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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル④

氷に閉ざされた村を後にし、クトゥル一行は凍てつく原野を進んでいた。


吹き荒ぶ白銀の嵐。空は雲に覆われ、太陽の輪郭さえ曖昧に滲んでいる。視界のすべてが白に染まり、空と地の境界が曖昧になっていた。そんな世界を、漆黒の影たちが歩む。


風が牙のように頬を打ち、霜が髪に白く降り積もる中でも、彼らの歩みは緩まなかった。雪の下に何が潜んでいようと、迷いのない足取りは、強き者だけが持つ覚悟を映していた。


その先にあるのは――エリザベートの故郷、「アビスローゼ領」。


この地、ユ=ツ・スエ・ビルは、ウロボロスの世界地図の中でも最も外界から隔絶された地である。形状は丸に近く、かつては三つの名門――アビスローゼ家、クラゲイン家、ンシュタウンフェン家――がこの地を三等分して統治していた。


だが、過去のある出来事を境に、ンシュタウンフェンの名はこの地を去った。

今では二大名家として、どちらも、かつて邪神を崇拝してきた一族。


特にアビスローゼ家は、クトゥルが知る限り、その血に˝真なる邪神の系譜˝が混じっているはずだった。


「(そ、そう言えばこの先に、エリザベートの親戚がいるのか?)」


クトゥルは吹雪の中で、エリザベートの背を見据えたまま、密かに問いを抱えていた。


もし彼女以外にも、邪神の血を継ぐ者が生き残っているのなら――それは歓迎すべきか、それとも脅威か。仮にクラゲイン家にも「邪神の気配」が存在しているとすれば、ユ=ツ・スエ・ビルの奥に眠る何かは、彼の予想を超えるものになるかもしれなかった。


しばらくの沈黙の後、彼はそっと問いを投げかけた。


「エリザベートよ…アビスローゼの領地には、お前の血縁が残っているのか…?」


その声には、興味と不安が混じっているのだが、不安の部分は必死に押し殺す。

もし彼女が「いる」と答えれば、クトゥルの中で新たな計画が必要になる。内心、少しだけ身構えながら彼はその答えを待った。


エリザベートは、しばし風の音に耳を傾けるように黙し――そして、かすかに首を振った。


「いいえ。アビスローゼ家は、今や私だけです。」


その声には、どこか静謐な響きがあった。諦観でも後悔でもない。ただ、凍てついた真実を淡々と受け入れた者の声音だった。


彼女の横顔に宿る影は、吹雪の白に融けて消えそうなほど儚い。


「……私たちアビスローゼの血は、もとより子が生まれにくいのです。当主となった者は、血を絶やさぬよう、伴侶を見つけ、子を成す――それが古くからの習わしでした」


そう語る彼女の声に、どこか昔日の残響が宿る。


「けれど、私は……興味がないのです。誰かを伴侶に迎えることにも、子を残すことにも。」


それは決して冷淡な宣言ではなかった。ただ静かに、自らの道を選び取った者の決意だった。


かつてこの大地を統べた誇り高き一族は、今では彼女ただ一人を残して消えようとしている。血が絶えることを悲しむ様子もなく、彼女はその運命すらも引き受けていた。


クトゥルは、彼女の言葉を受けて、ふっと肩の力を抜いた。


「(……ほっ…とりあえず、邪神は2人だけか…)」


心の中で呟きながら安堵を覚えていた。


エリザベートは、孤独ではない――彼女の背後には、今や仲間と呼べる者たちがいる。そして、何より彼女が崇拝する邪神クトゥルがいる。


クトゥルはそのことを知らぬまま、彼女の選んだ道を見届けようと決めていた。


彼の足は、再び凍てつく大地を踏みしめ足を進める。



―――



氷原は、まるで神々の悪戯かのように牙を剥いていた。

絶え間なく吹きすさぶ吹雪が視界を奪い、雪に覆われた地形はその形を変え続け、かつて存在した道など幻のように消え失せていた。


白く濁る世界。大地の裂け目を覆い隠す雪の帳。

足元に積もる吹き溜まりの下には、氷でできた落とし穴や、鋭い氷柱の罠が潜んでいる。誰かが足を滑らせれば、命を落とす危険すらあった。


そんな苛烈な自然を前にしても、エリザベートは一歩も迷うことなく進んでいた。

その姿はまるで、氷原の白を切り裂く一本の紅。混沌のローブの裾をなびかせながら、堂々と雪原を渡る彼女の背中には、誇りと覚悟がにじんでいた。


「……エリザベート。お主…本当に道が分かっておるのか…?」


紫の双眸を細め、後方から声をかけたのはアーヴァ。

彼女は風に揺れるハーフツインの髪を手で押さえながら、半ば疑わしげにエリザベートの背へ視線を投げかけた。


「貴方の頭と、私の頭を一緒にしないでくれる…?問題ないわ。」


返ってきたのは、冷ややかで当たり前のような声。

吹雪の中でもぶれることのないその声音に、アーヴァは思わず頬を膨らませた。


「むうっ!……そ、それはどういう意味じゃ!?」


怒りを込めて噛みつくように返すが、エリザベートは一切振り返らない。

まるで雑音のように受け流し、無言のまま、彼女は先導を続けていく。


足元には、氷が剥き出しとなった大地の裂け目が口を開けている。

だが一行は、その罠のような空隙をひとつずつ丁寧に避けながら、確かな意志をもって進み続けた。


道なき道を越えていくその姿は、まるで神話の巡礼者たちのようだった。


やがて――世界の空気が、静かに、だが確実に変わり始める。


それは気のせいではない。

風の音が変わった。


肺に入り込んだ冷たい空気が、まるで刃のように喉を削り、内臓を締め上げてくるような感覚。

五感すべてが、言葉にならぬ警鐘を鳴らしていた。


――ここは、何かがおかしい。


「太陽が見えないから…余計寒いですね…直接より、布越しで呼吸するのが…良いかもしれません」


ティファ―が震える声で言った。

その頬はうっすらと紅潮しており、吐く息は白く、少し遅れて咳き込む。

氷の粒子を含んだ空気は、肺を凍らせるような冷たさだった。


彼女はマフラーを顔に巻き直し、慎重に呼吸を整えた。


「たしかに…これは、寒くて角が凍るぞい……」


アーヴァは、ぴょこんと尻尾を揺らしながら、額に手を当てた。

その頭には凍りかけの霜が積もっている。けれど彼女は、決して弱音だけでは終わらせなかった。


「しかし、炎を操るンシュタウンフェン家は、こんなのに負けんぞいっ…!」


紫色の瞳に宿る意志は、吹雪の中でも曇ることはない。

かつての誇りを胸に、アーヴァは寒気に抗うように、小さな拳を握りしめる。


こうして一行は、五感すら軋む凍てついた原野を、ただまっすぐに進み続けていた。



―――



氷原のただ中、吹雪が薄らいだその一瞬、彼女は足を止めて告げた。


「クトゥル様。もうじき、私の家の敷地へ入ります」


凛とした声が、刺すような冷気の中に溶けていく。

雪を踏みしめながら先頭を進むエリザベートの横顔には、氷雪に染まった白さと相反する、揺るぎなき意思が宿っていた。


混沌のローブが風にたなびき、彼女の姿だけが、この荒野において異質な輝きを放っているように思えた。


「うむ……(えっ!?もう敷地っ!?家見えてないじゃんっ!)」


後方にいたクトゥルは目を丸くし、前方へと目を凝らす。

だが、彼の目に映るのは果てなき白の世界だけ。どこまで歩いても同じ風景が続き、館らしき影すら見えない。


「(あ、そう言えばエリザベートって貴族だよな……ってことは、かなりの敷地面積を保有しているのか…)」


白銀の霧に覆われた世界の中で、クトゥルは無意識に背筋を正していた。

彼の内心は静かにざわついていた。彼女が貴族であることを今さらながら意識したことに加え、この見えぬ広大な敷地に畏怖を感じたからだ。


そのときだった。


列の中心を進んでいたアーヴァが、ぴたりと歩を止めた。

風に靡く灰青の髪が静かに揺れ、彼女の双眸が、霧の向こうにある何かを確かめるように前方を射抜く。


「……見えてきたのぞい…あれが、アビスローゼの館かの…?」


小さく漏らしたその声に、一行の足が自然と止まり、誰もがアーヴァの視線を追って雪景色の先へと目を凝らした。


白銀の世界の果て――凍てついた大地に霞のように立ち込める霧の彼方に、それは姿を現していた。


そびえ立つのは、荘厳にして威圧的な漆黒の館――アビスローゼ家の邸宅である。

まるで大地を穿つように突き立つその建物は、深淵から削り出したような黒曜の石材「黒曜晶」によって構築されていた。

その表面には、血の筋のように赤い紋様が走り、まるで石そのものが何かを流しているかのような不気味な光沢を帯びている。


それは呪血石と呼ばれる特殊な鉱石――

魔力の滲むその石は、夜になると脈動し、館全体がまるで生き物のように鼓動する。


主屋は三つの尖塔を有し、鋭利に天を穿つその姿は、空の色すらも拒むかのようだった。

館へと続く石畳の道は、左右に赤黒く咲き誇る薔薇――血の香を放つかのような呪薔薇で縁取られている。

中央の双開きの大扉は、黒檀と赤鋼によって造られており、その表面には一族の象徴――「棘薔薇」の紋章が刻まれていた。

それは吸血鬼の誇りであり、アビスローゼ家の正統たる証でもある。


外壁には無数のガーゴイル像が配され、角や牙、翼を広げたそれらは、見上げる者すべてを無意識に威圧し、近づく意志を削ぎ落とすように配置されていた。


この館の存在そのものが、今なおアビスローゼ家の威光がこの地に生きていることを、声高に語っていた。



―――



アビスローゼ邸が姿を現したその瞬間、氷に閉ざされた世界に、張り詰めた沈黙が訪れた。

その沈黙を、最初に破ったのはティファーだった。


「……禍々しいですね……」


囁くように発せられたその言葉には、かすかな震えが滲んでいた。

ティファーは凍てつく空気の中で、まるで目の前の館に魂の奥を握りつぶされるような感覚を覚えていた。

肌に触れる冷気は、もはや気温の問題ではない。

そこに満ちているのは、存在そのものを圧し潰すような魔力の残滓――この館に刻まれた、数多の血と誓いと記憶の重みだった。


背を向ければ殺される。

そう直感した。根拠はない。ただ、本能が叫んでいた。

この館の前では、どんな隙も、逃げ腰さえも許されない。


ティファーは、冷気に軋む喉を布で覆いながらも、なおも目を逸らせずにいた。

視線の先にあるのは、見てはならないもの――だが同時に、抗えぬ引力を持つ魔の象徴だった。


「ふん……これが、アビスローゼ邸…立派では……くぅ…悔しいが、立派だぞい……」


その隣で、アーヴァは口をへの字に曲げながら、唸るように呟いた。

灰青の髪を風に揺らし、誇り高きンシュタウンフェンの姫は、目の前の邸宅に己の敗北を悟る。


悔しい。認めたくはない。

だが、それでも――これは紛れもない「真なる貴族」の館だった。


尖塔の高さ、呪薔薇の咲き誇る庭、脈動する石材、刻まれた紋章――

どれもが、千年の誇りと魔を象徴する意匠。アーヴァは、否応なく理解していた。

自らの一族がこの地から消え去った後も、アビスローゼ家だけは、なおもこの地に生きているのだと。


「……グルゥ……」


くぐもった唸り声が、虎の魔族――ルドラヴェールの喉奥から漏れた。

彼は何も言わない。だがその双眸には、烈火のような感情が宿っていた。

畏れではない。まして、逃避でもない。


それは――挑む者の眼。

未知と対峙したとき、本能をもって牙を剥く獣のそれ。

この館に満ちる威圧感すら、彼の魂にとっては炎となっていた。

誇りを刻まれた背中が微かに震え、前脚をしっかりと踏みしめる。


だが、そんな中――ひとり、明後日の方向に心を飛ばしていた男がいた。


「(エリザベートの家……カッコいいなっ!?中二病の血が騒ぐっ!)」


自他称邪神クトゥルである。


まるでこの空間全体が自分のために作られたテーマパークか何かのように、彼の目はキラキラと輝いていた。

威圧感?畏怖?殺意?否、彼の目にはロマンしか映っていなかった。


鋭利な尖塔。呪文のような紋章。夜に脈動する黒曜石の壁。

血の香りを放つ呪薔薇の花畑。牙を剥いたガーゴイルたち――。


その全てが、クトゥルの中に眠っていた中二病的の琴線を完璧に撃ち抜いた。


「(このまま、椅子に座って『我が館へようこそ…』とか言ってみたいっ!いや、それより玉座ある?ないなら作って!)」


内心ではしゃぎながらも、表面上は真顔を保ったまま、彼は口角をピクリと持ち上げた。

その僅かな緩みは、冷気による震えではない。

――抑えきれぬ興奮の兆しだった。


各々の反応を見たエリザベートは、混沌のローブを翻し、音もなく雪の中を進み出す。

凛とした背筋は揺らぐことなく、その姿はまるでこの館こそが彼女の居場所だと言わんばかりだった。


過去を背負い、未来を選ぶ者の足取り。

凍てつく大地に、彼女の足音だけが小さく刻まれていく。

その音はまるで――失われた時間が目覚める鼓動のようだ。


やがて、館の正面に聳え立つ門扉の前で、エリザベートは静かに立ち止まる。

まるで時間が止まったかのように、吹き荒れていた風が唐突にやみ、舞っていた雪さえ空中で動きを止めた。


眼前の門扉は、長き眠りを保ち続けてきたかのような古びた黒鉄の双扉。

表面には風雪に削られながらも、なお確かに残る赤黒い紋が刻まれていた。

それはアビスローゼの血が持つ魔の刻印――選ばれし者だけが触れることを許される、閉ざされた門。


エリザベートは、迷いなく手を伸ばした。

その白く細い指先が、重厚な扉にそっと触れる。


ぴたりと触れた瞬間――

扉に刻まれた呪紋が、微かに脈動を始める。

まるで彼女の帰還を待ちわびていたかのように、赤黒の紋様がわずかに光を宿す。


静寂の中で、彼女は低く、けれどはっきりとした声で告げた。


「……我が血に応えよ。開門せよ、アビスローゼの扉」


その言葉は、雪の中に消えゆくのではなく――館そのものに響く、解呪の鍵だった。


まるで永劫の眠りから目覚めたかのように、黒鉄の門が鈍く、重々しい音を立てて軋んだ。

音は低く深く、凍てついた空気を震わせるように響く。


幾世代もの時を閉ざしていたその扉は、積もった埃と氷を巻き上げながら、ゆっくりと、まるで名残惜しむかのように開かれていく。


その隙間から、じわりと流れ出てきたのは――黒の静寂。


色すらも呑み込むような、深く、重苦しい闇。

それはただの暗がりではなかった。

魔力と、時間と、記憶――それらが幾重にも堆積し、凝り固まり、まるで意志を持つかのように空間を満たしている。


内側から漏れ出る空気は、現世の法則から断絶された異界の名残。

一歩踏み込めば、常の感覚など一瞬で霧散してしまいそうな、禍々しき静寂だった。


「さぁ…クトゥル様っ」


エリザベートが一歩下がり、クトゥルを屋敷に入るよう促す。

彼は、堂々とした足取りで、躊躇もなく敷居をまたぐ。

漆黒の天井と歪んだ壁面に包まれた空間を見渡し、彼は腕を組んだまま立ち止まる。


「…暗いな…(電気、でんき)」


電気のスイッチがないか、腕組みを説いて探そうとすると、天井に付けられたシャンデリアが点灯する。


「(びっくりしたっ…)ふむ……悪くないな――」


眉間には一瞬だけ微かな驚きが浮かび、鼻孔をくすぐる香気にほんの少し表情が緩んだ。


「ん…?(何か良い匂いがする…)」


「ほぉ…流石アビスローゼ家じゃ…バラの匂いが漂っておるぞい…」


すぐ背後から続いたアーヴァが、小さな体でぴょこんと跳ねるように前に出る。

灰青の髪が肩先で揺れ、獣のように鼻をひくつかせながらあたりの空気を確かめた。


彼女の敏感な嗅覚は、すでに館の奥に漂う香りを正確に捉えていた。

それは朽ちかけた空間に不釣り合いなほど優雅で、微かに甘やかな芳香――紅き薔薇の香りだった。


朽ちぬ記憶。残り香のようにこの空間に染みついたその香りは、まさしくアビスローゼの血脈を象徴する芳香。

そして、それはまた貴族としての誇りと、栄光の証でもあった。


館の内部は、長い年月を経たにもかかわらず、かつての威容を色濃く留めていた。

柱には精緻な装飾が刻まれ、天井には豪奢なシャンデリアが静かに吊られている。


魔力の流れもまた、完全に途絶えてはいない。

むしろ、建築そのものに宿るようにして息づいている。

この場所がいまだ機能することを、一行は本能的に理解した。


「(はぁ~。これが、バラの匂いか…前世の俺じゃ縁遠い匂いだなっ)」


クトゥルは、心の内で呟く。その口元に、ほんの僅かに笑みが浮かんだ。


転生する前も後も、バラの香りに縁遠い人生を送っていたクトゥル。

この香りはあまりにも優雅で、どこか気恥ずかしいものだった。

だが――それでも、もしここが「居場所」となるのなら。

この薔薇の香りに包まれた空間を、仲間と共に迎え入れられるのなら悪くはないと思っていた。


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