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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑧

夜の帷が、静かにソーンベルの空を覆いはじめた。

宵闇に染まりゆくこの街は、まるで星々が地上に舞い降りたかのような幻想に包まれ、まばゆい光を湛えていた。


アビスローゼ家が治めるこの魔族の都では、長らく空白となっていた主の座が、ついに埋められようとしていた。

久方ぶりに帰還した当主と、その傍らに立つ邪神の姿を祝福すべく、街の者たちは心からの歓待を用意していた。


中央広場には、環状の魔灯が幾重にも浮かび上がっていた。

それぞれの灯は魔力を内包し、淡い青白の輝きを放ちながら、天に向かって光の輪を描いている。


光輪から放たれた粒子は蝶のような姿をとり、まるで意志を持つかのように空中を舞い踊る。

無数の光の蝶たちが、やわらかに羽ばたきながら夜空を染め上げ、その情景はまさしく天界の祝祭を思わせる荘厳な光景だった。


石畳の中央では、複雑に織り込まれた魔紋が光を放っていた。

その紋様の上で舞うのは、選ばれし舞姫たち。

薄布を重ねた衣は月光を編んだかのように透け、舞のたびに放たれる魔法の粒子が、周囲に儚い残光を描きながら消えていく。

まるで彼女たち自身が、ひとときの夢であるかのようだった。


奏でられる音楽は、異国の弦と打楽器による旋律。

深く、緩やかに、時に熱を帯びながら――魔族たちが口ずさむ古の歌と溶け合い、幻想的な調べが夜の空気に満ちていた。


そして、その幻想の只中。

祝祭の中心には、二つの存在がいた。


黒と紅を思わせる染め髪は夜の闇にも映え、その瞳は静謐な威厳をたたえている。

エリザベート。

その身を包むのは、混沌のローブが形を変えた異形のドレス。

まるで生きているかのように動くスカートの裾は、有機的な流動を見せながら、彼女の一歩一歩に優美な揺らめきを与えていた。


彼女は、アビスローゼ家の当主として――

かつてこの地を統べ、守り続けた帰還者として――堂々と群衆のなかに身を置いていた。


「この空気…安心するわ」


その小さな呟きは、風に乗って消え入りそうなほど静かだった。

だが、その言葉を聞き逃さなかった者が、すぐそばにいた。


リュミエール。

エリザベートがこの地を離れていた間、誰よりも長く、主の帰りを信じて待ち続けた忠実なる従者。

幼き日に拾われた彼女は、今やこの街の管理者として、立派に役目を果たしている。


「皆、お嬢様の帰りを待ち望んでいましたよ」


微笑みながら差し出されたその言葉は、夜の光に照らされ、温もりを帯びていた。

魔灯の輝きが彼女の銀の髪と瞳に映り込み、まるで星を宿したかのように幻想的な美しさを放っている。


エリザベートはわずかに頷き、そっと視線を空へと向けた。

そこには、蝶のような光の粒たちが、ゆるやかに舞いながら漂っていた。

その眼差しに宿るのは、懐かしさと哀しさ、そして確かな誇り。


過ぎ去った年月の重みが、一瞬だけその瞳に影を落としたが――

やがて彼女は、晴れやかな微笑みを浮かべた。


その笑みは、遠い過去も、迎え入れた今も、すべてを受け入れた者だけが見せる微光。

そしてそれは、アビスローゼの夜に、新たな始まりの灯をともすかのように、静かに輝いていた。


夕餉の余韻が漂う静寂の中、エリザベートの隣に腰を下ろしたその男は、ただ「そこに在る」だけで場の空気を変えていた。


闇の織物のような漆黒の衣は、光を拒むかのごとくすべてを吸い込み、見る者の視線を彷徨わせた。肩まで流れる髪は夜そのものの色を湛え、艶やかに揺れながらも、どこか現実の質感とは異なる異界の重さを持っていた。


その肌は、不自然なほど滑らかで――まるで磨かれた黒曜石のように硬質で冷たく、石像めいた静けさをまとっている。瞳は深淵のごとき闇をたたえ、表情なきまなざしの奥に、底知れぬ何かが揺らめいていた。直視すれば、たとえようのない感情が胸の奥底に沈みこみ、言葉にならぬ感覚が脳裏に焼きつく。


邪神――クトゥル。


ただ名を口にするだけで、「この世界の理の外側」にある存在であることが理解できる異形。座しているだけで、空間そのものにわずかな軋みが生まれ、時間が緩やかに歪むような感覚が広がる。だがそれは恐怖ではない。不思議なことに、その異質さはむしろ懐かしさを呼び起こす。


信仰か、あるいは本能的な渇仰か――言語化できない衝動が、見る者の胸の奥底を揺らす。それは、魂そのものが既に彼を「知っている」と告げているかのようだった。


魔族たちは誰一人として、真正面からクトゥルと視線を交わすことができなかった。


目を合わせれば、自我の輪郭が揺らぎ、自分という存在が曖昧になっていく――その確信めいた直感が、彼らを無意識に下を向かせる。


だが、同時に彼を無視することもできなかった。視界の端に入った瞬間、意識は自然と彼のもとへ引き寄せられ、気がつけば視線を預けてしまっている。


――抑えがたい引力。


それこそが、「邪神」という名を冠するにふさわしい、在り方だった。


食卓を囲む者たちの間に、次第に言葉が失われていく。

誰かが話そうと口を開いた瞬間、空気の密度がわずかに変わり、そのまま言葉が呑み込まれる。音にならない沈黙が、まるで祝詞のように場を支配していた。


――だが、その張り詰めた空気の中心にいる張本人はというと。


クトゥルは、まるでこの異様な空気を感じていないかのように、悠然とした笑みを口元に浮かべていた。組んだ脚、肘掛けにかけた片腕、その姿は王者の風格そのものである。だが、その視線はどこか遥か遠く、誰とも交わらぬまま、現世とは異なる次元の風景を見据えていた。


すべてを見透かし、すべてを超越する者――その「沈黙」の在り方が、空間に威圧ではなく畏敬を刻む。


だが、その胸の内では、意外なほど人間臭い葛藤が渦巻いていた。


「(……こういう時、どこに視線を向ければいいっけ…?)」


久方ぶりにこれほどの視線を集めたクトゥルは、内心どこか落ち着かず、困惑していた。誰かの顔を見れば目が合ってしまう。だから、何となく天井の方を見つめているだけだった。


けれどその虚空を見通すまなざしは、見る者には「全知全能の神の眼差し」に映っていた。絶対者が顧みるはるかなる未来、あるいは彼方――そんな錯覚を抱かせる、神秘と威厳を帯びた存在。


そして、その「沈黙」こそが雄弁だった。


言葉はない。だが、すべての者が理解していた。


この邪神が「在る」だけで、世界は微かに軋み、何かが音もなく――しかし確実に、変わり始めているのだと。



―――



ざわつく空気の中、ひときわ低く押し殺した声が後方から響いた。

それは、まるで誰にも聞かれたくない秘密の呟きでありながら、抑えきれない感情の滲んだ一撃だった。


「……エリザベートめ、わっちらのこと、すっかり忘れておるぞい……」


唇をとがらせ、灰青の髪をふるふると震わせながら文句をこぼすのは、かつて三大名家に名を連ねた竜人族、ンシュタウンフェン家の姫――アーヴァである。

小柄な体躯に似合わぬ鋭い怒気が滲む中、長く繊細な睫毛の奥の紫の瞳が、じっと前方を睨み据えていた。


その視線の先にいるのは、言うまでもなくエリザベート。そしてその隣に鎮座するのは、漆黒の威容をもって人の理から外れた存在――邪神クトゥル。


その並びに、自分の名が加わっていないことに、アーヴァは明らかに不満げだった。細い肩はぷるぷると震え、悔しさと拗ねが混ざったような尾が、ぴんと高く跳ねる。


「くっ…わっちらだって、クトゥル様に仕える眷属じゃ…なのに…この仕打ちは何じゃ……」


その声には、怒りというよりも切なさがあった。

彼女は身を乗り出し、テーブルに詰め寄らんと前傾姿勢を取ったその瞬間――。


「落チ着ケ、アーヴァ殿。今日ノ主役ハ、クトゥル様トエリザベート殿ダ。仕方アルマイ。」


滑らかで落ち着いた声音が、すうっと空気を撫でるように割り込んだ。

同時に、尾がしなやかにアーヴァの腰に絡みつく。淡く光を帯びたその尾は、まるで蛇のように自在な動きを見せ、優雅にして確実に、彼女の行動を封じた。


それは、隣に控えるルドラヴェールの尾だった。


「むぅ……尻尾で押さえるのは、やめぬか!くすぐったいんじゃ!」


不満の声を上げるアーヴァの頬がふくれ、マロ眉がつり上がる。

しかしルドラヴェールの表情は、まるで動じることなく静かなままだ。エメラルドグリーンの瞳に、柔らかな冷気のような理性が宿っている。


「そうですよ、アーヴァ様。」


今度は、穏やかで包み込むような声が添えられた。

ティファーがそっと身を乗り出し、両手を差し出して、今にも爆発しそうなアーヴァの感情を受け止めるように間に入る。


彼女の視線はまっすぐで、けれど優しく、アーヴァの怒りを否定せずに包み込んでいた。


「エリザベート様は今、当主としてのお務めを果たしてるだけなんです。」


その言葉に、アーヴァはしばしの沈黙を返した。

ふてくされたまま、尾の拘束をしぶしぶ受け入れ、席へと戻る。


小柄な背がもぞもぞと椅子に沈み、だがその尻尾だけは、まだ名残惜しげにぴこぴこと動きを止めない。

ルドラヴェールはそれをちらりと見やると、小さく頷き、表情を崩さぬまま視線を戻した。



―――



控えの席の片隅で交わされる、ささやかなやり取り。

それは声高に叫ばれることも、誰の視線を集めることもなかったが、その中に確かなものがあった。

些細な苛立ちと、それを受け止める仲間のまなざし。

そこには、名もなき絆と信頼の機微が、邪神の御前でさえ変わることなく脈打っていた。


静まり返った空気の中、一行がその場に姿を現した瞬間、ソーンベルの魔族たちは動きを止めた。


市場にいた者、哨戒に立っていた者、通りを横切ろうとした者たち――皆が、その一団に無言で視線を向けた。


無遠慮な凝視ではない。むしろ、それは畏れとも警戒とも違う、正体の知れない感情を含んでいた。何かが来た。そう直感させる「それ」に対し、彼らはただ、ちらり、ちらりと視線を送りながら、警鐘の代わりに沈黙を選んでいた。


 ――クトゥル。


その名を知る者は、まだごくわずかだった。耳慣れぬその音を、彼らは記憶のどこかに押し込めようとしつつも、目の前の存在がそれ以上の情報を必要とさせなかった。


彼を一目見た瞬間、誰もが息を飲んだ。


「……あの方の雰囲気…尋常ではない…」


誰かがぽつりと呟いたその言葉は、周囲の心中を代弁していた。


まず、その顔立ち――それが常軌を逸していた。このウロボロスにおいてすら、見たことのない造形。現実感を欠いた精緻な輪郭線は、彫刻のような滑らかさと冷たい光を帯びており、眼差しの奥には底知れぬ深淵が横たわっていた。


まるでそこに視線を投じれば、己の魂が引きずり込まれ、戻ってこられなくなるような――そんな錯覚すら呼び起こす。


そして、その所作。ひじ掛けに肘を置き、堂々と足を組んで座る姿は、他者の存在を意にも介さぬほどの余裕に満ちていた。その身の置き方一つとっても、まるでこの場所がもともと彼の城であるかのような貫禄があった。


だが、それは虚勢ではない。本物の、在るがままの「異質さ」だった。


彼の視線は、誰一人として意識していない。目の前の世界に対してすら、彼が意識を向けているようには見えない。それはこの世の理からすら、浮き上がって存在しているかのような、浮遊する異界の王の風格だった。


アビスローゼ家の当主、エリザベートがその傍らに寄り添うように座っていた。彼女が、まるで当然のように従者の位置に収まっている様子は、魔族たちにとって明確な異変だった。


気高く誇り高いアビスローゼ家の女当主――その彼女が、誰かの傍に控えるという光景。それは、かつて一度たりとも目にしたことのない衝撃だった。


そして、思考は自然と一つの結論に至る。


「力も……強いのだ」


理由を探す必要はなかった。ただ感じてしまうのだ。肌を伝う威圧。言葉を超えて伝わる、理屈の通じない「位階差」があった。


あれほど静かに、何一つ動かず座しているだけなのに。彼の周囲の空気だけが異様に重く、密度を増しているように感じられた。


そして、その背後に控える眷属たち――誰一人として、凡庸な者などいなかった。


灰青の髪と竜の尻尾、異国風の衣に身を包んだ小さき竜人の姫、アーヴァ=ンシュタウンフェン。滅びたとされた名門の生き残りにして、ンシュタウンフェン家の誇りを継ぐ者。


虎を思わせる鋭い双眸と筋骨隆々の体を持つ魔獣、ルドラヴェール。その気配は、ただ立っているだけで圧倒的な戦闘能力を示していた。


一見してただの人間にも見えるが、鋭い表情と隙のない立ち振る舞いが歴戦の剣士を物語る女――ティファー。


そして、当のエリザベート自身すら、その眷属の列に並んでいる。


この陣容がただの飾りであるはずがなかった。彼に従う者たち――それぞれが、一国に比肩するような異常の集まりだった。


それは、まさに――


「――邪神クトゥル様の背には、力が集う…。」


無言のまま、魔族たちの誰かがそう悟った瞬間、場にいた者たちの中には、背筋を冷たいものが這い上がるような感覚を覚えた者もいた。


力ある者には分かる。


己より「上」が、そこに在るということが。


言葉で説明されるまでもない。教えられるまでもない。視るだけで理解してしまう。絶対の存在が放つ「圧」は、それほどまでに直感に刻み込まれるものだった。


誰かが名乗ったわけではない。威嚇をしたわけでもない。それでも、誰もが確信していた。


――邪神クトゥルが「在る」。


ただそれだけで、ここはもはや、今までと同じソーンベルではなかった。空気の秩序が、立ち位置が、世界の構造が――静かに、しかし確実に変わっていた。




―――




翌朝のソーンベルは、まるで昨夜の華やかな宴が幻だったかのように、しんと静まり返っていた。空には薄雲が流れ、地に降り注ぐ光はやわらかく、まだ夢の余韻を引きずっているかのような穏やかさがあった。


アビスローゼ家の屋敷。その一室、応接間には、朝の気配を纏った静寂が息づいていた。


厚いカーテンの隙間から淡い光が差し込み、黒曜石で形作られたテーブルを淡く照らす。壁には深い漆黒の油彩画が掛けられ、どこか厳粛な、しかし懐かしさを覚える静謐な空間をつくっている。天蓋付きの重厚なソファは、深く身を沈めれば身も心も吸い込まれてしまいそうな重みと品位を湛えていた。


部屋には、昨夜の香がほのかに残っていた。芳香木とアビスローゼティーが織りなす、甘く微かな香気。それがこの屋敷の時間を、柔らかく包んでいる。


応接室には三人――エリザベート、クトゥル、そしてリュミエールがいた。


エリザベートは、手元のティーカップから立ち昇る湯気を、ぼんやりとした目で眺めていた。昨夜の宴の余韻がその頬に残り、どこか安らいだ面差しが浮かんでいる。だが、その瞳の奥には、ふと遠くを思い出すような、静かな憂いも宿っていた。


彼女の向かいには、邪神クトゥルが腰を下ろしている。その存在は、ただそこに在るだけで空間に神性と威圧を与え、どこか超然とした重力を帯びていた。

だが奇妙なことに、その神域にも等しい気配が、この応接室の空気と奇妙に調和していた。あたかも彼の存在すら、この屋敷の一部であるかのように。


そして、場に最も自然に溶け込んでいたのは、小柄なインプのメイド――リュミエールであった。


紅茶を丁寧に淹れ直し、トレイを置いてから恭しく一礼すると、彼女はテーブルの端に手を添え、静かに口を開いた。


「クラゲイン家が動き出したのは……エリザベート様が旅立ってから1週間後ほどのことでした。」


その言葉はまるで、静寂に一石を投じるかのように、ぴたりと場の空気を変えた。ティーカップの中の液面すら、少し揺れたかのように見える。


「ンシュタウンフェン家は消え、エリザベート様の不在――つまり力の空白が生まれたのです。」


事実を淡々と告げるリュミエールの声は冷静だったが、その芯には緊張が微かに走っていた。その声音は、痛みをこらえるような張り詰めた静けさを帯びている。


窓の外、街の上空を悠々と飛ぶエアリオーンの影が、ちらりと壁に差した。いつもと変わらぬソーンベルの風景――だが、その下では、世界が静かに変化しつつある。


「元ンシュタウンフェン領はもちろんのこと周辺領では、掌握が進行しています。ソーンベルとその周辺、アビスローゼ家の領地周辺以外はすでにクラゲイン家の手に堕ちました。」


告げられた現実に、部屋の空気が明確に引き締まる。まるで無言の重圧が場を覆い始めるかのように、時間が少しだけ鈍く流れた。


「従わぬ者、抗う者は――粛清されたと囁かれています」


囁きのように落とされた言葉。その響きに、エリザベートの長い睫毛がわずかに震える。唇をきゅっと閉じ、そのまま一瞬、視線を落とした。


だが次に続いたリュミエールの声は、微かな誇りを帯びていた。ほんの少し、胸を張ったような強さがそこにある。


「……それでも、クラゲイン家はソーンベルには、指一本触れておりません。」


その言葉と同時に、彼女はゆっくりと微笑んだ。どこまでも穏やかに、しかし確かな自信と矜持をにじませて。


彼女の笑みは、かつてこの地を護り抜いた者だけが持つ、気高き者の誇りに満ちていた。

クトゥルはソファの柔らかなクッションに体を預けながら、手元のティーカップを軽く傾け、アビスローゼ・ティーをゆっくりと口に含んだ。その深い味わいは、数ある感覚のうち唯一彼が確かに˝味わえる˝ものだった。


視線はさりげなく向かいの会話へと移る。エリザベートとリュミエールが、領地の民の様子について言葉を交わしている。

どこか懐かしげな語り口と、それに応じる侍女の温かなまなざし。そこには、この館にしか存在しない穏やかな時があった。


しかし、その安寧の中にあっても、クトゥルの思考は別の方向へと静かに進んでいた。


「(けど、俺がここに来たと知ったら…向こうも、アビスローゼ領に侵攻してくるんじゃないか…?と、言うことは…?)」


脳裏をよぎるのは、クラゲイン家の存在。クラゲイン当主が、自身の帰還を知った時、果たして黙して座しているだろうか。むしろその逆、彼の狂った牙を剥く可能性すら考えられた。


クトゥルの背筋に、ぞわりとした感覚が走る。


「(…戦いは避けられないのか…?)」


そうなれば、再び戦の火蓋が切って落とされる――。


クトゥルは、戦闘に向かない。強大な力を誇る邪神として崇められていながら、実際には戦闘能力はほぼ皆無。これまでも、味方たちの奮闘に支えられ、辛うじて命を繋いできた。


それでも、彼は今や仲間たちの˝力の象徴˝だ。旅の目的地であるユ=ツ・スエ・ビルは今、危機に瀕しており、軽はずみな言葉で不安を煽ることはできない。


どんなに心の中で恐怖が渦巻こうとも、それを表に出すわけにはいかなかった。


発汗という生理現象のない彼の肉体に代わって、冷たい汗は心の中で静かに流れ落ちていく。


それでも――ティーカップをもう一度唇に運び、その香りと温もりにすがるようにして、クトゥルは静かに己を落ち着かせた。


来る恐怖に怯えながら――



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