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氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル②

クトゥル一行は、凍てついた丘を踏みしめ、風にさらされる斜面を越えて、さらに奥地へと足を進めていた。白銀の世界はあまりに静かで、ただ自身の足音だけが冷えた空気に吸い込まれていく。


やがて、その先に見えたのは──


雪に覆われた斜面に張りつくようにして建てられた集落だった。小高い崖の中腹に点在する家々は、まるで長い眠りについた者たちの棲み処のように、白く凍りついていた。


「……村…のようだな…」


クトゥルが白い吐息を漏らしながら、立ち止まり、視線を細めた。


屋根という屋根は雪で覆われ、その重みに軋みを上げる様子もない。石造りの壁面には氷の膜が張りつき、まるでその息吹までも凍てついてしまったかのようだ。


街路に続く道には、足跡のひとつも見えない。風もなく、空気は異様に重い。音という音が、すべて氷の牢獄に閉じ込められているかのようだった。


「……誰も、いないんでしょうか…」


ティファーの声が、まるで自らの問いかけをも凍らせるかのように、静寂のなかに吸い込まれていく。


彼女の大きな瞳には、薄氷のような哀しみが宿っていた。それは、かつて確かにここにあった営みの名残を見てしまったがゆえの痛みだった。


だが──


「……ン?」


突如、ルドラヴェールの耳が小さく震えた。


雪を踏みしめる音が止み、彼はわずかに首を傾け、気配に集中する。


「…我ガ主…聞コエマシタカ…?」


その問いに対し、クトゥルは片眉を上げ、冷ややかに笑みを浮かべてみせた。


「ふっ…我を誰だと思っている…当然であろう…(え…何も聞こえないんだけどっ!?)」


表向きには余裕の笑みをたたえながらも、内心では焦りの汗を隠していた。だが彼の口調は堂々としており、誰もその裏を見破ることはなかった。


クトゥルの言葉に、仲間たちは警戒心を露わにしながらも、ぴたりと足を止める。


張り詰めた空気が、まるで時間ごと凍てついたかのように静まり返っていた。


しかし──

その沈黙の中に、微かに、確かに、紛れ込んだ音があった。


「……はっ……はっ……」


かすれた、途切れ途切れの息遣い。

吐く息はか細く、震えている。喉の奥から漏れるその音は、まるで凍えきった命が、それでもなお燃え尽きまいと必死に空気を求めているようだった。


誰かが──この極寒の地に取り残され、気配を殺しながらもこちらを見ている。

そんな直感が、仲間たちの肌を刺すような緊張感となって走る。


エリザベートは静かに、しかし鋭く視線を巡らせた。

彼女の表情に焦りはない。ただ、冷ややかな観察の目だけがあった。


そして──


「……クトゥル様…」


落ち着いた声が、その異変の中心を指し示す。

エリザベートの細く伸びた指先が向かう先──それは、崩れかけた石造りの廃屋。屋根の一部は潰れ、吹き込む雪が小さな吹き溜まりを作っていた。


そこに──いた。


瓦礫と氷に埋もれた白い雪景色の中、ひときわ小さな影が、うずくまるように存在していた。

吹雪に耐えるように、身を丸め、震えるその姿。


長く垂れた耳は、恐怖に打たれたかのようにぎゅっと伏せられ、痩せた体躯は風の音すら拒むようにぎこちなく揺れていた。


──ウサギのような獣人。


毛皮は雪のように純白で、この寒冷地においてすら違和感なく風景に溶け込んでいた。

それは、まだほんの幼さを残した小さな魔族の子供だった。


「……!」


張り詰めた沈黙を破るように、アーヴァが思わず声をあげかけた──その刹那だった。


ザッ──。


雪を踏みしめる音すら掻き消すほどに静かな気配が、唐突に現れる。

風の帳が裂け、もうひとつの影が、吹き溜まりの中から滑り出るように現れた。


それは、小さな身体を覆い隠すように抱きしめた、白く細い腕。

その腕の主──現れたのは、同じく長いウサギ耳を持つ獣人の女性。

その姿は薄い布で覆われ、寒さと恐怖に晒されながらも、子を庇う本能だけで立っていた。


母であると直感できるその女は、荒い息を吐きながら、氷のように固まった瞳でクトゥル一行を見つめる。

凍てつく空気の中で、彼女の目だけが燃えるように必死だった。


そして──


「……どうか、どうかお慈悲を……!この子にだけは……この子にだけは手を出さないで……!」


声は細く震え、それでも必死に届かせようと空気を押し裂いて響いた。

命を懇願するようなその叫びは、吹雪の中で儚くも鮮烈に鳴り響き、まるで凍えた世界そのものに捧げる祈りのように思えた。


その光景に、思わずアーヴァは目を見開く。


「ま、待て!わっちは別に……っ!」


慌てたように手を振り、身を乗り出そうとしたその瞬間──


「……すまない…驚かせてしまったな…大丈夫だ。私たちは何もしない…」


柔らかな声が、静かに二人の間に割って入った。


ティファーだった。

彼女は静かにその場に膝をつき、小さく両の手を広げる。

威圧感を完全に消し、ひとつひとつの動作を丁寧に、慎重に。

それはまるで、傷ついた小動物に安心を伝えようとする者の、優しい仕草だった。


クトゥルは、何も言わなかった。

凍てつく風がその衣を揺らすなか、ただ静かに──まるで像のように、威圧も興味も一切を封じたまま、そこに在った。


その姿には、もはや生者の気配すらなかった。

彼が立つだけで空間が緊張を孕み、沈黙すらも重たく凍る。だが、その沈黙こそが──何よりも敵意の欠如を示していた。


しばしの静寂。

風が雪を巻き上げ、小さな渦を描いて舞い散っていく。


そして、徐々に──母娘の震えが静まっていった。


女性は深く、深く息を吐いた。

それは恐怖という名の氷鎖から解き放たれる音だった。

硬直していた肩が、ようやく僅かに落ちる。

その表情には安堵と、それでも拭いきれぬ警戒が同居していた。


「……あなたたちは……あの従者たちでは、ないのですね……?」


震える声。

だが、その中にかすかな希望が滲んでいた。


その一言に、一行の空気が変わる。

眉を潜め、目を細める者。全員が、共通の違和感を胸に抱く。


「従者……?」


ティファーが静かに問い返すと、ウサギ獣人の女性はすぐさまかぶりを振った。

その動きは、何かを押し隠すようでもあった。


「……いいえ、何でも。とにかく、すみません……この子の命を守ることしか、もう考えられなくて……」


彼女の腕の中で、幼い子供がそっと顔を上げる。

雪に染まるような白い毛並みの中から、覗いたのは、あまりにも純粋な──それゆえに痛ましいほど無垢な瞳。


金色の光。

氷の反射と交じり合い、それは幻のようにきらめいていた。

恐怖と好奇が入り混じった視線が、静かにクトゥルたちを見つめる。


その一瞬。

彼らは感じ取らずにはいられなかった。



―――



白銀に沈んだ村の一角──。


吹雪が過ぎ去った後の静寂のなか、ウサギ獣人の母子は、深く雪に埋もれた道を踏みしめながら、クトゥルたちを導いていった。

その足取りは慎ましく、けれどどこか急いている。呼吸を乱さぬよう気遣いながらも、彼女は一刻も早く安全な場所へと辿り着きたかったのだろう。


やがて、村の外れにぽつんと佇む一軒の家の前で、母親は立ち止まった。


辺り一面が雪と氷に覆われる中、その建物だけは不思議なほど形を保っていた。

外壁は雪に染まりながらも崩れておらず、屋根には氷柱が下がるものの、重みに負ける気配はない。まるで時間と風雪から守られているかのような佇まいだった。


母親は慣れた手つきで戸口に積もった雪を払い、静かに扉を押し開ける。


その瞬間、内側からふわりと温かな空気が流れ出し、外気で冷え切った肌にやさしく触れた。


まるで冬の夢に差し込む春の陽光のように、やわらかく、微かなぬくもりが心をほどいていく。


「……入ってください」


母親は振り返り、小さくではあるが確かな声音でそう告げた。


促されるままに、クトゥルたちは順に家の中へと足を踏み入れる。

軋む床の音と共に、外界の冷気がすうっと背後で遮断されていく。


扉が静かに閉まると、その瞬間、世界は一変した。

あれほどまでに吹き荒れていた風の音も、凍える寒気も、まるで別の現実に置き去りにされたかのようだった。


そこには、静けさと、ぬくもりがあった。


室内は広くはなかったが、隅々まで整えられており、慎ましくも丁寧に暮らしていることが伺えた。

厚手の毛織りの敷物が床一面に敷かれ、壁際には手作りの木棚と、簡素ながらも品のある家具が並ぶ。

中央に据えられた石造りの炉からは、赤く灯る焚き火の光が漏れ、ぱちぱちと薪のはぜる音が耳に心地よく響いていた。


空気にはほのかに甘い木の香りが漂っている。

それはこの家に染みついた、日々の生活の香りだった。


足元では、小さな子供の足音が、遠慮がちに駆け回る。


「……はぁぁ……」


アーヴァがひとつ、小さく息を吐いた。

その肩からふわりと力が抜ける。外の凍てついた空気のなかで無意識に張っていた神経が、あたたかな炉の気配に包まれ、ゆっくりとほぐれていく。

まだ幼いその顔には、疲労の色とともに、わずかな安堵の影が浮かんでいた。


エリザベートは無言のまま炉のそばに歩み寄り、優雅な動作で腰を下ろす。

その手をかざせば、石造りの炉からゆらゆらと立ちのぼる炎が指先を照らし、淡く橙色の光を宿す。冷えた肌にじわりと染みこむ熱が、彼女の頬にほのかな色を戻していた。


ティファーは壁際の毛布にくるまったウサギの子供に視線をやり、ほんの一瞬だけ、口元を和らげた。

その笑みは控えめでありながらも、彼の中にある静かな思いやりがにじんでいる。長旅の疲労に沈んだその目は、柔らかな灯火に照らされ、どこか遠い記憶を思い返すようでもあった。


一方、ルドラヴェールは部屋の入口近くに座ったまま動かず、周囲を見渡していた。

視線は冷静に、注意深く。家具の配置、窓の位置、炉の炎の強さに至るまで、一つひとつを無言で確認していく。彼にとって、ぬくもりは安堵ではなく、油断を呼ぶ危険だった。


そんな仲間たちを静かに見守るように、クトゥルはエリザベートの隣に腰を下ろした。

ルドラヴェールの背を頼るようにしながらも、その姿には威厳が滲んでいた。漆黒の衣に照り返す炎の光が、まるで闇の中に灯された意思を象るように揺れている。


「(……あったかい……)」


心の奥底から、ふと零れ出た小さなつぶやき。

この家の中に漂う甘やかな木の香りと、耳に優しく届く薪のはぜる音。毛織りの敷物の感触に、視界に映る小さな命。

すべてが彼にとって、氷に覆われた世界とは別物のようだった。


──ゆっくりしたいな。


ほんの一瞬、胸にそんな想いがよぎる。

けれど、それはまるで湯気のように儚く、現実の声にすぐさま掻き消された。


「……私は、イルメナ。村の──というより、今残っている者たちの代表のようなものです」


穏やかながらも、芯のある声音が空間を切り裂くように届いた。

母親──イルメナと名乗ったウサギ獣人の女性が、凛とした面持ちで静かに言葉を紡ぐ。


その一言に、クトゥルはすっと表情を引き締める。

安堵の余韻に揺れかけた心を自ら律し、眼差しを現実へと戻す。ぬくもりに浸るには、まだ早い。

彼の視線は、目の前にいる者をしっかりと捉えていた。


「この子は、私の娘。名前は、ミレル」


イルメナが、抱えた少女の背をそっと撫でながら静かに言葉を紡ぐ。

その仕草には母としての慈しみと、脆くも強い意思がにじんでいた。


腕のなかで身を寄せていた少女──ミレルは、短くぺこりと頭を下げる。だがその金色の瞳は怯えを隠しきれず、細かく揺れていた。

まるで寒さではなく、心の奥底から来る恐怖が、その小さな肩をこわばらせているかのようだった。


「……本当に、私たちに危害を加えないのですね?」


その問いは、言葉以上の重みを帯びていた。

単なる確認ではない──祈りに近い、懇願の響き。

娘を守る母としての本能が、彼女の声音に滲む。


エリザベートが口を開くより早く、クトゥルが動く。

その動きには威圧感も焦りもない。ただゆっくりとした、重みのある歩み。

そして静かに、彼は首を横に振る。


「名乗られたからには、こちらも名乗ろう。我こそ、混沌の化身――クトゥル=ノワール・ル=ファルザス」


その名が放たれた瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。

まるで世界の構造が一瞬たわんだような、異質な存在の名。

イルメナは息を呑み、腕の中のミレルを強く抱きしめる。


「ま、まさか…貴方様が、邪神クトゥル様…っ!?」


その声音には驚きと畏れが混ざり合い、思わず身体を強張らせる。

だが次第に、その震えはおさまっていった。

目の前に立つ男の瞳には、敵意も圧迫もなかった。


ただそこに、静かに在るだけの、神のような存在感。

荒々しさも覇気もない。けれど、だからこそ逆に抗いがたい。

絶対の均衡に達した力の在り方が、無意識に周囲を鎮めていく。


やがて、部屋に広がっていた緊張が、ゆっくりと解けていった。

炉の炎がぱちぱちと木を割る音が、まるでそれを祝福するかのように柔らかく響く。

オレンジ色の光が天井を照らし、壁に長く影を落としていた。


「一体何があった…?(情報くれっ!話しによっては、逃げる準備するからっ)」


クトゥルは、威厳ある口調で話すが、心では踵を返したい気持ちでいっぱいだった。


小さな家屋に、一瞬だけ静寂が満ちる。

言葉を失いかけていたイルメナが、そっと唇を湿らせると、もう一度視線を上げ、ゆっくりと語り始めた。


「……この村は、もとはユ=ツ・スエ・ビルでも、ごく普通の村でした。けれど、ある日──従者が現れたんです」


その声には、過去を掘り返す痛みと、それを語る覚悟が滲んでいた。


炉の温もりが確かに存在するこの空間に、また別の寒さが忍び寄ってくる気配があった。

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