氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル③
「従者……?」
ティファーが呟いた声は、炉の静かな爆ぜる音に紛れてしまいそうなほど小さかった。
だが、その問いには、無意識に走った警戒が滲んでいた。
イルメナは返事をせず、ただじっと炎を見つめたまま話を続ける。
炉の中で薪がパチリと弾け、淡い橙色の光が揺れる。彼女の表情に陰影が映し出され、過去の重みを帯びた語り口が部屋の空気をじわりと染めていく。
「それは、この地を支配すると宣言した男。名を名乗ったわけではありませんが、彼の背後には、クラゲインの紋章があったんです…」
「クラゲイン…」
エリザベートが反応したのは一瞬だった。眉がわずかに動き、その鋭い眼差しに微かな緊張が走る。
何かを思い出しかけたかのように、瞳が静かに揺れた。
一方で、クトゥルはその名に聞き覚えを感じたのか、少し首を傾げた。
耳の奥に残るような、古い記憶の断片。確かな手触りがあるのに、つかめない。そんな感覚。
アーヴァもまた、炉の熱に頬を染めながら顔を上げ、低く問うように呟いた。
「クラゲイン家……まさか、三大名家のひとつ、氷を操る深海悪魔――ディープデーモンじゃな…?」
「そうです。」
イルメナの答えは静かだったが、確信に満ちていた。
その声には、拒絶も疑念もなかった。見てしまった者だけが持つ、揺るぎない現実の重み。
「……あれは、クラゲイン家の従者に違いありません。彼は自らを真の邪神に仕える者だと名乗り、この領地を我が物顔で歩き回っていた。……従わぬ者は、その場で……氷漬けに。」
最後の言葉が落ちると、炉の火の音さえも遠のいたように感じられた。
ミレルが恐怖に駆られるように母の服の裾をぎゅっと握りしめる。小さな指は白くなり、肩が震えていた。
イルメナはそっと手を伸ばし、その頭に優しく触れる。
なだめるように、安心させるように。けれど、彼女の指先もわずかに震えていた。
「私たちはただの村人です。逆らえるはずもありません」
その一言が、部屋全体に重く響く。
どれだけの無力を噛み締めてきたのか──その言葉だけで伝わってくる。
イルメナの声には、耐えがたい過去の重さがにじんでいた。
炎が揺れるたび、彼女の表情が淡く明暗を刻む。目の奥には、悔しさとも憎しみともつかぬ色が滲んでいた。
炉の側で話を聞いていたアーヴァは、静かに腕を組み、低く唸るように呟く。
「じゃが、クラゲイン家が何故…そんなことを…?」
瞳には困惑と疑念が渦巻いていた。かつての名家が、なぜここまで暴走したのか。理解の及ばぬ異常性に、理を求めてしまうのは理性ある者の性だった。
その問いに、まるで答えるように、エリザベートが囁く。
その声は火の音にかき消されそうなほど静かで、しかし確信に満ちていた。
「さっき言ったじゃない…クラゲイン家は˝真の邪神˝とやらに仕えているって…」
言葉の端に、冷たい怒りと揶揄が混ざっていた。
そしてそのまま、意味ありげに隣にいるクトゥルへと視線を送る。
「˝本当˝の邪神がいるとも知らずねっ」
その一言に宿った光は、燃えるような紅玉――まるで真紅の刃が夜を裂くように、彼女の瞳が鋭く輝く。
その視線を受けたクトゥルは、ひとまず落ち着いた様子で腕を組み、口元に余裕の笑みを浮かべていた。
堂々たる風格。威厳と自信を漂わせるその姿は、まさしく「邪神」の名にふさわしいものに見えた。──が、しかし。
「(確かに本物の邪神はいるけど…俺じゃなくてエリザベート何だよなぁ…とは口が裂けても言えんっ!?)」
内心では叫びにも似た焦りを飲み込みながら、必死に冷静さを装っていた。
笑みの下の表情筋が、ほんの一瞬引きつりかけたのを、誰も気づかなかったのは幸いだった。
この場において「邪神」として認識されているのは、自分──クトゥル。
けれど、実のところその正体は隣に座るエリザベート=ド=アビスローゼのほうである。
このややこしい関係を、誰かに説明する機会が訪れないことを祈りつつ、クトゥルはその場の空気に身を預けた。
沈黙が再び、部屋の中を満たしていた。
外では雪混じりの風が小さく軋み、軒先の氷柱をかすかに揺らしている。
炉の火がぱちりと小さく弾け、天井へとオレンジ色の影を跳ね上げた。揺らめく炎の影が壁をなぞり、まるでこの部屋が過去の記憶を辿るように揺れている。
やがて、少女──ミレルは、母の膝に体を預けたまま、ゆっくりと目を閉じた。
まだどこか怯えの残るまぶたの動きだったが、安心という名の暖かさが、少しずつ心を包み込んでいたのだろう。
その小さな胸が、穏やかに上下を繰り返しはじめる。
イルメナは柔らかな微笑みを浮かべると、娘にそっと手を伸ばした。
毛布の端を優しく整え、眠るミレルの肩にふわりとかけ直す。
その手の動きはまるで、過酷な現実をひとときでも遠ざけたいと願う、祈りに近い母の愛情そのものだった。
彼女の横顔は変わらぬ穏やかさを湛えていた。
けれど、その瞳の奥には、怒りでもなく、怯えでもなく──もっと深く、重たい理解と、言葉にできぬ同情の色が沈んでいた。
この惨劇の只中にありながら、それでも娘を守ろうとする者の静かな強さが、そこにはあった。
ルドラヴェールは壁際の敷物に腰を下ろし、横になったまま、じっと炉の火を見つめていた。
赤い鬣が揺れ、その瞳はイルメナとミレルを交互に追う。
そのまなざしに宿る光は冷たく、鋭い。だが、それは単なる怒りではなかった。
この惨状を前にしてなお、彼女は感情に溺れることなく、今なすべきことを探ろうとしていた。
そして、沈黙の中に沈んでいた声が、ぽつりと空気を震わせた。
「……従者は、村に現れたその日から、まるで自分がこの地の王であるかのように振る舞っていました。そして、真なる神の支配は、選ばれし者のみが受けるものだと……そう言いながら、人々を一人、また一人と凍らせていったのです。」
イルメナの言葉は、炉の熱すら届かぬ凍気をまとっていた。
静かな語り口だった。だが、その声には、深い恐怖と絶望が滲んでいた。
その場にいた誰もが、言葉を失った。
まるでその一節が、忌まわしい現実を再び蘇らせたかのように。
ぱち、と火がもう一度はじける。けれどその音は、すでに誰の心も温めなかった。
炎の温もりすら、今は遠い夢のように感じられる。
ティファーは、肩を落とすようにして目を伏せた。
その沈黙は、決して無関心からくるものではなかった。
彼女の瞳には、凍てついた村の光景が浮かんでいた。
かつてそこにあったであろう、平穏な暮らし──笑い声、日々の営み、小さな幸福。それらすべてが氷の檻に閉ざされ、永遠に奪われた光景。
やがて、ティファーはかすかに唇を動かし、そっと問いかけた。
「……村に残っていた人たちは、全員、氷漬けに?」
その言葉に、イルメナはゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
頷き一つに、彼女の胸の内に秘めた痛みが濃縮されていた。
「見つかったのは、十七人……。皆、家族も、隣人も、凍ったままで…声も出せず、目を閉じることすら叶わなかった」
イルメナの声は、震えていた。だがその震えは悲しみではなく、過去の記憶の重みに耐えながらも語ろうとする、静かな決意の響きだった。
凍りついたままの者たち──その姿は、もはや人の営みの残像でしかない。けれど彼女の中では、今もその一人ひとりの顔が、鮮やかに焼き付いていたのだ。
その言葉に反応するように、アーヴァの尾がぴくりと動いた。
炉の影が彼女の灰青の尾を淡く照らし、その揺らぎが心のざわめきを映し出しているようだった。
憤りとも、憐れみともつかない。
そのどちらでもあり、どちらでもない複雑な感情が、彼女の中で静かに渦を巻いていた。
「……ぬしら、それでも逃げられたのは……強運じゃな」
アーヴァの声は、かすかに低かった。
ただの事実を述べたに過ぎぬ言葉だったが、その奥には確かに、命を繋いだ者への安堵と、奪われた者への祈りが滲んでいた。
「はい…私たちは、外に出ていたため難を逃れました…」
イルメナは眉をかすかに下げると、隣で眠るミレルの背に手を伸ば、そっと撫でた。
母の手が、小さな娘の背をなぞるたび、夜の静けさに温もりが滲む。
炉の灯りに照らされるミレルの寝顔は、あまりにも無垢で、その存在そのものが、この地に残された最後の「未来」だった。
──たとえすべてを失ったとしても。
この小さな命さえあれば、再び歩き出せる。
イルメナの指先には、そんな祈りが込められていた。
クトゥルは無言のまま、炉の中で揺れる炎を見つめていた。
その顔には、威厳と落ち着きを湛えた静けさがあった。
だが、内側では違った。
「(ここに来たのが従者ってことは、まだ上の存在がいるって…ことか…?うっ…急に胃の辺りが痛くなってきた…気がする…)」
その場にはふさわしくない内心のつぶやきが、彼の胸の奥で軋んだ。
誰にも悟られぬよう、彼は表情一つ変えずにいたが、内心では冷や汗が滲みそうな感覚に耐えていた。
──従者がこれなら、本体はどれだけ厄介なのか。
表面の余裕の笑みを保ちながらも、クトゥルの中に広がっていく緊張は、じわじわと胃に沁み込んでいた。
―――
世界が静寂に凍りついたかのような地──雪と氷に永遠を封じ込めた、白銀の終着点。
その中心に屹立するのは、峻厳たる氷壁に囲まれた巨大な城。
まるで天へ牙を剥く氷竜のように、その建造物は凍てついた空をも貫かんとする勢いでそびえ立っていた。
最上階のベランダ。
そこに立つのは、一人の男。
褐色の肌に覆われた長身の体躯は、まるで戦神の彫像のようだった。
贅肉という概念が最初から存在しないかのごとく、肉体は無駄を徹底的に削ぎ落とされている。
その身体の隅々にまで張り詰める緊張感は、見る者の呼吸すら鈍らせる。
皮膚の下に浮かぶ筋肉の線は、幾何学的な秩序をもって連なり、まるで鍛え上げられた鋼の鎧。
冷たい空の光がその肉体に触れた瞬間、それは硬質な輝きとして弾き返され、氷の世界に幻の焔を灯す。
露出した腹部には、研ぎ澄まされた意志の結晶とも思える、整った筋肉の陰影が静かに揺れていた。
その一つひとつが、雄弁にして無言の威圧を周囲へと放ち、ただそこに立つだけで、世界の理がねじ曲がるような異様な存在感を放っていた。
その時、重厚な音と共に、背後の大扉が開かれた。
ノックの音は短く、形式的な礼儀を最小限にとどめたものだった。
廊下を叩く足音は重く確かで、戦場に慣れた者のそれだった。
姿を現したのは、ミノタウロスの魔族。
闘牛のように湾曲した角を持つ頭部、まるで岩石のように隆起した体躯。
皮膚は灰色にくすんでいたが、その内に秘められた魔力は、今にも咆哮しそうなほどに蠢いていた。
男はその巨体をかがめぬまま、無駄な言葉を挟まず、重く、簡潔に告げる。
「──偽りの神が、ユ=ツ・スエ・ビルに入りました」
氷の風が、音もなくベランダを吹き抜けた。
沈黙の中で、空気はさらに冷たく、張り詰めていく。
報告を受けた男は、わずかに唇の端を吊り上げた。
それはまるで、待ち焦がれていた獲物の到来に歓喜する、捕食者の笑み。
ノコギリのようにギザギザと並ぶ歯が、氷の陽光を受けて鋭く輝いた。
その笑みの奥には、戦いへの渇望すら宿している。
そして、腰元から生えた緑色の触手が、不穏に、蠢く。
男の内に渦巻く感情──狂喜、殺意、あるいは何かもっと深いもの──に共鳴するように、生き物のように脈打ちながら蠢動を始める。
その様は、まるで血の匂いを嗅ぎつけた猛獣が、檻の中で舌なめずりをするかのごとき姿だった。
「……やはり来たかァ…」
男の声は、低く、震えるように響いた。
それは寒さによるものではない。確信と歓喜とが交じり合った、内奥からせり上がる感情そのものだった。
彼の眼差しは、氷原の彼方──見えぬ未来を射抜くように真っ直ぐ向けられていた。
その奥底に潜むものは、信仰か、憎悪か、それとも……狂気。
いずれにせよ、その身に宿された「影」は、ただの名ではない。
氷の中に眠る、真なる邪神の名を冠する者。
その影が、ついに、世界の表層へと静かに浮かび上がろうとしていた。