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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル⑤

クトゥルは、ゆっくりと歩を進めながら、改めて周囲を見渡した。


そこは、まさしく屋敷のエントランスホール――邸宅の中心を成す、迎えの空間だった。


高い天井は、立派なシャンデリアが付いていて、黒い大理石の床が、足音を吸い込むように静まり返っている。両脇の壁面には、魔導式の燭台が等間隔に並び、血のように赤い炎が淡く揺れていた。


正面には、ゆるやかに弧を描くように左右対称の大階段がそびえ立ち、その上階へと続いている。階段の手すりには繊細なバラの蔓模様が彫り込まれており、まるで生きているかのように陰影の中で脈動していた。


その左右には、重厚な木製の扉がいくつも連なっている。どれも魔力で封じられているかのように静かで、扉の表面には一族を象徴する薔薇の意匠が刻まれていた。


まるで古の儀式を記した図像のように、不気味な荘厳さを放っている。


「……(ホテルみたいだな)」


クトゥルは心の中でぽつりと呟いた。


だがそれは、ただの冗談や皮肉ではない。

この空間に漂う格式と冷たい静謐さは、まさしく人を迎えるために存在している――そう思わせる、整いすぎた構造と演出だった。


豪奢でありながら、どこか異質で、異界の気配すら帯びている。


だが、そんな中でも彼の中に湧き上がるのは、不安や恐怖ではなかった。


――むしろ、妙な高揚感だった。


「…む?…妙じゃな…エリザベートが数か月留守にしていたにしては、埃が一つもないぞい…?」


クトゥルのテンションが内心上がっている中、アーヴァが低く囁き、警戒するように手すりへと手を伸ばす。

その細い指が木目の表面をなぞると、わずかな抵抗もなく滑り落ちていった。

まるで昨日、誰かが丁寧に磨き上げたばかりのように、そこには一粒の埃すら存在しない。


異常だった。

荒れた形跡もなければ、生活の乱れも見受けられない。

むしろ、何者かが日々この館を整え、守ってきたとしか思えぬほど、全てが秩序立ち、整然と保たれていた。


「…あぁ…それは――」


エリザベートが何かを告げようと口を開いた、その瞬間だった。


――カッ、カッ、カッ、カッッ!


硬質な足音が、石造りの床を断続的に打ち鳴らした。

均整の取れたそのリズムが、冷えた空間を確かに打ち破る。


――シャン、シャン、シャンッ!


続いて聞こえてきたのは、鈴の音。

軽やかでありながらも、空気を震わせるようなその音は、反響して広間の隅々にまで広がっていく。

まるで館そのものが応えるかのように、石壁が音を孕み、不協の旋律を奏で始めた。


「……!」


ティファーが反射的に肩を跳ねさせ、鋭く息を吸い込むと同時に、両手を構えて詠唱の準備を始める。

その隣では、アーヴァの指先に魔力が集束し、微細な光の粒が明滅し始めた。

ルドラヴェールは一歩前に出て巨体を低く構え、仲間たちの前へと身を差し出す。

獣のような呼吸とともに、鼻先を小さく震わせ、慎重に気配を探る。


そして――皆の背後で、堂々と腕を組みながら立っていたのはクトゥルだった。

視線一つ動かさぬまま、彼は静かに仲間たちの背後に回り、即座に退路の確認を済ませていた。


「ククク…我らの元に向かってくるとは…物好きよ(よしっ!退路確保っ!いつでも逃げられるぞ!)」


声音には邪神としての余裕がにじむ。

だがその裏では、心の中で静かに脱出経路の再確認を行っているという慎重さが潜んでいた。

戦いへの備えと、撤退の準備――その両面を常に維持する。それが、クトゥルという存在の本質だった。


「ふふ…クトゥル様の言う通りです…」


その中で、ただ一人。

エリザベートだけは、微かに口元を綻ばせていた。

まるでこの出来事すら予期していたかのような、その微笑には恐れの影はなく、むしろ懐かしさすら漂わせている。


カツリ、カツリ――。


足音と鈴の音は、なおも近づいてくる。


やがて、その音の主が姿を現した。

廊下の奥、漆黒の柱と壁の隙間を縫うようにして、一人の少女が静かに進み出る。


赤黒の絨毯の上を、まるで舞踏でもするかのような優雅な足取りで──重心は軽やかに、だが一歩一歩には確かな節度が宿っていた。


彼女の装いは、青い瞳が映える赤渕の眼鏡、古き格式を感じさせる白と黒のメイド服。

フリルのあしらいが控えめに品格を添え、動くたび、揺れる裾が月影のように流麗だった。

長く尖った耳が髪の間から覗き、その頭部には小さくも鋭い二本の角が突き出している。

背後には、滑らかに弧を描く細身の尻尾。先端はスペード型に尖り、そこには金の小鈴が取り付けられていた。

歩くたびにその鈴が涼やかに鳴り、彼女の存在を幽かに主張していた。


魔族の中でも、主に仕える特異な種――インプ。

だが、その姿にはどこか厳かな気品すら漂っていた。


彼女は一歩、また一歩と皆の前へと進み出ると、ぴたりと立ち止まり、深く一礼する。

その口元から、澄んだ声が朗々と響いた。


「おかえりなさいませっ!お嬢様っ!」


その瞬間、緊張していた空気が一気に緩む。

背後に回っていたクトゥルも、警戒の表情を解き、ひょこっと仲間の肩越しに様子をうかがう。


「(敵じゃない…?…)」


敵意を感じないと悟ったその瞬間、クトゥルは堂々と歩を進める。

胸を張り、邪神としての威厳を演出しつつも、どこか安堵の色を瞳に宿していた。


「……リュミエール。まだ、ここにいたのね」


エリザベートの声は、どこか懐かしさを含んでいた。

それは予想していなかった再会への驚きと、確かな絆を再び手繰り寄せた安堵の響き。


「ええ。お嬢様が戻ると、信じておりましたから。屋敷の管理は、ずっとアタシがっ!」


応える少女の声音には、誇りと忠義が込められていた。

リュミエール――それが彼女の名。


「リュミエール、紹介するわ。この方こそ、この地を支配してきた邪神クトゥル様よ。残りはおまけね。」


アーヴァは「こらっ、エリザベートっ…誰がおまけじゃ!?」と憤慨するが、リュミエールは青い瞳に微かな魔の光を宿しながら、一行を順に見渡す。


悔し気なアーヴァ、安堵のティファー、寡黙なまま立ち尽くすルドラヴェール……その全てを静かに見据えた後、彼女の視線はクトゥルへと向けられた。


そして、少女はふわりと膝を折る。

片手を胸に添え、恭しく頭を垂れるその所作には、完璧に仕込まれた礼節の美しさがあった。


「お初にお目にかかりますっ…アタシの名前はリュミエールです。この屋敷に、再び深淵の混沌の息吹が訪れるとは……自身の家と重いおくつろぎを。全身全霊をもっておもてなしいたしますっ。」


その言葉に、クトゥルはゆっくりと頷く。

彼の表情は端正なまま、眼差しだけが微かに鋭さを和らげていた。


「……うむ。我らが立つにふさわしき拠点となるだろう。まずはお前のもてなし…見せてもらおうか。(お世話になります)」


その一声が、この館の空気を決定づけた。

ここはもはや、ただの邸宅ではない。

邪神の拠点として、その威厳を持ち始めていた。



―――



深紅の絨毯が廊下一面に敷かれている。そこを進むクトゥル一行の足音が、しんと静まり返ったアビスローゼ家の館内に規則正しく響いていた。


黒と赤を基調とした装飾、重厚な調度品、天井にまで及ぶ深い陰影が、まるで館そのものが永い眠りについていたかのような静寂を漂わせている。


かつて多くの者が出入りしたであろうこの屋敷には、今やリュミエール以外の気配は感じられず、空間そのものが主の帰還を静かに待ち続けていたかのようだった。


「こちらでございます、皆さま。」


先導するのは、メイド服に身を包んだインプの少女、リュミエールである。

彼女は軽やかな所作で一礼し、漆黒の装飾が施された重厚な両開きの扉へと手をかけた。蝶番が軋むことなく静かに開かれ、その先に広がっていたのは、応接室と呼ばれる一室。


部屋の中央には、深く沈み込むような革張りのソファが据えられ、その正面には魔石細工の装飾が施された楕円の卓が存在感を放っていた。

壁際には、黒檀のキャビネットと並んで一輪の赤いバラが活けられた花瓶が置かれ、その背後には、厳粛な雰囲気を湛えた歴代アビスローゼ家の一族の肖像画が連なっている。かつての栄光と威厳、そして血筋に連なる誇りが、絵の中から今なお滲み出ていた。


リュミエールは卓の脇へと足を運ぶと、静かな手つきでティーセットを広げた。

その手元からは微かな音と香りが立ちのぼり、白磁のカップに注がれた赤黒い液体が、室内に甘やかな芳香を漂わせる。


「改めまして、おかえりなさいませ、お嬢様。クトゥル様。そしてお連れの皆さま。アビスローゼ家のアビスローゼ・ティーになります…」


控えめながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべるリュミエール。

その声は、まるで彼女自身がこの茶葉を育て上げたかのように、紅茶への深い愛情と誇りを含んでいた。


「ありがとう、リュミエール。」


エリザベートは紅茶の香りを一度楽しんでから、微笑を浮かべて礼を言った。

その表情に柔らかな光が差し込む。リュミエールの頬がほのかに綻ぶのが見えた。


一行がそれぞれティーカップを手に取り、席につく。

エリザベートが一口含むのを見届けて、クトゥルも静かにアビスローゼ・ティーを口にした。


「…ふむ…いただこう…(どうせ…味を感じ――うっまっ…!?)」


アビスローゼ・ティーを口に含むと、頬が自然と緩んでいく。


「悪くないな…(へぇ…アビスローゼ・ティーってこんな味なのか…お茶が苦手な俺が飲めるってことは美味いのか…?)」


前世の記憶──田中太郎だった頃の舌は子供のようで、香り高い茶の味わいを理解できるものではなかった。


だが今、舌に触れたこの紅茶には不思議と抵抗がない。わずかな渋みと花の蜜のような甘さ、それらが舌の奥で溶け合い、口の中にゆったりとした余韻を残していく。


ただ、静かにクトゥルは首を傾げた。


「…(ん?あれ…?俺って味覚なかったよな…なら何で、この紅茶は味するんだ…?も、もしかして、味覚戻ったのか!?)」


試しに、隣に置かれたお菓子を手に持ち口に含む。

しかし、期待も空しくクトゥルの舌に転がったお菓子からは、何の味も感じなかった。


「…(味…感じないっ!何だよっ!?期待して損したっ!?)」


「…っ…何だこれは…美味しい…」


静かに落ち込む中、隣でカップを傾けたティファーが目を見開いた。


「グル」


ルドラヴェールは紅茶には興味を示さないのか、床に身を伏せ、うっとりとした表情でティーカップから立ちのぼる香りを堪能していた。


「ほぉ…この茶…中々な代物じゃな…苦味の後に上品な甘さが鼻に抜けるぞい…」


アーヴァは小ぶりな手でカップを器用に持ち上げ、口に含んだ瞬間、感嘆の声を漏らした。

かつて貴族の中でも特に格式ある家に育った彼女にとっても、明らかに特別な一杯だったのだろう。


「はい。裏庭で丁寧に育て上げたバラ――アビスローゼから抽出された自慢の一品です。」


リュミエールの声は誇りに満ちていた。

アビスローゼとは、この名家アビスローゼ家の裏庭、そしてその支配領域にある限られた土地でしか育たない、黒に近い深紅のバラである。

一見すればただの美しい花だが、その棘には猛毒が潜んでおり、「美と死」を象徴する禁忌の花としても知られている。


「…っ!?そう言えば、聞いたことがあります…貴族の間で取引される高級な紅茶っ!?エリザベート様の名を聞いてもしやと思いましたが…」


ティファーが目を見張って言った。

乾燥させたアビスローゼの花びらを用いた「アビスローゼ・ティー」は、かの有名な高級紅茶。

その芳香と深い甘苦さは「高貴な沈黙の味」とも称されており、わずか一杯(約3g)で銀貨2枚、100gともなれば金貨1枚にも及ぶとされている。市場にはほとんど出回らず、貴族間の贈答や密かな取引で流通するのみだ。


「…確か100g金貨1枚だったような…」


「な、何じゃとっ…!?」


アーヴァが思わず声を上げたのも無理はない。

その会話を聞いていたクトゥルもまた、内心で愕然としていた。


「(嘘だろ!?この紅茶っ…そんな高いのかっ!?…言われてみたら…確かに美味い…何で味感じるか分からないけど、美味い気がするっ!)」


もう一度、慎重にカップを口に運ぶ。

舌に広がる華やかでいて落ち着いた味わい。それは確かに、神格とされた彼の舌にすら満足を与える、珠玉の一杯だった。


「ククク…素晴らしい。我に相応しい持て成しだ。」


クトゥルが満足げに笑い声を漏らすと、リュミエールは深く頭を垂れ、柔らかく微笑んだ。


「あり難き幸せですっ」


ある程度、高級な紅茶を堪能した後、重厚な沈黙が応接室を包んだ。クトゥルはゆるやかに背をソファへ預け、肘掛けに手を置いたまま、その目を静かに細めた。深紅のカーテン越しに差し込む午後の光が、漆黒の髪に淡い輝きを落としている。


「(さて、邪神っぽく振る舞うか…)」


微かな間を置いて、彼は静かに、しかし深く響く声で口を開いた。


「リュミエール、と言ったな。我らがこの地に戻った時、既にユ=ツ・スエ・ビルは氷に囲まれていた…道中、クラゲインの名を聞いた…一体、何を目論んでいるんだ…?」


その声音には、低く確かな威厳が宿っていた。空間そのものが張り詰めたように思えるほど、言葉には力があった。


ティーセットの横に控えていたリュミエールは、一瞬だけぴたりと動きを止めた。

その問いに含まれた圧に、体の奥底が緊張する。しかしすぐに、長年仕えてきた者の覚悟と誇りが彼女の背筋を支える。インプの少女は真っすぐな瞳を上げ、誠実に答えた。


「……アタシが知る限りではございますが、この異変は、クラゲイン家の当主が真の邪神を名乗るようになってから起きたものです。彼らは、自らに従わぬ者を不要と見なし……反逆者として、氷に閉ざしていったのです。」


その言葉に応接室の空気がわずかに揺れた。アーヴァがソファーの背に片肘を乗せ、くいと顎を引いて鼻で笑う。


「クラゲイン家の当主が真の邪神、か…本当の邪神様がいる中、良くもそんな安っぽい冠詞、よくも堂々と名乗ったものじゃ…。」


その口ぶりには、名門の誇りと、神性を前にした皮肉が滲んでいる。アーヴァの視線がすっと横へ流れ、クトゥルの顔を捉えた。


「ふっ…確かにな…」


クトゥルは紅茶のカップを指先でくるくると回しながら、口元に余裕の笑みを浮かべていた。


だがその内心では冷や汗がにじむような焦りがこみ上げている。ひょっとして本当に、何かマズいことになっているのではないか――そんな懸念が脳裏をよぎった。


彼の傍らで、ティファーがじっと窓の外を見つめながら静かに呟く。


「どうして、そんなことを……氷で封じるだなんて、まるで、ユ=ツ・スエ・ビルそのものを棺に変えるような行為だな。」


その言葉に、リュミエールは静かに頷き、目を伏せる。紫の髪が頬を隠し、肩が微かに震えた。


「はい……魔族たちは恐れております。目をつけられたが最後、自らの意思も命も凍てつく壁の中に…」


彼女の声音には、恐怖と哀しみが滲んでいた。それは他人事ではない。アビスローゼの名の下に、彼女もまた「選ばれし一族」として、そうした運命と隣り合わせであったのだ。


そのとき――


カチリ、と乾いた音を立てて、エリザベートが静かにティーカップをソーサーに戻した。その動きは優雅で、そして冷ややかだった。彼女の表情がわずかに陰り、ルビーのような双眸が淡く光を帯びる。


「気に入らないわね…」


その一言は氷のように鋭く、まるで室温が一気に数度下がったかのような錯覚すら与える。


応接室の空気が、凍りついたように張りつめる。


「邪神様を信仰する名家でありながら、自身が邪神を名乗るなど烏滸がましいわ…。」


静かに、しかし冷たく切り捨てるようなエリザベートの声が応接室に響いた。彼女の瞳には怒りとも軽蔑ともつかぬ光が宿り、その紅玉のような双眸が淡く揺らめいている。


「その通りですっ!」


ティファーがすかさず身を乗り出し、椅子からずり落ちそうな勢いで力強く頷く。真面目な性格が災いしてか、どこか言葉に熱がこもりすぎている。


「ふんっ…エリザベートの言葉には基本同意したくはないが、このことに関しては同意じゃっ!」


隣でアーヴァが腕を組み、どこか不服そうに眉をしかめながらも、はっきりとした口調で肯定する。その青い竜の尾がゆらりと揺れ、彼女の感情の機微を物語っていた。


「グル…」


さらにソファの下でごろりと横になっていたルドラヴェールまでもが低く唸り、静かな同意を示す。その声は、言葉以上に重みがあった。


一同の反応を受けながら、クトゥルは静かに腕を組み、ゆっくりと目を閉じる。表情には余裕があるように見えるが、内心では別の焦りが募っていた。


「(エリザベートは邪神を名乗って良いって言いたいけど、それをしたら俺の身が危ない…)」


目の前にいるのは、˝本物˝の邪神に最も近い存在。その名を軽々しく語るなど、彼女の逆鱗に触れる行為だと、誰より理解している。


その空気を切るように、アーヴァが声を上げた。


「エリザベート。わっちは幼い頃には、ここから離れておった。クラゲイン家の当主は誰じゃ…?教えるぞいっ!」


紫色の瞳が細められ、視線が鋭くなる。廃都に潜んでいた年月の隔たりが、彼女にとって無視できぬ情報の断絶となっている。問いかけるその声には、かつてユ=ツ・スエ・ビルの情勢を熟知していた者ならではの切実さが滲んでいた。


「そうね…ンシュタウンフェン家が消えてから、数年後にクラゲイン家の当主が変わったわ。たしか、アグロス=クラゲインだったかしら…?」


エリザベートはわずかに視線を上げ、紅茶の香りが残るカップを指先でなぞりながら答える。その口調は冷静でありながら、どこか曖昧さを孕んでいた。


「その当主が、邪神を名乗っていると…?」


ティファーが椅子に背筋を正し、緊張した面持ちで問いを返す。彼女の言葉には疑念が混じっていた。


「…あのアグロス=クラゲインが…?」


しかし、エリザベートの顔に浮かんだのは困惑だった。彼女は目を伏せ、しばし黙考する。


「…どうした…エリザベート、何か引っかかるのか…?」


クトゥルは彼女の微妙な表情の変化に気づき、ゆっくりと問いかける。あのエリザベートが、言葉を濁すような事態はそうそうあるものではない。


「はい。クラゲイン家はアビスローゼ家と同様、邪神を信仰する家。その中でも、アグロスは特に邪神様を崇拝していました。そんな男が、邪神を名乗るとは思わなくて…」


その言葉には、知識と経験に裏打ちされた違和感があった。単なる事実の羅列ではない。彼女自身の中にある理に照らして、明らかに不自然なのだ。


「ふむ…(と、いうことは…どういうことだ…?……)」


クトゥルは眉を寄せ、内心で考えを巡らせようとする。だが、絡まった糸のように思考が整理できず、彼の中で結論が形を成さない。


すると――


「グル…アグロス=クラゲイン以外ガ、邪神ヲ名乗ッテイル言ウコトダナ…エリザベート殿…。」


寝転んでいたルドラヴェールが、ゆっくりと体を起こして声を発した。その声は低く、だが確信に満ちていた。


「えぇ、その可能性が高いわね。」


エリザベートが小さく頷く。その姿は、まるで謎の糸口が見え始めた探求者のようだった。


「(おぉ…なるほど)ククク…なるほど、我の考えた通りだったか…」


クトゥルは顔を上げ、口元に意味深な笑みを浮かべる。さも、すべてを見通していたかのような態度で、頷いてみせた。内心ではようやく一つのピースがはまったばかりであったが、それを顔に出すことはしない。威厳を保つのも、邪神たる者の務めなのだ。


「アグロスが邪神を名乗ってないとなると、誰が邪神を名乗っておる…?」


アーヴァがソファの端に身を乗り出し、興味と警戒を入り混ぜた声で問いかける。その表情は、鋭い獣のようだ。


だが、エリザベートは静かに首を横に振った。


「そこまでは、分からないわ…でも、アグロスは、クラゲイン家の中でもかなりの実力者のはず…少なくとも、アグロスより強いのは間違いないわ…」


その言葉は、誰よりも重かった。


「(ま、まじで…?)」


発汗という生理現象を持たぬクトゥルでさえ、その瞬間、背筋をぞくりと冷気が走ったように感じた。


静まり返る室内に、沈黙の帳がゆっくりと降りていた。


先ほどまで交わされていたやり取りの余韻がまだ残る中、誰もが次の言葉を探しあぐねていた。ティファーは俯き、アーヴァはじっと窓の外を睨んだまま動かない。ルドラヴェールも再び伏せた姿勢で、わずかに尻尾を揺らしている。エリザベートは静かに椅子に腰かけ、唇を閉ざしていた。


その沈黙を破ったのは――控えめで、しかし確かな意志を宿した声だった。


「お嬢様。地下に、物資を貯めていた倉庫がございます。防壁も健在です。アタシにできることがあれば……何なりとお申し付け下さい。」


声の主は、かつてこの館に仕えていたメイド――リュミエールだった。彼女の姿は変わらぬまま、かすかに背筋を伸ばし、まるであの頃に戻ったように振る舞っていた。

だがその声の震えは、彼女がどれだけこの再会を待ち望んでいたか、どれだけ今の自分に意味を与えたかったかを、雄弁に物語っていた。


その献身の申し出に、エリザベートはゆるやかに頷いた。まるで重厚な幕が一枚、静かに引かれるような厳かな動作だった。


「ありがとう、リュミエール。今夜から、ここが始まりになるのね。」


その声には、決意と覚悟、そして古き帰還者としての誇りがあった。幾年を経てなお、帰るべき場所があったことへの感謝が、ほんのりと滲んでいた。


そして次の瞬間、彼女はゆっくりと視線を横に向ける。そこにいたのは、彼女が信じてやまない存在――邪神クトゥル。その姿に向けられた眼差しには、もはや疑いというものは微塵もなかった。


深い敬愛と、揺るぎない信頼。


「クトゥル様…貴方様は、すでにすべてを見通しておられるのでしょう…私たちは、クトゥル様の導きのままに……進む覚悟はもう、できています。」


その言葉は、従属や追従ではない。意志を持つ者が、自ら選んで従うと宣言する力強さだった。ルドラヴェールが、喉を鳴らし、ティファーが顔を上げ、アーヴァもゆっくりとクトゥルに目を向ける。リュミエールは膝をつき、頭を垂れていた。


この瞬間――一同の心が、ひとつの中心へと収束していた。


その中心にいるクトゥルは、静かに微笑を浮かべた……ように見えた。


しかしその胸の内では、神の威光などとは程遠い、実に凡俗的な叫びがこだましていた。


「(…帰って良いかっ!?)」


強大なる˝邪神˝クトゥル。その仮面の下には、今日も変わらぬ苦労人の素顔があった。

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