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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑦

食後、ゆったりとした時間が流れる中──。

クトゥルたちは館の応接室へと案内され、重厚なソファに身を沈めていた。


天井は高く、窓辺からは柔らかな陽光が差し込んでいる。かすかに風がカーテンを揺らし、室内にふわりと紅茶の香りが満ちた。

それは、この地でしかほぼ味わえないとされる高級茶葉──アビスローゼ・ティー。香りは甘く、かつ凛とした気品を湛えており、舌に乗せれば仄かな蜜と花のような味が広がる。


クトゥルは静かにカップを持ち上げ、熱を逃がすようにそっと息を吹きかけてから一口含んだ。


「(この紅茶だけ、味を感じられて美味いな…)」


普段はどれほど香り豊かな料理であっても、味覚を持たないこの身体では無意味なものに過ぎない。

だが、この紅茶だけは違った。唯一、味を感じられる数少ない「贈り物」のような存在だった。


目を閉じて、深く香りを吸い込みながら、その余韻に身を委ねていると──

銀のティーポットを手にしたリュミエールが、慎重な手つきでティーカップを各人の前に置き終えた。


その瞬間だった。エリザベートがカップの縁に指を添えながら、ふと遠くを見るような眼差しで口を開いた。


「ねえ、リュミエール。領地にいる民たちは、どうしてるのかしら…?」


その声音には、わずかながら翳りがあった。

懐かしさと共に、長らく離れていた故郷への不安と寂しさが滲んでいた。


だが、リュミエールは即座に安心させるような笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。


「はい、お嬢様。皆さま変わらず、健やかに過ごしておりますよ。クラゲイン家も、さすがにアビスローゼ家の領地に攻め入るなどという愚考は犯さなかったようですっ」


少しだけ首をかしげるようにして、言葉を継ぐ。


「むしろ……クラゲイン家の所業について、ほとんどの者が知りません。˝都で何か騒ぎがあったらしい˝程度の認識でして……」


それを聞いたエリザベートは、わずかに目を伏せ、肩を落とした。

しかし、その口元にはどこか苦笑めいた、呆れとも愛しさとも取れる微笑が浮かんでいた。


「……アビスローゼの民は相変わらずね…」


かつて、彼女が守ろうとした人々。今なお彼女を知らぬ間に支え、知らぬ間に信じてくれている存在。

彼女の中にある誇りと呆れと、そして優しさが、そこには確かに滲んでいた。


蒸気の立ち上るアビスローゼ・ティーが、穏やかな香りとともに空間を包む。

優雅な時間のなか、会話は自然と過去へと向かっていた。


「昔もそうだったのよ。都で争いが起きてても、山羊の乳が足りないほうが大事だったりして……」


エリザベートはどこか懐かしそうに、けれど肩の力を抜いた笑みでそう呟いた。

彼女の声には、遠い記憶への愛情と、変わらぬ民の気質への苦笑が混じっている。

そんなやり取りを、黙って見守っていたのはクトゥルだった。


重く落ち着いた声が、室内に静かに響く。

その響きには冷たさも厳しさもなく、むしろ人知れぬ温もりが込められていた。


「ならば、顔を見せてやると良い。アビスローゼ領の民を安心させてやれ(民たちも喜ぶだろうっ…うん)」


たったそれだけの言葉。だがそれは、凍った時間に一筋の陽光が差すような、確かな重みを持っていた。


次の瞬間、エリザベートの瞳がぱっと見開かれ、息を呑むほどの輝きを宿す。

ティーカップを置いた彼女は、ソファから身を乗り出し、頬を紅潮させながら声を弾ませた。


「そうですね…みんな驚きます。邪神であるクトゥル様が再びこの地に戻って来た……ふふっ、見せてあげたいわ、あの子たちの顔!」


その姿は、まるで少女時代に戻ったかのようだった。

堅牢な屋敷の中で、過酷な運命を背負いながらも、ひそかに微笑みを浮かべていたあの日の彼女が、今この瞬間、ふたたびそこに在る。


ティーカップの中でアビスローゼ・ティーが揺れ、彼女の小さな喜びに呼応するかのように、光をきらめかせていた。


そんなエリザベートの様子を、リュミエールは少し離れた位置から、柔らかな目で見つめていた。

仕えている「お嬢様」が、長い時を経てもなお変わらずに喜びを表すその姿に──忠誠だけではない、深い愛情が滲んでいる。


「……ふふ、お嬢様は昔から、嬉しいとすぐ顔に出るのですね。けれど…そのお姿が見られて、アタシはとても幸せです。」


優しく語りかけるその声は、忠義に満ちていながらも、どこか母のような温かさを含んでいた。

それは、仕える者と主という関係を超えた、ひとつの絆の形。

互いが共に歩んできた日々が、ここに息づいている証だった。


──かつて失われたはずの日常。

ほんの一瞬だとしても、その温もりは確かに、誰の心にも触れていた。




―――



数刻の道程を経て──

一行はついにアビスローゼ領の中心地、ソーンベルの地にその足を踏み入れた。


足元を彩るのは、整然と敷き詰められた灰銀色の石畳。よく磨かれたその表面は鈍い光を反射し、歩を進めるたびに、乾いた靴音が控えめに、けれど確かに耳をくすぐった。まるで街そのものが、訪れた者を迎え入れるように語りかけてくるようだった。


広い大通りの両側には、重厚な建築群が整然と並び立っていた。

漆黒と深紅を基調に構成されたそれらの建物は、どれもが厳かな静けさを纏っている。壁面には荘厳な装飾彫刻が施され、魔法によって輝きを保つ銀の紋が、静かに脈動するかのように淡い光を放っていた。各所には魔術的な結界も張られており、見た者に自然と畏敬の念を抱かせる。


空を見上げれば、高く屹立する街灯が等間隔に配置されており、その先端には淡い青白い光を宿す魔結晶が据えられている。昼と夜の境界を曖昧にし、時の流れさえ忘れさせるその光は、ただ周囲を照らすだけでなく、不思議と心の澱を洗い流すような、魔的な温もりすら宿していた。


そんな穏やかな空の下を、翼を持つ獣──エアリオーンが優雅に旋回していた。

彼らは騎手を乗せ、郵便の配達から領地内の監視までを担う空の守人。

羽ばたくその音すら、街の静寂を壊すまいとするかのように慎ましい。


頭上を滑空するそれらの合間を縫うように、浮遊魔術によって運ばれる台車がゆるやかに行き交っていた。

木箱に詰められた収穫物、果実や野菜、香草、家畜の肉。中には、アビスローゼ・ティーの出荷用の特製箱も見える。どれも市場や各邸宅へと的確に運ばれていき、街全体の「呼吸」のようなリズムを作っていた。


この地において、「生きること」に困る者は存在しない。


ソーンベルは、まさに豊饒の象徴だった。

肥沃な土壌と、邪神の冥加によってもたらされた加護が、この地を他領からの供給に頼ることなく自立させている。果実も穀物も、家畜も、必要なすべてがこの領内で揃うのだ。


なかでも、この地の象徴とも言える存在、それが「アビスローゼ」の名を冠する黒赤の薔薇である。

その薔薇から抽出される茶葉は、複雑で繊細な香りを有し、風味の奥にかすかな魔力の波動を宿していた。

アビスローゼ・ティー。

元々、ユ=ツ・スエ・ビルでしか出回らなかったが、それは今やウロボロス中の貴族たちが金貨を惜しまず求める、秘宝とも呼ばれる嗜みであり、この領地に生きる者たちの誇りでもある。


そして街の中央──。


ひときわ目を引く高さを誇る尖塔が、静かに空へとそびえていた。

漆黒の闇を切り出したかのような光を纏うその塔は、黒曜石で築かれており、あらゆる角度から威容を放っていた。

塔の中央には巨大な紋章が、緻密な浮き彫りによって刻まれている。


一輪の薔薇。

その花弁を守るように絡みつく、鋭利な棘の蔓が円を描き、その中心を神聖に、あるいは禍々しく強調していた。


それは、ソーンベルを創り、支配し、そして護ってきた由緒正しき名門──アビスローゼ家の紋章。


「変わっていないわね……私がいた頃と、ほとんど」


街に足を踏み入れたエリザベートが、懐かしさに浸るように瞳を細め、ゆっくりと呟いた。彼女の目に映るのは、まさに記憶の中と寸分違わぬソーンベルの景色だった。


漆黒の石で組まれた家々の屋根に陽が差し込み、通りの奥で市場の声が響いている。魔族たちの営みは、騒がしすぎず、だが確かな熱を持っていた。商人たちが並べる品々の中には、アビスローゼ名産の果実や茶葉、魔道具などが所狭しと並び、通りを駆け回る子どもたちの笑い声が風に乗って届く。パトロール中の衛兵たちは、礼儀正しく通行人に軽く頭を下げて通り過ぎていった。


「ふむ…良い街だ」


しみじみと呟いたクトゥルの声は低く、だが確かな重みを持って響いた。


「光栄ですっ」


すぐさま、エリザベートが深く頭を下げて応じる。その目は誇らしげに輝き、まるで自身の魂を認められたかのように、慎ましくも嬉しさをにじませていた。


「…くっ…これほどの街を維持していたとは…悔しいが、さすがはアビスローゼ家じゃな。」


アーヴァが唇を噛むようにして悔しさをにじませつつも、心からの感嘆を吐き出した。しぶしぶ認めるような言いぶりではあったが、目の奥に宿るのは偽りのない尊敬だった。


すると、傍らにいたリュミエールが自信に満ちた微笑みを浮かべ、背筋をぴんと伸ばして誇らしげに胸を張る。


「はい。お嬢様が旅立たれた後も、アタシが責務を果たしてまいりました。」


その言葉の端々に、彼女がどれほどの献身でこの地を守ってきたのかが滲んでいる。


「この様子だと…本当にクラゲイン家の暴挙すら知らないんですね……」


ティファーが街の喧騒に耳を傾けながら、走り去っていく子どもたちの姿を目で追い、困惑を滲ませた声で呟いた。


「そうね…」


エリザベートが肩をすくめ、小さくため息を吐く。まるで、その鈍感さが愛おしくも呆れるような……そんな複雑な感情を込めて。


「それだけ、アビスローゼ家には絶対な信頼を置いているのだろう…(流石、邪神の家系…)」


クトゥルが、威厳に満ちた声音で低くそう告げる。静かな言葉の中には、冷たくもない、むしろ確かな敬意のようなものが宿っていた。


その瞬間――


周囲にいた魔族たちが、次々と立ち止まり、何かに気づいたように振り返る。そして、誰かが目を見開いて呟いた。


「……あれは……エリザベート様……?」


その小さなざわめきが波紋のように広がり、静かだった街の一角に、確かな熱が生まれ始める。



―――



ソーンベルの中心広場に足を踏み入れた瞬間、それは起きた。


沈黙に満ちた時間が、まるで水面に小石を投げ込んだかのように揺らぎ始める。最初に声を上げたのは、ローブをまとった老魔族だった。


「お、お嬢様……!?」


驚愕と歓喜が交錯するように、次々と人々――いや、角を持つ者、翼を背に抱く者、尻尾を揺らす者たちが声をあげる。


「まさか……本当に……!」


「エリザベート様が……お帰りにっ…!?」


その場にいた誰もが、信じられないといった面持ちで足を止め、振り返り、そして駆け寄った。瞬く間に広場は熱を帯び、魔族たちの群れが波のように集まってくる。


まるで伝説が現実となったように、ざわめきが広がっていく。


「お嬢様ぁあああっっっ!」


「よくぞ……よくぞご無事で!」


「リュミエール様まで……!」


次第に歓声は大きくなり、嗚咽すら混じり始めた。かつて失われたと思われた者が、生きて、今ここにいる――その衝撃と歓喜が、群衆を揺るがしていた。


そんな中、エリザベートは静かに微笑み、堂々と前へと歩を進める。そして、集まった民たちに向かって誇り高く告げた。


「エリザベート=ド=アビスローゼ…帰還したわ」


その一言に、歓喜の声が弾け、涙を浮かべる者もいた。


――だが、それは序章に過ぎなかった。


エリザベートはゆっくりと身を翻し、集まる民衆を見渡す。そして、傍らに立つ異形の影に向かって視線を向けた。


「貴方たちに朗報よ…ついに、ついに…この地に降臨して下さったわ…」


その言葉と同時に、彼女はすっと片膝をつき、頭を垂れる。


その視線の先にいたのは――黒き意志を纏いし者、クトゥル=ノワール・ル=ファルザス。


民たちは騒然とした。誰もが言葉を失い、その光景を呆然と見つめる。


「この方こそ、ユ=ツ・スエ・ビルを創造した…混沌の邪神――クトゥル=ノワール・ル=ファルザス様よ!」


重々しい宣言が、まるで雷鳴のように広場に響き渡った。


次の瞬間、空気が変わった。


風が止み、空間そのものが濃密な闇に染まっていく。光すら染め上げるような闇が、じわじわと広がり、辺りの温度が一瞬にして低下する。恐怖ではない。それは、絶対的な畏れだった。


魔族たちは、理屈ではなく本能で悟った。この存在は、尊崇すべき混沌の核――触れてはならぬ神聖。


その中心で、当のクトゥル本人はというと……


「(えっ…?お、俺は何を言えばいいんだ…?うーん。じゃ、邪神ロールしとくか…?)」


心の中でやや動揺しながらも、彼は一呼吸おいて、ゆっくりと己の姿を変えていく。


小柄で黒褐色の体がみるみるうちに巨大化し、赤黒い装甲のような肌が現れ、背に這うように伸びた触手の先に、無数の赤い目が燦然と輝き始める。そこに在るのは、禍々しくも神聖なる異形の影――


「ククク。我はクトゥル。ここに帰還した。――お前たちの真なる道を示す者としてだ(ついでに、オール・オブ・ラグナロクでそれっぽい音だしとこ)」


――ゴォンゴォン


言葉と同時に、彼の背後から、異界の鐘のような低音が荘厳に鳴り響く。〈オール・オブ・ラグナロク〉――それは音だけのスキルでありながら、場を支配する威厳を十二分に演出していた。


神話が現実となった瞬間だった。


誰かが膝をつき、次いでその波は広がっていく。まるで神殿で祈るがごとく、民たちは頭を垂れ、地に伏す。


「…邪神様…いえ、クトゥル様っ……!」


「何と言うことだ!再び邪神が降臨なされるとはっ!」


「長生きするものじゃっ…ありがたやっ…ありがたや…っ」


ひれ伏す者たちの中には涙を流す者もいた。かつてこの地に冥加をもたらした伝説の存在が、今ここに現れた――それは恐怖ではなく、救済の到来だった。


その様子を、リュミエールは広場の端で静かに見守っていた。


民たちの歓喜、戸惑い、そして崇敬。そのすべてを優しく包むようなまなざしをたたえて。


そして視線を、お嬢様――エリザベートへと移す。


――無邪気に、邪神様を紹介し、誇らしげにはしゃぐ少女のような姿。


その光景に、リュミエールはふっと微笑んだ。


かつての穏やかな日々が、形を変えて、今ふたたびここに戻ってきた。その事実が、何よりも彼女の胸を満たしていた。



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