を上げ、ぼそりと呟く。だが、リュミエールは再び小さく首を振った。
「それもありえません。ユ=ツ・スエ・ビルは現在氷の壁に阻まれ出入りがきませんから…」
「んむぅ…?では、どこにいるんじゃ…?わっち頭が混乱してきたぞい」
アーヴァはソファの上であぐらをかき、両手で頭を抱えながら唸った。
そのとき、リュミエールがふと何かを思い出したように口を開く。
「そう言えば、深夜に森で歌声が聞こえてきた気がしたと話しておりました。」
「(やっぱり、夜の森が怪しいな…)」
ティーカップをそっとソーサーに戻し、クトゥルはふと目線を上げた。
応接室の高窓から見える景色は、日が傾き始めたことで、街並みの端々を金色に染め上げている。
尖塔の影が長く伸び、空は青と橙の狭間で揺れ、やがて訪れる夜の帳を静かに告げていた。
沈黙の中で、彼は頭の中に蓄積された情報を一つずつ整理し、確信へと結びつける。
そして──
「おそらく、森が怪しい…夜まで待つとしよう…」
低く、だが明瞭に響いたクトゥルの言葉に、応接室の空気がわずかに引き締まる。
誰もがその言葉に込められた重みを理解し、無言のうちにそれぞれが頷いていた。
―――
夜の帳が静かにソーンベルを覆い始めた頃、街はまるで魂ごと沈黙に呑まれたように、不気味な静寂に包まれていた。
風もなく、街の空気は張り詰めており、まるでそこに生きるすべての者が息を潜めているかのようだった。魔石灯は仄かに揺らめいてはいたが、その光すらもどこか弱々しく、街の輪郭をかろうじて照らすにとどまっていた。
窓はすべて閉ざされ、扉も固く閉まり、道には人影ひとつ見えない。まるで街全体が、目に見えぬ脅威に備え、身を潜めているようだった。
「静かですね…」
ティファーが呟いた声が、まるでこの世界で初めて発せられた音のように、ひどく鮮やかに夜気に響いた。彼女はすぐに愛剣の柄へと手を伸ばし、周囲を警戒するように目を細める。
「ふむ…特に嫌な気配はないぞい…?」
アーヴァは眉をひそめながらも、気配を探るように小さく角を動かす。彼女の尻尾がわずかに揺れ、警戒を滲ませていた。
「グル…」
エリザベートの傍らで、忠実なる獣が唸り声を漏らす。その直後だった。
夜の静寂を破るものがあった。
それは、遠く微かに聞こえてくる旋律。風に乗って揺れるような、儚く甘やかな――子守唄だった。
その音は決して大きくはない。けれど、聴いた者の心の奥底へと、ぬるりと染み入るように響いた。
次の瞬間、街のいくつもの家々の中で、子どもたちが静かに目を開ける。まるで何かに呼ばれるように、ゆらりと立ち上がると、そのまま夢遊病者のように足を運び、扉の前に向かう。そして躊躇なく、玄関の扉を開いた。
「リル……?どこに行くの!? リル!」
どこかの家から、母親の悲痛な叫びが響いた。その声には動揺と恐怖が滲んでいる。
だが、リルと呼ばれた少女は、まるで聞こえていないかのように、振り返って無垢な笑顔を浮かべると、静かに森へ向かって歩き出した。
慌てた親たちが戸口から飛び出し、子らの名を呼びながら駆け出そうとする。
その時だった。
「……我らが行こう。お前たちは……子の帰りを信じ、待つのだ(頼むぞ!皆っ!俺は何もできないからっ!)」
その場に立っていたクトゥルが、静かに、しかし確かな威厳をもって片手を上げて制止した。低く響くその声に、人々は思わず動きを止め、息を呑む。邪神と呼ばれる者の言葉には、それだけの力があった。
そして、エリザベート、ティファー、アーヴァらが、主の後に続いて静かに歩き出す。子守唄は絶え間なく続いていた。その旋律は甘く、けれどどこか不安を孕んだ響きで、まるで誰かを誘うように、夜を貫いていた。
子どもたちの足跡を追い、音の源を辿るようにして、クトゥルたちはノクティアの森へと足を踏み入れる。
そこは、古くからある森。木々は鬱蒼と茂り、まるで迷い込んだ者を閉じ込めるように枝を絡ませていた。霧が低く地を這い、足元からまとわりつくように広がってゆく。
空を見上げれば、木々の隙間から覗く夜の月が、不気味なほど白く輝いていた。
―――
夜のノクティアの森は、まるで現世から切り離された異界のような静謐に包まれていた。
空を覆う枝葉は、星々の光を拒むように濃く茂り、その隙間から漏れ出る月光は、濡れた苔の上で揺らめきながら鈍く輝いている。冷えた空気は土の香と混じり合い、鼻腔をくすぐる湿った芳香を運んでいた。風すら吹いていないのに、木々の葉がわずかに震えている。森全体が、何かを囁くかのように。
そのとき、遠くから幽かに――歌声が聞こえた。声とも風ともつかぬその響きに、一行は思わず足を止める。
アーヴァは耳を澄まし、灰青の瞳を細めた。ルドラヴェールは鼻を鳴らし、空気の変化に神経を尖らせる。
「居ましたっ…!」
ティファーが、震える声で指を差した。指先の先、朧な月光がわずかに照らすその奥に、かすかな人影――否、小さな影が並んでいた。
それは、幼い魔族の子供たちだった。十名ほどの幼子たちが、茂みの中に身を寄せ合い、まるで安らかな眠りに落ちているかのような穏やかな顔で横たわっていた。
だが――その中心に、それはいた。
淡く光を放つ羽根を背に宿し、銀の髪をふわりと揺らす少女の姿。
透明な花びらのような羽は、夜露を照らす月の雫のように輝いている。水底のように深い青の瞳は、こちらをまっすぐに見つめるでもなく、ただ空虚を彷徨っていた。
年若い外見とは裏腹に、その存在からは神聖と孤独の両極が混ざり合ったような、異質の気配が滲んでいた。
「妖精か…?(何か…思ったヤツとは違うな…もっと禍々しいモノだと思ったんだけど…?)」
クトゥルは森の木陰から静かに現れ、目の前の存在を冷静に観察する。油断なく、だが焦らず。彼の視線には確かな計算があった。
「…貴方が、この事件の元凶ね…?」
一歩前へと進み出たエリザベートの声が、夜の空気を震わせた。
その瞬間、精霊のような存在がびくりと肩を震わせ、驚いたように身をすくめる。そして、まるで初めて気づいたかのように――そろりと、クトゥルに視線を向けた。
「あなた……たちは……上の……ひと……?」
その声は、凪いだ水面にさざ波が広がるように、細く、揺らぎながら空へと昇っていった。
「(おぉ…?怯えてる…これは…行けるっ!)」
クトゥルは瞬時に状況を読み取った。敵意なし、警戒あり、恐れあり――ならば、押す。
堂々と両腕を組み、彼は森の中心へと歩み出る。
「我は……この地に降り立った混沌の邪神――名を、クトゥル=ノワール・ル=ファルザス!」
その名が告げられると、精霊のような少女は小さく息を呑んだ。だが、次の瞬間――その横顔が微かに曇った。
「(このまま押し通すぞ)分かっているのか…?貴様は、子を誘拐した犯人…なぜ、こんなことをする…答えによっては『オール・オブ・ラグナロク』」
腕を広げ、森の空間全体を威圧するように笑声を響かせる。ヒャヒャヒャという不協和音のような笑いが、木々の間にこだまし、夜鳥すらも鳴くのをやめた。
精霊は、その場に崩れそうなほど体を震わせた。
「ごめんなさい……わたし、ひとりがいやで……この森、誰も来なくなって……ずっと寂しくて……だから、子供たちと一緒に…」
その声には、嘘も欺きもなかった。まっすぐで、ただひとつの感情がこもっていた――寂しさ、という痛みだけが。
エリザベートが何かを言いかけたが、クトゥルは静かに片手を上げて制した。
「ふむ……貴様が子らを連れ出したのは、悪意からではない。ならば我が裁きに値するものではない…」
精霊の瞳が、驚きに見開かれる。予想しなかった寛容に、心の中の氷が溶け始める。
クトゥルは一歩近づき、穏やかな声で告げる。
「寂しさを抱えていたのなら、ソーンベルに来れば良い。人の声も、笑いもある。貴様の居場所も、きっとあるだろう…」
「……行って、いいの……?」
希望のような、不安のような――小さく震える声が、精霊の唇からこぼれた。
「子の親に謝罪をしてからだがな…」
「は、はいっ…」
クトゥルは、ふっと優しげに笑む。そして、傍らのエリザベートに向き直る。
「エリザベートよ…良いな…?」
「クトゥル様の導きのままに…」
エリザベートは深々と頭を垂れ、まるで神託を受け入れる祭司のように神聖な気配を纏っていた。
そのまま、精霊の前に立ち、当主らしい口調で語り掛ける。
「私はエリザベート=ド=アビスローゼ。この領地の主よ。貴女がソーンベルの害とならぬ限り、受け入れるわ。」
ぽろぽろと、精霊の瞳から透明な涙がこぼれ落ちた。それはまるで、森の泉から溢れた初めてのしずくのように、儚く美しかった。
「うん……わたし、迷惑をかけない。子どもたち、ごめんね……でも、また……遊んでもらっても、いい……?」
精霊は、そっと眠る子供たちの頬に手を伸ばし、風のような指先で優しく触れた。その瞬間だけ、森の空気が少し暖かくなった気がした。
――そして、夜が明けた。
朝焼けがノクティアの森の端から差し込み、霧と共に静かに森を照らしていく。すでに目を覚ました魔族の親たちが、そっと子供たちを背負い、感謝の言葉もなくただ深く頭を下げていた。
その背中を、クトゥルたちは無言で見送っていた。
―――
それから数日が経った。
かつてノクティアの森に漂っていた不穏な気配は、まるで幻だったかのように跡形もなく消え去り、夜を満たしていたあの歌声が再び響くことはなかった。
代わりに――。
ソーンベルの町には、新たな住人が現れていた。
その名はネフィリス。
透明な羽根を背に揺らし、澄んだ水のような瞳を持つ、どこか儚げで、それでいて人の心に温もりを灯す精霊の少女である。
彼女が暮らすのは、町の外れにある古井戸のそば。
その傍らに咲いた一本の桜樹の下、柔らかな日差しと草の香りに包まれながら、ネフィリスは静かに新たな日々を紡ぎ始めていた。
「おにーちゃん! ネフィリスがまた歌ってるよー!」
「まって、今いく!」
はしゃぐ子供たちの声が、石畳の通りを駆け抜けていく。
彼らが向かう先――柔らかな芝の上にちょこんと腰を下ろし、花冠を編みながら微笑むネフィリスの姿があった。
その小さな身体の周囲には、自然と子供たちが集まり、丸く輪をつくって座り込み、笑い声がこぼれていた。
最初こそ、町の大人たちは警戒した。
森で起きた出来事は、どう見ても誘拐に近いものだったからだ。
不安と疑念の眼差しが、ネフィリスへと向けられたこともあった。
だが、彼女がどれほど子供たちを大切に思っていたのか――
そして、そこに一切の悪意がなかったことが、日々の触れ合いの中で明らかになっていった。
「……あの子、ほんとうに寂しかったんだね。」
「悪い子じゃないのは、見ればわかるさ」
「子供たちが楽しそうなら、それが一番だよ」
やがてその声は、拒絶から受容へと変わっていった。
それは、ある晴れた日の昼下がりのことだった。
アビスローゼ邸の高台にあるバルコニーで、クトゥルは背もたれに身を預けていた。
手元のカップから立ち上る湯気と共に、芳醇なアビスローゼティーの香りが静かに漂っている。
遠く、町の広場の向こうから響いてくる子供たちの笑い声に耳を傾けながら、彼はふと口元を緩めた。
「子の笑い声は…良い物だ…」
空には雲ひとつなく、陽光が街を黄金色に染め上げる。
そしてソーンベルの空気には、どこか取り戻された平穏の気配が満ちていた。
町の片隅、桜の木の下。
ネフィリスは、今日も変わらぬ微笑みで子供たちの輪の中心に座り、細い指でひとつ、またひとつと花飾りを編んでいた――。